2021年12月26日日曜日

謙遜な人々の中に

 2021年もコロナ禍に明けコロナ禍に暮れようとしています。様々な課題を持ち越しながらも今年も御子イエスの御降誕をお祝いできたことを感謝します。

 湯河原教会は小さな群れですが、この一年も私たちの生活に見合った、私たちにできる愛の分かち合いをしてきました。今年のクリスマスカードに感謝の言葉が寄せられているのを見つけました。「このクリスマスにイエスを探しあてることができ、イエスを見出す喜びを感じることができたことは幸せです」と。

 クリスマスに馬小屋でうまれたイエスとは謙遜な人々の中に住まわれる神の愛の名だと感じ入りました。年の暮れ、皆様のご健康を祈ります。

2021年12月19日日曜日

クリスマス、行けない代わりに贈ります

  医療機関に長期入院の◯◯兄は、コロナ禍で病院の状況は変わらず、今年のクリスマスも教会に行けないと手紙で知らせてくださった。しかし、代わりにと自作のクリスマスソングが同封されていた。

 「教会で祝った僕らのクリスマスの日 イエス様お誕生おめでとう 今日はみんな仲良く 今日は楽しいパーティー 教会はハッピーな僕らのパラダイス 皆さんありがとう クリスマス クリスマス Oh!」

 彼は教会のクリスマスを懐かしく思い出している。彼のギターに合わせて歌った礼拝。愛餐会で披露した手品はスゴかったなー。主にあって今も教会とつながっているんだ!その彼の気持ちが伝わって温かい。

2021年12月12日日曜日

神の恵みで救われる

  突然、新興宗教の人から電話がかかってきた。「コロナ禍で不安はありませんか。希望について話しましょう」という。私は「それでは、あなたは救われているんですね」というと、「えっ、救い?救いですか?」とびっくりしたような声。福音を語らず、不安をあおって布教するのが新興宗教の常套手段だ。「あなたが救われるようにお祈りしますね」といって電話を終えた。

 私たちは自分の努力で救われるんじゃない、神の恵みで救われるのだ。本来は神の愛がすべてで、待降節はその愛の分かち合いをするそういう喜びのときなのだ。「喜びの主日」はそういう原点に帰ることを忘れないようにしようという時でもある。

2021年12月5日日曜日

主よ、どうぞ私たちの内に来てください!

  来年度、大きな節目を迎えようとしている兄弟教会の小田原教会では、待降節に向けてみなさんが良い備えをしてくださっている。

 20日に〇〇さんが牧師館周りの草刈りをしてくださった。21日にはクリスマスツリーや礼拝堂の飾り付けがされ、28日には屋外に電飾が飾られ、礼拝堂の窓ガラスが拭かれて、椅子カバーもきれいに洗濯された。クリスマスクランツにも週毎にろうそくが灯る。皆さまの一つ一つのご奉仕に感謝いたします。

 日毎に小さな感謝を積み重ねながらこうして喜びに満たされて、祈りながら主をお迎えできる幸いを思う。

   主よ、どうぞ私たちの内に来てください!

2021年11月28日日曜日

祈りが継がれた

 梅北美智子さんは『聖書日課』の教会を覚えて長年にわたって祈りの葉書を出し続けてこられた。その彼女が今年5月5日天に召されたということを知った。

 湯河原教会も祈りの葉書を何度か頂いたことに改めて感謝したい。「高齢のためにとうとうこの働を諦めざるを得なくなりました。心残りですが今回が最後になりました」という葉書を頂いて二年ほどになる・・・。

 葉書一枚を書くのは特別のことではない。が、何年にも渡って毎日力の尽きるまで書くのは平凡ではない。

 今日一枚の祈りの葉書が届いた。梅北さんの祈りが誰かに受け継がれたのだ。待降節、新たな希望を一枚の葉書にも見る。地に平和、み心にかなう人にあれ!


2021年11月21日日曜日

聞こえていなくてもの感謝!

  久しぶりに問安に伺った。いつもZOOMで礼拝に参加されている〇〇兄弟が遠慮がちにおっしゃった。「先生の説教の声が全く聞こえないんです」。このところ他の方からも似たようなことを聞いていたのですぐにZOOMの実験をしてみた。なんと、WiFiマイクが接続されていないなかった!さっそくアダプターを購入。これでもう大丈夫、ご安心ください。

 それにしてもZOOMで礼拝に参加し続けてくださった兄弟姉妹の愛には感謝する。聞こえないのに、礼拝での交わりを大事にしてくださっていたのだ。

 今日、「真理とはなにか?」のピラトの問に、私は「神の愛」だ、「主イエスの慈しみ」だと答えたい。


2021年11月14日日曜日

あったか〜い思い

 兄弟教会の小田原教会では、すっかり伸びてしまった庭木の剪定のために植木屋さんをお願いした。

 植木屋さんは一本一本の木を丁寧に見てまわって言う。「花梨は日光が好きで、前に建物が建つと花は咲いても実はつけられないな〜」。「梅はもう枝に花芽をいっぱいつけているので、今剪定すると来年の花は咲かないねー」。植木屋さんが木の性質に詳しいのはプロなのだからよく分かるが、私がそれ以上に感心させられたのは木たちへのあったか〜い思いを感じるからだ。

