2014年12月28日日曜日

神の愛の「しるし」

 アドベントから始まる怒涛の一ヶ月が終わった。今月お訪ね出来なかった方々を問安する。寂しさをお察しする。それに礼拝の恵みや教会家族の交わりに与れない方たちだ。魂が窒息寸前の方もおられた。
 静かにお話を伺う。感謝をして一緒に祈る。神の像にかたどって造られて、神の息を吹き込まれた私たち人間は、神から愛されているという目に見える「しるし」がなくては生きてはゆけない。
 同じように、忙しさでやり過ごしたものに、庭の水仙もある。しかし、こちらはいつの間にか白い花弁の真中に黄色い冠をつけて、すまし顔で咲いている。もう春の香りさえただよう。

2014年12月21日日曜日

クリスマスがいっぱい

 海の向こうからクリスマスのプレゼントが届いた。家人が箱を開けてニコニコしている。「これで、クリスマスケーキが焼ける」と言って、いそいそと台所に立っていく。子供から届いた荷物の中身は牧師の妻となった母への応援物資であった。
 今週、クリスマスカードが次々に送られてくる。教会の兄弟姉妹や友人たち、子供たちからのカードに囲まれて、クリスマスの喜びはだんだん深まってゆく。
 恵みの分かち合いをしたいと、焼いたケーキをまずはご近所の一人暮らしの方へ届ける。甘い菓子は人を 幸せにすると聞いた。玄関先で祈らせてもらい、ささやかなクリスマスの喜びと恵みをお届けする。

2014年12月14日日曜日

もう目を回してなんかいられない

 アドベント・クランツにロウソクの火が三本灯る。 あと一週間でクリスマスだ。この時期は教会も牧師も 一番忙しい時である。いや、牧師の目はすでにもう一 ヶ月前からぐるぐる回っている。
 クリスマスまでにやらなければならない準備を一つ一つチェックしてみる。終わったことを数えてホッ として、また次の準備にとりかかる。
 一昨日、クリス マスの案内状に「ご一緒にクリスマスの恵に与ること ができれば、こんなに嬉しい事はありません。ぜひクリスマスは教会に足をお運びください。」と書く。
 さて今日からの一週間、牧師は正念場を迎える。もう目を回してなんかいられない。

2014年12月7日日曜日

ひだまりで

 小田原にいく途中、西湘バイパスの入口付近に、おばあさんが二人話し込んでいるのをよく見かけた。
 北側がカーブした土手になっていて、陽だまりにな るその場所は暖かいのだろう。一人は買い物用の手お し車に腰掛けて。もう一人は杖をついて。
 話しているその様子がいかにも楽しげに見える。な にを話しているんだろう?しかし、お互いに家に呼ぶのは家族に気兼ねなのだろうかと思ったりもする。
 このところすっかり寒くなった。今日も運転しなが らおばあさんたちの姿を探すがいない。今ごろどちらかの家でこたつに入って、談笑しておられるといいなぁと、祈りながらそこを通り過ぎた。

2014年11月30日日曜日

今日からアドベント

 「ハイテンションのアップテンポ」と家人が呆れていたが、これがこのところ三つの葬儀が続いた私の二週間ばかりの状態である。やっと日常にもどってみれば、11月の最期の日はもうアドベントだ。
 大慌てでアドベントの準備にかかった。昨年はアドベント・クランツを飾る緑の枝がほしいと言われて、ご近所に柊の枝を貰いに行った。牧師館の猫の額ほどの庭に、枝ぶりの悪い大きな木があると思っていたが、それが樅の木だとは全然気づかなかったからだ。
 この樅の木、クリスマスツリーになる夢からは程遠いが、丈夫な緑の枝葉はクランツのろうそくを引き立てて案外いいではないか!さあ、今日からアドベント。

2014年11月23日日曜日

甘いのも酸っぱいのも

 蜜柑がだいだいに色づいて、深緑の葉によく似合う。まあるい実が晩秋の日差しの中で、ぬくぬく暖かそうなのを眺めながら、実を結ぶ木というのは実にいいと思う。が、甘味と酸味は陽射しによって違うらしい。
 「わたしは葡萄の木、あなたがたはその枝である。」と、イエス様はパレスチナでは身近な葡萄の木を喩えに用いられた。もしも、これが湯河原であったなら、蜜柑の木を喩えに使われたのかもしれない。
 この一週間に三人の兄弟姉妹が天に召された。その歩みを振り返りつつ、主イエスという木に繋がった枝の結んだ実を思った。イエス様はその実すべてを慈しんで下さるにちがいない。甘いのも酸っぱいのも。

