2022年12月25日日曜日

友からのクリスマス・カード

  クリスマスに旧来の友からクリスマスカードが届いた。

 何歳になっても友達は良いものだが、お互いに子育てが終わって、夫婦ふたりになってからはなおさらに良い。リタイアして仕事や子育ての責任を終えた今、高齢になった親や孫の世話をしながら家事を楽しんでいるという。教会の奉仕にもゆとりがにじみ出ている。毎日の生活の一つ一つがこんなに楽しいものだと初めて味わったと書いてあり、カードの隅っこには、「今年は暖かくなったらそちらに行きます。」とあった。

 ここ何年も会うことのなかった友達との再開を心待ちにする。私のこころのうちを照らしてくれた友からのクリスマスカード、壁にピンで留める。

2022年12月18日日曜日

アドヴェントのロウソク

 アドヴェントの第4週を迎えた。「希望」、「平和」、「喜び」、「愛」を表す4本のロウソクに火が灯る。

 わたしが子どもだったころ、雷などで停電する事が度々あった。そんなときは、懐中電灯というのもあるにはあったがたいていロウソクが活躍した。

 暗闇の中で電灯がつくのを待ちながら、ぼーっと明るく周りを照らすロウソクの周りに集まってどこか神秘的で温かい光を見つめていたことを覚えている。

 冬至に近づくこの季節、日はますます短くなってゆく。電気のなかったその昔、アドヴェントのロウソクの光はそのまま人々の心に「暗闇を照らす光」として感じられたに違いない。


2022年12月11日日曜日

みんなでするって、楽しい!

  待降節の第1週は「待望」から始まって、第2週の「準備」、そして今週は第3週の「喜び」だ。

 だから今週、教会に集った教会家族で何かを一緒にできたらいいなーと思う。

 今までも時々、礼拝後にみんなで草抜きをしたりした事がある。つい最近は礼拝堂の前の歩道の落ち葉掃きをした。その後で、お汁粉を食べた。そして思った。みんなでするって、ホントに楽しい!

 火曜日は小田原教会の牧師館の跡地整備の予定だ。みんなで働いて、お昼にはカレーを食べよう。きっと幸いな時となる。たとえ小さくても神の国での喜びを味わおう。世間の喜びとはひと味もふた味も違うはず。


2022年12月4日日曜日

マイ プレジャー(My pleasure.)

 アドヴェント第2週を迎え、一日一日クリスマスが近づいてくる。会堂の椅子カバーも洗濯され、庭も清掃され、クリスマスの飾り付けもすっかりできた。

 アドヴェント・クランツにろうそくが灯されるのを見ながら願う。昨年までとは何か少し違うクリスマスを迎えたい。つまり、新しい気付きが与えられて、クリスマスへの思いが深められることを願う。

 世界にいる助けを必要とする見知らぬ誰かや、日常生活の中で出会う隣人への奉仕は喜びだと知りたい。そして、奉仕をしたなら、「これは私の喜び」“マイ プレジャー”と言おう。2000年前のクリスマスの夜、主イエスはそんな喜びの中に生まれたのだから。

2022年11月27日日曜日

目を覚ましていなさい

  先日、国会中継を聞いていたら、これからの高齢化社会は健康寿命、経済寿命、生きがい寿命の3つの寿命について課題を抱えると言っていた。

 人生百年時代、確かにこのうちのどれ一つ失っても暗闇に生きることになる。不安は尽きない。果たしてこれらのことを回避できるか?かなり困難な気がする。

 主は「目を覚ましていなさい」と言われる。「助けを必要としている人に手を差し伸べること」「愛を持って生きること」の中に、キリストにある希望、恵み、喜びがあると言われる。それを忘れてしまえばそれこそ、暗闇の中に沈み込んでしまう。隣人への愛に目を覚ましていられますようにとアドヴェントの初めに願う。


2022年11月20日日曜日

三本の十字架

  小田原教会の十字架は珍しいと思うが三本の十字架が組み合わされて一組の十字架になっている。

 主イエスが十字架につけられたときに、主の右と左に二人の犯罪人が十字架につけられた。確かにあの時、ゴルゴタの丘には、三本の十字架が立てられていたのだ。この三本の十字架を見れば、十字架刑を受けている三人の情景がはっきり見えてくる。(ルカ23:32以下)

 右の犯罪人は「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、わたしを思い出してください」と願う。

 彼の願いどおり、主は「今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束された。三本の十字架を仰ぐとき、真っ先に天国入りを果たしたこの右の犯罪人がまぶしい。

2022年11月13日日曜日

対面は何かが違う

 月曜日は牧師の休日である。少し前に、今度の月曜日に来たいと長女が連絡してきた。孫たちを連れてくるのかと思えば、自分一人だという。 

 長女は夫と4歳と1歳の子供のいる家庭の主婦であり、またフルタイムで仕事をしている社会人でもある。

日々、忙しく過ごしている彼女が有給休暇を私の休みに合わせて取ったのだという。私たちが娘と水入らずに過ごしたのは、15年ぶりのことだと思いだした。

 長女の話を聞きながら、お昼ご飯を食べる。孫の話、夫の話、仕事の話・・・たったの2時間を一緒に過ごすために往復6時間かけて来た。LINEで始終話しているようなのだがやはり生はいい!対面は何かが違う。

2022年11月6日日曜日

天も地も、元気に楽しくやろうじゃないか!

