2019年12月29日日曜日

さわやかに This is my mission と言う

 テネシー州にいた頃、車好きの友人Rの家に行くと、中古車を修理していた。当時、経済的に困窮していた母子家庭の母親に車を提供するためだ。かなり年代物の中古車を安全に乗るには数々の部品を取替て修理しなければならないところが山とある。
 庭先に置いた車の下から仰向けのまま顔を出して、彼は明るい声でいった“Hi! Hiro, This is my mission.”(やあ、ヒロ(私の呼び名)、これは僕の宣教だよ)。
 彼は奉仕とかボランティアワークとか言わずに「ミッション」と言ったのだ。キリスト者には「これは私の宣教」というものがある。奉仕して、爽やかにThis is my mission と言う。いいなー!

2019年12月22日日曜日

メリー・クリスマス

 この季節、シュトーレンを探すがマーケットのどこにも見当たらない。今まではドイツからの輸入のシュトーレンが山と積まれていたのだが・・・はて?
 そういえば、今年湯河原はまったくと言っていいほどクリスマスの雰囲気がない?クリスマスソングも聞かないしクリスマスツリーも見かけない。クリスマスグッズの代わりに正月グッズが場所を締めている。
 もしも、巷にクリスマスが無いとなれば、それこそがチャンス到来!この際だから声を大にして言おう。皆さん、クリスマスは教会で祝いましょう。クリスマスの讃美歌を教会で歌いましょう。すべての人の救い主が降誕されました!メリー・クリスマス!

2019年12月15日日曜日

「喜びの2乗だ!」

 アドベントの第3週、今日から喜びの主日が始まる。アドベントクランツのロウソクは伝統的にバラ色も用いられる。喜びそのものである主イエスを、ワクワクして待つ喜びとで、今週は喜びの2乗だ!
 昨日のクリスマス・チャリテ―・コンサートは楽しかったー!こんなに様々なグループをよくまとめ上げたものだ!クリスマス合唱団、子どもやシニア世代のコーラス、そしてプロの演奏家やプロ歌手と・・・。
 歌手、演奏者、コーラスの方、聞きに来てくださった多くの方々、そしてこのコンサートを裏方で支えた方々、皆さんに感謝。みんなで喜びを分かち合えた。

2019年12月8日日曜日

ハレルヤ!

 ルーテル小田原教会では今日、一人の方が洗礼を受けられる。ふと、40年以上前の自分の受洗の時を思い出した。
 「踏み迷うとも大道を外さず。ただ主にありて。ただ主にありて」。恥ずかしながらこれは大学生の頃、受洗記念に頂いた聖書の扉に書き記した自分の言葉だ。あれからずいぶん時がたった。踏み迷うこと、いくたびか!だが、この時の気持は今も変わらない。
 さて、洗礼を受けられる方は80歳に近い。前任牧師から引き継ぎ7年になる。イエス様との出会いは十代の頃という。諸事情から教会生活は途切れ途切、いわば点線のように繋がって来られた方だ。その歩みを主は祝福された。今日救いが彼女に訪れた。ハレルヤ!

2019年12月1日日曜日

壁を崩すために

 さざんか梅雨が止んだとたん、文句なしの冬晴れとなった。酒匂川の堤から眺める雪の富士山が、空の青を背景にまるでバタークリームでデコレーションしたみたいに真っ白だ。てっぺんのギザギザがあまりに見事なので、運転しながら見とれてしまった。
 カーラジオからベルリンの壁崩壊30年のニュースが流れてくる。「人々を排除し、自由を制限する壁はどんなに高くても崩すことができるが、憎しみと不満からできた壁は築いた自らが崩すしか無い」。旧東ドイツの人々の中にできた新たな心の壁、怒りと不満の壁だ。
 主は、目に見えない私たちの中の壁を崩すために生まれた。希望のうちに御子の御降誕を待ちたい。

2019年11月24日日曜日

主の問いかけ

 教会暦では今日は年間最後の主日。12月1日からいよいよ御子のご降誕を待つ待降節(アドベント)を迎える。キリスト教会の新年は来週がスタートとなる。
 誰もが多忙になる季節に入るが、御言葉に養われ、愛の心配りを他者にしながら心豊かにクリスマスを迎えたいと願う。
 最終主日の今日、「終末」について主の御言葉を聴く。
 私たちの人生にも必ず「終わり」が待ち受けている。その終わりに向かってどう生きるか、今日の福音と、主イエスの生き方はわたしたちに問いかけてくる。
 誰にとっても挑戦だが、偉ぶらず、話を盛らず、謙遜に主の前に誠実でありたい。

2019年11月17日日曜日

実は私もなんです!