2014年11月16日日曜日

Sちゃんに目をみはる

 Sちゃんが初めてお母さんに抱っこされてやって来たのは、今年の春だった。生後6ヶ月になったばかりの落ち着いた円満な赤ちゃんだった。
 そして11月、お誕生を迎えたSちゃんは積み木で遊ぶようになった。麦茶を飲み、ウエハースを食べ、帰る時には小さな手でバイバイをしてくれた。すっかり成長した。今を充分に生活して、心と体が満たされて、初めて次の年齢へと移行できる。この幼児期特有の成長の道筋を「連続的発達」というのだそうだ。
 ところで、幼児に限らず大人もまた心身の必要を満たされる事によって成長できるのではないか。隣人の必要も満たしながら「連続的発達」というのはいい。

2014年11月9日日曜日

ローレンの選択

 末期癌で余命半年と宣告された28歳の米国人女性が、安楽死を認める州で、夫に見守られ安らかに息を引き取ったとのニュースに、その是非はともかく、自死した友人のことを思い出し心が塞いだ。
 ところがその翌日、脳腫瘍で余命半年と診断された19歳の米国の女子学生ローレン・ヒルのことが報道された。夢だった大学のバスケットボールの試合に出場したという。
 シュートを決めた瞬間の彼女の笑顔は雲ひとつない秋晴れの空のようだ。自分のためにやっているのではない。私に生きる力を与えてくれる皆のためにやっているという彼女の言葉に深く頷く。支えあって最後まで生き抜こうとする彼女に心からエールを送る。



2014年11月2日日曜日

クリックしてみたら

 もっぱら仕事で向かうインターネットだが、昨日(30日)からグーグルのポータルサイトが楽しい。
 カラスが鳴くとカカシの頭からお化けが出てくる画面を見て、ハローウィーンだと思い出した。
 しばらくして、再びサイトを開くと新しいのにかわっていた。月が出るとグーグルの文字の二番目のoが狼男に変身する。残りの4文字G,g,l,eはびっくり仰天!その仕草がひょうきんで思わず吹き出した。
 夜中にもう一度サイトを見てみる。また新しいのに変わっている。魔女が洞窟で大ガメを前に何やら不思議な薬を作っていた。束の間のハローウィーンを楽しみながら牧師の10月がこうして暮れてゆく。

2014年10月26日日曜日

風に吹かれて

 巡礼街道沿いにあるけやき並木の紅葉はまだまだなのに、教会の前の歩道にはいつしか落ち葉の吹き溜まりができるようになった。
 落ち葉をはいていると、どこかのおばあさんが向こうからニコニコしながら歩いてきた。「ご苦労さんですね。掃いても、掃いてもまた風さんがあとから落ち葉を運んでくるからねぇ〜」とねぎらってくれる。
 確かに昨日は風雨が強かった。落ち葉だけでない、外壁に貼ってあった特別礼拝案内もすっかり吹き飛ばされていた。そよ風から、台風の風まで、目に見えない風の存在を私たちはこうして知る。見えない聖霊に導かれて、今日また礼拝案内を貼り直す。

2014年10月19日日曜日

なんだか楽しいな

 このところ気持ちのよい秋晴れの日が続く。湯河原から小田原への車の運転は気分を一新させてくれる。
遠く広く、水平線までの眺めが、時折目に飛び込んできて、それは豊かで平和な一瞬だ。
 曲がりくねった海岸線の国道を運転しているのに、助手席の人はときどき対向車を指さしながら、「あっ、ベンツ!」とか、「アウディ!」とか賑やかだ。だが、ハンドルを握っている身としては、じっと見る訳にはいかない。ところが週末ともなると、すれ違って通り過ぎる車に思わず目が行ってしまうことがある。
 おお、フェラーリだ!ポルシェも!しばらくして、ランボルギーニも通り過ぎる。なんだか楽しいな。

2014年10月12日日曜日

自由の賜物

 我が家の居間にはLED照明がある。この照明が今回ノーベル物理学賞を受賞した青色の発光ダイオードの発明による派生品の一つだったとは知らなかった!
 昨年の暮に買い替えたばかりのLED照明を改めて眺めた。こんな身近に世紀の発明品があったとなると、ノーベル賞が身近に感じられるから面白い。
 最年長の博士がインタビューに答えていた。「40年間も研究し続けられたのは、自由にやらせてもらったからだ」と。これを聞いて「なるほど」と思った。
 発明も発見も自由な精神の賜物だ。創世記は神が人間に命の息と自由を与えたことを伝えている。自由の賜物、ノーベル賞の受賞に気持ちがふくらむ。

2014年10月5日日曜日

これはいい

 ドーナツ座布団を買った。ドーナツ座布団と聞けば、だれでも想像がつく「トホホ」の病のためのものである。いよいよ私もご厄介になることにした。
 しかし、これがなかなかの優れものであると知った。固さといい、バランスといい長く座っていても尻が痛くなるということはない。おまけに、この座布団の厚みで、机でパソコン作業をするのに丁度いい高さになった。おかげで、左手のしびれも楽になった。
 イイコトづく目のドーナツ座布団、さて、座って仕事に取り掛かろうすると、何やらとぐろを巻いているものがいる。我が家の猫が私のドーナツにスッポリとおさまって、実に具合良さそうに寝入っていた

