2020年12月27日日曜日

希望の子を地上に送る姿に

  10年前に初めて小惑星イトカワ探査に成功した「はやぶさ」の地球帰還の動画を改めて見た。

 大気圏に突入し流星のように輝きなが無数の破片となって消えていく。その中に明るくはっきりと切り離したカプセルが見える。満身創痍で希望の子を地上に送る姿に主キリストを重ねてしまう。

 今年、「はやぶさ2」が小惑星リュウグウからの岩石の採取に成功した。暗いことの多かった2020年に大快挙だ。「はやぶさ2」は大気圏に入ること無くカプセルを切り離し、次のミッションにでかけるという余裕さえ見せた。目に見えない世界への探求心は尽きず、続く。このゆとりに憧れる。

2020年12月20日日曜日

スクルージの回心が広まって

  最初のクリスマスが祝われて今日は2020回目のクリスマス。クリスマスおめでとうございます!

 ディケンズの『クリスマス・キャロル』は19世紀半ばの社会問題が噴出していたイギリス社会を大きく変えた。小説の主人公スクルージの回心に人々は触発され、刊行から5年間で「クリスマスは他者に対して温かな眼差しを向ける季節へ」となっていった。

 Covid-19の感染拡大が続く只中にあっても、聖霊の風は吹き、私たちをクリスマスの愛と恵みへと導いてくれる。今日の良き日、主のご降誕の喜びを皆さんと共にお祝いできることに感謝します。クリスマスの慈しみが世界中の人々の上にありますように。

2020年12月13日日曜日

“Live deep(深く生きる)”

  イギリスでCovid-19のワクチン接種が始まった。90歳の女性がワクチン接種をしての感想をニュースで聞いた。彼女は言う。「これでこのクリスマス、子どもたちや孫たちと会うことができる。私はこのワクチンを受けることができて光栄に思う」。

 彼女の90歳という年齢を考え、そして思った。感染を恐れてこのまま愛する家族とも会えず、子どもたちや孫たちを抱きしめることも叶わないまま生きることは「生きる質」に関わることなのかもしれない。

 “Live deep(深く生きる)”。副反応を恐れて、ワクチンに懐疑的な人たちが多い中、世界の人々に先駆けてのこの高齢女性の決断は私には英断に思える。

2020年12月6日日曜日

たがいに与え合うクリスマス

 40年も前に読んで、すっかり忘れて、ホコリまみれになっていた『クリスマス物語集』を懐かしく手にとった。

 そこには「クリスマスは、輝かしいときです。愛と、優しさと、楽しい笑い声の満ち溢れる日、他の人を思いやる日、親切な思いつきが、ふつふつとわく日なのです。」と、この本の物語の一部が紹介されていた。

 クリスマスは長い間みんなの幸せのために役立ってきた。クリスマスは互いに与えあう日なんだと今更に知る。

 世界はすごいスピードで移り変わっていく。古い習慣は顧みられなくなったが、人の心のやさしさは時代遅れになることはない。私たちの心の中の宝、私たち人間を人間らしくしているものは決して変わることがない。 

2020年11月29日日曜日

今日から目を覚ましていよーっと!

  予測されていたがCovid-19の感染はここにきて広がった。連日のニュースにも先行きの不安が漂う。

 こんな中で感謝なことに、湯河原教会は宣教65周年記念の外壁塗装工事を終えることができた。明日には足場が外される。白壁の美しい教会堂が青空の下にスッキリと現れる様子を思ってニコッとなる。だが、もっと嬉しいのは今年もクリスマスを迎えられることだ。

 今日からアドヴェント、クリスマスの足音が近づいてきた。「さあ、主キリストの御降誕と再臨を待つ用意はできたか?」とささやく声がする。居眠り名人でネタロー(寝太郎)というニックネームを付けられた私だが、密かに思う。今日から目を覚ましていよーっと!