 一本一本の木への配慮を聞きながら、なんだか似てると思った。こんな自分なのに、慈しんで心配りしてくださる神の親心が急に身にしみる気がした。

2021年11月7日日曜日

天から始終話しかけてくる

  穏やかな小春日和から始まった11月、青い空に白い綿雲がのんびり浮かぶのを見ていると、不思議にも天国があの空の彼方にあるように思えてならない。

 天国はきっと平和で、穏やかなところだと思い描く一方で、召された方々は喜びに満ちて、生き生きと新しい命に生きているという思いがしてならない。

 昨年召された叔母は、このコロナ禍で未だ納骨も済ませず、箱に入ったまま我が家にいてもらっている。箱の上に叔母の手のぬくもりのする聖書と讃美歌をのっけてテーブルの上にいてもらうのにすっかり慣れた。

 しかし、叔母はこの箱からではなく、天から始終話しかけてくる。「あらあらヒロちゃん、しっかりねー!」。

2021年10月31日日曜日

「けだし・・・」と

  今日は宗教改革日。1517年、今から504年前の10月31日、我らがルター先生はヴィッテンベルク城内にあった教会の門扉に『95ヵ条の提題』を発表した。それが宗教改革のスタートとされている。

 今、『ローマ書講義』を水曜日の会で読んでいる。それは若きルター先生が中世期のドイツ語で講義し、学生たちが筆記したものだ。戦後まもなく日本語にも翻訳されて、今こうして手にしている。ルターが命がけで説いた恩寵義認の500年余の歴史に繋がりたい。

 難解な言葉使いと読めない熟語に閉口するが、だからこそ一つ一つの言葉にいっそう奥行きを感じる。「けだし!」とルター先生の肉声が私たちにも飛んでくる。

2021年10月24日日曜日

わたしを憐れんでください

 「わたしを憐れんでください」と盲人バルティマイがイエスさまに呼びかけているが、これが彼の言い表した信仰だと言うことを今日の聖書は伝えている。

 天空を仰いで見回してみても、雲ひとつ無い澄みわたった青空というものにもし出会うとすれば、このバルティマイの信仰のようだとは言えないだろうか。それくらいバルティマイの主への呼びかけはいさぎよい。

 言ってみれば盲目の彼は主と彼の間をはばむものを前にしても、「イエスさま、私はここにいます!」と主を信じて叫んでいるのだ。

 これ以上の呼びかけは無いと思った。今日も礼拝で「主よ、憐れんでください」とイエスさまに呼びかける。ギリシャ語で「キリエ・エレイソン」と。

2021年10月17日日曜日

偉くなりたかったら

 私たちの思い込みも、こんなものなのだろう。人間らしさが出てしまった今日の弟子たちの会話だ。

 二人の弟子がイエス様に「栄光をお受けになったその暁には私たち二人を一番重要なポジションにしてください」と願う。すると、他の弟子たちが「よくもそんな抜け駆けをして!」と怒りだす。

 私たちにしても同じだが、イエス様は「私こそが」という自意識を否定なさらない。「栄光」が「十字架の死」だと三度言われてもピンとこない弟子たち。

 「偉くなりたかったら、すべての人の僕になりなさい」とイエス様はこの機を捉えて教えてくださった。

人には偉いようには見えない「偉い」があるのだ。

2021年10月10日日曜日

元野良猫の順応力

 先日、飼い猫のメルが足に怪我をして、結局、入院手術となった。翌日、メルの様子を見にゆく。右前足に包帯、首にカラーのメルはケージの奥で横になっていた。痛みが和らいだのか幾分リラックスして見える。

 「メル!」と呼んでも私にはそっけない。すると看護師さんが嬉しそうに言う。「昨日はシャーシャーと怒ってたんですけど、今日は私にスリスリしてくれるんですよ」。そう云われて私はなんだか複雑な気持ち。

 猫に「理屈」は通用しないが、「お前を可愛がっているのはこちらだぞ」と思った。家に戻れば、また感謝と大好きの「スリスリ」が始まるかな?それにしても、人の情を外さない元野良猫の順応力には脱帽!

