2016年12月25日日曜日

キリストの平和がなった夜

 1914年12月、第一次大戦下のドイツ軍とイギリス軍はクリスマスのこの日もベルギーの首都ブルッセルの緩衝地帯を挟んでそれぞれが塹壕の中にいた。光は見えず、希望はなく、彼らは暗闇の中にいた。
 ところが、ドイツ軍の塹壕の中で一人の兵士が「きよしこの夜」を歌い始めた。他の兵士たちが一緒に歌い初め、その歌声がイギリス兵士たちに届く。そして思いがけずに双方での大合唱となった。この日、政府が決めたわけでもなく、将校たちの誰が決めたのでもなく、兵士たちが自発的に休戦をした。ああ、御子の誕生!
 主イエスキリストはあなたの心を照らす光。暗闇に輝く希望、平和。クリスマスおめでとう!

2016年12月18日日曜日

主のもとに帰ってくる

 「なんだか嬉しいことが続くね」と妻と話す。
 今朝、クリスマスカードを受け取った。「不思議な神様の導きで、このクリスマスに洗礼を受けることに・・・」と書かれていた。6年前の宣教研修の時に出会ったSさんからだ。当時不登校の高校生だった。
 お昼には、礼拝から遠退いていたKさんが教会に来た。そして、しばらく連絡がとれなかった病気療養中の方からも手紙が届いた。夜になって、求道中のIさんから電話があった。「仕事のシフトが変わったので、来週から聖書の学びに行きます」と。
 みんな主のもとに帰ってくる。希望、平和、喜び、そして今日は4本目、愛のロウソクに火が灯る。

2016年12月11日日曜日

水と白湯だけで

 アドベントの一日を主に捧げようと思い、丸一日水と白湯だけで過ごした。初めての断食である。
 驚いたことに時間がゆっくり流れていく。そして、自分は自分の満足のために何かを工夫して一所懸命に取り組むというようなことを実は一日中、一年中、続けていたのだということに改めて気づかされた。
 空腹になって、空っぽになってみると、そんな満足へのこだわりからほんの少し解放される。お腹を空っぽにするように自分自身へのこだわりを空っぽにできたら、きっとその隙間を神が満たして下さる。きっと、神の世界を自由に生きる喜びを味わえるに違いない。アドベント第3週、喜びのろうそくに火が灯る。

2016年12月4日日曜日

届けたくて

 誕生日カードを届けたくて、その方の家を探した。今日はその方の誕生日、その日だからだ。この当たりらしいが、定かではない。番地も表札も出ていない。はたして、電気や水道の検針をする方は困らないのだろうか?と思ったりした。
 歩いて、訪ねて、探してみてふと思った。主もまた一人の魂の居所をたずねて、歩いて、探しておられるに違いない。しかし、その足取りは喜びいさんで、勢い良く、疲れを知らない。その人が大切で、大切で、救いたくって仕方がないからだ。
 そう思うと、また元気が出た。ろうそく2本にあかりが灯る。今週は待降節第2週だね。

2016年11月27日日曜日

平年並みでないクリスマスを

 あんなにきれいな紅葉はハゼの木に違いないと、左手の山々の紅葉にチラチラ見とれながらカーブを曲がる。すると、海を望んで右手に雪化粧した山々が現れた。昨日降った54年ぶりだという雪のせいだ。紅葉と雪の山が同時に楽しめるなんて滅多にない。
 このあたりでは11月には雪は降らないと言うのが平年並の気候だ。平年並みとは過去30年間の気候の平均だそうだ。平均であれば平均と同じ気候の年など一度もないということだ。
 今日からアドベントが始まる。毎年迎えるクリスマスもやっぱりどこか違うはず。心に主を迎える準備に平年並なんてないんだね。今年も小さな回心一つ!

2016年11月20日日曜日

参道を降って登って

 人を初めて訪ねるときは、いつもグーグルマップでお宅の場所を検索して出かける。伊豆山神社の石段の横に目的のお宅はあるらしく、カーナビに神社をセットして出発。ここまではいつも通りだ。
 さて、神社の境内に車を止めたものの、そこから先がわからない。付近の家を一軒一軒見て回るが目当ての家は見つからない。親切なお店の人、通りがかりの人が一緒になって探してくれた。スマホを持っている人がさらに下に続く参道付近だと教えてくれた。
 階段の苦手な家人の手を引いて、気が遠くなるほどの階段を一段一段降りた。いったい何段?ついに、探し当てた。が、帰りは登り。いやー、いい運動だった!