 全聖徒の主日を迎えた。昨年の全聖徒主日から今日までのこの一年間に、お二人の兄弟姉妹が天に迎えられた。今年も90名余りの写真を聖壇に飾って、お一人お一人との懐かしかった日々を思い出す。

 私たちの教会は一人の兄弟と一人の姉妹を天へと送り出し、ちょっと寂しくなった。けれども天国では、お二人を増して、賑やかになったに違いない。

 天の国ではイエス様みずからホストとなって、食卓を整え、ぶどう酒を盃に溢れさせてくださる・・・そんな豊かな、楽しげな宴の有様が脳裏に浮かぶ。

 地上にいる私たちも天国の宴に触発されて、大いに隣人を喜ばせて、元気に楽しくやろうじゃないか! 

2022年10月30日日曜日

「ザアカイ!」と歌うと

 米国で過ごしたとき、長男が通っていたサンデースクールではよく「ザアカイの歌」に振りをつけて歌っていた。言わば、子どもたちのお気に入りの歌だ。

 「ザアカイは本当にちっちゃな人だ。ザアカイは木に登る。イエスはやって来て、「ザアカイ、下りて来なさい。今日あなたの家に泊まります」。全く聖書の通りの歌だけれど、子ども達が「ザカイ!」と指さしながら歌うと不思議なことにこの場面がいきいきしてくる。

 「あなたの中に素晴らしいものがある、あなたにはよいことをする力がある」とイエスはザカイを見つめた。そういう眼差しに出会ったとき、人はきっと本当に新たに生きる力を与えられる。 

2022年10月23日日曜日

ちょっと粋がってもいい

  私も若かった頃は、「好玉必打だ!いい球が来れば、必ず打つ」と、そんなふうにけっこう粋がって、やっていたと思う。

 自分は頑張っているし、やればできると、自分の力で生きているような感覚になっていた。たとえ謙遜でなくても、それが「若さ」ということだ。だから、若いころはちょっと粋がって、自分の力だけで頑張っているような気になって、たくさん失敗を重ねていい。

 そういう日々があればこそ、自分の限界を知り、人間の弱さを知って、神の愛に目覚めていく。人生には、そういう若いときも必要だ。この鼻持ちならないパリサイ人も救いに招かれている。(ルカ18:9〜14)

2022年10月16日日曜日

主キリストは人を自由にする

  某宗教団体に「解散命令」の要請をだすよう連日国会で審議されている。マインドコントロールによって人を不安にし、恐怖をあおって束縛する。「ねばならない」という思いにさせる。結果、多額の献金をさせ、家庭崩壊や子どもへの様々な人権侵害が起きている。

 しかし、私たちの主キリストは人を自由にする。罰せられるべき罪ある私たちの身代わりとなって、自ら十字架にかかってくださった。そして、私たちは無償で無罪放免になった。ピラトの公邸でキリストの代わりに放免されたあのバラバのことをふと思う。ああ、恵み、この自由、この軽やかさ・・・涙を拭う。今、自由の翼にのって、主のために何でもできる気がする。



2022年10月9日日曜日

「こいつね、ドジなんだよ」

 思い切って久しぶりに東京に出た。所要があって中高時代の友達に会うためだった。ところが、肝心なものを忘れてしまった。それがなくては会う意味がない。気がついたときは目的地に到着する電車の中だった。仕方がない、会うだけで帰るとしようと決めた。

 彼の工場に訪ねてみると、懐かしい顔で迎えてくれた。冷たいお茶やコーヒーをテーブル代わりのトラックの荷台に並べて勧めながら、「こいつね、ドジなんだよ」と、家人に高校生時代の私の失敗を告げ口する。

私の重大な忘れ物も「なんでもないよ」とばかりの口ぶりだ。目がニコニコ笑っている。相変わらず、いいやつだなー。主にある友人にすっかり温められた。

2022年10月2日日曜日

叔母をなつかしむ

  先日、叔母の納骨式を彼女の母教会で済ませた。

 叔母は日曜日の朝、礼拝が始まる15分前に亡くなった。あの日10時30分、湯河原教会の礼拝堂のいつものあの席に、叔母は座っているように感じたことを覚えている。肉の体から解き放たれて、自由な霊の存在で叔母は確かに礼拝に与っていた。

 叔母はいつも教会が大好きだった。「物心ついたときにはもう両親に連れられて教会に行っていたのよ。世の中の人はみんな教会にいっていると思っていたわ。」と言っていた。生涯独身だった叔母の95年の人生は教会と共にあったと言っても差し支えない。賛美を捧げ、よく仕えた。改めて、叔母に敬意を表したい。

