2021年10月31日日曜日

「けだし・・・」と

  今日は宗教改革日。1517年、今から504年前の10月31日、我らがルター先生はヴィッテンベルク城内にあった教会の門扉に『95ヵ条の提題』を発表した。それが宗教改革のスタートとされている。

 今、『ローマ書講義』を水曜日の会で読んでいる。それは若きルター先生が中世期のドイツ語で講義し、学生たちが筆記したものだ。戦後まもなく日本語にも翻訳されて、今こうして手にしている。ルターが命がけで説いた恩寵義認の500年余の歴史に繋がりたい。

 難解な言葉使いと読めない熟語に閉口するが、だからこそ一つ一つの言葉にいっそう奥行きを感じる。「けだし!」とルター先生の肉声が私たちにも飛んでくる。

2021年10月24日日曜日

わたしを憐れんでください

 「わたしを憐れんでください」と盲人バルティマイがイエスさまに呼びかけているが、これが彼の言い表した信仰だと言うことを今日の聖書は伝えている。

 天空を仰いで見回してみても、雲ひとつ無い澄みわたった青空というものにもし出会うとすれば、このバルティマイの信仰のようだとは言えないだろうか。それくらいバルティマイの主への呼びかけはいさぎよい。

 言ってみれば盲目の彼は主と彼の間をはばむものを前にしても、「イエスさま、私はここにいます!」と主を信じて叫んでいるのだ。

 これ以上の呼びかけは無いと思った。今日も礼拝で「主よ、憐れんでください」とイエスさまに呼びかける。ギリシャ語で「キリエ・エレイソン」と。

2021年10月17日日曜日

偉くなりたかったら

 私たちの思い込みも、こんなものなのだろう。人間らしさが出てしまった今日の弟子たちの会話だ。

 二人の弟子がイエス様に「栄光をお受けになったその暁には私たち二人を一番重要なポジションにしてください」と願う。すると、他の弟子たちが「よくもそんな抜け駆けをして!」と怒りだす。

 私たちにしても同じだが、イエス様は「私こそが」という自意識を否定なさらない。「栄光」が「十字架の死」だと三度言われてもピンとこない弟子たち。

 「偉くなりたかったら、すべての人の僕になりなさい」とイエス様はこの機を捉えて教えてくださった。

人には偉いようには見えない「偉い」があるのだ。

2021年10月10日日曜日

元野良猫の順応力

 先日、飼い猫のメルが足に怪我をして、結局、入院手術となった。翌日、メルの様子を見にゆく。右前足に包帯、首にカラーのメルはケージの奥で横になっていた。痛みが和らいだのか幾分リラックスして見える。

 「メル!」と呼んでも私にはそっけない。すると看護師さんが嬉しそうに言う。「昨日はシャーシャーと怒ってたんですけど、今日は私にスリスリしてくれるんですよ」。そう云われて私はなんだか複雑な気持ち。

 猫に「理屈」は通用しないが、「お前を可愛がっているのはこちらだぞ」と思った。家に戻れば、また感謝と大好きの「スリスリ」が始まるかな?それにしても、人の情を外さない元野良猫の順応力には脱帽!

2021年10月3日日曜日

興味津々

  生後6ヶ月になった孫のビデオがスマホに送られてきた。

 ウーウーとしきりに声を上げながら鏡に向かってハイハイして行く姿。孫は鏡の中の自分に興味津々、突進して頭をゴツン。何度も何度も手を伸ばして触ろうとしている。だが、もちろん触れない。孫にはその姿が鏡に映る自分の虚像だとは理解できないからだ。

 私たち人間は鏡に映して自分の像を見るが、自分の肉眼で自分の実像を見ることは決してない。しかし聖書という鏡は私たちの像も心も映し出してくれる。聖書に映し出されながら自分を知る。日々救われて「あなたは神の子」だと知るのは素晴らしい。