2020年11月22日日曜日

50cm×80cmの床面が出現!

  教会の外壁の塗装工事が始まった。まずは足場作りから。狭い隙間にも、高い十字架塔にまでもうまく足場をかけてゆく。職人さんたちの交わし合う声が楽しそうに室内にいる私の耳に響いてくる。きっと良い仕事をしてくださるのだろうと、そう思った。

 その時だ、牧師館の勝手口のたたきに床板を張ってもらえないかと頼んでみようとの思いが浮かんだ。聞いてみると「いいよ」と、二つ返事が返ってきた。

 値段を聞くと、「教会さんは人のために働いているんだから、教会さんからはいただけないよ。私がやってあげるから」。思いがけない贈り物にただ感謝!デッドスペースにデッドスペースに50cm×80cmの床面が出現!

2020年11月15日日曜日

君を信頼するよ

 「君を信頼するよ。これで大いに自由にやってみなさい」と、ど〜んと大金(タラントン)を預けられた。

 私へのこの信頼に心が躍る!さて、この資金をどう役立てようか?それを元に起業するのも悪くはないかな?しかし、とりあえず銀行に預けておこうかな?

 いろんな選択肢が頭をかすめるが、いずれもリスクはある。そのまま使わずにおくのが一番安全かな…?

 しかし、ご主人の望みは失敗を恐れずにタラントンを用いることなんだ。ここを外しちゃいけない。たとえ失敗してすっからかんになってもご主人はお怒りにならないに違いない。失うということでは主キリストご自身は全てを私達のために使い果たされたのだから。

2020年11月8日日曜日

このお菓子を見て泣いた

 突然K姉妹が訪ねてこられた。「今日、息子の施設から送られてきました」と言って見せてくれた会報には息子さんが元気に稲刈りをしている写真が載っている。

 Kさんの息子さんは長い間心の病で、本人も家族も苦しんできたが、最近ある施設に巡りあい、彼はそこに初めて自分の居場所を見つけ、障害者として働き始めた。このことがどれほどKさんとKさん家族を喜ばせ、神への信頼と感謝に導いたことだろうか!

 「息子のために祈り続けてくださった先生にも食べて頂きたい」と、一個の三笠山をくださった。息子さんが初めて家族に送ってくれたお菓子だった。ご家族はこのお菓子を見て涙したそうだ。主よ、感謝します!

2020年11月1日日曜日

神の愛につながる

  キリスト教会は11月を「死者の月」としている。礼拝堂に飾られた天国の方々の写真を見ながら思う。

 神に結ばれてこの世を生き、今は主と共に天におられる兄弟姉妹が「神の愛につながること」は人が愛し合うことだ、それが最高の喜びだと伝えている。

 折しもハロゥィンの花火が始まる。家人に呼ばれて屋根の上に。明日のことを思えばのんきに花火見物でもないがせっかくの誘いだ。しばし一緒に楽しむべし。

 澄み渡った夜空に火の花が大きく咲いては散る。ドカーン、ドカーンと爆音が腹に響く。急(せ)く気持ちはどこかへ飛んで、一緒にいるっていいなー、主の愛につながることだなーと思えてくるから不思議だ。

2020年10月25日日曜日

今年が見納めとなりそうだ。

  兄弟教会である小田原教会の植え込みのドウダンツツジの紅葉がみごとだ。隣接地の工事のためにこの植え込みは取り除かれることになった。この艶(あで)やかな紅葉も今年が見納めとなりそうだ。

 小さな苗木であったのが今や大人の丈を越すほどになり、教会の歴史を偲ぶドウダンツツジの紅葉を今年は特別な思いで眺める。教会の皆さんの気持ちを察すれば、一本どこかに移す方法はないものかと・・・。

 さて、目を上げれば遠くに山々の紅葉が広がりつつある。こんなにも神は豊かに自然を備えてくださっているのだから、目先の自然に捕らわれて寂しくなることもないか!この先にはきっと恵みが待っている。

2020年10月18日日曜日

たちまちあったか〜い!

