2021年3月28日日曜日

これが愛

  四旬節最後の主日は枝の主日とも呼ばれ、今日から主の受難の週が始まる。人々はシュロの枝を振りながら「ホサナ、ホサナ!」と歓呼の声で主を迎えた。

 しかし弟子たちはその週の木曜日、最後の晩餐と洗足の後、ゲッセマネで主を裏切って逃げ、主はその夜一人ピラトの前で裁かれる。翌金曜日、主は十字架を背負ってゴルゴダの丘へ。主は十字架につけられる。

 今週は主イエスの「受難・死から復活のいのちへ」という「過越」の三日間を想起して過ごす。「復活のいのち」に向かって、聖木曜日(主の晩餐と洗足)、聖金曜日(主の十字架)を記念する礼拝の恵みに与りたい。

 今年もキリストの十字架は私のためだと知る幸い!

2021年3月21日日曜日

一粒の麦

  麦の収穫は5月頃から始まるそうだ。当時のパレスチナあたりでも、今頃は青々と実った麦の穂が畑一面にすくすく伸びていたと思う。それはイエス様の当時も、みんなが見慣れた美しい風景だったに違いない。

 しかし、実った麦の穂を見て、土の中の種がどうなっているかを想像する人はどれほどいただろうか?仮に、麦を引き抜くとする。そこには、無数の絡み合った多くの根っこを見出すが、もはや、元の種は養分として吸収されて見当たらない。主の十字架は、人類の救いという実りを得るために撒かれた種だった。

 “主はこの私の罪を執りなしてくださった”今日、この慈しみでいっぱいにされ、ただ頭を垂れる。

2021年3月14日日曜日

「ヨハネさんの16」

  今日のこのヨハネ3章16節を、私の父は「ヒロマサ、ヨハネさんの16だ」と覚えやすいように教えてくれた。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

 神にとって、独り子イエスはもちろん大事。そして、ヒロマサも大事。では、どちらか捨てなければならないのならば、神は「イエスを捨てる」というのだ。神は、なにがあろうとも、イエスよりも私の方を愛している。ギョッとする。

 私が、それほどに愛されていること、それを信じることこそが、永遠の命を生きていることなんだ。誰もが神に愛されるために生まれてきたんだ!

2021年3月7日日曜日

永遠不滅の神殿

 宮清めのイエス様の乱暴なふるまいは、神殿への熱い思いが心いっぱいに溢れてきたためだと見えた。

 事実、主は神殿にやって来て形だけの犠牲をささげて罪の赦しを願うという礼拝を否定されたのだった。

 しかしイエス様の本命は十字架だった。主は自ら罪の贖いを引き受けた。もう犠牲の動物はいらない。古い時代は終わった。今や、霊と真だけで神を礼拝する主イエスという永遠不滅の神殿の時代なのだ。復活の主を通じて直通電話のように天の父とつながっている。

 「もしもし、天のお父さんですか」と、何時でも、どこにいても父に語りかけることができる。何でも願いなさいと言ってくださるイエスの御名によって。