2021年10月3日日曜日

興味津々

  生後6ヶ月になった孫のビデオがスマホに送られてきた。

 ウーウーとしきりに声を上げながら鏡に向かってハイハイして行く姿。孫は鏡の中の自分に興味津々、突進して頭をゴツン。何度も何度も手を伸ばして触ろうとしている。だが、もちろん触れない。孫にはその姿が鏡に映る自分の虚像だとは理解できないからだ。

 私たち人間は鏡に映して自分の像を見るが、自分の肉眼で自分の実像を見ることは決してない。しかし聖書という鏡は私たちの像も心も映し出してくれる。聖書に映し出されながら自分を知る。日々救われて「あなたは神の子」だと知るのは素晴らしい。

2021年9月26日日曜日

100%と0%

  説教の準備をしていて、ルターの言葉の中に「神の救いは、私たちが何かをするからでなく、それ自らの力によってなっていくものだ」という箇所があったはずだと思った。しかし、それがどこに書かれているか、どうしてもわからない。大先輩のK牧師に電話で教えを請うと先生はすぐ答えてくださった。

 「それは『恵みのみ、信仰のみ、聖書のみ』というルターの信仰を解釈するところから生まれた言葉だ」と教えてくださった。それから先生は、「救いは、神が100%、人間は0(ゼロ)%。けれども、神の御業への応答では人間が100%だ」というふうに教えてくださった。なるほど!すごくよく分かるな。

2021年9月19日日曜日

こんなところに主はおられる

  コロナ禍の続く中では、孫達とは会えないのでインターネット上に送られてくる写真を見て満足する。

 画面の孫たちの様子にニッコリしたり、えーっと驚いたりしながらも、息子や娘の子育てぶりが垣間見える。気になることがあっても、言葉にはしない。

 ところで今日、主は「このような子どもの一人を受け入れよ」と言われる。この場合、子どもは「力のない者、弱い者」の象徴だ。こういう社会的弱者のところに主イエスはおられる。居心地が良くないところ、弱さのあるところで主は私たちを待っておられる。

 自分を誇るのではなく、謙遜な奉仕のこころのあるところに主はおられると知らされた。

2021年9月12日日曜日

虫の音をききながら

  秋の虫の大合奏が牧師館でも聞こえるようになった。夜9時、日中の暑さはどこへやら。ひんやりした空気の中で聞く虫の音はなんとも良い気分である。

 この夏、中東ではもはや気温50℃超えは当り前となったというニューズウイークの記事を読んだ。極端な気温上昇と干ばつ、森林火災。都市はヒートアイランドと化し、水不足、電力不足でエアコンも使えず、難民大量発生の懸念もあるというものだ。

 地球と被造物は単なる「資源」ではない。私たちの共通の家だ。被造物はただ存在するだけで価値がある。ジジジジ、チリチリ、リーンリーン、秋の虫の音をききながら神の被造物への愛を想う。

2021年9月5日日曜日

パラリンピアンから力をもらう

 9月に入った途端、この夏の熱波は去った!目覚めて今朝の涼しさに驚く。ほんとうに感謝だ!

 この夏は今までになくパラリンピックをラジオ観戦した。こちらの方の応援はどれだけ熱くても熱すぎない。印象的なのは、多くのパラリンピアンがメダルを取る事も大事だけれど、自己ベストに挑戦したいと抱負を語っていることだ。自分の限界を超えることに向かって頑張る姿には一種の清々しさを感じる。

 「がんばれー!行けー!行けー!」とマイクに向かって絶叫している解説者の声に、このアスリートたちを支えて生きてきた縁の下の人々の存在を思った。

 「自分の限界に挑戦」か!この言葉に勇気をもらう。

2021年8月29日日曜日

リメンバー・ザ・キューカンバー

  以前、米国のルーテル教会の礼拝での出来事だ。

 牧師が聖壇の前に集まった子どもたちに、貧しい人たちに何ができるだろうかと問いかけた。

 大きな子たちから順番に答えて、最後は4歳のジョシュア:「僕、キューカンバー(胡瓜)をあげる」

牧師:「???どうしてキューカンバーなの?」

ジョシュア:「だって僕、キューカンバー嫌いだから」

 聖堂の大人たちは爆笑した!礼拝が終わって帰る時、“Hiro , Remember the cucumber”(ヒロ、胡瓜のこと、覚えていようね)と、友人は私に向かって笑顔でウインクした。モチのロンで神様はジョシュアのキューカンバーを喜んでくださるに違いない。

2021年8月22日日曜日

献身者を求める祈り

 「私たちの主よ。

あなたは、キリストの体である教会を私たちに与えてくださいました。この恵みに心から感謝いたします。

教会に連なる私たちをキリストの枝として教会の働きのために用いてください。それぞれに与えられた役割を、喜びと感謝をもって担うことができますように必要な力を与えてください。

福音宣教の働きへと召される献身者を起こしてください。また献身の思いを与えられ、牧師を志して神学校で学ぶ神学生を導いてください。そのために神学校で働かれる方々を支え、その働きを祝福してください。

私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。」

2021年8月15日日曜日

聖餐は嬉し

  訪問聖餐を思い出す・・・主に出会えてこんなに嬉しいことはないと涙して聖餐に与った兄弟のこと。ベッドの上で居住まいをただし、聖餐の前に頭を垂れて、まるで幼子のようだった姉妹のこと。聖餐を受けたあと、安心に満たされて召されて行った姉妹のこと・・・。

 主イエスはご自身が命のパンであると宣言された。それは、主イエスだけが、私たちの魂を育み、たとえ人に失望させられても「神に愛されている」と確信させてくれて、困難な時でも愛し、ゆるす力を与え、さらには永遠の命を与えてくださるからだ。

 私は想像する。一信徒として聖餐に与る時には恵みと感謝でいっぱいでニコニコしてしまうだろうな!

