2017年1月29日日曜日

主の「召し」

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」主イエスがこう声をかけると、ペテロは網を捨て主に従った。聖書は実に潔いペテロの姿を描く。
 私の父の名は巌、ペテロという名前だ。父も潔い生き方をした人である。自分を主張をするというのではなく、主の「召し」を全面的に受け入れて僻地医療に生きた人である。かつて私はこんな父に反抗した。
 しかし、人はこの主の「召し」を受け入れて生きることが実は安心なのだとわかってきた。主がお召しになったのだから、責任は召した方、主が取って下さるのだから。わたし達はただ、すべてを捨てて、その「召し」を受け入れるだけ。それは主の愛の業だから。

2017年1月22日日曜日

本当に、本当に美味しいよ

 遅くなって夕食の準備に取りかかる。前日に家人が買っておいた牡蠣が冷蔵庫にあった。
 大好な牡蠣フライが食べたいが、手間がかかるなぁと、言い出せない。無理して作ってもらっても、この前のようになってはと、衣がはがれたり、ひと餅になったかわいそうなカキフライの姿を思い出した。
 しかし、家人は手早く牡蠣を塩水で洗い、衣を丁寧につけ始めた。わたしも油を火にかけて準備する。十数分後、きつね色の美味しそうなカキフライが揚がった。「今日はあなたの誕生日だから」と家人が言う。そうか、今日のカキフライは僕の誕生日のお祝いなんだね。ありがとう。本当に、本当に美味しいよ。

2017年1月15日日曜日

尖った声を出してしまった

 集会から戻ってくると、牧師館に至る脇道をブロックして車が2台止まっている。しかも運転者が居ない。
 「こんな所に車を置くなんて非常識だ!」と憤慨して道路脇に車を止めた。見ると隣の門で運転者らしき女性2人が、しきりに何やらやっている。
 次の予定もあって気が急く。「車をどけて下さい。入れないんですけれど!」と、非難めいた、尖った声を出してしまった。女性たちはそそくさと車に乗り込むと無言で走り去った。
 こういうときこそ一呼吸入れる祈りが大事なのにパニクってしまった。寛容さを欠いた私の言葉を主イエスは何と聞かれただろうか。

2017年1月8日日曜日

ルターとクラーナハ

 この正月、上野の西洋美術館に出かけた。『クラーナハ展』でルターの肖像画の本物を見るためだ。
 ルカス・クラーナハはルターと同時代に宮廷画家として活躍した人で、ルターの友人でもあった。クラーナハの描いたルターの肖像画は宗教改革500年のバナーでも親しみ深い。この肖像画は、実際はルター夫婦が一対である肖像画だということがわかった。温かみのある二人の表情に庶民の幸せを感じる。
 初めて見るルターのドイツ語訳『新約聖書9月版』に見入った。クラーナハの微細な木版の挿絵入りの黙示録のページに、諸刃の剣が口から出ている「人の子」の姿があった。おお、これがかの聖書か!と感じ入る。

2017年1月1日日曜日

新しい気持ちで

 新しい2017年を迎えた。今年も、なすべきことを一歩一歩、忍耐強く誠実にやらせてくださいと祈る。それが信仰者の生き方の基本だと思うから。信仰のこと、魂のことこそ基本を大切にして、一つ一つやっていかなければ全て壊れてしまうからだ。
 「魂のことは目に見えない。だから壊れる時は本人も誰も気づかぬうちに崩壊してしまう。信仰者が大切に守ってきたもの。教会が一つ一つ積み重ねてきたもの。その遺産の上にあって我々もまた一つ一つささやかな石を積んでいかなければ、神の恵みにとうてい答えられない」とは大先輩の言だ。
 この言葉を新しい気持ちで心に刻んだ。