 小田原からの帰り道、前を行くバイクに近づいた。対向車線は車の列。追い越したいがチャンスがない。
 50ccのカブに股がったバイカーは、何と、レッドブル・ホンダのジャンパーに、ロゴのステッカーがペタペタつけてあるヘルメット姿だ。
 急に親しみを感じた。「あなた、F1のファンでしょう。実は私もなんです!」と、心のうちに語りかけた。内緒だったがホンダF1の密かなファンだ。そして、何よりホンダの健闘に心をおどらしている。
 バイカーはシニア世代に見える。一定速度を守って道路端を疾駆する誇り高い50ccカブに敬意を表す。フィットの私は抜かずに従った。

2019年11月10日日曜日

天を見上げて

 この秋は15号と19号という2つの強烈な台風に見舞われた。つい先々月と先月の出来事だ。千葉県や長野県を始め各地に豪雨を降らせて大きな被害をもたらした。
 被災者の味わった苦痛と今も続いている困難に少しでも寄り添いたい。JELC本教会が連帯献金を呼びかけている。今回も、祈りと献金をもって被災された方々に寄り添うことができればと願う。
 おかげさまで、この湯河原は無事だった。山麓に色づく蜜柑を眺める。今年も収穫の季節を迎えられたこと、主日から主日へ御言葉三昧の日々を送れた幸いに感謝。天を見上げると、胸のすくような高い青空だ。
 さあ、どうだ!と言わんばかりの秋の空。

2019年11月3日日曜日

新米の向こうに

 もう田んぼの刈り入れは終わっただろうか?昔は収穫後の田んぼではよく籾殻や藁くずが燃やされていた。くすぶる煙の臭いに郷愁を誘われたものだった。
 先日、新米を買って食べた。うまい!炊きたてのご飯から田畑の風景や農作業を思い起こすのは至難の技だ。だが、米の袋には田んぼを背景に生産者の写真が印刷してある。この人達が作ったんだなぁと思った。 
 私などはつい腹を満たすため「俺と飯」になってしまう。これが習慣になっていれば、やはりまずい!
 ときには、農作業や雨の日、風の日を通して働いてくださった神さまに気づくことも大事だ。美味しさもまた、そういうゆとりの中にある感謝かもしれない。

2019年10月27日日曜日

トリック オア トリート!

 ず〜っと以前、長男を連れて行った米国で初めてハロウィーンを経験した。衣装の用意がなくて慌てて浴衣を着せてご近所を回った。満面に笑みをたたえたご老人たちがキャンディをトリートしてくれた。
 いつしか立場が変わりハロウィーンの夜は迎える側になった。庭の木々に人工の蜘蛛の巣をかける。玄関のジャック・オー・ランタンに火を灯すと、「歓迎!」のサインになる。そして黒ずくめの魔法使いに変装、キャンディを用意して小さい子どもたちを待った。
 夕暮れ、大人に連れられてお姫様やお化けに変装した子ども達がやって来る。「トリック オア トリート!」・・・昨日のことのような温か〜い思い出。

2019年10月20日日曜日

これこそが要だ

 主イエスは「神の国はわたしたちのただ中にある」と言う。そして身近な材料を用いて実にユーモアとウィットに富んだたとえ話を創作し、自らそれを語る。今の世界が過ぎ去らなければ新しい世界はやって来ないという終末論的な「神の国」の宣教とは一味違う。
 今日のたとえ話は神を畏れず、人を人とも思わない不正な裁判官が、訴えてきた寡婦を助けるという話だ。
 このたとえの意外性は、裁判官が彼女のために便宜を図ってやったその理由にある。うるさくてたまらないという人間的理由によって弱い立場の寡婦は救われたのだ。裁判官の胸の内など誰が知り得よう!「諦めず祈る」は無駄ではないどころか、これこそが要だ。
(ルカによる福音書18章1〜8節)

2019年10月13日日曜日

静まれ!

 近年にない大型台風の来襲に危機感が強まる。私も今回はさすがに定番の防災グッズをゲットした。
 一ヶ月前の台風では長期の停電と断水が起きた。通信手段の確保のために早速、乾電池式モバイルバッテリーを買いに電気店へ。しかし、売り切れだ!やむなく車から電源を取るアダプターを購入して帰ってきた。
 今朝、教会の周りにある諸々のものを教会の玄関と裏口につぎつぎに取り込む。断水に備えて水も汲み置いた。自然を相手に十分などということは到底ありえないが、できることはやったように思う。
 刻々と入ってくる台風情報に不安がます。しかし、心を沈めて祈る。「静まれ!」との主のみ声を聞く。

2019年10月6日日曜日

からし種ほどの信頼でいい

 十字架に向かう主イエスの旅は今日もエルサレムに向かって一歩一歩進んでいく。最後となるエルサレムへの道すがら主は弟子たちに言われた。「からし種ほどの信頼でいい。あとは神が働いてくださる」。
 からし種は胡麻つぶとほぼ同じ大きさの種だそうだ。だが、いくら小さくても種は種。種がなければ芽は出ない。さて、困った!からし種はどうしたら調達できるのだろうか??
 種まく人である主は言われる「安心しなさい、種はすでに蒔かれた」。そして、主は今まさに私たちに水を与えてくださる。「路傍に蒔かれず、岩地に枯れなかった良き芽生えとなれ!」と慈しんで育ててくださる。