2021年8月8日日曜日

これほどわかりやすい地図はない

 友人が世界地図を送ってくれた。A3のコピー用紙4枚に収められた地図に、国名だけが記載されている。

 手紙に、「オリンピック開会式の選手団入場をみながら、自分の知らない国の名前があまりにも多いのに驚いた。これは小学生向けの学習地図だが、世界の国の名前と位置を知るにはこれほどわかりやすい地図はないと思ったので送ります」とあった。

 改めて地図を見る。戦争、政変、民族紛争などの結果だろう、多くの国名の変化に気付かされて驚いた。

 不動の位置を占める大国の間にある小さな国々の名前を追う。ここにどれほど血の犠牲が払われたことか!知ることから始める平和への道があると思った。

2021年8月1日日曜日

蝉、夏の応援歌を歌う

  青空に真っ白な入道雲!熱い太陽に届けとばかり蝉が鳴く。「ジージージジジィー」夏の応援歌のようだ。

 毎夜、蝉は人が知らないうちに羽化するらしい。朝玄関に出てみて、いくつもの蝉の抜け殻を見つける。草や木ばかりか庭石の上、ホースやバケツにまでも。

 先日のこと、履こうとした履物に蝉の抜け殻があって、その隣にまだ孵化したての蝉がじっーとているのを見つけた。その履物をそのまま玄関の外にそっと置いて、別の履物をはいて出かけた。

 しばらくして帰ってみると、蝉はめでたく飛び立ったらしい。私は安心して履物をはいた。繊細な細工物のような抜け殻をあじさいの葉の上にそっと置く。


2021年7月25日日曜日

慌ただしさに忙殺されずに

  オリンピックの開会式をビデオに撮った。最初のところだけ少し見て、あとはビデオで見るつもりだった。ところが、見始めると引き込まれてしまって途中で止めることができずにとうとう終わりまで見てしまった。

 翌朝は予定があった。電話もかかってくるし、人もやってくる。当然気ぜわしくなった。そして思った。慌ただしさに忙殺されない心のときは大事だ。自分のすることだけに捕らわれないでいることで、他者に気づき、他者の痛みや必要としていることに気づける。

 思いやりは静かで穏やかなこころから生まれるように感じる。沈黙の時は大事だ。オリンピックはリオの時のようにビデオで見よう。後からゆっくりと。

2021年7月18日日曜日

まことの羊飼い

 「飼い主 我が主よ 迷う我らを 若草の野辺に導きたまえ・・・我らは主のもの 主に在りて生く」この讃美歌を歌うと詩篇23篇が思い起こされる。 

 真に良い牧者である主イエスは飼い主のない羊の群れのような群衆を目の前にして深く憐れんでいる。この人達はどこへ行けば平安が得られ、どっちに進めば自分らしく生きられるのか分からなくなっている。目的地にまで安全に導いてくれる牧者の存在は大きい!

 そういう私もイエスと言う大牧者に導かれるまでは、迷いに迷った!だが、今はどうにかして隣人を案内したい。「主のもとへどうぞー!草も水もありますよ〜」。

2021年7月11日日曜日

肩をポンと叩いてくれる

  熱海の土砂災害はすぐ近くで起こった。このときの実際の土石流の様子をインターネットで見たが生々しすぎてSFXかと思ったくらいだ。

 湯河原の私たちを気遣って電話がかかってくる。予想せず懐かしい人達と旧交を温めることになった。

 時間の経過とともにこの土石流の原因は山の斜面の盛り土らしいとわかってきた。目的を達成するために人間は頭を最大限に駆使し、計画をめぐらす。

 目的のために只計画するならそこには欲望と頭脳があるだけで神への畏怖はない。いつも横にいて、必要な時に私の肩をポンと叩いて黄色信号を出してくれるイエス様の存在はほんとうに有り難い。



2021年7月4日日曜日

実りを得た!

 主イエスは12人を二人ひと組で、杖一本のほか何も持たせず、「着の身着のまま」で宣教に送り出された。

 この12人のいかにも軽々とした旅姿を思い描いてみた。そして、かつて旅行に出かけた時などの自分のパンパンに詰まったリュックサックを思い出した。

 旅先でのいろんな状況を想定して「これも要るかもしれない」と考えると持っていく物が増える。膨れた荷物を前に再度選び直すということもやっていたなー。

 ところがこの12人は主から「汚れた霊を制する権威」を授けられたほかは無一物同様で送り出されている。物に頼らず、見えない霊的主イエスとの三人四脚を心に頼んで、12人の宣教伝道は実りを得た!