  今日は一日中じとじと雨だ。秋の雨はどこかうすら寒く、沈んだ気分を誘う。この雨、冷え冷えとして、なかなかあがらずコタツが恋しくなる。まさに秋の長雨「秋霖(しゅうりん)」を思わせる。

 我が家でも大慌てでファンヒーターを出す。スイッチをONにするとたちまち寒がり屋の猫たちが集まってきて膝の上でとぐろを巻く。

 ゆっくりFさんからの手紙を開いた。病院に長期入院しておられるが、コロナ禍で礼拝に出席できなくなってもう9ヶ月。外出許可が出たら礼拝に来たいとある。終わりの一文は「教会の皆さんに主の平和がりますように」だ。心も体も魂もたちまちあったか〜い!

2020年10月11日日曜日

イエス・キリストという礼服

 4日に召された叔母の葬儀説教で母教会の牧師の話が印象に残った。

 「晩年、惠さんはよく『私のためにお祈りください』と言われた。ある日曜日『先生、お祈りくださってありがとうございます。先生がお祈りくださっていたことがよく感じられました』と言われた。それを聞いて私は恥ずかしくもあり、申し訳ない気持ちになった。なぜならその週、私は惠さんのことを忘れていたからです」。

 私は天の父はまさに祈る者と共におられるのだと知った。今日、天の父は罪ある者を婚宴に招き、おまけに礼服まで整えてくださっている。イエス・キリストという礼服を私は着るだけだ。主の礼服は軽やかで柔らかく、着心地はさぞかし良いだろう! 

(マタイ22:1〜14)

2020年10月4日日曜日

皆さんから愛されてます

  施設に頼み込んで15分だけ面会が許された。それが急な入院前の叔母との最後の会話らしい会話となった。

 「叔母さん、博雅です。お久しぶりです」というと、「あら、そうでもないわよ」と、2週間前に施設の玄関先で数分間だが会ったときのことを覚えていた。「叔母さん元気ですか?」と尋ねると、「皆さんから愛されてます」というしっかりした返事が返ってきた。

 Covid-19 の影響で叔母とはこの半年というものほとんど会うことがかなわなくなっていた。認知症の叔母だが、「神にも人にも愛されている自分」から全くブレていなかった。この返事を聞いてわたしは思いもかけず幸福感に包まれた。安心したし、嬉しかった!

2020年9月27日日曜日

考え直して・・・

   あるところに父と二人の息子がいた。父親は息子達にぶどう園に行って働くように命じる。兄は「嫌だ」といったが、あとから考え直して出かけた。弟は「いいよ、行くよ」と言ったが行かなかった。

 この主イエスのたとえ話の奥深さは、兄と弟の二人しか登場しないことだと思う。もしもこの話に、「いいとも」と二つ返事でぶどう園に行って働く、そんな品行方正の3人目の息子が登場したら、主のたとえは「行いが大事だ」という話になってしまうだろう。

 人は誰でも時にはこの兄であったり、この弟であったりするのではないか?主は考え直すこと、そして心を神に向けることが鍵だという。OK、鍵をゲットだ!

2020年9月20日日曜日

慈しみの中で

  ニネベの人々が預言者ヨナの予想に反して悔い改めた。ところがヨナのこの“ちんぶくれ”ぶりはどうだ!