2019年9月29日日曜日

ヒガンバナの賛美

 小田原教会の掲示板の下にいつの間にか彼岸花が咲いた。こちらは全く世話をしないのに毎年この季節になると咲く。スクッと空に向かって両手のように伸びた赤いその姿が主の恵みと栄えを賛美しているようだ。
 さて、我が家の庭にも?と見るが一輪もない。例年だと彼岸花がいっぱい咲くのだが、夏の終わりに雑草と一緒に球根までも掘り起こしてしまったらしい。雑草、そのままでよかったかな・・・と今にして思う。
 何もしないほうが良いときがある。何もできない時すらある。だが、いつでも、どんなことにも主に信頼を置いて感謝して生きてゆく。さあ、赤い彼岸花のように両手を天に向かって上げる。主よ、感謝します!

2019年9月22日日曜日

普段が不断であるように

 やっと一息つけるようになった。何と言っても扇風機の風より自然の風は快い。我が家の猫たちも風通しの良い場所を見つけてそれぞれのんびり過ごしている。こんな穏やかな日々があることが心底ありがたい。
 先日のこと、末猫のメルがまた行方不明になった。今度は4日ぶりに飛び込むように帰ってきた。いたずらでお困り猫だが、皆んな揃ってこそやっと落ち着ける。
 普段が普段どおりであることのありがたさは知っているつもりが、こんなことでもなければつい忘れる。
 「普段」は「いつまでも続くこと」という意味で、本来は「不断」と書くそうだ。こんな当たり前のような日々も暗雲に閉ざされる日々も主の恵みの中にいると知る。

2019年9月15日日曜日

分け合って食べる

 こんな言葉に出会った。「『共に食事をすること』が、一緒に食事をする人同士の絆を作り、確認し、深めるものであることは、ほとんどすべての民族・文化に共通することだ。食べ物を独り占めせずに、分け合って食べるというところに、人と人とのもっとも基本的な『共に生きる姿』がある」。
 主は今日も社会からはみ出されてしまった徴税人や罪人を招いて一緒に食事をする。彼らは見失われた羊、見失われた銀貨だ。社会が受け入れないこれらの人達との食事は主イエスの生き方をよ〜く示している。
 私も見失われた羊か銀貨だった!救われたありがたさが身に沁みる。パウロの宣教の原動力もこれか!

2019年9月8日日曜日

くも

 「くも」という詩がある。“空が青いから白をえらんだのです”これは奈良少年刑務所の受刑者の一人である
A少年が書いた詩だ。
 日頃寡黙な彼が語った。「お母さんは病院で『つらいことがあったら空を見て。そこにわたしがいるから』と僕にいってくれました。それが最後の言葉でした。お父さんは体の弱いお母さんをいつも殴っていた。ぼく、小さかったから何もできなくて…」。彼は青空を見て、まっ白でふわふわのおかあさんを感じている。
 朝夕に涼風の感じられるこの頃、青空に綿のように白い雲が浮かぶのを見ながら、たった一行に込められたAくんの思いの深さを知ったような気がした。

2019年9月1日日曜日

天下無敵のオシロイバナだ!

 教会の横の道ぎわにある電柱と地面の隙間からオシロイバナが自生して3ヶ月ほどになる。威勢よく茂って黄色い花がいっぱい咲き、さわやかな花蜜の香りが漂う。
 こんなわずかな隙間からよくもまあ…と思うとチョット感動的だ。きっと、アスファルトの地面の下には想像以上に潤沢な水があるに違いない。
 全く野放図に茂っていて、少々通りの邪魔になるのではと思うが、枝を折ったりする人もなく、枝を轢いて行く車もない。天下無敵のオシロイバナだ!あれはあれで通りゆく人も驚き半分で眺めているのかもしれないな。
 直径3ミリに満たないコロコロ種をこんなところで育てるなどとは、やっぱり神の業に相違ない!

2019年8月25日日曜日

はじめの一歩は

 昨日、8月恒例となった「平和を想う集い」で、沖縄で生まれ育った岡田和枝さんが謡三線にのせて語った平和への想いは生の声だった。私たちは基地の島の抱える重荷を少しでも荷なわなくてはなるまいと思った。はじめの一歩は聴くこと、知ることから。
 また、平和のメッセージで紹介された日野原先生の言葉が印象的だった。国同士の争いと子供同士の争いは実は同一線上にあるという。全くだ!これこそキリスト者の視点だと深くうなずく。
 晩年の日野原先生は「命の授業」で子ども達に「ゆるす」ことの重要性を訴えた・・・仕返しではなく、どうしたらゆるす事ができるのかを考えてほしいと。

2019年8月18日日曜日

浦島太郎のような時を過ごした

 休暇をいただいて、米国ワシントン州に住む二女のところへ行って戻ってきたら、まるで浦島太郎のよう。
 たかだか一週間なのに、現実に適応するのにちょっと時間がかる・・・・留守中の手紙を開く…信徒さんが「帰ってきた?」と顔をだしてくださり…滞っていた電話をかける少しずつ現実に戻される。
 留守の間ご近所の方々にお世話になり、猫たちも教会の庭の花々もみな元気だった。この度は、ご近所の助けがなければとても実現しない休暇だった。ここに住んで7年目という年月を実感した。
 休暇中、暫し何もかも忘れて解放された。ああ、浦島太郎のような時を過ごしたなぁ〜。感謝だなぁ〜!