2014年9月28日日曜日

せめて、これくらいはしたい

 この月曜日に一ヶ月ぶりに都内に出かけたが、小田急線の車窓からの眺めがすっかり秋になっていた。
 私には89歳の叔母の他に、もう一人97歳の伯母がいる。今は伊豆にあるホームで暮らしている。米国で30年余年を過ごした伯母は生涯独身だった。
 その伯母に、毎月一回アメリカから送られてくる年金の手続きのために都心に出かけてゆく。忙しいのと距離があるため、伯母を訪ねることはめったにない。
 心のうちで不孝を詫びながら、せめて、これくらいはしたいと、今日も月に四度の休みの一回を伯母のために使う。
 暑さは過ぎた。初秋はきっと伯母にも優しかろう。

2014年9月21日日曜日

ここを見て下さい

 木曜日の朝、『聖書に親しむ会』の看板を出した。しばらくして高齢の夫婦が教会の前を通って行く。看板を見ながらの話し声が聞こえてきた。
  「へー、『お茶とお喋りのくつろいだ時』だって。わたしらお茶もお喋りも、いつもしているよね~」。そう聞いて、思わず吹き出した。
 しかしである、私としては、その上の一行を読んで欲しかった。『聖書に親しむ会』の一行を。
 お茶とお喋りは付け足しである。つまり、お茶とお喋りがあったほうが気軽かな?と思ったに過ぎない。だが、これは考えものかもしれない。
 さて、今度は『聖書に親しむ会』とストレートに大書してみるか。

2014年9月14日日曜日

山盛りのイサキ

 昨日のこと、地元で捕れた新鮮なイサキを格安の値段で買って帰った。皿にひと盛りのイサキ。家に帰って数えてみると小さいが18尾入っていた。
 ひと手間かけて鱗を取り、腹わたを出して塩をせずにグリルで焼く。さすがにイサキは高級魚だけあって、小さくても味のよさはなかなかのものだ。
 丁度、夕飯を差し入れてくださったHさんに、失礼を顧みず、焼いたイサキを何尾か持ち帰って頂いた。それから今か今かと待っていた我が家の猫達にもお頭つきを一尾ずつ。
 海の幸を人も動物もみんなで惜しげも無くわかちあえる豊かさも、たまにはいいものではないか!

2014年9月7日日曜日

一歩、また一歩

 8月半ばにいただいてきた「夏すみれ」ことトレニアが20日間を超えてもなお咲き続けている。
 蕾をすべて咲かせきったばかりでなく、切り取った茎からは、糸のような根まで生え始めた。実に力づけられる。
 このところ心を病む方から電話をいただくことが日常になっている。今朝も不安げな電話が来た。
 「家族は出かけて一人。その後「人が怖くて外出できない」。しばらくして「勇気を出して外出したい。祈ってほしい」。またしばらくして、「外出できた。いま駅にいる。これから帰る。再びしばらくして「無事家についた。ありがとう」。最後はすっかり弾んだ声だった。
 草花と主に支えられつつこの方の声に耳を傾けた。

2014年8月31日日曜日

心から尊敬する

 盲導犬が全盲の飼い主と一緒に職場に向かう途中で刺されたというニュースに衝撃を受けた。フォークのような鋭利な刃物で腰のあたりを2,3箇所、その傷の深さは3センチに達していたという。この卑劣な行為に胸塞がれる思いがした。
 学生の頃、山手線に飛び乗ったら目の前に盲導犬がいたことがある。その毅然としてあまりにも気高い姿に僕は一瞬気後れして、そして感動した。
 「刺されても、鳴き声一つ上げなかったオスカー君、君は耐えて、赦したのだろうか。心から尊敬するよ!」
 僕は十字を切る。天の父の前に卑劣漢が悔い改め、救いへと導かれるようにと切に祈る。  

2014年8月24日日曜日

ガッツいっぱい

 先週この欄に書いた青と紫色の高山植物であるが、この花を下さったAさんにお聞きしたところ、実はインド原産のトレニアと言う一年草だと分かった。
 あの時、頂いた後で4人の方々を問安した。ハンカチに包んであったが、家に戻ってみると、すっかり萎れてしまっていた。
 ああ、かわいそうなことをしたと、冷たい水をかけてコップにさした。すると2、3時間で葉はピンとなり、小さな花は生き返った。
 今日でもう一週間余り経ったのに、次々と新しい蕾が膨らんでは花が咲いている。コップの中でも、暑くても、ガッツいっぱいの生命力で咲いている







2014年8月17日日曜日

高原の涼を送ってくれる

 午後から問安に出かけた。気温は29度。猛暑の候であればそう高いとはいえない。しかし、ときおりザーッと降る雨に、湿度は90%となっていた。
 気温を湿度との関係で表す体感温度というのがあるが、これを表す数式というのは、実はものすごく科学的、かつ複雑である。便利な体感温度表によると、今日の体感温度は39度ということになる。なるほど今日は過ごしにくいわけだと納得する。
 問安に伺ったお宅の庭から、紫色の花を付けた小さな高山植物を頂いた。帰って直ぐにガラスのコップに挿す。この花、すっかり名前を忘れたが、今日の蒸し暑さに爽やかな高原の涼を送ってくれている。