2021年6月27日日曜日

キリストがきっと触れてくださる

  新型コロナワクチンの接種が進む中、私も一回目のワクチン接種を受けた。ワクチンによる集団免疫という可能性までの道のりを思うが希望を持って待つ。

 コロナ禍が何ヶ月も続いて、暗闇が覆っているように感じられる時がある。そんな状況でも夢と思い出と祈りの道のりを歩む中、主キリストと共にいることで主は私たちに新たな旅路を進む力を与えてくださる。

 女性会が古着プロジェクトに取り組んでいる。アフリカのより貧しい人々との分かち合いができるなら、それは主の心を届けることになる。コロナ禍の中で、生活上の困難を抱えて忍耐している全ての人々の心に慈しみの主キリストがきっと触れてくださる。



2021年6月20日日曜日

あの人は、イエス様だったに違いない!

 以前、テネシー州に住み始めた頃、一時帰国する家人を空港まで送った。帰りの夜のドライブ、空港を出たところで一つ道を間違えた。夜の暗がりで周囲の様子が見えなかったからだ。知らない土地の知らない場所!ひたすら眼の前の道を走り続ける。パニックだった。

 やっと見つけたガソリンスタンドで、スイートウオーターへの道を尋ねると、一人の人が、「私のあとについて来て。そちらの方に行くから」と申し出てくれた。

 その人は私の目指す町への分岐点のところまで先導してくれ、交差点で窓から手を振って合図を送ってくれた。感謝と安堵の思いが胸にあふれてきた。今でも思う。あの時のあの人は、イエス様だったに違いない!

2021年6月13日日曜日

「からし種」がいっぱいだ!

  以前、からし種を5,6粒もらったことがある。それは胡麻より遥かに小さかった。撒いてみようと思ってはいたものの、いつの間にか無くしてしまった。「あれはなんとも惜しい事をした!」と今にして思う。

 主は「神の国」をこの吹けば飛ぶような小さなからし種にたとえている。この種はどんなに小さくても種なのだ。種が本物で生きていれば、いつかそれは必ず大きく成長していって、大きな実りがもたらされる。

 たとえみすぼらしく、弱々しく、こんなのでは何にもならないと思われるような現実にも神の国の「種」を見ていくとしたら、私たちの身の回りには「からし種」がいっぱいだ! そしてそれは大きな実りとなる。

2021年6月6日日曜日

脱帽です!

 このコロナ禍の上に健康上の問題もあり、教会に来ることができない方と私はよくメールや電話でお話をする。Qさんは今、孤独である。教会に友達と呼べるような方を求めておられることを知った。

 さっそく、教会のPさんに電話をして「この方の話を聞いてあげて、友達になっていただけないか」と遠慮がちにお願いしてみた。Pさんは、私が思っていたとおり気持ちよく引き受けてくださった。

 が、この後にPさんの言われたことが私の想像を超えていた。「私がQさんの友達になるというより、Qさんの方が私の友達になってくださるのだというふうに思います」。この謙遜な言葉に、私は脱帽した!

2021年5月30日日曜日

主の弟子ニコデモ

  画家カラヴァッジョの傑作「キリスト埋葬」に、ニコデモはキリストの下半身を支える姿で描かれている。中央の重要なボジションで描かれたのは、この絵にニコデモの主の弟子としての姿を描きたいという画家の思いではなかっただろうか。

 キリストが十字架刑で殺された時、ニコデモは側にいてキリスト埋葬に重要な役割を果たした。ここに描かれているニコデモの姿や表情は見る者の心を打つ。

 ニコデモはある夜、主イエスを訪ねた。その時からニコデモの中で何かが変わった。聖霊の風が吹いた。正しさに生きる律法の世界ではなく、神の愛と赦しの世界に生きるよう導かれた。聖霊の風は、今も吹く。

2021年5月23日日曜日

楽しんでいます

  いつもはこちらが手紙を出すと返事をくださる長期入院の方が、今月は先に手紙をくださった。

 いつもは決まって「早く教会に行きたい」とあるのに、今月はちょっと調子が違う。「僕はギターを楽しんでいます。詩も楽しんでいます。筋トレも楽しんでいます…教会の皆様の上に主の平和をお祈りします」。

 入院生活にコロナ禍では不自由の二乗なのに「楽しんでいる」というのはとてもいいなー!この方の中に心のユトリみたいなものができて、私の心がほころぶ。

 私たちの日々の生活の中に、私たちの集いの中に、今も神が、キリストが共にいて、何かをしてくださっている。目に見えないが、それが「聖霊」の働き。

2021年5月16日日曜日

主の昇天を思いつつ

  新型コロナワクチン接種の申込みのため電話をした。 予想通り全くつながらない。二度目はHPから試してみたが、予定とにらみ合わせてまごまごしているうちに予約は埋まってしまった。わずか数分の出来事である。

 いずれ接種は受けられるのだから、予約できる時まで待つとしよう!ワクチン競争曲を聞き流し、名前も知らない小鳥たちのさえずり協奏曲に耳を傾ける。ここはいいなー。鳥たちと彼らの住処である青葉があふれている。