 ヨナがあまりに正直なので、つい「わかる、お前の気持ち」と言ってしまいそうになる。

 また、遅くからやってきてわずかしか働かない者に早くから働いた者と同じ賃金を支払うなんて不公平だというこの文句にも「そうだよね」と同情する。

 そんな時だ、主の声が耳元でささやいた。「お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。(ルカ15:31)」。弟を妬む兄への父の優しい言葉。

 ああ、そうでした!イエスさま、あなたはこれまで私を惜しみなく慈しんでこられました。

2020年9月13日日曜日

素直に頭を垂れる

 「最近の死刑についての司法判断は『一人殺せば懲役刑。二人以上なら死刑』というように、人数で割り切る傾向だ。犯罪被害者の家族に対しても心のケアや援助ではなく、『望み通り極刑にしましたよ』と、割り切った考えになってきている。」これは「NHKニュース解説:最近の裁判の傾向について」の論評だ。

 聞きながら、「眼には眼」という旧約聖書の時代が彷彿させられた。人の更生ということ、神のものである命ということについてもっと深める必要を思った。

 自分が赦されているのに仲間を赦さない。ここに心を痛めている仲間達もいる。人間の鈍さ!それにひきかえ王である主の憐れみ深さ!素直に頭を垂れる。

2020年9月6日日曜日

油断はできないが

  自粛生活とかウイズコロナとか言いながら過ごし始めて半年になるだろうか?

 Covid-19の正体も徐々に解明されてきて、どんなことに注意して生活すればいいのかがわかってきた。感染を恐れて家に閉じこもりの生活が長く続けば、感染はせずとも人間らしい豊かな生活が失われかねない。

 「このコロナの時期は…」と言って、中断していた聖書研究会、懇談や信仰入門の学びも再開した。そして、何より嬉しいことは聖餐の再開と説教原稿の代読でなく、生の説教者による礼拝に与ることができるようになったことだ。小さな町の小さな群れだからこその祝福かもしれない。もちろん油断はできないが。

2020年8月30日日曜日

だが、待て!

  8月も終盤なのに、夏の真最中といった感じの毎日である。コロナ禍も手伝って、健康な者にでさえ今年の夏の暑さはこたえるから、病気や障害を持つ方や高齢の方には如何ばかりかと気がかりである。

 「自分の十字架を背負って私に従いなさい」と主イエスは言う。十字架を負うことなどできるのか?と、このコロナ禍と酷暑の中では言いたくもある。だが、待て!自分の背負える十字架でいいのだ。「私に、今できることか」と、気を取り直して歩くことにした。歩数にして5500歩あまり。夜、湯河原の海岸を歩く。

 星空の美しいこと。寄せる波の音の響きの心地よさ。昼間の暑さは吹っ飛んで、清涼な命が吹き返す!

2020年8月23日日曜日

ビビッと響け!

  今年の夏は35度を上回るジリジリした暑さが続く。日中は前の通りを歩く人は皆無だ。そんな炎天下の中、帽子もかぶらず歩いている一人の老人を見かけた。

 「これ、古いものですが」と家人が自分の緑色の細いリボンの付いた麦わら帽子を差し出すと受け取ってかぶって行かれた。ご飯の買い出しにでも行くのだろうか?・・・それ以来、教会の前の道を「あの麦わら帽子」をかぶって行き来する老人を見かけるようになった。安心したー、役に立っているんだねー。

 さあ、暑いが頑張ろう!「あなたはキリスト、生ける神の子です」と告白したペトロの、あの生き生きした信仰告白よ、私の魂にビビッと響け!

2020年8月16日日曜日

わたしの夏の友

  私の子供の頃の夏休みには『夏の友』という学習ドリルの宿題があった。ドリルが「友」だなんて、どうしたらそういう発想になるのだろう?と思うが、私にとって当時の「友」は勿論遊びだった。夏休みは浜辺で日がな一日過ごした。そんなわけで8月の終わりは溜まった宿題をチャチャッとやっつけるはめに。

