2022年4月24日日曜日

トマスに重ねて

  トマスのように「もし、〜でなければ」という条件づきの信仰は私たちを自由にしない。しかし、トマスがこういったのは、他の11人の弟子たちが復活の主に出会ったのに、自分だけがその場に居合わせなかったからである。トマスのその心はまさしくふくれっ面!

 トマスは、ラザロを甦らせに行こうとする主イエスに従って「わたしたちも行って、主と一緒に死のう」と弟子たちに訴えている。トマスは筆頭格のペテロとは違うが、彼なりに弟子の気概を持っていた。

 ヨハネはそのトマスを4つの場面に登場させて主の重要な言葉を引き出させている。トマスの人なりに思わず自分を重ね、主の優しさをホックリと味わう。



2022年4月17日日曜日

たぐいなき御恵みよ

 「たぐいなき御恵みよ、主は生きていたもう。何故に我が魂は悲しみに沈む・・・」これはイースターの讃美歌の一節だ。主イエスは死んでしまった、もう私達の希望はついえたと、暗い顔をしてエマオへの道を歩いた弟子たちのことが思い浮かぶ。しかし、そんな弟子たちにいつしか復活の主イエスが伴に歩いてくださっていた。後になって、「あの時、確かに私の心は燃えていたではないか!」と気づかされる。

 イースターには緑の若葉が似合う。今朝も、主イエスはひょっとして木陰から私の肩越しに、私を見ていてくださるのではないかと思う。ふと、主の気配を感じて振り向く。一陣の春の風が吹いて私は満たされた。

2022年4月10日日曜日

目をそらさずに

  十字架を負って進まれる主イエスから目が離せない、いやそれどころか釘付けになる。今、この十字架を負う主の姿に、苦しむウクライナの人々が重なる。

 せめて私にできること、それはこうしたことは歴史が繰り返してきた事だと言って目の前の残酷な事実を薄めない事だ。彼らの負う十字架はかつて人々も負ってきた事だと言って、軽いものだと見なさない事だ。今、できること、それはウクライナで起こされている破壊と暴力に目を背けないで、注視し続けることだ。

 誰もが十字架を負っている。十字架のあるところには必ず主キリストの慰めと希望がある。「自分の十字架を負って私に従いなさい」との主の言葉を恵と思う。

2022年4月3日日曜日

立ち返りたい

  四旬節第5週もウクライナの人々の苦難を思う。祈れば祈るほど何かをしなければならないと思う。

 マリアがナルドの香油を主イエスに注ぎ、髪で足を拭ったという話は美しい。この時の1リトラ(326cc)のナルドの香油の値段は300デナリ(労働者の300日分の労賃)ほどと考えられる。常識からみれば驚く話だが、主は惜しみなく献げたマリアの一途な慈善を信と愛のわざと受け止められた。

 祈りが本物であるとき、慈善のわざという実を結ぶことをマリアに教わる。マリアは差し出すことのうちにある深い喜びに浸ったに違いない。この四旬節、マリアのように、主への信仰と愛に立ち返りたい。