2014年3月30日日曜日

おかげさまで

 牧会の御用にと、信徒の方が車を貸して下さった。「おかげさまで」この一年間、湯河原と小田原の往復と、病院や施設におられる信徒の方々の訪問ができた。
 壮年で始めた不慣れな運転である。運転技術が未熟で、道を知らないへっぽこ運転者をこの車は一身に引き受けてくれた。バンパーに擦り傷が増えた。だが、「おかげさまで」安全にこの一年を走れた。
 そして、先週最後の運転が終わって、この先は廃車と決まった。最後まで、黙々と、本当によく主の御用をはたしてくれた。心からありがとう。
  主イエスのおかげをはじめ、私たちは、あれもこれも沢山の「おかげさまで」に囲まれている。



これも、天の父の「おかげさまで」。

一週間で、アネモネからチューリップへと教会の前庭はさまがわり。




教会の掲示板のところには水仙が咲いています。



2014年3月23日日曜日

ほころぶ顔、顔、顔

 3月11日、仙台教会で行われた東日本大震災記念礼拝に出席し、湯河原教会がみかんなどを送って支援を続けている石巻市のファミリーホームを訪ねた。
 ここでは、震災の影響を受けた3人の子どもが親を離れて暮らしている。この日の午前中に、彼らはホームのスタッフに伴われて、身を切るような寒さの中、身じろぎもせずに、慰霊祭に参加したという。
 夕食前のわずかな時間に、Mさん、K君、H君と語り合った。親元ならば我儘の一つも言うのだろうにと 思いながら、別れる前に一人ひとり両肩をぐっと掴んで祝福した。すると子供たちの表情がほころんだ。子を思う天の父の祝福に触れて安心がふくらんだ。





教会の小さな庭には、アネモネが満開!

 


イエス様が愛された野の花。(マタイによる福音書6: 29)













2014年3月16日日曜日

おお、誘惑

創世記2:15-17・3:1-7  
ローマの信徒への手紙3:21-31
マタイによる福音書4:1-11

 エデンの園で人は神の祝福に包まれていた。そこでは、神と人とは愛の関係にあり、否定というものが介在しなかったという。しかし、蛇に象徴される悪魔の誘惑によって、人は神を否定し、神との直接的な愛の関係は絶たれたと、創世記は失楽園を伝える。
 悪魔は、常に私たちを神から引き離そうとする。だから私たちは、常に誘惑にさらされている。栄誉、お金、権力と誘惑は巧みで限りない。だから、天の父よ、試みにあわせず、悪より救いだしたまえと祈る。
 私たちを真に満たしてくださるのは、主イエスのみである。荒野で、十字架上で悪魔の試みに勝利してくださったその主の愛によってのみである。

2014年3月9日日曜日

イエスさまぁー、やってきました!

 あの日、山に登られた主イエスは、弟子たちにご自身の神の国での本当の姿を一瞬だけ見せてくだった。
 実は、私たちの身の回りには、あの神の国を見るような輝きが満ち満ちているのではないだろうか。
だから、詩人は手のひらを太陽にすかしながら、「オケラだって、ミミズだって、アメンボウだって」と、その命のまばゆさを歌うのだろう。しかし、日常に追われている私たちはこのまばゆさに気づかない。
 その日には、私たち自身があの輝きの中に迎えられる。「イエスさまぁー、やってきました!」と主イエスと共に手を取り合う。主の変容は、私たちにそんな希望を与えてくれる。

2014年3月2日日曜日

もちろん、 自分でもない

 以前第一位になったサラリーマン川柳に「『ご飯 よ』と呼ばれて行けばタマだった」というのがあり、 我が家も同じと思わずにが笑した。 
  人間の主人となるものとして、主イエスは「神」と 「富」の二つを挙げられた。そして、人は、神と富の 二人の主人に兼ね仕える事はできない。どちらか一方 にだけ仕えるものだと明言されている。 
 ある学者が「富」とは、人間の欲望を叶えるための モノだという。自分の欲求を叶えるモノを主人にした時、人はモノの奴隷となる。「我が家の主人はキリス トなり」である。猫でもない。富でもない。「もちろん、 自分でもない」と心のなかで声がした。
(マタイ6・24から)