2019年6月30日日曜日

茶目っ気たっぷりに

 聖書は多くの場合主の表情も声の調子も伝えない。
 「あなたは足を洗う水もくれなかった…あなたは接吻の挨拶もしなかった…あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかった…」と、主はファリサイ派のシモンに向かって罪深い女の愛の奉仕を引き合いに出す。
 が、叱責ではない。このとき、主はシモンに向かってちょっと茶目っ気たっぷりにウインクしたのかもしれないな。そんな想像をしながら聖書を読む。
 主イエスは「赦されて愛する」事実と「愛のあるところに赦しがくる」事実の双方に目を向けさせる。
 シモンはこの後きっとこのことに気づかされたに違いない。そうだ、きっとそうに違いない。(ルカ7:36〜50)

2019年6月23日日曜日

共感の泉は主より

 ナインの寡婦の絶望は想像するには余りに辛すぎる。しかし、主はこの寡婦の悲嘆に寄り添ってくださった。私たちは必ずしも共感が得意だとは言えないが、共感の泉は主より流れるのだとつくづく思わされた。
 金曜日、小田原教会に行ってみると、玄関にハーブの小さな束が置かれてあった。新鮮な緑の葉や目も覚めるような紫色の花から爽やかな香りがしている。「必要な方に」とのハーブの届け主のメモが添えられていた。あの方に、お届けしよう!とすぐに思った。
 帰り道、ハーブをお届けする。ハーブは共感の香りだ。香りがキリストにある家族をいっぺんにつないでくれた。香りで共感、なんていいんだろう!

2019年6月16日日曜日

この足元にも

 梅雨に入った。今年の梅雨はいわゆる6月のシトシト雨であってほしい。田植えの田んぼにカエルが飛び跳ねていたことや紫陽花の葉にでっかいカタツムリが這っていた子供の頃の梅雨の風景を思い出す。
 昨今、気候変動が私たちの近未来に警鐘を鳴らす。眼の前に緑の芝生は広がったが昆虫はいなくなった。牧師館の周囲でカタツムリも雨ガエルも見なくなったし、バッタもハチすらもすっかり姿を消した。
 幸いなことに我が家の庭にトカゲだけはまだ住んでいる。慌てて逃げ隠れするトカゲを踏まないように、脅かさないように自転車を出し入れする。神の恩寵であるこの世界はいま私の足元にもあるのだから。

2019年6月9日日曜日

ハッピーバースディ ディア チャーチ

 「るうてる」の6月号を読んだ。「使徒言行録」は28章で終わっているが、その後2000年間にも渡って使徒言行録が続いているという。そして、改めて私たちもその後に続くのだと言われてみて、はっとする。
惜しみなく奉仕をして「私も使徒のはしくれですから!」とよく言っておられた方のことを思い出した。
 聖霊に突き動かされて初めて生身のわたしという人間は自分の脳みそを離れて飛躍できると知る。脳みそは「損得、勝ち負け、正しいか間違いか」にこだわる。
 今日は聖霊降臨祭、“ハッピーバースディ ディア チャーチ♪♫”。明るい希望の中にも十字架を背負って従う使徒の生き様が迫る。

2019年6月2日日曜日

ようこそ

 先週の土曜日、久しぶりに友人夫妻が訪ねて来てくれた。4人で会うのは6年ぶりだろうか。昔、同じ教会で一緒に奉仕をしてきた間柄だ。お互いに紆余曲折があって、今はそれぞれ所属教会が違う。しかし、今でも私たちはお互いに信頼で繋がる友人同士だ!
 さて土曜日、説教のことがチラチラ頭をかすめる。食事は外食にし、お茶を家ですることにした。全く片付かない我が家だが、座る場所を作ろうと作業机にしている食卓テーブルの上の本も紙類も片付けて、大わらわで掃除にいそしむ。「友あり遠方より来る、また楽しからずや」だ。さて友人到来。汚す張本人の猫達は「ようこそ」とばかりすり寄って行く。