2022年9月24日土曜日

主イエスの声が響いてくる

 自然災害は平等に人を襲う。だが、その影響と立ち直る力は貧富の格差によって、決して平等ではない。

 パキスタンの大雨と洪水の影響は深刻だ。国連が援助を訴える。「パキスタンの人々は前代未聞の大雨や洪水の影響に直面している。南アジアは気候変動の危機が顕著に現れる地域だが、今日のパキスタンで起きていることは、明日のあなたの国でも起きるかもしれない」と。

 今日、「金持ちとラザロの話」から響いてくる福音に耳を傾ける。この金持ちは門前の物乞いラザロの困窮を知っていながら一切、憐れみをかけなかった。彼は「自己中心の罪」を問われている。私達の中に巣くう「怠りの罪」に改めて気付かされる。主イエスの愛を私の中に燃やしてくださいと祈る。

2022年9月18日日曜日

信仰の飛躍が求められている

  赤とんぼが飛び、彼岸花が咲き始めた。夏から秋へと季節が進み始めていることを感じる。

 9月、小田原教会では礼拝堂に隣接して建っていた牧師館を取り壊した。後には一軒分の更地が現れた。

 牧師館の解体までには多くの準備があった。それらの一つ一つが手順を追って進められて、ようやくこの状況にまでたどり着いた。

 今、更地に立って思うこと。それは、この土地は新たな宣教の手段として与えられたということだ。どのように利用するか。それは、どのように宣教していくのかということだ。これまでと同様の関わりでいいのか。一人ひとりに信仰の飛躍が求められている。

2022年9月11日日曜日

自分らしく生きられる気がした

  1匹の迷いでてしまった羊を探しに探して、やっと見つけた羊飼いは「ああ、見つかってよかった!無事でよかった!」と涙するほどに羊を抱きしめたに違いない。

 また、1枚の銀貨を失くした主婦は家中を掃除して、「銀貨が見つかりました。部屋の隅に転がっていたんですよ!」と近所の人々に大喜びで伝えただろう。

 1匹を探すために99匹を残して出かける羊飼いも、近所の人には関係のない銀貨のことで大騒ぎをする主婦も尋常ではない。それは失ったものが大事だからだ。

 天の父の懐から逃れて迷った一匹の羊、一個の銀貨はこの私自身だ!天の父に救われて、繋がって、安心できた。そこに立つ時、自分らしく生きられる気がした。


2022年9月4日日曜日

これでお前とは兄弟になったなあ

 私は大学4年の時に洗礼を受けた。無医村の医者で家庭に時間をほとんど割けなかった父の言葉を思い出す。「これでお前とは新しく兄弟になったなあ」。

 また父は「やっと親としての責任を果たせました」と牧師に語ったそうだ。その父は、徹底した信仰の祖父に反抗して37歳でやっと信仰告白に至ったそうだ。祖父は食事のときにも聖書を離さなかったというが、父の信仰告白に祖父は天で喜び踊ったことだろう。

 あいかわらず親子だけれど、主キリストにつながる兄弟の関係、そんな霊的につながった新しい家族関係を主は与えてくださる。この私が、祖父や父と共に主にある兄弟だというのは、有り難い恵みだ!

2022年8月28日日曜日

草取りは神の親心の祝福

 草取りをしながら徳富蘆花のエッセイを思い出した。

 彼は言う。農家は6,7,8,9の月が草との合戦だ。五穀は野草に比べて脆弱だから放っておけばやられてしまう。息つく間なく取ってもキリがないと言いながら「一本抜けば、確実に一本減る」と自ら励まし、草を取る。

 彼は、「油断をすれば畑も、人の心も、あたりの社会も草だらけになってしまう」と言いながら、世界の草の種を取ることは必ずしも我らにとって幸福でないかもしれないと自戒もする。創世記3章を引用して「旧約聖書は、草は人間の罰と見た。草取りは神の人に対する親心の祝福である」と結んでいるのには驚いた。

 神の親心に答えて草を取る、そう思うと楽しくなる。

 

2022年8月21日日曜日

人も家畜も元気を回復するための日

  主イエスの当時、安息日の規定では卵一個の重さまではよし、それ以上の物を持ち運ぶことは労働とみなされたという。笑ってしまうが、似たような話が高校時代の校則にあったことを思い出した。無意味な校則のチェックに先生方は疲労したことだろう。

 安息日の律法、それはシナイ半島での選民イスラエルに対する天父の愛の配慮にほかならなかった。規範がなくては選民もただの烏合の衆だ。時代を経て安息日は奴隷や牛やろばを休ませるため(出エジプト23:12)の日となった。