2016年11月13日日曜日

ルターのすすめ

 信仰入門講座で学んでいる『小教理問答書』だが、改めてルターの信仰理解の深さに驚かされている。
 例えば、十戒のうちの「あなたは隣人について偽証をしてはならない」であるが、ルターは「隣人をだましたり、裏切ったり、悪口を言ったり、あるいは悪い評判をたてたりするな」という禁止の中に、さらに主の福音を読み取る。「隣人を弁護し、隣人について良いことを語り、すべてを善意に解するように」と。
 ルーテル教会の信徒であったドイツ系アメリカ人の知人は、子どもたちに「友達の悪いところではなく良いところを話すように」と教えていたことを思い出す。そうだ、不平や愚痴もまた福音から遠いと覚えたい。

2016年11月6日日曜日

湯タンポ

 心地の良い季節になった。青く澄んだ秋の空に桜の紅葉が美しい。温暖な湯河原もさすがに朝は冷え込んできた証拠だ。朝方、目が覚めると猫達が揃って布団に入り込んで眠っている。そろそろ冬の支度にと、今年は湯タンポを買ってみた。
 使ってみて驚いた。湯タンポはシニア世代の愛用品だとばかり思っていたが、以外に使い心地が良いではないか!足の触れるか、触れないかの所に置くだけで布団の中はポカポカと温かい。有り難いことに、夜中にトイレに立つ回数が減った。
 身体にも環境にも優しい湯タンポが気に入ったのは私ばかりではない。我家の猫も勿論、目を細めている。

2016年10月30日日曜日

決戦の日曜日

 今年の日本シリーズがおもしろい。ちょこちょこラジオに聞き耳を立てたり、ちらちら横目でテレビ画面を眺めて観戦したりしている。
 ゲームは雰囲気に呑まれることもあるというが、広島ファンのあの赤一色の燃えるような熱気と白一色で白熱した日本ハムファンの姿が印象的だ。
 ところで、7戦まで観戦したい私とすれば、土曜はタイになり、そして次が「決戦の日曜日」と願いたい。
 ・・・が、我が家には全く興味のない人が一人いる。話しても反応がないばかりか、「ラジオの音は小さくね」と言われる。嗚呼!一度でもプロの生観戦に連れていけばよかったな。

2016年10月23日日曜日

そうすれば

 叔母が圧迫骨折で2度目の入院をして2週間余りになる。夕方ちょっと顔を見に行くが、たいていはぐっすり眠っている。耳が遠いので話しかけても目を覚まさない。手を握ったり腕を擦ったりして帰って来る。
 昨日のことだ。やっと目を覚ました叔母は、「とっても身体が楽なのよ。皆さんよく協力してくださって…」と言う。見れば本当に穏やかな表情だ。
 前回は、入院早々から認知症がひどくなると言われ続けて、叔母も緊張していたし、こちらも疲れた。物事には両面あるが、心配を口にすることは決してプラスじゃあない。まず神を畏れ、愛すべきだ。そうすれば「すべてのこと相働きて益となる」と言えるんだ。

2016年10月16日日曜日

神に選ばれた人たち

 娘の住む米国の小さな町が、ハリケーンで街と幹線道路が水没し孤立。電気と水と食料が絶たれた。車からスマホをチャージしてLINEで知らせてきて知った。
 やもめが不正な裁判官に「裁判をして、私を助て」っと叫んでいる。このやもめは神に選ばれた人だ。このやもめのように「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちを、神はいつまでもほうっておかれない」と主イエスは言われる。
 もう一週間以上。あなたの今の状況、すごく大変だよね。でもこの今の試練は神の選びの中にあるって受けとめると、なんだか勇気が湧いてくるよね。
 主のために頑張って!みんな祈っている。

2016年10月9日日曜日

内覧会に招待され

 お隣に延べ面積約一千坪の創価学会の文化会館が完成して、その内覧会に招待されて行ってきた。
 基礎工事から完成まで一年半がかかった。会館は震度7にも耐えうるという。いざという時は、町の災害時の避難所として提供したい。だから門戸は施錠していないという。そうだ、それでこそ宗教だと納得する。
 そういうわたし達も、あの半端でない騒音と塵埃とを気にかけないよう、よく協力してきたものだと振り返る。正直なところ、重荷を背負っているあの人のこと、この人のことを考えると、騒音に気を取られる暇もなかった。主に感謝することは、毎日の生活のどんなことにもあると気付かされた。「主よ、感謝します」。

2016年10月2日日曜日

わたしはそれを満たそう

 月が変わってカレンダーをめくる。忙しい月だったが、今年も後3枚を残すのみとなったと気づいて驚く。時間が速く過ぎ去る実感は年ごとに加速する。
 「少年老いやすく、学成りがたし」「一寸の光陰、軽んずべからず」のことわざが頭をよぎるも、還暦を過ぎれば、「時すでに遅し」の感がしないでもない。が、そこはキリスト者の強みがある。
 気を取り直して聖書に向かう。すると、こんな言葉が目に入った。「口を広く開けよ、私はそれを満たそう」(詩篇81:11)。口ばかりか、目も耳も手足も使い、マインドをオープンにすれば、恵みはあふれるばかりだねと主がおっしゃる声が聞こえた。

