2024年2月25日日曜日

十字架を担う生き方はたくましい

「自分の十字架を担って主に従う」とは、どんなイメージだろうか?苦しいという負のイメージか?

 たしかに、一生に一度の命をかけた十字架というのがある。他者のために自分の命を犠牲にするといった主と同じ道を往く人の十字架だ。

 だが、平凡でも、私たちの日々そのものも十字架ではないだろうか。思うようにならない時があってもステゼリフをはかず、毎日のルーティンをこなす。また失敗して自分の弱さにがっかりしても、その弱さに踏み留まる。捨て鉢にならず、自己否定に陥らず、弱い自分からまた始めてゆく。それは静かだが、たくましい生き方だ。自分の十字架を担いながら主に従う時、主との共同作業の喜びを私たちは必ず味わう。 

2024年2月18日日曜日

四旬節は霊的チャレンジの時

 この「灰の水曜日」から「四旬節」(レント)が始まった。昨年、灰の十字を額に受けてから一年が経った。

 待降節から始まって新年、クリスマス、顕現節、四旬節、イースター、昇天、ペンテコステ…このように教会歴を生活できるというのは恵みだとつくづく思う。

 中でも「四旬節」は復活祭の前に置かれる特別の自己修練の期間だ。十字架の主に向き合い、内在する罪に心を止める時、自分の不遜な思いと言葉を恥じる。隣人への愛の配慮ができるようにと霊的成長を願う。「四旬節」は恵みの時であり、霊的チャレンジの時だ。

 何歳になっても霊的チャレンジは続く。今年も「四旬節」を迎えることができたという思いは喜びに近い。 

2024年2月11日日曜日

主の変容に励まされ

 主イエスは弟子たち3人を連れて登った山で、天上の輝く姿に変えられた。その輝きは眩く、衣はこの世のものとは思われない白さだったという。

 十字架を担って、日々主に従う私達に、天の父は「主の変容の姿」を見せてくださった。それは「天での復活の姿」であって、栄光に輝いていた。 

 これまで自分の十字架を背負って主の後に従って生きることは、どこかしら苦痛を伴うことだと思っていた。しかし、それは全く違っていた。十字架を背負わない人生、自分のためにだけ生きる人生は本当につまらないと知った。

 実に、十字架を負って主に従う人生は豊かで、喜びがいっぱいなのだ。「主キリストの変容」に励まされて、今日も主に従うことを願う。

2024年2月4日日曜日

そこでも私は宣教する

  主イエスが宣教を初めたのはカファルナウムだ。主は会堂で教え、悪霊を追い出し、病人を癒やした。

 今、主は言われる、「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも私は宣教する。私はそのために出てきたのである」。この主の宣教は数えきれない多くの教会と信徒たちによって2000年もの間、引き継がれてきている。宣教は順位を争わない駅伝競走のようだと思う。

 私達の湯河原教会もボーマン宣教師によって宣教が開始されて69年の年月がたった。その間、宣教師と牧師合わせて10人が宣教と牧会を担ってきた。私は11人目のランナーであった。

 この春、このバトンを次の牧者に渡して引退する。主イエスの宣教のバトンを握りしめて走ってこられたことを心から光栄に思う。