 主日は「主の復活の日」だ。その主日を「喜びの日」と言われた主イエスの配慮は何かと、今思い巡らす。

2022年8月14日日曜日

麦茶が好きだ

  コップ一杯の冷たい麦茶を机に置いて、聖書を読み始める。夏の朝5時、冷房無しの爽やかな朝、しばらく主と共に過ごす。これが日課である。

 夏は水分を取らなければと、せっせと麦茶を飲む。沸かした麦茶は胃への負担が少なく、体に優しいと言うのが長年麦茶を愛用してきた私の感想だ。だが、最近の日本の夏は亜熱帯地方の暑さだ。麦茶ばかりを飲んでいてはかえって熱中症の心配がある。「シニア世代の麦茶信仰」と子どもたちは警告する。確かに環境は変化した。この夏は経口補水液と併用することにした。 

 「朝風静かに吹き 小鳥も目覚めるとき・・・」主との語らいの時、やはり私は麦茶が好きだ。

2022年8月7日日曜日

どんな中にも主の慈しみが

  年一回、牧師に与えられた休暇を喜んで迎えた。ところがこの暑さの中、家人が体調を崩して寝込んだ。

 今の時期、どこの「発熱外来」も一杯。やむなく自宅療養することに。すぐに「抗原検査キット」で、陰性だとわかったが、一週間近く寝込むことになった。

 家人が回復し始めた頃、5年ぶりに米国滞在の長男が一人で訪ねてきた。孫がやはり熱を出したためだ。

 久しぶりに親子水入らずの時を過ごした。長男の顔を見て話を聞きながら長男とその家族の過ぎ去った日々の経験を頷いて聞く。それはこの5年間の空白を埋め合わせて有り余る恵みだ。病気は嫌だが、どんな中にも主の慈しみが満ち溢れていることを実感した。

2022年7月31日日曜日

すべては過ぎ去る。しかし・・・

 小田原教会では間もなく牧師館解体が始まる。先日、解体業者の方々から説明を受けた。手順に従って一つ一つ進めてゆく。

 礼拝後に、牧師館に残された廃棄する多くの物から残すものを選別する予定。もう使わないだろうと思える数々の物を前にして、「もう役目が終わったのだ」と、簡単には割り切れない思いが残る。その時、そこに奉仕してきた多くの兄弟姉妹の思いが想像される。

 しかし、神を愛し、人に仕える小田原教会のこれからにふさわしいあり方を模索しながら進みたい。「すべては過ぎ去る。しかし主の言葉はいつまでも残る」との主イエスの言葉に力を得る。

*8月7日の牧師のツイートは休暇のため休ませていただきます。


2022年7月24日日曜日

夏対策

 今年も暑い夏が来た!この夏を元気で過ごしたいと願う。私なりに「夏対策」をする。

 一つはヨシズである。窓の外にヨシズを立てかける。そして、窓という窓を開け放ち、外から風を入れる。これで部屋の空気もずいぶん涼しくなった。

 もう一つはウォーキングだ。一日7000歩を目指す。歩くのはもっぱら夕食後だが、流れる汗をかいた後は疲れるが、達成感はちょっとあるかな・・・?

 暑いしコロナも猛威を奮っている。しかし、ギラギラ太陽に向かって鎌を振り上げて、「暑いぜ!おれは負けないぜ!」と照れながら言うかまきりりゅうじ(『のはらうた』より)に自分を重ねて、ふと楽しくなる。

2022年7月17日日曜日

マルタからもマリアからもだ

 主イエスをもてなすために忙しく立ち働くマルタ。これまで教会はこのマルタの働きにどれほど助けられてきただろうか! マルタの働きは尊い。

 ところが、忙しさの余り、マルタは主の言葉に聞き入ってばかりいるマリアを非難する。

 従来、ここはマルタとマリアを比較して、マリアは御言葉に聞く観想的なタイプ。マルタは活動的なタイプ。そして、御言葉に聞くことが何より大切との結論によって、このマルタを批判的に見てきた。

 しかし、主は祈りながら活動し、活動しながら祈ることを教えてくださっている。ここから学ぶのは、マルタかマリアではなく、マルタからもマリアからもだ。

2022年7月10日日曜日

病みつきになりそうだ。

 イエス様の善きサマリア人のたとえは「隣人愛」の教えだ。主イエスは、愛する相手に条件をつけたり、範囲を設けたりしないで「助けを必要としている人はだれでもあなたの隣人」とおっしゃる。

 私たちは、自分が助けるべき相手はどのへんまでかを常に自問自答している。実に損得勘定によって!

 「隣人愛」とは地球規模に広がってゆく明るい壮大なイメージだ。今ここに、助けを必要としている人がいることがわかったなら「隣人愛」の実践は今だ!

