2024年3月31日日曜日

全ては感謝です!

 2013年4月から2024年3月までの11年間、小田原教会と湯河原教会に仕える事ができたことを、まず主に、そして共に奉仕した皆様に深く感謝いたします。

 牧会を初めて間もなく、両教会とも小さな教会であっても、主イエスを求めている方々の多いことに気づきました。とにかく、ここにも求めがある、あそこにも私たちにできることがあると思いながら教会で、また、ご家庭や病院、ホームに足を運んで話を聞く日々を懐かしく振り返ります。主は素晴らしい方です。私たちの多忙な日々を喜びで満たしてくださいました。

 牧師の奉仕には時間の区切りというものがなく、途中で妻と二人で煮詰まってしまったことも。しかし、あれもこれも今は恵み!感謝しかありません。

2024年3月24日日曜日

憐れみの主は共に

 今週は引っ越しの予定となっていた。受難主日の礼拝が終わったあと、引越し業者から確認の電話が来た。

 準備は遅れ気味どころか、ほとんど手がつけられない状態である。なんとしてでも、今週は引っ越しの準備をせねばならないと思っていた矢先の電話だ。事情を話すと「それではもう少し送らせて日程を考えてみましょう」との申し出に、一も二もなくお願いした。本当にありがたかった。「主は生きておられる、憐れみ深い主は共にいてくださる」と実感した。

 これで、聖木曜日の礼拝が行える。最後の2週間の主日を一緒に過ごすことのできない湯河原教会での洗足式は天の恵みだ。この喜びに感謝しかない。



2024年3月17日日曜日

安心しておまかせする

  パーキンソン病だということが精密検査の結果で分かった。進行性の病だと知ればショックは大きい。 

 だが、イエス様がいつも一緒にいてくださり、一番いいことをしてくださるから、安心しておまかせする。

 神は愛そのもの、主イエスは、すべての人をご自分のもとに引き寄せてくださる。それは「その人のあらゆる条件を超えて」!

 もちろん、人間である私たちは、どうしてももっといい人になろう、もっと上手にやろうとか考える。それはそれでいいとして、しかし、そういう人間からのアプローチはもう間に合わない。行いや努力とかいった一切のことを圧倒的に超えた「神さまの愛の大きさ」を、素直に受け止める。

2024年3月10日日曜日

ヨハネさんの16

 私は中学からあるキリスト教主義学校に入学した。毎朝礼拝から始まり、週1コマの聖書の授業があった。

 ある夜の団らんで、父は私にこう言った。「英語を習っているんだろう「“?John three sixteen.”って言えるかい?」「簡単だよ」と、私が応じると、父は「John three sixteen. John three sixteen.」とゆっくりと繰り返し、「ヨハネ3章16節だ、小聖書と言われている箇所だ。ヨハネさん、っていうところが面白いだろ?ヨハネ3の16」とほほ笑んだ。

 私は「John three sixteen、ヨハネ3の16」とまるで呪文のように、得意な思いでくりかえした。この光景を思い出すたびに、あのゆっくりとした父の声音が聞こえてくる。私にとっての信仰の原風景だ。 

2024年3月3日日曜日

私の宮清め

 主イエスが神殿から商人たちを激しく追い出した「宮清め」と言われる出来事、それは普段の主イエスから想像もできないほど過激だ。

 たぶん人間の頭の中に「お金」というものが入ってきてから、頭の中はそのことでいっぱい占められてしまって、神のみ心を思う余裕がなくなってしまったのではないか。

 主イエスは「明日を思い煩うな。明日のことは明日自らが思い悩む」と言われ、また「今日、神のみ旨を行う者だけが永遠の命に入る」と言われる。

 お金はいいものだが、それにとらわれていると神のみ心が見えなくなる。だから主イエスは「このような物は持って行け、運び出せ」とおっしゃる。この世のさまざまなものをいったん全部運び出したらなら、新たにいったい何が入ってくるか楽しみだ。

2024年2月25日日曜日

十字架を担う生き方はたくましい

「自分の十字架を担って主に従う」とは、どんなイメージだろうか?苦しいという負のイメージか?

 たしかに、一生に一度の命をかけた十字架というのがある。他者のために自分の命を犠牲にするといった主と同じ道を往く人の十字架だ。

 だが、平凡でも、私たちの日々そのものも十字架ではないだろうか。思うようにならない時があってもステゼリフをはかず、毎日のルーティンをこなす。また失敗して自分の弱さにがっかりしても、その弱さに踏み留まる。捨て鉢にならず、自己否定に陥らず、弱い自分からまた始めてゆく。それは静かだが、たくましい生き方だ。自分の十字架を担いながら主に従う時、主との共同作業の喜びを私たちは必ず味わう。 

2024年2月18日日曜日

四旬節は霊的チャレンジの時

 この「灰の水曜日」から「四旬節」(レント)が始まった。昨年、灰の十字を額に受けてから一年が経った。

 待降節から始まって新年、クリスマス、顕現節、四旬節、イースター、昇天、ペンテコステ…このように教会歴を生活できるというのは恵みだとつくづく思う。

 中でも「四旬節」は復活祭の前に置かれる特別の自己修練の期間だ。十字架の主に向き合い、内在する罪に心を止める時、自分の不遜な思いと言葉を恥じる。隣人への愛の配慮ができるようにと霊的成長を願う。「四旬節」は恵みの時であり、霊的チャレンジの時だ。