2019年8月11日日曜日

主よ、感謝します。

 米国に住む二女ところにやって来た。シアトルから車で北へ一時間、州都オリンピアの郊外についた時、針葉樹の間を吹き抜ける涼やかな風が吹いていた。
ここは日本の暑さとは程遠い涼しさだ。日本での流れるような汗の日々のことを思えば、この涼感はまるでヘブン(天国)だと思った。
 今朝、庭に出てハーブのルッコラを摘んだ。地元の燻製サーモンとクリームチーズ、それに娘が焼いたパンでサンドイッチを作った。コーヒーと一緒に朝食。
  週末には長男夫婦もやって来る。日曜日にはそろって教会だ。礼拝堂に腰掛けて主のみ言葉と聖餐にあずかるこの幸せ!この喜び!主よ、感謝します。

2019年7月28日日曜日

主はにこやかに笑って

 先週末、カンナの葉っぱに蝉の抜け殻1個を見つけた。そして気がつけば、海岸線から眺める海や空や雲の色合いも急に夏の色に変わっている。いよいよ夏到来、これから一気に暑くなりそうだー!
 さて、この夏の暑さをクールダウンさせてくれる主のみ声が今日も注がれていることを我が心に刻む。
 イエス一行を迎えて忙しく立ち働くマルタのヒートアップが想像される。しかし、「マルタよ、マルタ、まあ、ここにおすわり。そんなに頭にきてはいけないよ。先ず、私の言葉に耳を傾けて・・・」と主イエスはにこやかに笑って言われた気がする。主の微笑みを見てマルタはハタッと我に返った。ホッとした!!

2019年7月21日日曜日

希望はいつも天にある

 このところ叔母の様子が少し変わってきた。朝から眠ってしまうらしい。食事の後ばかりか、食事の最中にも。食事の量がこれまで半分になってきたそうだ。
 「いつまでこうしていなきゃならないのかしら」と叔母が言う。「みんなが、叔母さんが元気にしてくださっていることを励みにしています」と答える。叔母が言う、「そう、それならもう少し頑張らなきゃね。皆さんにお祈りありがとうと、伝えてください」。
 主、我を愛す 主は強ければ 我、弱くとも恐れはあらじ・・・叔母と共に賛美と祈りを捧げる。恐れはない。御言葉はいつも叔母の近くにあり、叔母の口、叔母の心にある。私たちの希望はいつも天にあるのだから。

2019年7月14日日曜日

感謝の張り紙をだす

 帰ってくると、いつも「おかえりなさーい」と出迎えるはずのやんちゃ猫メルの姿がない。結局、翌日になっても帰ってこなかった。メルの初めての家出だ。
 心配ばかりするよりはと「迷い猫」の張り紙をだす。ご近所の方々が張り紙の前で足を止めて行く。そのメルは二日目の夜に突然帰ってきた。主に感謝!
 次の日、メルを見て「帰ってるよ、ほら!」と指さして通る人達。わざわざ車を止めて、「戻って来ましたか?」と尋ねてくれる方。有り難いな〜。
 我が家の“お困り猫”を皆さんが気にかけてくださってと、人の暖かさにも感謝した。早速「戻って来ました。ありがとうございました」の張り紙をだす。

2019年7月7日日曜日

ホウジャクだとわかった

 この季節、夜ともなると今までになく大きな蛾が飛び込んでくる。どうやらスズメガらしい。はて?このあたりの樹木の環境の変化だろうか。
 そういえば、先日、庭木のあたりで一瞬ホバリングしていたかと思えば、ものすごいスピードで目の前をビュ〜ンと横切って飛んでいく小さな飛行物体を見かけてポカンとした。まさかハチドリがいるわけはなし、蝶にしてはスピードが凄すぎる。後から昼行性のスズメガの一種、ホウジャクだとわかった。
 さて、今夜もいつの間にか壁にひっそりとスズメガが静止している。猫に気づかれぬよう、そっと忍び寄る。家人のレスキュー癖に私も感染したようだ。