 ちょうどベタニアもこんなだっただろうか?緑豊かなベタニアはマルタとマリアの家、それに香油が注がれたシモンの家がある。懐かしいベタニアから私たちを祝福しながら主が天父のもとへと昇られた出来事を思う。


2021年5月9日日曜日

安心な居場所

  そこは乳幼児を含む家族四人が暮らす住居だ。二つの小さなベッドルームと小さなダイニングキッチン、そしてやはり広くはないリビングルームがある。

 ベッドルームの一つはこの家の主人の仕事部屋となっていて、居住空間には家具や日用品が溢れている。

 今、この家の猫は闘病中でそう長くはないらしい。リビングの窓際に低めでゆったりしたキャットタワーが置かれている。ここでなら病気の猫が安心して体を横たえることができるにちがいない。

 キャットタワーのその脇にベビーベッドが置かれているのを見て、私はハットとした。そして、病気の猫にも子供と同じように居場所があるのに感謝した。

2021年5月2日日曜日

主につながっていよう

 私はぶどうの木のたとえが大好きだ。

 こういう見方が科学的かどうかわからないが、葡萄の木は同じ果物を実らせる木と比べてちょっと違う。

 例えば幹と枝がはっきり区別できる林檎や蜜柑の木に比べ、葡萄の木はどこまでが幹でどこからが枝なのかはっきりしない。「わたしはまことのぶどうの木、あなた方はその枝である」と主が言う時、私達は主イエスと一緒に一つのぶどうの木を形作っているのだ。

 慈愛の父である農夫はせっせと私達を手入れして、実がなるようにと育ててくださっている。育ての父が見守ってくださるこの安心感!このぶどうの木のイメージは私を力づけ、また幸せにしてくれる。

2021年4月25日日曜日

たぐいなきみ恵みよ

  「われ見たり 御子イエスを 緑の木陰に…(教会讃美歌105)」。今の季節、この様子が現実のように迫ってきて、復活の主をふと身近に感じることがある。

 4月は、主の育ったパレスチナ地方も新緑が美しかったのかなぁ。麦は新しい穂が出て、葡萄の葉は柔らかく茂り、いちじく桑は若葉をゆったり広げていただろうか・・・今と重ねてそんな風景が目に浮かぶ。

 「私は生きているよ。ほら、あなたのすぐ近くの緑の木陰をごらん!」と、主の声が聞こえるようだ。

 私達の日々にはいろんな事が起こるが、全ては御国へのプロセスの中にあることだ。今日も良き羊飼いの主は私達を導いてくださる。「さあ、ついておいで!」

2021年4月18日日曜日

復活の主はプラクティカル

  復活の主を見て「亡霊だ!」とうろたえる弟子たちに、主は手と足を見せてくださった。その上「まさしく主だが、これは現実だろうか?」と疑う彼らに、主は焼いた魚まで食べて見せてくださった。

 復活の主は弟子たちにくどくど小言などは言わず、どこまでもあるがままの彼らを受け入れて、「復活の証人」となるようにプラクティカルに教えてくださった。この復活の主に教えられ、励まされて今日も過ごせた。

 一日の終わりに思う。それは主の私達への慈しみのせいばかりではなく、主の証人となるよう期待しているからだ。罪の過去ではなく赦された未来に向かって進めという復活の主が示した有り難い実践なのだ。

2021年4月11日日曜日

復活の主に会える!

  主キリストの復活は何よりも嬉しい。この春の美しい季節に主は復活されたと思うと、小田原への行き来は格別の恵みに感じられる。山々の緑の梢に主はおられ、振り返る私の肩越しにやさしい主の気配を感じる。

 いつの間にか「主の祝福を!」と祝福を送りながら通り過ぎるのが日課となった。まずは石橋付近で、決まって見かけるマスク姿で杖と手押し車のおばあちゃん達。小田原市内に入って、動物病院の前で順番待ちをしている物言えぬ病気の動物達。山王橋付近で必ず出会う障害者の天使君。どういうわけか、祝福を願いながら私の方が元気になってゆくから不思議。

 今日も弱さの中に共におられる復活の主に会える!

2021年4月4日日曜日

小さな自然を通して

  気がつけば、いつの間にか教会の小さな庭に色とりどりの花が肩寄せ合って咲いていた。今日、主キリストの復活を祝うファンファーレがこの庭から響く。小さくてあどけない花の花弁一つ一つから、弾けるようにパンパラパ〜ンと天に突き抜けていく。

 感染者がまた増え始めた。不安になって、心や体を病んでしまう人々もいると思う。

 しかし、神は、小さな自然を通して神のご計画が進んでいることに私の目を向けさせてくれた。このコロナの時、心を合わせ、共同することは何よりも私達を元気にする。今日、イースターを迎えて、何があろうとも、天の父は、私達を愛しておられると確信する。