2016年9月25日日曜日

キリストの花嫁

 施設で暮らしていた◯さんが天に召された。ご高齢だった。主が最後の時にも共にいてくださった事がわかる、そういう静かな表情だった。
 これまでお訪ねするたびに、若く美しい花嫁姿の◯さんの写真が机にぽつんと立ててあって、彼女の寂しさが伝わって来た。そんな時は、聖餐と讃美と祈りがそこにいるわたし達を満たしてくれたものだ。
 神は見えない、確かめられない。だが、もし私たちの間に慈しみと愛と信頼があれば、そこに神はおられる。人間の愛はあてにならないが、神の愛は完全だ。今ごろ◯さん、あの花嫁姿で天国に入場している頃だろうか。キリストの花嫁として。

2016年9月18日日曜日

神の助けによって

 先週、娘の結婚式があった。
 「あなたは、◯が病気の時にも、健康な時にも、他の者が見捨てるような時にも、夫/妻として守りますか」。この中で「他の者が見捨てるような時にも」という誓いの言葉がスゴイ!
 少し前の話になるが、罪を犯した息子の面会で、ある母親が涙をこらえながら息子に言い切った言葉を思い出す。「でも、私はどんなことがあっても、あなたのお母さんだから」。この時もスゴイと思った。愛は神からのもの。
 新郎新婦は「神の助けによって、約束します。」と答えた。神の助けに支えられて幸せに!

2016年9月11日日曜日

とうとう見つけたぞ!

 羊飼いの囲いから迷い出た一匹の羊も、女が無くした一枚のドラクメ銀貨も、自分がどんなに探されているか気付かない。
 それでも羊の方は生きていて草を食んでいたり、不安になってメイメイ鳴いていたりするかもしれない。
 しかし銀貨の方は、家の片隅でただホコリの中に埋もれてじっとしているばかりである。「親の心子知らず」ということわざがぴったりの主イエスの喩え話だ。
 見つけた方がどれだけ真剣に捜したか。そして見つけた時にどれほど喜んだか。この神の忍耐、愛、喜びを知る時、本当に深い安心感、喜び、信頼、感動が起こってくる。神の大きな喜びは神の忍耐の表裏だ!

2016年9月4日日曜日

秋よ、お出で、お出で!

 9月になった。ギラギラ太陽は変わらずだが、すでに風には秋の気配がただよう。暑かった夏もそろそろ終わりだ。
 さて、この夏もっぱらエコ生活を通したはずだが、返って肥ってしまった。朝食は口当たりのよいシリアルと豆乳、昼食は蕎麦、夕食は素麺を食べて過ごしたからだろうか。そろそろ夏前の生活に戻したいが、実際はまだまだ暑い。なるべく火を使わないエコ炊事の食事はもうしばらく続きそうだ。
 小田原からの帰り道、今日はススキの子が白い穂を風に揺らしていた。「秋よ、お出で、お出で!」と呼んでいるようだ。

2016年8月28日日曜日

きっと地球は報いてくれる

 これ以上暑い日が続くと「エコ生活はもう無理!」と音を上げた頃、台風がやってきた。束の間の涼だ。
 子供の頃、夏はここまで暑くはなかったと記憶する。この異常な暑さも地球温暖化が原因なのか?と戦後人類の環境破壊という罪責感が頭をかすめる。
 地球は過去3億年に渡って、空気中の酸素濃度を21%に保ってきた。酸素がたった1%増えるだけで山火事は消えず、森林は消え去るという。
 地球は生きている。あらゆる生き物がお互いに働き合ってこの均衡を保っている。いま謙遜に、人は地球に生きる命の一つだということを思い巡らす。謙遜に自然を尊べば、きっと地球は報いてくれる。

2016年8月21日日曜日

変わり始めている

 オリンピック、日本選手の応援をしながら、私としては珍しくテレビを見た。選手の一球に、「そこだ!」、「よっしゃ!」と心の中で叫ぶ。もうハラハラドキドキの連続だ。生中継は全く心臓に悪い。
 日本の選手が失敗するのがやるせない。負けるのが気の毒。そこで、結果を知ってのダイジェスト版を見る。窮地に陥っても、ケセラセラと楽しめる。
 なんといってもオリンピックだ、ちょっとナショナリズムに浸ってしまった。しかし、気がついたのだが、今回は柔道でも、陸上でもハーフの選手の活躍がちらほら目についた。こんな風景は米国では普通だった。日本も変わり始めている。いいじゃないか! 