 何歳になっても霊的チャレンジは続く。今年も「四旬節」を迎えることができたという思いは喜びに近い。 

2024年2月11日日曜日

主の変容に励まされ

 主イエスは弟子たち3人を連れて登った山で、天上の輝く姿に変えられた。その輝きは眩く、衣はこの世のものとは思われない白さだったという。

 十字架を担って、日々主に従う私達に、天の父は「主の変容の姿」を見せてくださった。それは「天での復活の姿」であって、栄光に輝いていた。 

 これまで自分の十字架を背負って主の後に従って生きることは、どこかしら苦痛を伴うことだと思っていた。しかし、それは全く違っていた。十字架を背負わない人生、自分のためにだけ生きる人生は本当につまらないと知った。

 実に、十字架を負って主に従う人生は豊かで、喜びがいっぱいなのだ。「主キリストの変容」に励まされて、今日も主に従うことを願う。

2024年2月4日日曜日

そこでも私は宣教する

  主イエスが宣教を初めたのはカファルナウムだ。主は会堂で教え、悪霊を追い出し、病人を癒やした。

 今、主は言われる、「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも私は宣教する。私はそのために出てきたのである」。この主の宣教は数えきれない多くの教会と信徒たちによって2000年もの間、引き継がれてきている。宣教は順位を争わない駅伝競走のようだと思う。

 私達の湯河原教会もボーマン宣教師によって宣教が開始されて69年の年月がたった。その間、宣教師と牧師合わせて10人が宣教と牧会を担ってきた。私は11人目のランナーであった。

 この春、このバトンを次の牧者に渡して引退する。主イエスの宣教のバトンを握りしめて走ってこられたことを心から光栄に思う。

2024年1月28日日曜日

新しくされる

  世の中がまだ暗く、夜明けを待っていた頃、主は力強い足取りでやってこられた。そして主はご自分の口で、自ら「私はこう言う」と語りかけられた。

 主の新しい教え、それは律法学者のようにではなかった。これこれの掟の解釈は・・・とか、やれ、清めのための儀式は行ったか?とか、贖罪のための生贄を捧げたか?とか、口を開けば、律法の掟に従っているかどうかを問題にする律法学者とは全く違っていた。

 主は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)」と語りかける。そこには未来があった。希望があった。冬は去り、春はそこまで来ている。気づけば主はいつも私たちの直ぐ側におられる。

2024年1月21日日曜日

あたたかにされる誕生日

 今日20日から大寒に入る、そんな日、私は70歳の誕生日を迎えた。この頃の暖冬とは違って70年前は寒かっただろう。母は寒さの中にあって生まれたばかりの私を暖かく抱いてくれていたのだろうと、思い返された。

 今日、子どもたちや孫たちから次々と「おじいちゃんおめでとう」のビデオメッセージが送られてきた。

 「ハッピーバースデー トゥーユー」と歌ってくれているのを聞くと、手放しでニコニコとなってしまう。

 しかし、何といってもありがたいのは教会の信徒さんの一人がこの何年もの間、私の誕生日を忘れずに、誕生日カードとバースデーケーキを届けてくださったことだ。信徒さんから大事に思われるということは、私ばかりか、家族みんなを暖かく膨らませてくれる。

2024年1月14日日曜日

主イエスは天と地をつなぐはしご

 兄のエサウをだましたヤコブは、エサウの恨みを買い、懐かしい故郷を去って伯父のもとに逃れていく。

 旅の途中で日が暮れて、野宿することになった。家も寝床もなく、野原の石を枕にして眠るヤコブがその夜、天から地へと届く階段を天使が上り下りする夢を見た。

 自分の犯した罪に怯えながら、不安な一夜を過ごしたヤコブは、神の恵みが、今、ここにあることを知る。

 「自分は見捨てられていない!ここに天と地をつなぐはしごがかけられている。この場所は天と地の出会っているところだ!」と気がつく。ヤコブのこの畏れと、おののき、そして感動と喜びは如何ばかりか!

 主イエスこそ天と地をつなぐはしごだ。主イエスのはしごを上って私たちは天の父にお会いできる。

2024年1月7日日曜日

神の霊は闇に勝つ

  戦争や紛争が終わらないまま、2024年を迎えた。新年早々、地震と津波そして航空機事故が起きた。この世界は予測不可能で不可抗力の闇に覆われている。

 創世記の天と地の創造の物語には、神が創造された地は「混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とある。確かに地は闇に覆われているのだ。しかし神の霊は、闇もろとも私たちの地を包むように動いて働きかけているという生き生きしたイメージが浮かんだ。霊が「動いている」というのは、聖書ではまるで鳩が空を舞うように動くということだ。

 主イエスの洗礼主日、「が鳩のように」天から下って主の中に入った。主イエスへの聖霊の降臨、ここに新しい創世の物語が始まった。だから闇があっても恐れない。神の霊はたゆまなく働きかけ続けている。