 ある時、私が描いた宿題の絵に、「ちょっと」と、父が手を出した。スケッチの趣味のあった父は、泥縄式で描いた絵を見るに見かねたのかもしれない。

 その絵、どう見てもうまく描け過ぎていた。学校に持ってゆくの、嫌だったなー・・・いまは笑い話。

 今年、私の「夏の友」はエアコンと扇風機と麦茶。

2020年8月9日日曜日

安心、安心、ああ安心

 NHK『夏休み子供科学電話相談』で、6歳の幼児の珍しい相談に思わず聞き入った。

 ブラックホールに飲み込まれるのではないかと心配で毎晩眠れないという。宇宙・天文学の専門家が幼児にもわかるように、そういう心配はないと丁寧に説明している。しかし、彼は「わかりましたか?」と聞かれて、はっきり「わかりません。」と答えた。

 この子の不安の種はブラックホールではないのだ。彼は無意識に、「安心しなさい。わたしが一緒に

いる」と言ってくださるイエスさまを必要としているのだ。安心、安心、ああ安心…と響くもの、いや、響くこと、なんでもいい。会話でも触れ合いでも。 

2020年8月2日日曜日

いっぱいあるなー

 長く逗留した梅雨も重い腰を上げて去った。しかしCovid-19との付き合いは続きそう。それどころか、ますます「切っても切れない関係」になりつつある。嬉しくないが、Covid-19は人付き合いが大好きなのだ。
 この数ヶ月、礼拝や活動の自粛を経験してきたが、牧会と宣教はいろんな方法で可能だと、今改めて思う。隣人に仕える愛の奉仕はCovid-19をむしろ媒体にして行える。私たちは自分の信仰心のことばかり、教会のことばかりであってはどうもうまくない。神はこの被造世界をお作りになったのだから、私たちに世界に仕える視点を求めておられるのではないか?
“この時期だからこそできること、いっぱいあるなー”

2020年7月26日日曜日

大転換だ!

 耕していた畑で宝を見つけたなら、宝だけをそっと家に持ち帰るんじゃないかな・・・?自分だったらだいたいそんなストーリーを思い描く。
 しかし、彼の非凡なところは・・・彼は一大決心をして持ち物をすべて売り払い、今までの生活に終止符をつけ、そして「宝」の埋められていた畑ごと買い取る道を選んだことだ。彼は、それまでの小作人の人生に甘んじることをやめた。大転換だ!
 「天の国」は机上の空論ではない。神と共に生きる人生には喜びがあり、そこが「天の国」だと味わい知る。いま、「宝」の発見を機に自立の道を歩くことを決意した一人の農夫の姿が彷彿とする。

2020年7月19日日曜日

そのままにしておきなさい

 誰かを一本の毒麦にたとえ、自分たちは良い麦だというふうに、この主のたとえを聞いたとしたら善悪二元論の匂いがする。もしそうなら、「真っ先に引き抜かれるべきは他ならない、私ではないか!」と思った。
 世の中に毒麦と呼ばれる麦は存在するし、他人の畑にも毒麦を見つける。そして、認めたくないが自分の畑にも毒麦は生えている。それは人類共通に存在する毒だ。この毒麦、抜いても、抜いても「敵の仕業」はなくならない。「この毒さえなければ」と思う時、「そのままにしておきなさい」との主のみ言葉が響く。
 悪いものでも大切にして、いつか良いものへと変えてくださる愛の主に、私は救われ続けている!

2020年7月12日日曜日

どんな土地でも

 イエス様は畑に種を撒いておられる。大きな袋から、福音の種を気前よく握っては蒔き、握っては蒔き…
 種は道端に落ち、石地に落ち、茨の茂みにも落ちる。そんな光景を思い描きながら、私はこの中のどの土壌だろうかと、どうしても自分の貧しさに目が行ってしまう。しかし、畑に種を撒いた後で、種ごと土を耕して種を深く土に根付かせるというパレスチナの当時の農法を知った。びっくり仰天だった!日本では想像できないが、これでないと逆に多くの実りはないという。
 イエス様は、「芽生えよ!実れ!」とばかりに、どんな土地にも、惜しみなく、今日も福音の種を蒔き続けてくださる。だから、悟らせてくださいと祈る。