2016年8月14日日曜日

これは私の独り言

 今夏、我が家は暑さと熱い戦いをしている。
 エアコンは使わず、窓という窓、戸という戸は全開、よしずとすだれで日光をさえぎり、庭の緑に水を撒く。冷やしタオルで首を巻き、扇風機の風に吹かれて、うちわで扇ぎ、一息入れる。「ああ、涼しい!」。
 エコ生活を特別に心がけているというわけではないが、猫たちが自由に出入りする我が家では、部屋を閉めきってエアコンを入れるのは難しい。
 玄関先の道を通る人たちが猫たちに声をかけていくのが聞こえる。「可愛いね〜」。この一言で家人は報われるらしい。「エコで行くわよ!」と宣言している。
付き合うしかないな・・・これは私の独り言。

2016年8月7日日曜日

ドッカーン

 「ドッカーン」と心の臓に響く最初の一発が鳴った。
 「あっ、花火が始まった!」と、二階の窓からさっさと屋根に出た家人に続いて私も屋根へ。
 十字架塔の隣に色とりどりの火の花が咲いては消え、消えては咲いている。ここから花火が見えるとは、知らなかった!
 ヒュ〜〜と火の玉が高く上って、いったん闇に消え、次の瞬間、空を覆う大輪の花。そして「ドカーン」と轟音。この4尺玉には胸がすく。
 みんなのためにとばかりに、ドカン、ドカンと打ち上がる。「宵越しの銭は持たぬ」とばかりの潔さがいい。
 ついでだが、聖書の話の「愚かな金持ち」(ルカ12:13ー21)に、みんのための潔さを少し煎じてあげたらどうだろう?

2016年7月31日日曜日

素直な感性

 毎年楽しみに聞いているNHKのラジオ番組『夏休み子ども科学電話相談』が今年も始まった。
 「どうして地球にだけ酸素があるんですか?」といった質問に混じって、「どうして動物は歯を磨かないの?」という5歳児の質問があって、思わず笑ってしまう。
 こんな素朴な質問にも、第一線で活躍している各分野の専門家が身近な経験を通しながら説明している。中には「へぇーぇ!」「そうなんだ!」を連発しながら聞いている子どもがいる。驚いて目を丸くして聞いている様子が想像できて、微笑ましい。
 素直な感性は主のほめられるところだ。この夏、ラジオを通して子どもの感性に養われるのも楽しい。

2016年7月24日日曜日

ある宗教では・・・

 ちょうど米国に滞在していた頃、『ダ・ヴィンチ・コード』という小説がヒットして映画が作られた。イエスはマグダラのマリアと結婚し、子孫がいるというフィクションに全米の真面目クリスチャンが憤った。
 いま思い出しても吹き出してしまうのだが、私たちの教会でも一人のシニアの男性が興奮して言った。「私は、今までトム・ハンクス(主人公役)は大好きだったが、もう、嫌いだ!」。中年の男性がすぐ冷静に言った。「彼は俳優だ。彼は俳優なんですよ!」。
 これと同様のことが起きている。ポケモンGOが配信された。進化するポケモンはある宗教には反するという。私も叫ぶ。「これはゲームだ。遊びなんだ!」と。

2016年7月17日日曜日

留まらず・・・

 明るいニュースがあった。外出先で家族とはぐれ、捜索願の出されていた91歳のおばあさんが、高1の男子生徒の機転と親切によって無事家族のもとに戻った。清々しい笑顔の若者の写真を眺めながら、善行は主の喜ばれるところだと、素直に嬉しい。
 だが、「善きサマリヤ人」の喩え話は、「一日一善」のような話とは根本的に違う。主は律法学者の「自己正当化」に対する答えとして、この話をされた。
 自分を正当化し、気づかぬうちに人を区別し、そういう自分に留まってはいないだろうか?と自問する。有り難いな!この喩えは、自分の中にもある律法主義、原理主義という自己正当化の罪に気づかせてくれる。

2016年7月10日日曜日

ヨナだけではない

 異邦の民、敵国アッシリアの都ニネベに遣わされた預言者ヨナはこの召命を「快し」とせず、逃亡した。
 大魚に飲まれて、救い出されたヨナは回心してニネベに行って預言した。すると、王も民も家畜に至るまでが悔い改めた。ヨナにとってこの結果は意外だった。
 怒って、すねて砂漠の中で座り込むヨナを、主はトウゴマを生やして熱気から守られた。しかし、翌日にはトウゴマは枯れて、ヨナの怒りは頂点に達した。
 主のみ心がわからないのはヨナだけではない。主の憐れみには選民と異邦人の区別はもとより、何の差別もない。主は右も左もわきまえないこの私を愛し、この私が滅びるのを惜しみ、救ってくださった。

2016年7月3日日曜日

さっそく救出!

 信徒さんの問安で訪れた下曽我のあたりは、斜面にも小さな水田があって、田植えの後の稲が青々と育っていた。昔ながらの用水路には水草が茂って、そこをサラサラと涼やかな音をたてて水が流れていた。「なんて快い音なんだ!」子供の頃、こんな小川でメダカを捕ったものだったと足を止めてしばらく眺めた。
 この辺りは里山の風景が未だに残っているが、その実は、ずいぶん変わってしまっているに違いない。メダカはとうの昔に絶滅危惧種だ。ミツバチがいなくなると地球の生態系が変わるという話も聞いたばかり。
 今朝、ちっちゃなもぐらのようなのが廊下でもがいていた。猫が捕ってきたオケラだ。さっそく救出!