2014年8月10日日曜日

今日はまるで天国


 この休み、一人暮らしをしている叔母を半年ぶりに訪ねた。この24日で89歳になる。
 着いてそうそう、叔母を近くのお蕎麦屋さんにお昼ごはんに連れ出した。車で行けば店まではほんの数分ほどの距離である。叔母を乗せて車をスタートすると、「ああ、嬉しい。今日はまるで天国だわ!」と、弾んだ声が後部座席から聞こえてきた。
 なんの変哲もない毎日を過ごしている叔母にとって、今日はささやかな変化ある一日だと知った。
 「じゃあ、今日は誕生日のお祝いね」と言って、美味しそうに食べる叔母を、日頃の親不孝ならぬ叔母不幸を許してもらいながら、感謝の思いで眺めた。

2014年8月3日日曜日

りゅうじを真似て言ってみる


 いよいよ今週は休暇だ。一回きりだが説教の準備もない。そう思うだけでほっとする。しばしの休みだ。
 夏空に入道雲、花火に夏祭り、西瓜に蝉の声・・・全く意味を成さないただの夏の単語の羅列だが、休みを目の前にすればすべてが輝いている。
 こういう時そこ「かまきりりゅうじ」(工藤直子著 詩集『のはらうた』)のセリフほどしっくりくるものはない。
 「おう なつだぜ/おれは げんきだぜ/あまり ちかよるな/おれの こころも かまも/どきどきするほど ひかってるぜ」
 私も片腕を太陽にかざして、かまきりりゅうじを真似て言ってみる。「おう 夏だぜ 暑いぜ 俺は頑張るぜ! 」

2014年7月27日日曜日

こうまで流行るのは


 いつも行くスーパーマーケットで流れていたBGMが変わっているのに気がついた。ありの〜ままの〜自分でいいの〜。アニメ映画『アナと雪の女王』と主題歌『ありのままで(Let it go)』が大ヒット中だ。だがこの好評ぶりは海外メディアには驚きだという。
 こうまで流行るのは、よほど自分というものを押さえて生きている人が多いのだろうと思ってしまう。
 『ありのままで』『Let it go』の歌詞を比べると、そこに英詩にはない日本社会の独特さが考慮されていて、それがピッタリくるもとだと思えてきた。
 私などには、「ありのまま」というのは創造の姿のままがいいと歌っていると感じられるのだが・・・。



2014年7月20日日曜日

うん、あれはなかなか良かったな


 さて、わたしの頭の怪我であるが一週間が経って抜糸してもらえた。教会の皆さんにもすっかり心配をおかけした。
 うっとうしい絆創膏は頭から消えたものの、最初のクッションの入った手のひらサイズの絆創膏はちょっと気に入っていた。
 それは、一見ユダヤ教徒が頭のてっぺんにちょこんと乗せるあのまあるい帽子を思わせた。「神の前では頭を低く恭順の意を表す」という意味のキッパ(Kipper)のようだった。私もユダヤ教の礼拝に参加させてもらうためにキッパをつけたことがある。
うん、あの絆創膏、あれはなかなか良かったな。

2014年7月13日日曜日

初めてのご挨拶



 迷ってきた仔猫を捕まえようとお隣とのブロック塀によじ登った途端、バランスを崩して後ろ向きに倒れた。エアコンの室外機に頭頂部をブッツケて見事に切れた。
 しかし、この室外機がなければ、まともにコンクリートの地面にたたきつけられていたに違いない。
 一瞬の出来事なのに、倒れながら「おれも歳を取ったものだ」と思ったから人間の感覚とは不思議だ。
 ちょうど居合わせた娘が、「パパが大変、ママ、タオル持ってきて!」と叫びながら、小高いブロック塀の上をつたって忍者みたいにやって来た。
 幸いお隣はY外科医院である。引っ越して来て以来初めてのご挨拶をかねて、8cmの傷を縫って頂いた。


2014年7月6日日曜日

神にゆだねて


 教会の掲示板に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのところに来なさい。わたしが休ませてあげよう」(マタイ11:28)と書いて貼り出した。
 掲示を出してから4日目、聖書研究会に飛び入り参加者があった。クリスチャンだというホームレス風のNさん。彼は聖書の場面を即興で演じたり、立て板に水のような聖書解説をするので、一同舌をまいた。
 ところでそのNさん、住基カードのある某市に戻り、生活保護を申請し、仕事を得たいと祈った。首をかしげる節もなくはないが、その祈りを聞いて、援助を申し出た。彼は金額にガックリした様子だったが、この先を神に委ねてと送り出した。

