キリスト者にとって新年はすでに始まっていますが、この一年の最後の主日にあたって、お互いに感謝し合いたいです。
私たちは、もちろん完全ではありませんから、問題もあったでしょうし、身体も、心も限界を抱えていて、迷惑をかけ合ったり、ちょっと冷たかったりしたこともあったんじゃぁないかなぁ。
しかし、この一年、主キリストが、この湯河原教会を守り、導いてくださった。これは事実です。
そして、私たちのうちに聖霊が働いて、お互いに支え合い、祈り合って、今日を迎えているのも事実です。一年の終わりに、お互いに感謝し合いたいと思います。
2018年12月30日日曜日
2018年12月23日日曜日
光が広がっていく
冬至に向かう日々、宵闇が次第に早くなっていって、闇の広がりを肌で感じる。しかし、そんな1年の最後の時期に、わたしたちはクリスマスを祝う。
冬至を境にクリスマスの後は一日一日と光が広がっていく。クリスマスの日にちを決めた古代教会の人々は、こういう神がお造りになった自然の摂理をよく見定めたに違いない。
「人間を照らす光」として、神のひとり子イエスさまがわたしたちの内に来られた。この光はこれから一日一日と広がっていく。
ようこそ、暗闇を照らす真の光!おめでとうクリスマス!心からクリスマスをお祝いします。
冬至を境にクリスマスの後は一日一日と光が広がっていく。クリスマスの日にちを決めた古代教会の人々は、こういう神がお造りになった自然の摂理をよく見定めたに違いない。
「人間を照らす光」として、神のひとり子イエスさまがわたしたちの内に来られた。この光はこれから一日一日と広がっていく。
ようこそ、暗闇を照らす真の光!おめでとうクリスマス!心からクリスマスをお祝いします。
2018年12月16日日曜日
恵みを数えられたらいいなぁ
晴天の今朝、目の前に雪の富士山が突如現れた。小田原の巡礼街道のけやき並木が落葉したからだ。
目に前の木々の葉が無くなって初めて、ああ、富士山はここから見えていたんだと気づいた。日常のこういう経験は、神様の恵みへの気づきにも通じている。
日々の生活の中に、恵みを数えられたらいいなぁ。
「今年ももう終わるね。この一年、何をしてどう過ごしてきたんだろう?クリスマスがもう来るね。良いクリスマスが迎えられるといいな。争いは終わるよ、私たちが願いさえすれば・・・」。
ジョンレノンとヨーコの「ハッピークリスマス」がしきりに思い浮かぶアドベントの3週だ。
目に前の木々の葉が無くなって初めて、ああ、富士山はここから見えていたんだと気づいた。日常のこういう経験は、神様の恵みへの気づきにも通じている。
日々の生活の中に、恵みを数えられたらいいなぁ。
「今年ももう終わるね。この一年、何をしてどう過ごしてきたんだろう?クリスマスがもう来るね。良いクリスマスが迎えられるといいな。争いは終わるよ、私たちが願いさえすれば・・・」。
ジョンレノンとヨーコの「ハッピークリスマス」がしきりに思い浮かぶアドベントの3週だ。
2018年12月9日日曜日
主の三様の到来
待降節第2週、クリスマスはもう目の前に。待降節はただ単にクリスマスの準備をする季節ではないと思う。「イエスが来られる」ことの意味を味わう時だ。
「2000年前に来られたイエス」「世の終わりに再び来られるイエス」そして、日々の暮らしで最も大切な「今、私達の生活の中に来てくださるイエス」だ。
ヨハネは今日、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と言う。「主の道」とはただ主が来られる道ではなく、私達が主とともに歩んでいく道でもあるはず。
ひれ伏して思わず叫ぶ。「主よ、私の中の曲がった道をまっすぐに、凸凹道を平らにしてください!」。
「2000年前に来られたイエス」「世の終わりに再び来られるイエス」そして、日々の暮らしで最も大切な「今、私達の生活の中に来てくださるイエス」だ。
ヨハネは今日、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と言う。「主の道」とはただ主が来られる道ではなく、私達が主とともに歩んでいく道でもあるはず。
ひれ伏して思わず叫ぶ。「主よ、私の中の曲がった道をまっすぐに、凸凹道を平らにしてください!」。
2018年12月2日日曜日
愛猫ティティー
猫のティティーが死んだ。まだ4歳半の短い生涯を可愛がられて走り抜けた。動物は罪を犯さないのでそのままで天国に迎えられる。だから葬儀も供養も要らない。
ティティーは4年前の夏、お隣の庭で鳴いていた子猫だ。私は捕まえようと塀から落っこちて頭を何針か縫う怪我をしたあのときの子猫だ。魚が大好きで、よく魚を買ってきては食べさせた。腫瘍ができて入院手術。一時回復したが最近は殆ど食べられなかった。
縁あって、ある寺で火葬をお願いした。初めて本堂に入った。私達はルーテル教会だと名乗って御坊さんとしばし懇談する。伽羅の香りの中、私達はティティーを本堂で見送った。主も共にいてくださった。
ティティーは4年前の夏、お隣の庭で鳴いていた子猫だ。私は捕まえようと塀から落っこちて頭を何針か縫う怪我をしたあのときの子猫だ。魚が大好きで、よく魚を買ってきては食べさせた。腫瘍ができて入院手術。一時回復したが最近は殆ど食べられなかった。
縁あって、ある寺で火葬をお願いした。初めて本堂に入った。私達はルーテル教会だと名乗って御坊さんとしばし懇談する。伽羅の香りの中、私達はティティーを本堂で見送った。主も共にいてくださった。
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