2016年6月26日日曜日

その響き実に爽快

 6年ぶりに帰国した末娘を連れて、伊豆のホームに伯母を訪ねた。まもなく100歳になる伯母は40年ほどをアメリカで過ごして、60歳を過ぎて帰国した。
 白髪の頭をしっかり持ち上げて、背筋を伸ばして、真正面をむいて車椅子に座っていた。「ご無沙汰していました。お元気で何よりです。」と声をかけると、「私、何もかもすっかり忘れちゃったのよ。」と言いながら笑顔で迎えてくれた。家族の近況を報告し、今は天の国に憩う人達の名前を挙げて懐かしむ。
 最後に、讃美歌を一緒に歌った。「主、我を愛す」を初め日本語で、次に英語 “Yes, Jesus loves me!”と何度も歌った。“Yes!”とその響きが実に爽快だった。

2016年6月19日日曜日

アドナイエレ

 梅雨に入った。日中は蒸し暑いが夜になると冷えてくる。油断をしてすっかり風邪をひいた。風邪をひくと、思考力も記憶力も鈍る。先日も、ある信徒さんのところへ聖餐をお持ちしたことはいいのだが、肝心のホスチアを忘れてしまった。ちょうど家人が焼いて持参したケーキを小さく切って、聖別する。「主の山に備えあり(アドナイエレ)」だと感謝だった。
 ところが、この風邪が家人にも感染って、家事はストップ。冷蔵庫を開ければ納豆、野菜、トマトジュースがある。「備えあれば憂いなし」だと、胸を撫で下ろす。けれどこれって、きっと人間の備えなんだ。人間の力の及ばないところに主の備えがあるのだから。

2016年6月12日日曜日

Be nice”(ナイスであれ)

 「まあ、緑色の綺麗な目をしている」とは、通りかかった中年夫婦が我が家の黒猫ドッティを見ての会話だ。家の前を通る人に寄って行って愛嬌を振りまいているのだ。そういえば今朝方、老婦人が我が家の灰色猫をしばらく撫でていた。家人によれば、彼らには他にも人間の友達が何人もいるらしい。
 かつてはよその人が玄関に来ただけで、家の奥に逃げ込んでいた臆病者だ。この変わりようには驚く。
 まさかと思うが、牧師館で飼われている猫だという自覚があるのかもしれない。どんなときにも “Be nice”(ナイスであれ)と言い聞かせている家人の言葉通り猫は自覚していたとしたら・・・僕よりスゴイ!

2016年6月5日日曜日

「しつけ」だった

 「人を噛む子は犬と同じだから、犬のところに行きなさい。」と、近所の学童保育所の犬小屋のところに行かせた。長女がまだ2歳の頃だった。
 長女に毛布をもたせると、「ほんとうにナーちゃんを犬にあげちゃうの?」と長男は泣きそう。それなら僕も行くという5歳年上の長男と長女を一緒に犬小屋の前に置いて来たことがあった。「しつけ」だった。
 筋を通さなければという「正しさ」と、親は子どもに負けてはならないという「恐れ」があった。そんな未熟な親だった我が身を振り返り、大和くんのことは人事ではない。ひたすら無事を祈っていた大和くんが戻された。主よ、あなたの憐れみに感謝します!

2016年5月29日日曜日

みんなニコニコ

 教会の姉妹のみかん山に「ピクニック」に行った。「暑からず、寒からず、もし雨が降ってもパラパラ程度に…」と姉妹が祈られたその通りの日になった。
 教会からは11人で繰り出す。車を出して手助けをしてくださった姉妹のお孫さん、みかん山の隣の畑のおばあちゃんも参加され、総勢13人となった。
 山の上はなんて心地いいんだろう!眼下に海を眺め、黄色い蜜柑に囲まれて、賛美の歌を歌い、み言葉に聞く。お昼ごはんは手作りのおにぎりだ。もぎたての甘夏、実生の枇杷を味わいながら、みんなニコニコ。
 外気浴、自然の恵み、友の交わりを満喫。その夜、主は、ここちよい眠りを一人ひとりに下さったに違いない。

2016年5月22日日曜日

多様さと寛容さの群れ

 先週の礼拝に御両親に連れられて赤ちゃんがやって来た。10ヶ月の乳児のもつエネルギーはすごい!なんていいんだろう!ついニコニコしてしまう。もちろん、お年寄りは文句無しにいい!けれども、この小さな赤ん坊の無限のエネルギーは皆を元気にする。
 初めて会う大人の顔を、じっーと、それこそ穴の開くほど見つめる。澄んだ瞳は、わたしの心の底まで見通しているようで思わず恥じ入ってしまうくらいだ。
 図らずも「教会は0歳から百歳過ぎまで、いろんな人が集うのがいい」と誰かが言った。確かに、この多様さと寛容さこそが主イエスの愛される群れ、教会の姿だ。来たれ、子どもよ!今週から「子供食堂」が始まる。