 もしも隣人の役に立てたなら、どんなに楽しいことか!「隣人愛」は味わってこそわかる。きっとハマル。 神の国の味は病みつきになりそうだ。

2022年7月3日日曜日

シャロームという平和

  トルストイの小説『戦争と平和』が余りにも有名なので、かつて私はあさはかにも、平和というのは戦争のない状態というぐらいに考えていた。

 主イエスは、「どこかの家に入ったら、平和があるようにと願いなさい。」と教えてくださる。

 平和、それは神の救いの恵みの総体であって、人権に関わることなのだと改めて学び直した。

 神との和解、自然との調和、安全、健全、祝福、休養、光栄、富、救い、命などを含む大変含蓄のある言葉だ。平和に過ごすというのは決して波風が立たないように、ということではない。簡単ではないが、キリストにおいてこそ成ると信頼する。

2022年6月26日日曜日

弟子の覚悟

  主は主に従おうとする者に言われる。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」。

 私はこの箇所を読むたびに、神学校の入学式のことを思い出す。神学校の入学式の前日、父が召された。すぐに郷里に帰らせてくださいと願いでた。ところが、神学校長から、式に出て、オリエンテーションを済ませてから行くようにと言われた。

 これから歩もうとしている主イエスとの旅路を、神の国にふさわしい者として歩むという新たなステージに入ったのだと気付かされた。天の父は、肉の父を召して、牧会者としての大切な学びをさせてくださったと、いつも感謝をもって思い起こす。

2022年6月19日日曜日

サタンのシッポ?!

 運動のために、妻と二人で夕食後にウオーキングを始めた。夜、人も車もいなくなった◯◯病院の広い駐車場の歩道は街灯がついて明るく安全。周囲が150メートルくらいもある楕円形の歩道はさながら運動場のトラックだ。その歩道を折半してもう一本の歩道が通るが、たいてい私たちは楕円形の歩道をグルグル歩く。

 ある時、コースを外れて真ん中の歩道を歩いていた妻が私を呼ぶ。「ここを歩くと私の影に尻尾があるのよ!」と怯えた声。それは左右に並ぶ街灯の光のイタズラなのだが、妻の影にさながらサタンのシッポ?!私の股にもサタンのシッポが歩くたびに揺れた。

 思わず笑った。人が知らないサタンのシッポ! 

2022年6月12日日曜日

目先の都合で

  関東はもう梅雨に入ったと聞いて驚く。確かにこのところの天気を見れば紛れもなく梅雨入りだ。

 今年はすっかり紫陽花が枯れてしまって、梅雨の庭がどことなく寂しい。庭の一隅を占めて伸び放題だったため、二年に渡って刈り込んだためだろうか?

 例年なら大きな緑の葉が茂り、淡い黄緑や青の紫陽花がいっぱい花をつけるところだ。ジトジトジメジメの中で人間の方は恨めしそうに雨天を眺めているのに、紫陽花は梅雨の中でみずみずしく元気一杯だったなー。あれは本当に良かった!と思い返す。

 邪魔だからと思ったあの時は、冬枯れのさなかだった。私の都合は、まさしく自分の目先の都合だった。



2022年6月5日日曜日

小さなサインを見逃さず

  使徒言行録には聖霊はドロマティックなイメージで描かれている。突然、激しい風が吹くような音が響き、炎のような舌が現れて弟子たちにとどまる。

 もう一方で、静的で内的なイメージの聖霊がヨハネ福音書に記されている。復活の主が現れて、弟子たちに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と言われた。主はこの聖霊を弁護者(助け手・慰める者)と呼ばれた。

 私の日常には聖霊はあまりドラマティックな仕方ではおられないようだ。しかし、聖霊はいつも私と一緒にいてくださり、助けていてくださるのを感じる。

 どうか、今日も主の言葉を思い出させて、聖霊の出す小さなサインを捉えることができますように。

2022年5月29日日曜日

聖霊はスタンバイ!

 今日、主イエスは弟子たちを祝福しなが天に昇られた。その弟子たちの中に自分がいる、そんな姿を想像して描いてみる。戸惑いつつも眩しいような顔をして主を仰いでいる自分の姿が浮かぶ。
 「イスラエルのために国を立て直してくださるのはこの時ですか」と、復活の主にお会いしながらこんなトンチンカンな問をするほど弟子たちのこころは鈍く弱っていた。約束の聖霊はまだ降っていないからだ。
 主はそんな弟子たちに「あなた方に聖霊が降ると世界の果てに至るまで私の証人となる」と宣言される。すでに愛の聖霊はスタンバイ!足元ばかり見つめる私たちの目線を地平線、水平線の彼方へと導いて下さる。

2022年5月22日日曜日

初夏の気配

  卯の花が咲いてこの頃はすっかり初夏の気配だ。

早朝に「ホーホケキョ!」と、うぐいすの鳴声。その鳴声の清らかさに心が打たれる。いっとき、さえずりの歌声を賛美歌のように聞きながら聖書を開く。

 そして居眠りの出る午後「ツピチペ、ツピチペ」とシジュウガラの鳴声。窓の木の梢を見回すが姿は見えないが元気なさえずりに眠気が吹っ飛ぶ。

 復活の主イエスは40日間を弟子たちと過ごして、希望なく過ごしていた彼らを励まされた。もうじき主は天に昇られる。あれ以来、主の聖霊がやってきて私たちと一緒にいて下さる。目には見えないが聖霊は私たちのうちにいて愛の革命を起こして下さる。