2020年7月5日日曜日

ありきたりのサンドイッチのままで

 胡瓜とハムのサンドイッチは我が家の昼食の定番メニューだ。この頃、そのサンドイッチにバジルやルッコラをはさんでみる。うまい!オー、イタリアン。 
 以来、香りのものはサンドイッチに欠かせない。少しなのに味にパンチが出る、美味しさが増す、昼食がちょっと楽しい、そんな不思議な変化を感じる。
 私たちはなかなか自分だけでは変えられないし、変わりようがない。しかし、主イエスの軛に繋がれてみて、私たちは初めて「謙遜」と「柔和」を味わい知る。
 主の軛は慰め、安堵、喜び、感謝・・・そんな平凡な言葉しか浮かばないが、きっと、あなたは味わい深く変えられる。ありきたりのサンドイッチのままで。

2020年6月28日日曜日

神の恵みは変わらずにある

 この6月、ズームによる「ルターセミナー」が開かれた。
ルターの時代はペストが流行した時代だった。ルターの『慰めと励ましの手紙』を参考に聞きつつ思った。私達はcovid-19と共存する新しい時代を歩み始めているのかもしれない。
 各教会の礼拝の取り組みを分かち合い、どの教会の牧師も「礼拝をどのようにすべきか」「オンライン礼拝は礼拝か」と、悩みながら努力し、工夫しているんだな〜と思わされた。
 セミナーの終わりに、「礼拝は形式ではないこと。礼拝を続けても、続けられなくてもそれは信仰の強さの証明ではないこと。礼拝を持っても持てなくても神の恵みは変わらずあること。コロナ禍で大事なのは『隣り人への愛』ということを教会の中心に据えることだ」と確認できた。晴れ晴れした。

2020年6月21日日曜日

腸の中のパートナー

 寄生虫を自らの体に長年住まわせてアレルギーの実験をした藤田紘一郎医師の腸内細菌の話が面白い。
 多様な生き物の腸内細菌はビタミンや脳内伝達物質を合成し、免疫力の70%を作っている私達の大切なパートナーだと言われて、なになに?と聞き耳を立てる。
 要は腸内細菌の餌となる食物繊維を食事で取ることが大切だということなのだが、先生がユニークなのは、腸内細菌という他者との共存を見直すことは自分を大切にすることだという哲学的な提題をしている点だ。
 自分の中のサナダムシでさえも、もう一人の自分として愛おしんだ先生は、現代人は自分と他者とを区別しすぎてバランスを崩していないだろうか?と問うている。

2020年6月14日日曜日

改めて宣教を考える

 コロナ共存時代となった日々、宣教は今までと同じとはいかなくなった。礼拝も問安も大きく変化した。
 しかし、変化を要求される中でネットでの説教・週報の配信、オンライン礼拝などさまざまな工夫を試みている。だが、ネットがますます主流のようになってゆく社会にあって、実はネットは万能ではない。主は一人ひとりに主の福音が伝わることを望んでおられる。
 コロナの時、私達はなんの宣教手段もないと言って恐れることはない。主は私達の創造力も想像力も持久力もさらに豊かにして、宣教に送り出してくださる。
 今日、主イエスは12弟子を着の身着のままで送り出された。改めてアナログ的な宣教を考える。

2020年6月7日日曜日

恵みを先取る祈り

 この3ヶ月、私達は主イエスの受難と死、そして復活、昇天、聖霊降臨の喜びを記念してきた。
 三位一体主日の今日、これらを通して示されている父なる神と子なるキリストと聖霊の慈しみが私達をまるごと包んでいてくださることをしみじみ味わいたい。
 「お守りくださるのですね。感謝します」とは、ご主人が10時間に及ぶ手術を受けた直後の奥様の祈り。「渋滞を取ってくださるのですね。会わせてくださるのですね。感謝します」。これも彼女の夫がICUに移される前に一目会いたいと願って、渋滞をくぐり抜けて、病院に駆けつけた時の先取りの祈り。聖霊はこんなにも大きな愛と信頼の内に私達を生かしてくださる。