2016年5月15日日曜日

聖霊に導かれて

 新緑の美しい季節となった。緑の枝をさらさらとゆすらせながら気持ちの良い風が吹いている。聖霊は風のように思いのままに吹く。そして、その聖霊に導かれて、突然ひとりの若者が教会にやって来た。
 聖書を読んでいてわからないことがあるから教えて欲しいという。話してみて、彼が聖書を実によく読んでいるのに驚いた。インターネットでキリスト教の動画を見て感銘を受けて以来、聖書を読むようになったという。生活を通して、聖書の言葉を素直に受け止めているのが新鮮だ。わたしの方こそ生きかえる。
 聖霊の風に吹かれて、人は新たに生まれることができると主は言われた。今日、きっと聖霊の風は吹く。

2016年5月8日日曜日

主よ、母をありがとう

 おかあさんは ぼくを 一ばんすき!
 ぼくは おかあさんを 一ばん すき!
 かぜ ふけ びょうびょう 
 あめ ふれ じゃんじゃか
 これはまど・みちおの「おかあさん」という詩だ。お母さんと子どもは相思相愛だ。たとえ嵐が襲ってきても平気。この安心感の中で、子どもは育つ。
 勢いのある詩だ。優しさよりも、むしろ力強さを感じるのはわたしだけだろうか?母の無私の愛、そして子どもの全き信頼は、主イエスの示された「幼子の信仰」を思わせる。相思相愛の母と子の姿は神の国の雛形だ。今日は母の日、「主よ、母をありがとう」。

2016年5月1日日曜日

天を仰いで

 先日、叔母の急用に迫られて鎌倉に行き、叔母の知り合いのTさんを訪ねた。彼は隠れキリシタンの殉教者の地蔵があるから、牧師の私にぜひ見てほしいと言って五所神社の境内に案内してくださった。
 社殿の隅に数体の石仏が並び、その中に他のものとは違う小さな地蔵があった。着物姿、長い髪を背中で束ねた女性だ。膝をついて後ろ手に縛られている。しかし、天を仰ぎ祈っている。その穏やかで平和な表情に惹きつけられた。
 ふと、殉教者聖ステファノが思い浮かんだ。聖霊に満たされて、天を見つめる彼の表情はきっとこの様だったに違いない。古びたキリシタン地蔵に、野の花が優しく捧げられていた。

2016年4月24日日曜日

聖霊に励まされて

 緑が美しい季節になった。周りの山々は濃淡さまざまな緑が浮き立つようだ。だが、熊本を中心に起きている地震はまだ収束の気配がない。
 JELC(日本福音ルーテル教会)もいよいよ動き出した。現地の様子はまだ十分には把握できていないのだが、被災地への支援がスタートする。
 現地のルーテル教会のS牧師、赴任まもなく消防団に入っていると聞いていたが、被災した町のために懸命の復旧活動にあたっている様子をフェイスブックで知った。
 17日も被災地の牧師たちは、集まってきた信徒の方々と礼拝を持ち、祈り合ったそうだ。聖霊に励まされてキリストの教会は共に働く!

2016年4月17日日曜日

主よ、日ごとの糧を与えたまえ

 『イースターコンサート』での献金の総額6万あまりを送ったところ、国連WFP協会の日本事務所から礼状とともに領収書が送られてきた。出演してくださったダ・カーポの皆さんに心から感謝いたします。
 WFPと言うのは飢餓のない世界を目指し最前線で活動する国連の唯一の機関だ。シリア難民の食糧支援、世界中で起きる災害被害に対する緊急食料援助、また毎年2,000万人以上の子どもたちへの学校給食の提供など、身を挺して行われている人道支援の活動だ。
 わたし達は「主の祈り」で、「日ごとの糧」を祈る。それは自分のためばかりか、すべての人の糧なのだ。「主よ、日ごとの糧を、すべての人に与えたまえ」。


2016年4月10日日曜日

ほらね、ここも満開だ

 昨日の激しい風で桜はきっと散ってしまったに違いないと、無残な桜を想像しながら小田原へ向かった。しかしである。海沿いの国道にある桜は、散るどころか満開だった。思いがけず、「きれいだねぇ」と花見をしながらのドライブとなった・・・聖書は何事にも時があるという。神の時でなければ強風ぐらいでは桜は散らないものだと感じ入った。
 時にかなって天父は主イエスを永遠の命に蘇らせた。もう決して後戻りはしない。わたし達は死で終わる人生ではなく、新しい命に誕生するという希望の時を生きている・・・いま、小田原市内の桜並木の下を車はゆっくり通りかかる。「ほらね、ここも満開だ」。

2016年4月3日日曜日

エマオへの道をいく

 今日4月3日は、私達夫婦が湯河原にやって来たその日だ。年齢のいった新米牧師夫婦の二人三脚の日々を、両教会の信徒の皆さんはよく支えてくださった。何より、今日までの3年間の主の導きと恵みに感謝。  
 100メートルを10秒切る最速ランナーは確かに輝かしい。しかし、教会は信徒皆で走るムカデ競争の進みがいい。ズッコケでいい。転んでいい。いずれ神の国というゴールに到達する。だったら皆で楽しいってことのほうが、ずーっといいじゃないか。
 今日、弟子たちの心は、復活の主に出会って暖かく燃えた。主の慈しみと愛に燃やされながら、わたし達も、今まさに主と共に行くエマオへの道にいる!