2022年5月15日日曜日

恵みの甘夏

  復活節のこの頃はちょうど甘夏の収穫時期となる。

感謝なことに、今年も信徒さんの畑から収穫したばかりの甘夏が教会に届けられた。無農薬の甘夏は果実ばかりか皮こそが重宝なのだそうだ。

 連日のように、蜜柑の香りが家中に漂う。家人がマーマレードや甘夏ピールづくりに熱中しているからだ。恵みの甘夏だから新しいうちに作って届けたいと言う。これはささやかな“Her Mission”なのだ。

 マーマレードは瓶詰めにされ、甘夏ピールはバターケーキに焼き込まれる。試食係の私にはちょっとほろ苦いかな…?果たして皆は「苦いのがいいのよー」と優しい。人との分かち合いは本当に祝福だと思う。




2022年5月8日日曜日

さっそく一服

  自宅のお茶の木のから作ったという新茶を頂いた。新茶は新しいうちに飲むから新茶なのだと、さっそく一服。

 急須の中で針の先のような葉っぱが広がって、爽やかな自然の植物の香りがする。さっぱりした味、飲んだあとはスッキリ。美味しいが新茶を贅沢だと思った。

 八十八夜も過ぎ、立夏を迎え、季節は春から夏へ。今、季節の移り変わりを楽しむことなく、戦禍と弾圧に傷つく多くの人々を意識の外に置くことはできない。

 5月3日に全国の日本福音ルーテル教会はズームで「平和と共働の祈り」を捧げた。「危険にさらされ、恐怖の中にいるあなたの大切な子どもたちをあなたが抱き守ってくださいますように」と祈った。

2022年5月1日日曜日

例年ならば・・・

 大型連休が始まった。

 例年なら、この時期には全国の牧師会と定期総会のために東京で過ごす3日間となる。だが今年もコロナ禍のためにキャンセルとなった。

 せっかくの連休も出不精の私は牧師館でぼちぼち仕事をしながらのんびり過ごす以外に思いつかない。家人から責められるかもしれないな?しかし、家人は「Kさんの誕生日がGW中でよかった」と言いながら娘の夫の誕生日のケーキを送るためにせっせと焼いている。

 私はカードに「いつも応援しています。いつも祈っています。P&M」と書いた。心は決して疎遠ではないが、会えない日頃の思いを、祈りに託した。

2022年4月24日日曜日

トマスに重ねて

  トマスのように「もし、〜でなければ」という条件づきの信仰は私たちを自由にしない。しかし、トマスがこういったのは、他の11人の弟子たちが復活の主に出会ったのに、自分だけがその場に居合わせなかったからである。トマスのその心はまさしくふくれっ面!

 トマスは、ラザロを甦らせに行こうとする主イエスに従って「わたしたちも行って、主と一緒に死のう」と弟子たちに訴えている。トマスは筆頭格のペテロとは違うが、彼なりに弟子の気概を持っていた。

 ヨハネはそのトマスを4つの場面に登場させて主の重要な言葉を引き出させている。トマスの人なりに思わず自分を重ね、主の優しさをホックリと味わう。



2022年4月17日日曜日

たぐいなき御恵みよ

 「たぐいなき御恵みよ、主は生きていたもう。何故に我が魂は悲しみに沈む・・・」これはイースターの讃美歌の一節だ。主イエスは死んでしまった、もう私達の希望はついえたと、暗い顔をしてエマオへの道を歩いた弟子たちのことが思い浮かぶ。しかし、そんな弟子たちにいつしか復活の主イエスが伴に歩いてくださっていた。後になって、「あの時、確かに私の心は燃えていたではないか!」と気づかされる。

 イースターには緑の若葉が似合う。今朝も、主イエスはひょっとして木陰から私の肩越しに、私を見ていてくださるのではないかと思う。ふと、主の気配を感じて振り向く。一陣の春の風が吹いて私は満たされた。

2022年4月10日日曜日

目をそらさずに

  十字架を負って進まれる主イエスから目が離せない、いやそれどころか釘付けになる。今、この十字架を負う主の姿に、苦しむウクライナの人々が重なる。

 せめて私にできること、それはこうしたことは歴史が繰り返してきた事だと言って目の前の残酷な事実を薄めない事だ。彼らの負う十字架はかつて人々も負ってきた事だと言って、軽いものだと見なさない事だ。今、できること、それはウクライナで起こされている破壊と暴力に目を背けないで、注視し続けることだ。

 誰もが十字架を負っている。十字架のあるところには必ず主キリストの慰めと希望がある。「自分の十字架を負って私に従いなさい」との主の言葉を恵と思う。

2022年4月3日日曜日

立ち返りたい

  四旬節第5週もウクライナの人々の苦難を思う。祈れば祈るほど何かをしなければならないと思う。

 マリアがナルドの香油を主イエスに注ぎ、髪で足を拭ったという話は美しい。この時の1リトラ(326cc)のナルドの香油の値段は300デナリ(労働者の300日分の労賃)ほどと考えられる。常識からみれば驚く話だが、主は惜しみなく献げたマリアの一途な慈善を信と愛のわざと受け止められた。