2014年6月29日日曜日

遠慮のない仲

 すっかり大人になった息子が帰ってきて、家の中の空気が和んでいる。
 どこの家でも夫婦の意見が違うというのはままあることで、我が家も例外ではない。
 一対一だと互いに言い張ってせり上がる。余裕の無いときはなおさらだ。「あなたの方がおかしいわよ」「いや、そういうことじゃないね」と、つい声が大きくなる。
 しかし、このところよく話を聞いてくれる仲裁役の息子がいる。話を聞いてもらえば治まることもあると、牧師たるもの、当然解っているはずだが、遠慮がない仲ではどうしても言いたい事が先に立つ。自戒を込めて思う。傾聴するところに神はおられる。

2014年6月22日日曜日

膨らむ笑顔を抑えきれない

 息子から、京都に来ているからと突然電話がかかってきた。「おとっつぁん、ちょっと聞きたいんだけれどね、教会でお香、炊く?」「?、いやー、うちの教会ではお香はたかないね」と応じる。 
 すると、「おっかさんは、お香が欲しいかな?」と再び聞いてくる。「じゃ、『おっかさん』に代わるから」と笑いながら妻に受話器を渡す。 
 妻は「おっかさんなんて言わないで。マミーと言いなさいなさい!」と言いながら、もう大変な笑顔だ。 
 久しぶりの息子の電話に妻も私ももうバカみたいに膨らむ笑顔を抑えきれない。二年ぶりだろうか、息子が帰国した。お香を母に贈ろうという。

2014年6月15日日曜日

紫オーラ

 6月も中旬となった。からりとした青空はとうぶん望めそうにもない。梅雨の曇天を見上げて恨めしい気がするのは私ばかりではない。外出もままならないとか、洗濯物が乾かないとか、こう毎日雨ばかりでは気が滅入る方もおられよう。
 しかし、牧師館の庭の紫陽花は雨の中で青に紫にひときわ輝いている。「きれいですね」と紫陽花を褒めながら通って行く人がいる。「どうぞ、よろしかったらお持ち下さい」と家人が応えている。
  確かにオーラを放ちながら、紫陽花は日毎にその色を変えてゆく。しばらくはこの色の変化を楽しむとしようか。梅雨もさほど悪くはないかな。

2014年6月8日日曜日

実に得意げ

 先週のあの病気の猫のことだが、注射の効果で涙目は止まった。だが、鼻詰まりは変わらずで、食べないし飲まない。このままではいずれ死んでしまう。
 そんな心配をしていた日曜日、礼拝と懇談を終えて帰ろうとしたその時、老婦人がやって来た。飼い猫が金曜から帰って来ず、この辺りを探しているという。
 特徴を聞けば、我が家に連れ帰ったあの猫に違いない。持病をもった仔猫が捨てられているのを可哀想に思い、ご夫婦で世話してすでに6年だという。手作りの決まった餌しか食べないと知った。
 すぐに、猫を届けた。猫のミーちゃんは家の中を実に得意気に歩きまわった。祈りは聞かれた。万々歳である。

2014年6月1日日曜日

病気の猫もやってくる


 先日小田原教会の信仰入門講座で集まっていた時のこと、ズィー、グジーと変な音がしてきた。一匹の迷い猫が窓の外にいて、その奇妙な音は詰まった鼻で懸命に息をするたびに出るとわかった。病気なのだ。水と餌をやろうとしたが逃げてしまった。
 三日の後、帰ろうと車を出しかけたその時、あの猫がやはり苦しげな音をたてながら現れた。今日は近づいても逃げない。小田原教会の庭に病気の猫が救いを求めてやって来たのだと思った
 抱きかかえて獣医に直行した。ひどい風邪だという。注射とノミの薬を処置してもらって連れ帰った。
 どうぞ、この小さな生命をもお救いくださいと祈る。

2014年5月25日日曜日

可愛いね

 このところ連日のようにインターネットニュースで「動物の赤ちゃん誕生」の記事を楽しんでいる。
 今日はイノシシの赤ちゃんが紹介されていた。「濃い茶と薄い茶のしま模様で、瓜(うり)に似ていることから『うり坊』と呼ばれる。つぶらな瞳で母親に寄り添う姿はかわいらしさ満点。一日中畜舎にいても見飽きない」とある。他にも、ごまあざらしの赤ちゃんがひなたぼっこをしているし、母親のお腹の袋から顔を出すカンガルーの赤ちゃんがいる。また、母鳥の後を泳いでいるカルガモの雛たちはロバート・マクロスキーの絵本『かもさんおとおり』そのものだ。
 今日も「可愛いね」を連発しながら心が和んでいく。

2014年5月18日日曜日

ああ、おばさん

 先週の月曜日、叔母を迎えに行き牧師館に一泊してもらった。叔母はわたしを育ててくれた母のような人である。
 今年89歳になる叔母はひどい難聴であるが、補聴器に助けられて伊豆で一人暮らしをしている。先週は何度電話をしても電話にでない。結局、ご近所や教会の牧師に連絡をとって、やっと無事が確認できた。
 周囲の大騒動にもかかわらず、会えば叔母はおさな子のように事も無げで涼しい顔をしていた。
 夕食後、久しぶりに叔母の入れた緑茶を飲んだ。ぬるめのお湯でゆっくり入れたお茶は実にうまい。この味は昔と少しも変わらない。ほっと人心地がついた。

2014年5月11日日曜日

お預かりします!