2020年5月31日日曜日

聖霊は香油のように

 聖霊降臨祭の今日、2ヶ月ぶりに教会に集まって礼拝に与る。この恵み、この幸い、この感謝!
 私達はこの自粛の期間、新型コロナウィルス感染症による不安と孤立の中にある方々を覚えならが祈りの時を過ごした。また「時が良くても悪くても福音を述べ伝えよ」このことについて、前を向いて行くようにと励まし続けてくださった聖霊に感謝する。
 私達はこれからコロナ時代を生きてゆくことになった。私達の生活も礼拝の仕方も変わる。そこに恵みは必ずある。教会は聖霊に信頼する。聖霊は過去の辛い記憶に慈しみの香油を塗ってくださり、私達のうちに調和を作り出してくださる。さあ、聖霊の風よ、吹け!

2020年5月24日日曜日

心と心は近くにいたい

 COVID-19のおかげで私達の物理的距離はすっかり遠くなった。人と人との接触が感染を広めるからだ。
 病院には付き添いも見舞いもできない。重篤な病気での入院手術には付き添ってあげたいに違いない。施設やホームも同様だ。施設で暮らす障害を持つ方のご家族は、月に一度施設から送られてくるその方の写真を見て慰められているという。
 米国では施設の老人の孤独による死亡が増えている。認知症のお年寄りは家族が訪ねてハッグするだけで、家族の愛を確認できたものを…悔しいに違いない。
 人との物理的距離によって私達の心が遠く離れることがないように、主よどうぞ知恵を与えてください。

2020年5月17日日曜日

離れていても感じあえる

 休校になって二ヶ月。「NPOカタリバオンライン」で出会った全国の子供達が今の気持ちを詩にして伴奏をつけた。子供達は自宅からネットで歌っている。
 「世界中が止まっても いつものように朝が来て どんどん今日が生まれてく…集まれないけど集まろうよ 離れていても感じあえる 約束しよう優しい気持ち どこにいても心をつなげたい…」打算や計算のない子どもたちの気持ちがストーレートに伝わってくる。
 「離れていても感じあえる」。このメッセージに勇気が湧く。今、私達に必要な「つながり」の感覚はこれ!互いを思いやる時、主は私達につながり、私達同士をつなげてくださる。聖霊なる主は「元祖つながり」だ!

2020年5月10日日曜日

心の手を握りしめる

 先日、叔母が入所しているホームから知らせが入った。94歳の叔母に熱があるという。「38度4分ですか!」と私。新型コロナウィルスの感染が頭をよぎる。しかし、万が一感染していても、誰のせいでもない。これが天の父が定めた叔母の時だと覚悟を決めた。
 しかし、解熱剤を飲んで翌朝、叔母は平常に戻った。その夜、叔母に付き添ってくださった職員さんは、一時間おきに叔母の体温、血圧、脈拍、サチュレーションを測り、数時間ごとに3回に分けて水分の補給をしてくださったそうだ。
 家族にもできない看護に思わず涙・・・有り難くて感謝を言葉にできない。
 叔母は守られた。時節がら叔母には会えないが、「よかったね~叔母さん!」と、心の手を握りしめる。

2020年5月3日日曜日

それならば・・・と

 緊急事態宣言が一ヶ月先まで延長されそうだ。長引く礼拝や集会の休止に気持ちはどうしてもしぼみがち。どうか、福音につながり続けてほしいと覚悟を決めてYouTubeとFacebookに説教をアップした。
 礼拝と集会の自粛を始めて以来、毎週ごとの説教をメールで配信するかコピーして郵送している。しかし、御言葉は聞くことが大事にされてきたことを思うと、ネット上であっても聞けることは一つだ。そういう声に押されて恥ずかしながら試みることにした。
 不慣れなレコーディングを何回もやり直すうちに元の説教原稿から外れてしまったが、とにかく初めの一歩だ。少しでも主日メーッセージに触れていただければ幸い。

YouTube で "日本福音ルーテル小田原教会湯河原教会" と検索してみてください。説教ビデオの閲覧ができます。

2020年4月26日日曜日

心は燃えていたではないか!