 祈りが本物であるとき、慈善のわざという実を結ぶことをマリアに教わる。マリアは差し出すことのうちにある深い喜びに浸ったに違いない。この四旬節、マリアのように、主への信仰と愛に立ち返りたい。

2022年3月27日日曜日

響いてくる

   ジョン・ホーランド牧師を時々ふと思い出す

 20年ほど前になるが、アイオワ州にある小さな町のバプテスト教会で教会生活をしていた時のことだ。その礼拝に何人かの日本人の高校生が出席していた。その生徒たちへの伝道の為に、その日の聖書日課を日本語で朗読するよう求められた。礼拝出席者、約500人の教会だったがこの謙虚さと寛大さに感謝した。

 礼拝前、大人のサンデースクールの一つに妻と私は参加した。(その仲間が私達のアメリカ生活を終始支えてくれた)。礼拝を終えて帰る時、決まってホーランド牧師が握手しながら私を送り出してくれた。“Hiro, I love you.”と。今でも天の父の言葉のように響いてくる。



2022年3月20日日曜日

ありがたくて

 成果が出なかったり、失敗したときに「まだ、先があるんだからから待ってやって」と、とりなしてくれる人がいたならどんなに救われるかしれない。

 ぶどう園に生えている実のならないいちじくの木は園丁のとりなしによって切り倒されずにすんだ。「待ってください。わたしが木の周りを掘って肥料をやってみますから」。主イエスが父の神に申し出たとりなしは、自ら実のならない木の世話をするというものだった。

 実がならない木は切るのがこの世の当然だ。しかしそんな木を慈しんで、惜しんでいる存在があると知ったなら、どんな木だって実をつけずにはおられない。ありがたくて、悔い改めの実はおのずと実る。

2022年3月13日日曜日

愛さずにはいられない

  「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」と、主はご自身を愛の翼を広げて雛を守り養うめん鳥に譬えた。

 これは招きに応えない神の民への主の嘆きではあるが、決して人々を断罪する言葉ではない。めん鳥は雛鳥を愛さずにはいられないのだ。

 めん鳥が翼の中に雛鳥を集めている様子を見る機会はなかなかない。平和なときの想像であれば、そこには楽しい、優しい、和やかな情景が浮かんでくる。

 しかし、今わたしたちは侵略戦争の残忍さを目の当たりにしている。人々の悲惨な状況にこころを寄り添わせ、母親と幼い子供たちに思いを寄せます。

2022年3月6日日曜日

ウクライナに平和を!

  首都にいると命の危険があるから逃げるように進める側近に「私はここにいる。武器を下ろすつもりはない。領土を、国を、子どもたちを守る」と語ったゼレンスキー大統領の表情は死を覚悟した人の顔だった。

 ロシアの戦闘車両の前に人の鎖を作って立つウクライナの人々を見た。爆撃で自分たちの町が無残にも崩壊するのを見た人々は毅然と立ち向かうのだと改めて知った。一人のおばあさんがロシア軍の兵隊に向かってこう叫ぶ「あなた達はロシアに帰りなさい」。

 今、誰もがウクライナの情勢に心を痛める。

主よ、どうかあなたを信じる者の祈りをお聞きください。ウクライナに平和を!

2022年2月27日日曜日

ウクライナの人々を思って祈る

  プーチン大統領のロシア軍がウクライナに侵攻した。

 今の私には何かできることが思いつかない。

 なんとも憤りの混じった辛い気持ちで、だが支援を込めてウククライナ情勢を見守る。

 折しも2日は「灰の水曜日」だ。ここからレントが始まる。ローマ教皇は、この「灰の水曜日」に信者に心を込めて祈ることと断食に招いている。そしてルーテル世界連盟は世界のキリスト者に“私たちも祈りを合わせましょう”と呼びかけた。

 平和の源である主が世界を戦争の狂気から守ってくださることを、政治的・軍事的責任を持つ人々が神のみ前に糾明されることを、ともに願って祈ります。

2022年2月20日日曜日

高く、高く

  北京オリンピックのテーマソングが流れる。「どこまでも高く高く飛べると 見たことのない景色まで」と高みを目指す歌詞だ。いま少しだけとTVの前で応援する。やっぱりオリンピックはイイなー! 

「高みを目指して」挑戦する選手達を見ながら、「より高く」と邦訳された詩を思い出した。エクセルシオーExcelsior と言うラテン語で「さらに高い」を意味する形容詞(excelsusの比較級)が使われている。

 生まれたときから十字架を背負って生き、弱き貧しき人々を慈しんで教えた主イエスはゴルゴダの丘を登ってゆく。その気高さをエクセルシオーと詩人は歌った。主は「より高く」を目指されたと今更思われた。


2022年2月13日日曜日

二酸化炭素が地球を救う?