2021年3月28日日曜日

これが愛

  四旬節最後の主日は枝の主日とも呼ばれ、今日から主の受難の週が始まる。人々はシュロの枝を振りながら「ホサナ、ホサナ!」と歓呼の声で主を迎えた。

 しかし弟子たちはその週の木曜日、最後の晩餐と洗足の後、ゲッセマネで主を裏切って逃げ、主はその夜一人ピラトの前で裁かれる。翌金曜日、主は十字架を背負ってゴルゴダの丘へ。主は十字架につけられる。

 今週は主イエスの「受難・死から復活のいのちへ」という「過越」の三日間を想起して過ごす。「復活のいのち」に向かって、聖木曜日(主の晩餐と洗足)、聖金曜日(主の十字架)を記念する礼拝の恵みに与りたい。

 今年もキリストの十字架は私のためだと知る幸い!

2021年3月21日日曜日

一粒の麦

  麦の収穫は5月頃から始まるそうだ。当時のパレスチナあたりでも、今頃は青々と実った麦の穂が畑一面にすくすく伸びていたと思う。それはイエス様の当時も、みんなが見慣れた美しい風景だったに違いない。

 しかし、実った麦の穂を見て、土の中の種がどうなっているかを想像する人はどれほどいただろうか?仮に、麦を引き抜くとする。そこには、無数の絡み合った多くの根っこを見出すが、もはや、元の種は養分として吸収されて見当たらない。主の十字架は、人類の救いという実りを得るために撒かれた種だった。

 “主はこの私の罪を執りなしてくださった”今日、この慈しみでいっぱいにされ、ただ頭を垂れる。

2021年3月14日日曜日

「ヨハネさんの16」

  今日のこのヨハネ3章16節を、私の父は「ヒロマサ、ヨハネさんの16だ」と覚えやすいように教えてくれた。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

 神にとって、独り子イエスはもちろん大事。そして、ヒロマサも大事。では、どちらか捨てなければならないのならば、神は「イエスを捨てる」というのだ。神は、なにがあろうとも、イエスよりも私の方を愛している。ギョッとする。

 私が、それほどに愛されていること、それを信じることこそが、永遠の命を生きていることなんだ。誰もが神に愛されるために生まれてきたんだ!

2021年3月7日日曜日

永遠不滅の神殿

 宮清めのイエス様の乱暴なふるまいは、神殿への熱い思いが心いっぱいに溢れてきたためだと見えた。

 事実、主は神殿にやって来て形だけの犠牲をささげて罪の赦しを願うという礼拝を否定されたのだった。

 しかしイエス様の本命は十字架だった。主は自ら罪の贖いを引き受けた。もう犠牲の動物はいらない。古い時代は終わった。今や、霊と真だけで神を礼拝する主イエスという永遠不滅の神殿の時代なのだ。復活の主を通じて直通電話のように天の父とつながっている。

 「もしもし、天のお父さんですか」と、何時でも、どこにいても父に語りかけることができる。何でも願いなさいと言ってくださるイエスの御名によって。

2021年2月28日日曜日

日々の祈り

  メソジストの牧師J・H・ジョエットの 『日々の祈り』の中にこんな祈りを見つけた。「わが主よ、つぶやくことなく自分の十字架を負うことを教えてください。(略)重荷を負いつつも常に喜び忍耐することができる秘訣を、どうぞ教えてください。」

 「重荷のない人生はない」とすれば、私を先導してくださるイエス様がおられることに気付くことこそが重荷を負いつつも喜び忍耐する秘訣だと思う。かつて過酷な十字架を背負った主イエスである。主は弱い私をそのまま受け入れ、気遣って助けてくださる。

 主に従う人生はどこか軽やかなのだ!いつか神の国の入り口に着く時、復活の喜びが待っている。

2021年2月20日土曜日

レントを旅する

  主イエスは40日間荒れ野で悪魔の試みを受けて勝利された。私たちも生きている限り誘惑や試みに合わずに生活することはできない。

 「主の祈り」の「試みに合わせず悪より救い出してください」は、むしろ「わたしたちを誘惑や試みに陥らせず…」と受け取るといいと言われている。

 主イエスは荒れ野で天父のみ心を生きようとされた。私たちもまた主イエスのみ心を我が心として生きようとする時、私たちの心は霊の戦いをして苦しむ。

 その時、天父は親心で見守り、愛のはからいをしてくださるに違いない。そう信じると勇気が湧いてくる。

 さあ、今日から私は四旬節(レント)を旅する旅人。


2021年2月14日日曜日

このレント

  先週、「忘れないうちに作っておかなくては」と、乾燥しておいた棕櫚の葉を鉄鍋で焼いて灰を作った。

 今週の「灰の水曜日」から四旬節(レント)が始まる。「灰作り」は、このレントの季節をよく生きて、そして喜びの復活祭を迎えようとの私の思いでもある。

 生まれつき全盲のピアニスト辻井伸行さんの言葉を聞いた。「ショパンが僕の近くに居るように感じて、色んなことを語りかけてくれて、僕を見守ってくれていて、また更に、僕に作品をずっと弾き続けていって欲しいと言っているような気がします」。

 福音伝道の初心に帰って思わず涙が出そうになった。このレント、イエス様を身近に感じて過ごしたい。

2021年2月7日日曜日

会える!