2019年6月30日日曜日

茶目っ気たっぷりに

 聖書は多くの場合主の表情も声の調子も伝えない。
 「あなたは足を洗う水もくれなかった…あなたは接吻の挨拶もしなかった…あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかった…」と、主はファリサイ派のシモンに向かって罪深い女の愛の奉仕を引き合いに出す。
 が、叱責ではない。このとき、主はシモンに向かってちょっと茶目っ気たっぷりにウインクしたのかもしれないな。そんな想像をしながら聖書を読む。
 主イエスは「赦されて愛する」事実と「愛のあるところに赦しがくる」事実の双方に目を向けさせる。
 シモンはこの後きっとこのことに気づかされたに違いない。そうだ、きっとそうに違いない。(ルカ7:36〜50)

2019年6月23日日曜日

共感の泉は主より

 ナインの寡婦の絶望は想像するには余りに辛すぎる。しかし、主はこの寡婦の悲嘆に寄り添ってくださった。私たちは必ずしも共感が得意だとは言えないが、共感の泉は主より流れるのだとつくづく思わされた。
 金曜日、小田原教会に行ってみると、玄関にハーブの小さな束が置かれてあった。新鮮な緑の葉や目も覚めるような紫色の花から爽やかな香りがしている。「必要な方に」とのハーブの届け主のメモが添えられていた。あの方に、お届けしよう!とすぐに思った。
 帰り道、ハーブをお届けする。ハーブは共感の香りだ。香りがキリストにある家族をいっぺんにつないでくれた。香りで共感、なんていいんだろう!

2019年6月16日日曜日

この足元にも

 梅雨に入った。今年の梅雨はいわゆる6月のシトシト雨であってほしい。田植えの田んぼにカエルが飛び跳ねていたことや紫陽花の葉にでっかいカタツムリが這っていた子供の頃の梅雨の風景を思い出す。
 昨今、気候変動が私たちの近未来に警鐘を鳴らす。眼の前に緑の芝生は広がったが昆虫はいなくなった。牧師館の周囲でカタツムリも雨ガエルも見なくなったし、バッタもハチすらもすっかり姿を消した。
 幸いなことに我が家の庭にトカゲだけはまだ住んでいる。慌てて逃げ隠れするトカゲを踏まないように、脅かさないように自転車を出し入れする。神の恩寵であるこの世界はいま私の足元にもあるのだから。

2019年6月9日日曜日

ハッピーバースディ ディア チャーチ

 「るうてる」の6月号を読んだ。「使徒言行録」は28章で終わっているが、その後2000年間にも渡って使徒言行録が続いているという。そして、改めて私たちもその後に続くのだと言われてみて、はっとする。
惜しみなく奉仕をして「私も使徒のはしくれですから!」とよく言っておられた方のことを思い出した。
 聖霊に突き動かされて初めて生身のわたしという人間は自分の脳みそを離れて飛躍できると知る。脳みそは「損得、勝ち負け、正しいか間違いか」にこだわる。
 今日は聖霊降臨祭、“ハッピーバースディ ディア チャーチ♪♫”。明るい希望の中にも十字架を背負って従う使徒の生き様が迫る。

2019年6月2日日曜日

ようこそ

 先週の土曜日、久しぶりに友人夫妻が訪ねて来てくれた。4人で会うのは6年ぶりだろうか。昔、同じ教会で一緒に奉仕をしてきた間柄だ。お互いに紆余曲折があって、今はそれぞれ所属教会が違う。しかし、今でも私たちはお互いに信頼で繋がる友人同士だ!
 さて土曜日、説教のことがチラチラ頭をかすめる。食事は外食にし、お茶を家ですることにした。全く片付かない我が家だが、座る場所を作ろうと作業机にしている食卓テーブルの上の本も紙類も片付けて、大わらわで掃除にいそしむ。「友あり遠方より来る、また楽しからずや」だ。さて友人到来。汚す張本人の猫達は「ようこそ」とばかりすり寄って行く。

2019年5月26日日曜日

ふっと感謝が溢れる

 「聖書を読む時の秘訣は2000年の壁を透明にすることだ」とはキェルケゴールの言葉だ。
 そうか!主イエスが語り、わたしがここで聞いている。主と私とはその場所に一緒にいるのだ。聖書はそういう同時性において読むのであって、2000年経った今の目で読むものではないと気づかされる。
 そういえばもうじき主の昇天日だ。この40日間、復活の主は私と一緒にいてくださったなぁと思った。人の話を伺う時、また問安の道すがら、そして掃除や料理の手伝いをするとき・・・ふっと感謝が溢れる。
 多忙である。しかし全く孤独ではない。こんなにも主と一緒にいられる毎日だから。

2019年5月19日日曜日

枇杷の実を採らせて

 兄弟教会での夕方のこと、突然5人の子どもを連れて二人のお母さんが来た。お母さんの一人は2年前に1度礼拝に来た方だ。若い人を迎えた喜びで昼食や茶菓でも大歓迎した。それを覚えていて今日は教会の枇杷の実を採らせて欲しいという。何とたくましい!
 だが、枇杷の実のオレンジ色はまだ浅い。「来週にいらっしゃい」というと高枝用のハサミを持って来ると言う。採る時間を聞かれたので「それなら礼拝からいらっしゃい」といった。礼拝後に教会のみんなと枇杷を採るのは主もお喜びだろう。枇杷繋がりもいい!
 夏のような暑さの中、家人がカルピスを出すと飲み干して「生き返りました」とニコニコ帰っていった。

