2019年3月31日日曜日

晩年の放蕩息子

 「今の俺、俺は俺でもこの俺は、彼知りし後の俺でない俺」このように色紙に書いてくださったのは牧師であり神学者であった渡辺善太先生だった。
 若い時は大酒飲みでさんざん道楽の限りを尽くしたという先生は、イエス・キリストに救われて人生が一変した。その後の人生をキリスト教伝道に捧げられた。
 私はひねくれ者の中学生だったころ、先生にお会いしたことがある。ずいぶんご高齢だったと思うが、優しい目と、豪快な笑い顔を覚えている。その日、自分が、救われて、回心した晩年の「放蕩息子」に出会っていたことを思った。受洗記念の聖書に「踏み迷うともこの道を行く ただ主にありて ただ主にありて」と記した。

2019年3月24日日曜日

涙するほど有り難い

 主人は園庭に言う「実のならないいちじくの木は土地の無駄だから切ってしまえ。土地は有効利用すべきだ」。それは合理的でもっともな考え方だ。それなら最初に切られてしまうのはこの私かもしれないと思う。
 しかし、園庭は主人に向かって懇願してくれる。「肥料をやってみるから切るのは待って。来年、実がなるかもしれない。」この園庭の温情は涙するほど有り難い。
 しかしこの木、次の年も実を付けられないかもしれない。それでもこの園庭は肥料をやるので来年まで待ってと懇願してくれるに違いない。そして翌年も・・・。
 わたし達はこの園庭の辛抱強い親心に育てられているいちじくの木だということを溢れる感謝で思う。

2019年3月17日日曜日

主よ、憐れんでください

 緑が萌えいでたばかりのパレスチナの路傍に盲人は座って物乞いをしていた。行列の足音が近づいてきた。
 ナザレのイエスの一行だと聞くと、彼の心にひらめくものがあった。「ダビデの家系に一つの芽が出る。その上に神の霊が宿る。その日、光は上る。盲は見え、足萎えは立ち・・・」そうか、彼こそ来るべき者だ!
 盲人は叫びだした。「ダビデの子よ、憐れみ給え!」主は、この叫びに彼の信仰を認められた。彼を神の国を「見る」者とされた。
「主よ、憐れんでください」と叫ぶ者を主は必ず救われるルターは「私は神の乞食」と言った。「主よ、憐れんでください」。この言葉をしみじみと味わう。

2019年3月10日日曜日

40回の感謝はどうだろう

 四旬節が始まった。キリスト者が四旬節に断食や節制をするという習わしは主イエスの荒野の体験にさかのぼる。自分たちも主の断食と祈りの体験に倣いたいという思いから自然におこってきたものだ。
 私たちはどうしても日々の必要に迫られ、この世の力を求め、誘惑され、心を奪われてしまう。目先のことや身近なものの向こうにある神の国を望むことが苦手だ。主に委ねて楽になってみると魂の目が開く。
 私たちは何と多くの赦しをいただき、助けをいただき、恵をいただいていることか!だから、四旬節は恵を分かち、感謝を数えて過ごしたい。一日1つでも40回の祝福、40の感謝っていうのはどうだろう?

2019年3月3日日曜日

チラッと見えた

 主は、ご自分が時の権力者たちから排斥されて殺されるとペトロたちに告げられた。ペトロたちの不安と恐れは次第に大きくなっていったに違いない。
 その暗闇に光を放つため、主はペトロたちを連れて祈るために山に登られた。ペトロたちがそこで見たものは、主イエスの輝くばかりの御姿である。 
 暗闇を見つめて不安に頭を垂れる私たちに、主は天に風穴を開けて、天国の栄光をチラッと見せてくださる。救いは私たちの頭の中にあるのではなく、上にあるのだ。頭を起こして、天を見上げよ!主を見上げよ!きっと、安心・・安心・・ああ安心・・・聖霊のささやきが聞こえてくる。