 新宿駅前で、「福島のペット・シェルターで世話されている犬ちゃん、猫ちゃんたちに援助をお願いします・・・」と、学生風の青年たちが訴えていた。
 このような募金活動のなかには、わずかでも協力したいと感じられる訴えがある。その一方で親団体のはっきりしないものもある。(このグループはどうだろうか?)と思いながら足早に通り過ぎかけた。
 その時だ。「・・・自分も参加してきて、・・・」と聞こえた。足を止め、信じてみようと引き返した。
 募金すると、「お預かりします!」と、歯切れのよい掛け値なしの返事が返ってきた。都会の喧騒のなかに、ボランティアの清々しさが響きわたった。

2014年5月4日日曜日

たのしい夢

  出張先に連絡が入った。女性会の皆さんが教会堂の片付けしをしたところ、昔のバザーで売れ残ったバイオリンを見つけたという。なんと未発見のストラディバリウスかもしれないという話である。
 「もし、本物だったら、一億円はするよ!」「それなら、新しい会堂が建つね!」などなど、その場は大いに盛り上がったそうだ。
 という訳で、帰ってくるなりバイオリンを見に教会堂へ連れて行かれた。オッ、ラベルにはストラディバリウス・クレメンス!だが、まてよ、ラベルの端に小さく・・・メイド・イン・チェコスロバキア。
 みなさん、楽しい夢をありがとう。会堂の片付け、ほんとうにありがとう!




 
 
 

2014年4月27日日曜日

こんなときにも神頼み

 早天礼拝から戻ってくると、珍しく飼い猫のジェイの姿が見えなかった。夜になって雨も降り始めた。
 普段なら、大慌てで帰ってくるはずだが、近所を呼び歩いても気配がない。尋常ではないと不安がよぎった。妻はもっと遠くまで探しに出ようと身支度をした。
 わたしは自分の願と引き換えに、ジェイを無事に戻して下さいと祈った。そして、ドアを開けた途端、濡れ鼠のジェイが飛び込んできた。
 「ジェイ、よく帰ってきたね!」ジェイを抱き上げた。不覚にも、鼻がムズムズした。妻は耳がちぎれても、尻尾が折れても、生きてジェイを戻して下さいと祈ったそうだ。
 いつくしみの主に感謝!

2014年4月20日日曜日

フリー・ギフト


 今や、クリスマス・セールは世界の各地で風物詩なのに、イースター(復活祭)・セールというのは、まるで聞いたことがない。
 ユダヤの『過越しの祭』の期間中に、イエス・キリストが処刑されたことを聖書はつげている。だが受苦と十字架の死の後に、キリストは復活された。それを思えば、キリストの復活を祝うイースターが世俗化しないのは、むしろ当然である。
 主の十字架と復活によって死は打ち破られた。キリスト者は復活の信仰と希望を生きる。信仰は教えではない。ましてや義務でもない。信仰は、天の父が私たちにくださった無償の贈り物だ。喜びだ。

2014年4月13日日曜日

「今日もまた、サンキュ−・ジーザス」

 ある人のメールの最後に「今日もまた、サンキュ−・ジーザス」とあった。「今日も、また」という言葉に新鮮さを感じた。
 この人は自分を甘やかさず、夢を追い続けている。忍耐も努力も要る。きっと毎日が挑戦と感謝との繰り返しに違いない。翻って牧者の自分は、伝道の日々を、今日もまた感謝と言えているかと自問する。
 この日曜日から受難週が始まる。主イエスの十字架のおかげで、私(たち)は、今、救われている。
 この喜びを、まっすぐに伝えよう。これが私の夢、私の挑戦、私の感謝。その日その日の恵みに生かされて、「今日もまた、主に感謝!」

2014年4月6日日曜日

信徒魂


 思い出すが、2013年4月3日、昨年のこの日、私達夫婦はここ湯河原駅に降り立ち、小雨の中を牧師館へ向かった。
 それから引越しトラックが着き荷物が降ろされた。すると、祈祷会だからと引っ張りだされた。祈祷会?その日は水曜日だった。
 ここでは引っ越し荷物をほどくいと間もなく、まず祈祷会をするのですか?と内心驚いたものだ。
 しかしこの祈祷会、牧師が病気の時にも出張の時にも信徒の方々によって休むことなく続けられている。
 神によって集められた小さな群れは「礼拝」と「聖研・祈祷会」という教会の両輪をはずさない。この信徒魂に感じ入り、また誇りに思う一年後の今日である。

