宮清めのイエス様の乱暴なふるまいは、神殿への熱い思いが心いっぱいに溢れてきたためだと見えた。
事実、主は神殿にやって来て形だけの犠牲をささげて罪の赦しを願うという礼拝を否定されたのだった。
しかしイエス様の本命は十字架だった。主は自ら罪の贖いを引き受けた。もう犠牲の動物はいらない。古い時代は終わった。今や、霊と真だけで神を礼拝する主イエスという永遠不滅の神殿の時代なのだ。復活の主を通じて直通電話のように天の父とつながっている。
「もしもし、天のお父さんですか」と、何時でも、どこにいても父に語りかけることができる。何でも願いなさいと言ってくださるイエスの御名によって。