2019年5月12日日曜日

天からの恵みの分かち合い

 「うちで実った甘夏です。皆さんでどうぞ」今年も教会家族のお宅で実った甘夏を届けてくださった。ゴールデンカラーに輝く甘夏は初夏の果物だ。
 この時期まで畑の木で実った甘夏は酸味が少なく、すこぶるジューシーだ。大きいものを計ってみると700グラムをゆうに超える。こんなに大きな実をつけていたら夏蜜柑の枝はさぞ重かったろうに・・・。
 「兄弟教会にもどうぞ」と言ってくださって、深く感謝した。これこそ恵みの分かち合いだ!トパーズ色の香気が立って、幸せが何倍にも膨らむ。
 教会の昼食後に、そして皆さんのお持ち帰りに、「天からの恵みの分かち合い」の甘夏をどうぞ。

2019年5月5日日曜日

神に捧げられる良い香り

 夜7時過ぎ、散歩に出てみた。日中は汗ばむ程の気温であっても日が沈めば空気はヒンヤリしてくる。その空気を通ってふいに良い香りが漂ってきた。リラックスする香りだ。深く息を吸ってみた。落ち着く。
 多分、あれはミカンの花の香りだと家人は言う。「他の花もいい匂いがするのよ」と、家人に促されて匂いを嗅ぐ・・・確かに!スイートピーは甘い香り、スミレも地味だが何気に良い香りがあるのだと知った。
 さっきの香りの主、姿は見えないが気高い香りは小さな白い花々の存在を思わせてくれた。ふと、「わたしたちはキリストによって神に捧げられる良い香りです」とパウロが言っている言葉が思い出された。

2019年4月28日日曜日

いつの間にか

 二人の弟子はすっかり希望を失ってエマオ村への道をトボトボと歩いていた。いつの間にか復活のキリストが彼らに近づき共に歩いている。彼らは少しずつ生気を取り戻し目は輝き始め、心は燃えた。
 人間には心と体とその上に精神という力があると言うのはアウシュビッツ強制収容所から生還した精神科医ヴィクトール・フランクルだ。精神は生まれながら誰にも備わっている空の器のようだという。
 たとえ、私たちの心や体が病んでも精神は病まない。精神が外からの愛の力に与るとき、私たちは生きる意味を見出し、響き合い、他者のために生きる力を得る。日々、復活の主と出会って、心は温かい!

2019年4月21日日曜日

春爛漫のミッションワーク。

 いのちの春にキリストは復活された、ハレルヤ!
 真っ赤なスイートピーが届けられた。ご不自由な身体のため礼拝に与れないないご主人をお世話される奥様からだった。「昨年、教会の庭のスイートピーの種を頂いたので植えたら、こんなに咲きました!」。
 教会の花つながりもイエス様つながりだ。教会に足を運んでくださるなんて、思いがけず嬉しい!
 黄色の菜の花、色とりどりのアネモネとチューリップが咲いている。そして、今年もスイートピーがぐんぐん蔓を伸ばして紫とピンクの花がつき始めた。
 眺めながら人が通る。「いいね、きれいだなー」って。教会の小さな庭は春爛漫のミッションワーク。

2019年4月14日日曜日

臨終の時にも

 あの日、ゴルゴダの丘には三本の十字架が立った。主イエスの左右に、十字架にかけられた二人の罪人。
 そのうちの一人は十字架上で救いに目覚め、パラダイス行を確約された最初の人。犯罪者と言う罪人も当然救われるその人なのだ。カトリック教会ではこの罪人に聖ディスマスという名がつけられ、犯罪者の守護の聖人となっているというから感心してしまう。
 私自身はというと、はたして死の間際に自分の姿をこの罪人に重ねることができるだろうか?「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と乞う信仰を・・・と願う。
 「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」ああ、臨終の時にも主のみ言葉がともにある。

2019年4月7日日曜日

圧倒的な神の業

 今年も桜が満開になった。昨日も小田原からの帰り、桜並木の道を通ったばかりだ。
 あの桜の満開の様子は実に美しい。どうしてあんなに美しいのか!なぜこんなに喜ばしいのか!それはもう、圧倒的に神の業だからだ。
 誰かが満開の桜をつくったわけでも、誰かが咲かせることができるものでもない。しかし、桜は時が来ると「せ〜の!」と一斉に咲く。面白いし不思議だ。
 桜の木が、それぞれ「自分は栄養たっぷりだから早く咲く」とか、「自分は寒さが苦手だから遅れて咲く」などと言うことはないんじゃないかな?大自然が咲かせている。神の業は見事だ!