2014年3月30日日曜日

おかげさまで

 牧会の御用にと、信徒の方が車を貸して下さった。「おかげさまで」この一年間、湯河原と小田原の往復と、病院や施設におられる信徒の方々の訪問ができた。
 壮年で始めた不慣れな運転である。運転技術が未熟で、道を知らないへっぽこ運転者をこの車は一身に引き受けてくれた。バンパーに擦り傷が増えた。だが、「おかげさまで」安全にこの一年を走れた。
 そして、先週最後の運転が終わって、この先は廃車と決まった。最後まで、黙々と、本当によく主の御用をはたしてくれた。心からありがとう。
  主イエスのおかげをはじめ、私たちは、あれもこれも沢山の「おかげさまで」に囲まれている。



これも、天の父の「おかげさまで」。

一週間で、アネモネからチューリップへと教会の前庭はさまがわり。




教会の掲示板のところには水仙が咲いています。



2014年3月23日日曜日

ほころぶ顔、顔、顔

 3月11日、仙台教会で行われた東日本大震災記念礼拝に出席し、湯河原教会がみかんなどを送って支援を続けている石巻市のファミリーホームを訪ねた。
 ここでは、震災の影響を受けた3人の子どもが親を離れて暮らしている。この日の午前中に、彼らはホームのスタッフに伴われて、身を切るような寒さの中、身じろぎもせずに、慰霊祭に参加したという。
 夕食前のわずかな時間に、Mさん、K君、H君と語り合った。親元ならば我儘の一つも言うのだろうにと 思いながら、別れる前に一人ひとり両肩をぐっと掴んで祝福した。すると子供たちの表情がほころんだ。子を思う天の父の祝福に触れて安心がふくらんだ。





教会の小さな庭には、アネモネが満開!

 


イエス様が愛された野の花。(マタイによる福音書6: 29)













2014年3月16日日曜日

おお、誘惑

創世記2:15-17・3:1-7  
ローマの信徒への手紙3:21-31
マタイによる福音書4:1-11

 エデンの園で人は神の祝福に包まれていた。そこでは、神と人とは愛の関係にあり、否定というものが介在しなかったという。しかし、蛇に象徴される悪魔の誘惑によって、人は神を否定し、神との直接的な愛の関係は絶たれたと、創世記は失楽園を伝える。
 悪魔は、常に私たちを神から引き離そうとする。だから私たちは、常に誘惑にさらされている。栄誉、お金、権力と誘惑は巧みで限りない。だから、天の父よ、試みにあわせず、悪より救いだしたまえと祈る。
 私たちを真に満たしてくださるのは、主イエスのみである。荒野で、十字架上で悪魔の試みに勝利してくださったその主の愛によってのみである。

2014年3月9日日曜日

イエスさまぁー、やってきました!

 あの日、山に登られた主イエスは、弟子たちにご自身の神の国での本当の姿を一瞬だけ見せてくだった。
 実は、私たちの身の回りには、あの神の国を見るような輝きが満ち満ちているのではないだろうか。
だから、詩人は手のひらを太陽にすかしながら、「オケラだって、ミミズだって、アメンボウだって」と、その命のまばゆさを歌うのだろう。しかし、日常に追われている私たちはこのまばゆさに気づかない。
 その日には、私たち自身があの輝きの中に迎えられる。「イエスさまぁー、やってきました!」と主イエスと共に手を取り合う。主の変容は、私たちにそんな希望を与えてくれる。

2014年3月2日日曜日

もちろん、 自分でもない

 以前第一位になったサラリーマン川柳に「『ご飯 よ』と呼ばれて行けばタマだった」というのがあり、 我が家も同じと思わずにが笑した。 
  人間の主人となるものとして、主イエスは「神」と 「富」の二つを挙げられた。そして、人は、神と富の 二人の主人に兼ね仕える事はできない。どちらか一方 にだけ仕えるものだと明言されている。 
 ある学者が「富」とは、人間の欲望を叶えるための モノだという。自分の欲求を叶えるモノを主人にした時、人はモノの奴隷となる。「我が家の主人はキリス トなり」である。猫でもない。富でもない。「もちろん、 自分でもない」と心のなかで声がした。
(マタイ6・24から)

2014年2月23日日曜日

からし種メッセージ(マタイ5・38-48)

 主イエスは、右の頬を打たれたら、左の頬を差し出し、一里を強いるものと共に二里を行くようにと言われるのだが、それは道理に合わないと主張をするのが人間である。私達は自分の正しさを主張するが、人間の正しさなどは常に相対的であって絶対的ではない。
 天の父は悪人と呼ばれる人にも善人と呼ばれる人にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださっている。だから私達は誰もが神の前に罪人(悪人)であることを悟る時、もはや仲間か敵かと区別すること自体が意味をなさなくなるのである。
 私達は神の前に等しく罪人であり、主イエスの十字架によって赦された者同士に違いない。