  『大人塾』というラジオ番組で、二酸化炭素(CO2)が地球を救うという話を聞いて驚いた。

 話し手は村木風海(かずみ)という大学3年生の化学者で発明家だ。彼は高2のときCO2に水を加え、触媒にアルミを入れてメタンガスを作ってしまった。また、CO2を使えば燃料もできる。燃やせばCO2を排出するが、その原料はCO2なのだから±0だという。

 地球温暖化の原因となっているCO2が地球を滅ぼすと半ば信じていただけに、これはまったくのGood Newsだ!神に託されてこの世に責任を持つ者として、空気中のCO2をリサイクルして燃料に変えて使うことには大賛成だ。希望が見えたぞ!

2022年2月6日日曜日

宣教の希望

  立春を迎えたがまだまだ寒い。けれども教会の菜の花は満開だ。「光は快く、太陽を見るのは楽しい(コヘレト11:1)」と言っているように輝いている。

 オミクロン株が蔓延していて人との交わりが難しい状況が長く続く。誰の心にも孤独感が強くなりがちだ。孤立しないよう愛の配慮で兄弟愛を深めていきたい。健康を保ち、社会生活が維持されるよう願う。弱いところが崩れないよう、助け合えるよう祈る。

 今日、主はペトロに近づいて、宣教は決して徒労に終わらないことを約束してくださった。この総会から2022年度が始まる。今、主イエスが近づき「沖に漕ぎ出し、網を降ろしなさい」と希望をくださる。

2022年1月30日日曜日

いつだって、トライ・アゲン

 今日の聖書に登場する人々は主の郷里の人たちだ。それまで主の語る言葉に感動し、驚嘆したと思えば、今日はもう「あれは大工の息子じゃないか!」と軽蔑をして主の言葉を打ち捨てる。

 人間はこういう心の狭さ、頑なさを持ち合わせている。だから世界に、いや、私とあなたとの間に神がおられなければ世界は地震でなくとも揺れに揺れる。 

 コロナ禍、この難局にあって神の愛が私たちをつなぎ止め、保ってくださる。弱いところが潰れてしまわないように支え合わなくっちゃー。久しぶりに忍たま乱太郎の「100%勇気」を聞く。失敗に挫けない乱太郎が眩しい。キリスト者はいつだってTry againだ。

2022年1月23日日曜日

あなたが聞いたとき、実現した!

 自分は教会のために何もできないから、お便りをいただくのも心苦しいので教会名簿から外してほしいという方と話した。この方は、何もできないという囚われに苦しんでいる。誰にも「囚われ」はある。

 しかし、この捕らわれからの解放のためにこそ主イエスは来てくださった。主は「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と完了形で言われる。まさに、御言葉を聞いた今、「あなたはその囚われから解き放たれた」と言われるのだ!

 できないままで、どうか安心して教会家族につながっていてください。祈り合い、助け合う教会家族ってあったか〜いですよー。

2022年1月16日日曜日

夢見心地になってしまう

  今日、主イエスは清めのために使う水瓶の水をぶどう酒に変えるという恵みをくださった。

 準備が追いつかなかったのか、それとも予想以上に来客が多かったのか、台所をあずかる母マリアの慌てぶりは想像に難くない。

 律法に従って手を清めるために置かれてあった大量の水が、結婚式の宴会を盛り上げる大量のぶどう酒に変えられた。なんという気前の良い話だろう!

 主のくださる良いぶどう酒は果たしてどんな味だったのだろうか?私はつい招かれた招待客の一人となって想像が膨らむ。主と楽しみを共感し合えるなんて、嬉しいなー、いいなーと夢見心地になってしまう。

2022年1月9日日曜日

その確かさに感謝!

 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」。この神の声は主イエスばかりか洗礼を受けた私たち一人ひとりにどこにいてもいつも注がれている。

 例年になく寒い冬、オミクロン株もジリジリ迫ってきている。しかし、住む所があり、そこにはストーブがって、あったか〜い味噌汁があったとする。それだけあれば、聖霊はわたしに「おまえは神から愛されている。おまえは幸せだ。」とささやいてくれる。

 ある労苦多き姉妹が緊急受洗後、まもなく入院。コロナ禍、個人情報保護の壁。以前のように病床を訪ねられないまま9月から12月の間に召されたとだけ分かった。だが聖霊による洗礼。その確かさに感謝!

2022年1月2日日曜日

「大好き、大好き、大好き!」

 昨年の晦日になって長女の家族に送るために小包を作った。遅ればせのクリスマスケーキを家人は焼いた。そして、孫たちにささやかなプレゼントを入れた。カードには孫たちの名前とその横に「大好き、大好き、大好き!」と書いた。これだけでいいと思った。最後の最後にやっと送れたことに安堵したし嬉しかった。

 大晦日、「届いたよー」と弾んだ声で電話がかかってきた。大好きを伝えることでこんなに元気になれるなんて素晴らしい!大好きはGood newsなのだ。新しい年も神様の大好きが誰にも届けられたらいいと願う。

 主を信じつつ、一つ一つやって行けばきっと御心がなっていくと、そう思いながら新年を迎えた。