2022年10月30日日曜日

「ザアカイ!」と歌うと

 米国で過ごしたとき、長男が通っていたサンデースクールではよく「ザアカイの歌」に振りをつけて歌っていた。言わば、子どもたちのお気に入りの歌だ。

 「ザアカイは本当にちっちゃな人だ。ザアカイは木に登る。イエスはやって来て、「ザアカイ、下りて来なさい。今日あなたの家に泊まります」。全く聖書の通りの歌だけれど、子ども達が「ザカイ!」と指さしながら歌うと不思議なことにこの場面がいきいきしてくる。

 「あなたの中に素晴らしいものがある、あなたにはよいことをする力がある」とイエスはザカイを見つめた。そういう眼差しに出会ったとき、人はきっと本当に新たに生きる力を与えられる。 

2022年10月23日日曜日

ちょっと粋がってもいい

  私も若かった頃は、「好玉必打だ!いい球が来れば、必ず打つ」と、そんなふうにけっこう粋がって、やっていたと思う。

 自分は頑張っているし、やればできると、自分の力で生きているような感覚になっていた。たとえ謙遜でなくても、それが「若さ」ということだ。だから、若いころはちょっと粋がって、自分の力だけで頑張っているような気になって、たくさん失敗を重ねていい。

 そういう日々があればこそ、自分の限界を知り、人間の弱さを知って、神の愛に目覚めていく。人生には、そういう若いときも必要だ。この鼻持ちならないパリサイ人も救いに招かれている。(ルカ18:9〜14)

2022年10月16日日曜日

主キリストは人を自由にする

  某宗教団体に「解散命令」の要請をだすよう連日国会で審議されている。マインドコントロールによって人を不安にし、恐怖をあおって束縛する。「ねばならない」という思いにさせる。結果、多額の献金をさせ、家庭崩壊や子どもへの様々な人権侵害が起きている。

 しかし、私たちの主キリストは人を自由にする。罰せられるべき罪ある私たちの身代わりとなって、自ら十字架にかかってくださった。そして、私たちは無償で無罪放免になった。ピラトの公邸でキリストの代わりに放免されたあのバラバのことをふと思う。ああ、恵み、この自由、この軽やかさ・・・涙を拭う。今、自由の翼にのって、主のために何でもできる気がする。



2022年10月9日日曜日

「こいつね、ドジなんだよ」

 思い切って久しぶりに東京に出た。所要があって中高時代の友達に会うためだった。ところが、肝心なものを忘れてしまった。それがなくては会う意味がない。気がついたときは目的地に到着する電車の中だった。仕方がない、会うだけで帰るとしようと決めた。

 彼の工場に訪ねてみると、懐かしい顔で迎えてくれた。冷たいお茶やコーヒーをテーブル代わりのトラックの荷台に並べて勧めながら、「こいつね、ドジなんだよ」と、家人に高校生時代の私の失敗を告げ口する。

私の重大な忘れ物も「なんでもないよ」とばかりの口ぶりだ。目がニコニコ笑っている。相変わらず、いいやつだなー。主にある友人にすっかり温められた。

2022年10月2日日曜日

叔母をなつかしむ

  先日、叔母の納骨式を彼女の母教会で済ませた。

 叔母は日曜日の朝、礼拝が始まる15分前に亡くなった。あの日10時30分、湯河原教会の礼拝堂のいつものあの席に、叔母は座っているように感じたことを覚えている。肉の体から解き放たれて、自由な霊の存在で叔母は確かに礼拝に与っていた。

 叔母はいつも教会が大好きだった。「物心ついたときにはもう両親に連れられて教会に行っていたのよ。世の中の人はみんな教会にいっていると思っていたわ。」と言っていた。生涯独身だった叔母の95年の人生は教会と共にあったと言っても差し支えない。賛美を捧げ、よく仕えた。改めて、叔母に敬意を表したい。