  先週、アイオワ州オレンジシティから一通の手紙が届いた。それは友人キャルの訃報の知らせだった。

 おおかた40年近く前のこと、教員だった私は妻と3歳になったばかりの長男を連れて渡米し、1年半滞在した。その時、キャルとベブ夫妻には言葉では言い尽くせないほどのお世話になった。

 イエス様つながりの彼らとの思い出の数々は、どれほど年月が経っていようが、何時思い出しても私たちの心を温かにする。

 一人になったベブに電話をすると、「とても寂しい。でも大丈夫!」と言う。「会いに行きたいけれど・・・」と私が言うと、「天国で必ず会えるわ」と確信の返事。天国から微笑むキャルの顔が浮かんだ。会える!

2021年1月31日日曜日

味噌汁、最高だー!

  今日は1月最後の日、2021年ももう一ヶ月が過ぎた。緊急事態宣言が出されて3週間あまり、非日常がだんだん日常になってきたことへの違和感も薄れてきた。朝の検温、マスクに手指の消毒、三密を避けての集会や懇談など、非日常の生活が定着した。

 ところで、この一年余り、私的会食や私的外食は皆無となって「お家ごはん」の毎日となっている。だから、負担なく作れる食事がなによりだ。この冬はもっぱら根菜に葉物をどっさり入れた味噌汁が我が家の中心メニュー。簡単に作れて、美味しくて、栄養もありそうで、あったか〜くなれる。毎日の主婦の働きに感謝を持って言う。味噌汁、最高だー!

2021年1月24日日曜日

今日も会えたね!

  湯河原から小田原への途中の道で、いつものおばあちゃん達が…という私も傍から見ればどう見たっておじいちゃんなんだろうけれど…二人共マスク姿で一人は杖をつき、もう一人は手押し車で海から上ってきた太陽の陽だまりの中に腰掛けて話し込んでいる。

 厳寒の季節だが日差しは長くなり、外の景色は明るくなった。そんな朝、二人の和やかな雰囲気が伝わってきて、通り過ぎる私の気持ちまで快活にされた。そこだけが周囲に比べていっそう明るさに包まれている。 

 こんなに寒くて、コロナ禍の中なのに、あの二人は今日も元気で会えたんだ!良かったなぁ〜。なんだか尊く感じられて、お二人の上に主の祝福を祈った。

2021年1月17日日曜日

求め続ける

  再び緊急事態宣言の中ではあるが、私たちの主イエスの栄光は2000前と少しも変わらず輝き続けている。

 洗礼者ヨハネは主イエスとのすれ違いざまに自分の二人弟子たちに「ご覧、神の子羊」と言った。二人の弟子はイエスのあとについて行く。するとイエスは「何が欲しいのか?」と聞かれた。しかし、彼らは尋ねた。「どこにおられるのですか?」一見、問と答えになっていないが、この方に繋がっていきたいというのが答えだ。午後四時のこととはっきり聖書に時間が記してある。よほど印象深い出会いだったに違いない。

 コロナ禍の波に飲まれそうにな私たち。主は私たちとのつながりを求め続ける。

2021年1月10日日曜日

温かい飲み物でホッとしたい

  冬でも温暖な湯河原なのに、寒の入りのこの二三日は特別に寒い。なんだか温かい飲み物でホッとしたい。

 台所でインスタントのカフェオーレの箱を見つけた。それには「今だけ和みのことば入り」と書いてある。中にあるスティックの一つ一つに言葉が書かれている。「なにごとにもほどほどが一番」「キミは世界一やさしいひと。」「常にポジティブなんてつかれちゃうし。」などなど。今だけの企画らしいが、このコロナ禍の時期ちょっとでも和ませたいという思いやりかな…?

 飲みながら、僕だって作れるさ!と思った。「イエス様の言葉に温まって!」「イエス様は世界一優しい人」「イエス様と一緒だから疲れちゃっても大丈夫」。

2021年1月3日日曜日

エピファニー(顕現)の光

 「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り主の栄光はあなたの上に輝く。」(イザヤ書60:1)

 元旦、久しぶりに家族みんなで集まって正月を祝った。コロナ禍で無くても正月に家族が皆で集まるなどということが皆無な我が家では、むしろオンラインでなら皆で集まれると早々に決まった。

 画面上の家族の話に耳を傾け、家族の顔を眺めて過ごした貴重な時間。ああ、心を満たしてくれた。恵みだと感謝した!たったこれだけのことで元気になる。

 たとえ世界がCovid-19によって閉ざされ、闇にいるように感じても、はっきりと暗闇に光が昇ることが私たちに約束されている。顕現の光は、私たちを照らす。