2016年3月27日日曜日

死んでも君を離さない

 「イエスの復活」を描いたイコンの中に、陰府(よみ)に降ったイエスが人間の祖であるアダムとエバを、死の床から引っ張りだしているフレスコ画がある。十字架の死後、すぐに復活されなかった訳はそれか!と初代正教会の信仰を知って、少なからず衝撃を受けた。
 ところで、年配の方はポール・アンカという歌手のデビュー作『ダイアナ』をご存知だろう。“I love you with all my heart”(心の限りあなたを愛している)“Oh. please stay with me”(ああ、どうか私と一緒にいて欲しい)と原作に繰り返されるが、日本語の意訳が実に利いている。「死んでも君を離さない/地獄の底までついて行く」。これって、まるで死へとくだるイエスじゃないか!

2016年3月20日日曜日

ほくほく

 先日は海の向こうに住む末の娘の誕生日だった。日本の食品をなにか送ってやりたいと、こころばかりのものを送った。
 送って一週間が経ったが、本人からはなにも連絡はない。国際小包の配送状況はインタ−ネット上で追跡できる。見れば「配達完了」となっていた。
 けれども、家人はどうしても娘のことばが聞きたいらしく、メールを出す。「届いた?」。直ぐに返事がきた。「届いたも ほくほく ありがちょ○」。この○は彼女の名前の最初の一文字である。
 二人で思わず笑ってしまった。まったく!末っ子と言うものは幾つになっても親を楽しませてくれる。

2016年3月13日日曜日

泣けて仕方がなかった

 3.11から5年の節目を迎えた。あの日、自分は何をしていたのか思い出した。そう、授業中だった!
 あの頃、私はまだ神学校の学生で、落第が決まったばかりだった。震災の二日後はアメリカにいる家族の元へいく予定だった。ところが、交通機関は混乱をきわめ、とうてい成田へなど行きつけない。諦めて、なんとか二日後のチケットを買い直してアメリカに行った。
 着の身着のままで飛行機に乗ったらしい。家族が、私の身なりを見てびっくりしていた。妻や子どもたちに会って泣ける。地元の教会で礼拝後に頼まれて震災の様子を話したが、泣ける。何を見ても泣けて仕方がなかった。未だ厳しい状況にある方々を覚えて祈る。

2016年3月6日日曜日

わたしを可愛がって

 この二三日、お転婆なミント(猫)がおとなしい。キャットボックスにすっぽり入ったまま出てこない。怪我か?どこか体の具合でも悪いのではないか?あちこち触ってみるが、取り立てて異常はないようだ。
 飼猫であってもこうなのだから、これが我が子であれば「何をか言わんや」である。が、現実には子どもの虐待が繰り返し報道されている。
 子どもを育てることは、言ってみれば親の献身のひとことに尽きる。親は理屈抜きで、子どものために体が動く。あのまぁるい、フラットな顔にちょこっと目鼻のついた、四等身のプニョッとした体つきはどう見ても、「わたしを可愛がって」と言っているではないか!

2016年2月28日日曜日

自動ブレーキ

 こういうとき自動ブレーキがあれば、と思われた方はいないだろうか? 
 先日、ぶっつけたり擦ったりした車を修理に出した。「自動ブレーキが欲しい」と言ったら、「自動車は運転するもの。自動ブレーキなどつけたら、それはもうメカじゃなくなりますよ」というディーラーの言葉。
 運転中の突然死による事故や高齢者の事故は多い。そう言う私も、昨日は赤信号をおおかた見過ごすところだった。見ていても、脳が反応していないのだ!
 自分のへっぽこ運転を顧みないではないが、いや、へっぽこ運転だからこそ、高齢者時代の自動ブレーキを!と声を大にしたい。

2016年2月21日日曜日

レントに相応しいかも知れない

 この冬の我が家の昼食の定番は「雑炊」だ。今日もやけに黒っぽい葉っぱがいっぱい入っているので、どういう野菜なのかと思いながら食べる。「これ、なに?」と聞くと、白菜だという。白菜の一番外側の葉を全部使ったのだそうだ。なるほどアクの苦味がする。
 「戦時中なら、さつま芋の葉を入れていたのよ」とは、家人の弁解だ。玄米にいろんな野菜を入れた塩味だけの健康食だと自慢らしい。暖かいのは冬のごちそうだと言って、居合わせた人にも勧めている。
 水加減次第で人と分かち合うことができる雑炊、なるほどレントに相応しいかも知れない。だが、味の方はというと…まあ、いいか!それ以上は言うまい。