2019年3月31日日曜日

晩年の放蕩息子

 「今の俺、俺は俺でもこの俺は、彼知りし後の俺でない俺」このように色紙に書いてくださったのは牧師であり神学者であった渡辺善太先生だった。
 若い時は大酒飲みでさんざん道楽の限りを尽くしたという先生は、イエス・キリストに救われて人生が一変した。その後の人生をキリスト教伝道に捧げられた。
 私はひねくれ者の中学生だったころ、先生にお会いしたことがある。ずいぶんご高齢だったと思うが、優しい目と、豪快な笑い顔を覚えている。その日、自分が、救われて、回心した晩年の「放蕩息子」に出会っていたことを思った。受洗記念の聖書に「踏み迷うともこの道を行く ただ主にありて ただ主にありて」と記した。

2019年3月24日日曜日

涙するほど有り難い

 主人は園庭に言う「実のならないいちじくの木は土地の無駄だから切ってしまえ。土地は有効利用すべきだ」。それは合理的でもっともな考え方だ。それなら最初に切られてしまうのはこの私かもしれないと思う。
 しかし、園庭は主人に向かって懇願してくれる。「肥料をやってみるから切るのは待って。来年、実がなるかもしれない。」この園庭の温情は涙するほど有り難い。
 しかしこの木、次の年も実を付けられないかもしれない。それでもこの園庭は肥料をやるので来年まで待ってと懇願してくれるに違いない。そして翌年も・・・。
 わたし達はこの園庭の辛抱強い親心に育てられているいちじくの木だということを溢れる感謝で思う。

2019年3月17日日曜日

主よ、憐れんでください

 緑が萌えいでたばかりのパレスチナの路傍に盲人は座って物乞いをしていた。行列の足音が近づいてきた。
 ナザレのイエスの一行だと聞くと、彼の心にひらめくものがあった。「ダビデの家系に一つの芽が出る。その上に神の霊が宿る。その日、光は上る。盲は見え、足萎えは立ち・・・」そうか、彼こそ来るべき者だ!
 盲人は叫びだした。「ダビデの子よ、憐れみ給え!」主は、この叫びに彼の信仰を認められた。彼を神の国を「見る」者とされた。
「主よ、憐れんでください」と叫ぶ者を主は必ず救われるルターは「私は神の乞食」と言った。「主よ、憐れんでください」。この言葉をしみじみと味わう。

2019年3月10日日曜日

40回の感謝はどうだろう

 四旬節が始まった。キリスト者が四旬節に断食や節制をするという習わしは主イエスの荒野の体験にさかのぼる。自分たちも主の断食と祈りの体験に倣いたいという思いから自然におこってきたものだ。
 私たちはどうしても日々の必要に迫られ、この世の力を求め、誘惑され、心を奪われてしまう。目先のことや身近なものの向こうにある神の国を望むことが苦手だ。主に委ねて楽になってみると魂の目が開く。
 私たちは何と多くの赦しをいただき、助けをいただき、恵をいただいていることか!だから、四旬節は恵を分かち、感謝を数えて過ごしたい。一日1つでも40回の祝福、40の感謝っていうのはどうだろう?

2019年3月3日日曜日

チラッと見えた

 主は、ご自分が時の権力者たちから排斥されて殺されるとペトロたちに告げられた。ペトロたちの不安と恐れは次第に大きくなっていったに違いない。
 その暗闇に光を放つため、主はペトロたちを連れて祈るために山に登られた。ペトロたちがそこで見たものは、主イエスの輝くばかりの御姿である。 
 暗闇を見つめて不安に頭を垂れる私たちに、主は天に風穴を開けて、天国の栄光をチラッと見せてくださる。救いは私たちの頭の中にあるのではなく、上にあるのだ。頭を起こして、天を見上げよ!主を見上げよ!きっと、安心・・安心・・ああ安心・・・聖霊のささやきが聞こえてくる。

2019年2月24日日曜日

快挙だ!

 はやぶさ2が小惑星リュウグウにタッチダウンして、土の塵や石を採集するのに成功した。快挙だ!
 リユウグウは46億年前にできた太陽系初期の情報を多く保っていると言われている。地球に生きる私たちのような生命を造る元となった材料がどんなものであったのか?その謎を解く手がかりがつかめるかもしれないという。リュウグウには生命の源となる有機物と水の存在が予想されているからだ。
 「地下から湧きでた水が土の面をすべて潤した。神はその土の塵で私たちを造った」と聖書は言う。生命の材料は塵と水!聖書はそこに神の息を加える。創造の不思議に科学は畏敬を持ってまた一歩近づいた。

2019年2月17日日曜日

落っこちたなら

 ブリューゲルの描いた絵画「盲人が盲人の道案内をする寓話」の写真を見た。てっきり二人だと思っていたが、ブルーゲルはそこに6人の盲人を描いていた。
 先頭の一人はすでに水の溜まった溝に落っこちている。2番目は危うく落っこちる寸前である。3番目は両足が爪先立って、すでにバランスを崩している。4番目は危険を察知したかのような顔つきだ。5番目と6番目はまだ危険に気づいていない。
 導く盲人も、導かれてゆく盲人もこの私自身だ。自分に頼る限り、6段階の危険のどこかに私はいつもいるのではないだろうか?だが、落っこちたなら、なりふり構わず叫ぶ。「主よ、お助けください!」と。

