2019年4月28日日曜日

いつの間にか

 二人の弟子はすっかり希望を失ってエマオ村への道をトボトボと歩いていた。いつの間にか復活のキリストが彼らに近づき共に歩いている。彼らは少しずつ生気を取り戻し目は輝き始め、心は燃えた。
 人間には心と体とその上に精神という力があると言うのはアウシュビッツ強制収容所から生還した精神科医ヴィクトール・フランクルだ。精神は生まれながら誰にも備わっている空の器のようだという。
 たとえ、私たちの心や体が病んでも精神は病まない。精神が外からの愛の力に与るとき、私たちは生きる意味を見出し、響き合い、他者のために生きる力を得る。日々、復活の主と出会って、心は温かい!

2019年4月21日日曜日

春爛漫のミッションワーク。

 いのちの春にキリストは復活された、ハレルヤ!
 真っ赤なスイートピーが届けられた。ご不自由な身体のため礼拝に与れないないご主人をお世話される奥様からだった。「昨年、教会の庭のスイートピーの種を頂いたので植えたら、こんなに咲きました!」。
 教会の花つながりもイエス様つながりだ。教会に足を運んでくださるなんて、思いがけず嬉しい!
 黄色の菜の花、色とりどりのアネモネとチューリップが咲いている。そして、今年もスイートピーがぐんぐん蔓を伸ばして紫とピンクの花がつき始めた。
 眺めながら人が通る。「いいね、きれいだなー」って。教会の小さな庭は春爛漫のミッションワーク。

2019年4月14日日曜日

臨終の時にも

 あの日、ゴルゴダの丘には三本の十字架が立った。主イエスの左右に、十字架にかけられた二人の罪人。
 そのうちの一人は十字架上で救いに目覚め、パラダイス行を確約された最初の人。犯罪者と言う罪人も当然救われるその人なのだ。カトリック教会ではこの罪人に聖ディスマスという名がつけられ、犯罪者の守護の聖人となっているというから感心してしまう。
 私自身はというと、はたして死の間際に自分の姿をこの罪人に重ねることができるだろうか?「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と乞う信仰を・・・と願う。
 「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」ああ、臨終の時にも主のみ言葉がともにある。

2019年4月7日日曜日

圧倒的な神の業

 今年も桜が満開になった。昨日も小田原からの帰り、桜並木の道を通ったばかりだ。
 あの桜の満開の様子は実に美しい。どうしてあんなに美しいのか!なぜこんなに喜ばしいのか!それはもう、圧倒的に神の業だからだ。
 誰かが満開の桜をつくったわけでも、誰かが咲かせることができるものでもない。しかし、桜は時が来ると「せ〜の!」と一斉に咲く。面白いし不思議だ。
 桜の木が、それぞれ「自分は栄養たっぷりだから早く咲く」とか、「自分は寒さが苦手だから遅れて咲く」などと言うことはないんじゃないかな?大自然が咲かせている。神の業は見事だ!