2016年2月14日日曜日

灰の水曜日

 2月10日は「灰の水曜日」、この日から四旬節が始 まった。今年、初めて「灰の式」を行った。「あなたは塵から造られ、塵に帰る」と一人ひとりに告げなが ら、棕櫚の葉を焼いて作った灰で額に十字のしるしを付けた。私も、最後に灰の十字をつけてもらった。
 帰る時、お互いの額に十字の印しがあるのを見て、なんだか嬉しくなった。キリストの十字架の印しを受けるというのはこの時以外にない。「回心して福音を信じなさい」ということが主のみ心だと知る。だから「改心」ではなく、「回心」なんだ。
 塵にすぎないわたし達、十字架の主を頼みに、ひたすら「天の父よ」と近づきたい。

2016年2月7日日曜日

礼拝はまさに

 山の上で、主イエスは弟子たちに一瞬だが天の栄光を見せてくださった。それは主が生涯でただ一度だけ見せてくださったまばゆく光り輝く姿だ。
 礼拝はまさに主の変容の山の頂での出来事だ。主の死と復活を体験した教会は、こうして日曜日のたびに、わたし達を山の頂へと導いてくれている。
 礼拝という頂、ここでわたし達はふもとにいた時には見ることの出来なかった天の栄光を垣間見て、励まされ、キリストの体と血を頂いて、そして下山する。礼拝は天の栄光を垣間見る瞬間だ。
 ペトロのように思いっきり叫びたい。「先生、わたし達がここにいることは素晴らしいことです」と。

2016年1月31日日曜日

幸いなるかな

 「幸福でなくなるということが不幸。不幸でなくなることが幸福」とは一遍上人の教え。現実の思いとして妙に納得できるものの、なんだか虚しさが残る。
 今日、主は「幸いと不幸」を教えられる。すべてを神様に委ねて、生きてゆくことのできるあなたは幸い。そして、今この世のものだけで満足しているあなたは不幸だと。「幸い」とは、神の絶対的な愛で、無条件に私達が愛されていることを知ることだ。
 「幸せの青い鳥」を探して旅をした兄妹は、家に帰ってみて、青い鳥は前から家にいたことに気がつく。 
 それと同じだ。神の愛は宇宙の創めからあなたと共にあった。思い切って主の幸いに身を委ねてはどうか。

2016年1月24日日曜日

「お言葉ですから」

 季節は大寒に入った。木々は春の芽吹きの備えを真冬にしている。自分はこういう準備を滞ることなく、たんたんと出来る人間では決してないが、こういう自然には憧れる。
「 諦めて丸めて捨てた過去の夢 皺を伸ばせばまだ叶うはず」これは『学生百人一首』の今年の一首。 「着々と準備よく」ではなくても、諦めたものにもう一度挑戦するというのはなかなかいい。再挑戦というのもある。再、再挑戦だって構わない。
 今日、主は夜通し漁をして徒労に終わったペテロにもう一度網を下ろせと言われる。「お言葉ですから」と、聖霊は働く。

2016年1月17日日曜日

あったか〜いおしるこで

 身近な人たちが風邪にかかっている。そういう私も2,3日前には風邪のためその日の夕食は食べることが出来ず、そのまま床についた。 
 翌日も朝食から抜いて、その日は一日体に蓄えたもので過ごす。 この日の午後の「癒やしの礼拝」の後で、正月に本物の餅を食べなかったという人たちのために、餅を食べてもらおうと、おしるこを作った。
 「イエス 内なる光 闇にとどまることなく イエ ス あなたの愛を伝えられるように」と歌った。その後のおしるこは格別だった。「イエスさまは本当に優しいんです」って伝えたい。よく伸びるお餅とあったか~いおしるこで。外は寒いが教会は暖か。私は空きっ腹。

2016年1月10日日曜日

あっぱれ校長先生

 朝食の欠食率は2割近くという中学校のニュースが目に止まった。校長自ら生徒に呼びかけ、フードバンクなどから調達した朝食を食べさせているという。
 朝8時前、校長と教頭それに養護教諭たちが林檎の皮を剥いたり、パンを皿に載せたりして、生徒に給仕する。「目の前に食べていない子がいる。この子たちが大人になれば、その習慣が次の世代に引き継がれてしまう」と校長はいう。彼は、「目の前の必要に向き合う」ことが「負の連鎖を断つ」ということになると確信するのだろう。深く共感する。
 新しい年も、主は求める方々を教会へと招かれるに違いない。さあ、私も自ら給仕するものとされて。

2016年1月3日日曜日

このみ言葉で始まる

 元日の朝、祈祷のために礼拝堂を開ける。教会入口にある電柱の足元に、自生してすっかり大きくなった菜の花が、黄色い花をつけていた。鼻を近づけると、蜜の良い香りがする。爽やかな新春の喜びを目と鼻で受け取った。
 新しい年の始め、今年は聖書を通読しようと心に決める。旧約3章と新約1章、毎日通読すれば一年で聖書全巻を読み終える。
 さて、それでは今日からと聖書の冒頭を開く。そうか、新しい年、2016年もこのみ言葉で始まるんだ。「初めに、神は天地を創造された」。菜の花も年頭の志も万物の創造主あってこその、この喜び。