2014年2月16日日曜日

思いは早くも復活祭

 先週、太平洋沿岸の広い地域に雪が降った。所によっては45年ぶりの積雪だったそうだ。この湯河原の海岸付近でも、家の屋根や樹々の枝にこんもりと雪が積もった。ちょうど、わたの布団を被ったようで見ていて楽しい。暖かそうに見えるから不思議だ。
 立春を過ぎてから雪が降るというのは珍しくないが、この時期、黄河流域で生まれた春が三寒四温で近づいてくる。そろそろ春の日差しが恋しい。
 カレンダーを見ながら思いは早くも復活祭だ。3月9日に始まる四旬節までおよそ後一ヶ月と数え、その後、受難週を過ごして、復活祭を迎える。今年のイースター、4月20日に大きな○印をつける。

2014年2月9日日曜日

黄金の道

 熱海朝祷会に出席するため、湯河原を朝7時に出発する車に同乗さていただいた。
 東の海に見える島々を眺めながら海岸線を走る。丁度、昇ったばかりの太陽が光の粒を波間にキラキラ反射させながらしだいに水平線から離れていくところだ。
見ると、見事な黄金の道がこちらに向かって一直線に延びているではないか!
 この道路のすぐ上のホームにおられるTさんは、毎朝この黄金の道を眺めるという。頂いた手紙には「イエス様に従って、神の国へ行く黄金の道なんだと…私は勝手に思って祈ります」とあった。Tさん、この黄金の道を見て、私も思わず祈りたくなりました。

2014年2月2日日曜日

忘れまい

 朝起きて使う水の冷たさに思わず身震いする。大寒の今日、さもありなんだと思う。有り難いことは、この寒さに反比例するように日差しが着実に長くなってきたことだ。天気さえ良ければ、窓ぎわはぽかぽかと春の暖かさだ。
 この時期、特に気温と日照時間との関係にやけに公平さを感じるのは私ばかりではないだろう。この大自然のサイクルも神の創造の御手による。神は、この神の恵みである地球のすべてを人に託された。所有者ではなく、よき管理人としてであることを忘れまい。
 東京都都知事選が告示された。原発の継続か脱却かが争点とも言われる。真摯な関心を持って見守る。

2014年1月26日日曜日

人間の選びとはまったくちがう

 主イエスは、正統派の人々からさげすまれた土地であったガリラヤの漁師たちを最初の弟子とされた。人間的に見れば、世界宣教の担い手が、貧しく、無学であるのはおよそふさわしいこととは言えないだろう。
 しかし、主イエスはこのふさわしくない者を選ぶのである。神の選びは人間の選びとはまったくちがう。
 ふさわしくない私たちが召命によって集められたのが教会である。ある説教者がこう言っている「この私だって全くふさわしくないのに選ばれて、神がなおも用いてくださっている」そういう謙虚さを持ってお互いに受け入れ合わなければ、召命だけで成り立っている教会の世界は立ちゆかなくなる。」

2014年1月19日日曜日

確かに力が湧いてきた

 さきごろ、浜松の小学校で児童1,000人を越えるノロウイルスの集団感染が伝えられた。「ノロウイルスの集団感染・・・さぞ大変だろう」と思う。
 そういう私も昨年、あろうことか、クリスマス直前に牡蠣の生食によってノロウイルスにかかった当の本人である。クリスマスには受洗式も予定されていた。
 折しも教会は聖書研究・祈祷会の日で、早速、私のために信徒祈祷会がもたれた。床に突っ伏しながら、不思議なことに自分の体に友の祈りがビンビンと響いてきた。祈りに治癒力があるかどうか分からないが、確かに力が湧いてきた。昨年の教会の主題「祈り」の締めくくりにふさわしい。今更ながらにありがたい。

2014年1月12日日曜日

主も新しいスタートを切られた

 今週5日から寒に入った。これからしばらくは一年中で一番寒い季節が続く。今日はこの冬一番の寒さだという。小田原への道中、丹沢の山々は雪の薄化粧で新春にふさわしく麗々しい。
 しかし、ここ湯河原の冬は今まで住んでいた東京の寒さに比べると、格段の暖かさだ。牧師館の小さな庭には水仙が満開。妻が切り花にして、ガラスのコップに挿して食卓テーブルに置いた。
 水仙の良い香りもまた新たな出発への力をみなぎらせてくれる。1月12日は主イエスの洗礼日である。公生涯に臨まれるにあたり、主も新しいスタートを切られた。人類の救いに至るスタートである。

2014年1月5日日曜日

詩篇の喜びと希望を胸に

 2014年、新しい年を迎えた。新しい年の抱負やチャレンジが頭をよぎる。しかし、人の計画は、得てして「独り善がり」になりがちなもの。
 昨年を振り返って、自分では気が進まないことの中に、むしろ神の愛の計画があったと知らされる。御言葉に聞き、人の話に耳を傾けることの中にこそ、恵みが隠されていた。「主のみ心にかないますように」。そして「主よ、お用い下さい」と、祈る。
 「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡りくれば実を結び 葉も萎れることがない」この詩篇の喜びと希望を胸に、新年をスタートしよう。