2019年2月10日日曜日

あのひと時は

 インフルエンザの流行で問安を諦めていた先週のこと、久しぶりの方々が訪れてくださった。
 どの方もこの曜日、この時間なら牧師はいるに違いないと、私の予定を知って来られた。中には「電話がつながれば来る。もし、つながらなければ諦めよう。それは神の時ではないからだ」と、賭けをするような気持ちの方もおられた。教会への電話はいつでも牧師につながることの大切さを改めて思う。
 どの方もキリストの暖かさに触れたくてこられた。しばし、お話に耳を傾ける。折しも季節は一番寒い時だ。外気は冷たい。主と共に、一杯のお茶で過ごしたひと時は、あなたを暖かく包んでくれただろうか・・・

2019年2月3日日曜日

きっと見いだせるに違いない

 「青い鳥はどこにいるの、青い鳥さえ捕まえられたら幸福になれるのに」。チルチルとミチルの兄妹は幸福の青い鳥を探して旅に出る。青い鳥は手に入らない。しかし、自分が飼っていた鳥が青い鳥だったと気づく。幸福は身近なところにあるというメーテルリンクの示唆に富んだ思想だ。
 わたしも幸いを求めて、「キリスト」にお会いすべく旅に出る・・・ちょっと、カッコイイ!
 火や水や光の精、イヌやネコと一緒に「キリスト」を探す旅に、さあ、出かけよう!
 私たちの只中に、もっとも小さくされた者の中に、きっとキリストを見いだせるに違いない。

2019年1月27日日曜日

決して徒労に終わらない

 一年で一番寒いこの時期、「は~るよ来い、は~やくこい!」と、春の来るのが待ち遠しい。
 我が家の外には一匹の地域猫が住み着いている。冬の寒さは外猫には厳しい。このところくしゃみと鼻水で可愛そうだと、早速ホッカイロを買い、猫ハウスに入れてやる。心なしか鼻水が止まったようだ。
 猫ばかりではない。庭のすみれは寒さに耐えて花をつけ、菊の花も霜枯れした葉っぱの中で「まだまだ」っと頑張っている。春を待つ、祈って待つ・・・。
 待つ心は、どこか信仰に通じている。「おことばですから」と従ったペトロにおびただしい魚をもって応えられた主を待つ。宣教は決して徒労に終わらない。

2019年1月20日日曜日

フットワークが良くなってきたぞ

 主イエスが故郷のナザレで福音を述べる。すると人々は「この人はヨセフの子ではないか」と言う。つまり、彼はこの村の大工ヨセフの子だから、彼が何者なのかを我々は知っているというのだ。
 固定観念と先入観は枷となって彼らの心を縛る。せっかくの恵は彼らから遠ざかってしまった。
 「自分は知っている、わかっている」と思うようになったら黄色信号かもしれない。知らないこと、知りえないことは多々ある。「決めつけない」と自戒する。
 この固定観念と先入観という枷を主イエスは打ち砕いて自由の身にしてくださる。フットワークが良くなってきたぞ。この軽さよ!この恵よ!

2019年1月13日日曜日

「見よ、わたしの僕を!」と

 今日は主イエスが水と聖霊による洗礼を受けられた日だ。主の洗礼は、主と同じ洗礼を受ける私たちをも「神の子」としてくれる。「見よ、わたしの僕・・・わたしが選び、喜び迎える者を」(イザヤ書42:1)と天父は高らかに宣言される。
 いただいた年賀状に「人生100年時代になり、気合を入れ直して日曜礼拝に出席し、感謝と反省をしながら、健康で元気に過ごしたいと思います。・・・周りに迷惑をかけずに明るく、楽しく生活できることを願っています」とあった。実に明るく前向きだ。
 「見よ、わたしの僕」と迎えてくださる神の喜びがこの挨拶を通じて響いてきた。オッ、元気がでる!

2019年1月6日日曜日

ノックアウトされてしまった

 イギリスのロック・バンド、クイーンを題材とした映画『ボヘミアンラプソディ』はまさに感動的だ!
 特に、1985年のライヴエイドのクイーンの演奏を忠実に再現した最後の20分間は息がつまりそう。涙も出てきてしまいそう。ライヴエイドは「アフリカ難民救済」への20世紀最大のチャリティーコンサートだった。 
 彼は歌う。「母さん、たった今、僕は人を殺してきたんだよ…母さん、僕の人生は始まったばかりだったのに…」思わず引き込まれる。「僕なんて、生まれてこなきゃよかった…」痛々しい罪の告白、赤裸々な懺悔に心打たれる。母ならぬ天父の前に打ちひしがれるこの魂の純粋さに私は完全にノックアウトされてしまった。