 鶯の澄んださえずりが近くの木陰で聞こえる。気がつけば桜はすっかり葉桜となり、木々の若葉が美しい。
 丁度いまごろの季節、二人の弟子がエマオへの道で復活の主イエスに出会った・・・。
 ロバート・ズンドの「エマオへの道」は青空のもと、緑豊かな春の道で主を挟んで歩く三人の後ろ姿が描かれている。大好きな絵の一つだ。
 「道で話しておられるとき、聖書を説明して下さったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか!」と、後になって気づいた二人の弟子の感動に思いを馳せる。彼らが言う「あのとき」とは「一緒に歩いているこのとき」なんだ!いいなーと想像が膨らむ。

(エマオへの道 ロバート・ズンド と検索してみてください。絵が見られます)

2020年4月19日日曜日

ひねくれ者にも祝福だ!

 弟子達はユダヤ人を恐れて家に鍵を駆けて閉じこもっていた。復活の主はそこに現れ、真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように」と祝福してくださった。
 ところで、トマスはみんなが一緒にいたときにどこに行っていたんだろう?理屈屋でちょっとシニカルな彼は仲間から一人外れるひねくれ者だったかもしれない。主はそんなトマスを愛して、もう一度同じ状況を再現して下さった。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言って下さった。
 そういえば「お前はひねくれている」と生前の父も先生方もよく言ってたなぁ・・・思い出して、なんだか懐かしい!バンザ〜イ、ひねくれ者にも祝福だ!

2020年4月12日日曜日

アーメン。主は復活された。

 「主は復活された。ハレルヤ!」主イエス・キリストのご復活を皆様と共に心からお祝いいたします。
 今年はやむなくイースター礼拝を教会で皆さんと一緒にではなく、各ご家庭で与っていただくことになりました。
 しかし、私たちは依然として聖書を読み、祈ることが許されています。なんと幸いなことかと思います。皆様お一人お一人に、主の復活の喜びが届きますようにと心からお祈りいたします。
 まだ緊張や不便な状況が続きますが、試練に耐えることが日常であった禁教の時代を想い起こします。今日私たちは復活の主に出会いました。主から愛された者として“隣人への愛の配慮を心に”と願うものです。

2020年4月5日日曜日

満開の桜に誘われて

 Covid-19の感染拡大を思えば気持ちは沈むが、満開の桜に誘われて、すっかり慣れた小田原への行き帰りの道、桜を見ながら行くことにした。
 旧造幣局の桜並木道を通りながら、「ここはY兄が案内してくれた場所だったね」と家人と話しながら通る。
 Y兄はこころの病気だった。救われたいと洗礼を願って授けられた。そして4年後にちょっとした怪我がもとで天に召された。本当にあっけなかった。
 満開の薄墨色の桜を見ながら、今は天にいるY兄に、「この桜、一緒に見たよね」と話しかける。桜の色がなんだかいつもより灰色っぽく感じるのはこちらの気持ちのせいなのか。今年、桜は薄墨色がいいと思う。

2020年3月29日日曜日

誰のための自粛か

 今や世界中に感染が広がった新型コロナウィルス、日本でも都市を中心に感染の拡大が止まらない。
 先日も用事があって熱海の繁華街を車で通ったが、若者たちの多さに驚いた。ある店の前には黒山の人だかり。人と人との距離を開けるという社会的距離など、どこ吹く風といった様子・・・少々気が滅入った。
 Covid-19の感染が国民の60%〜70%に及ぶと予測されるという専門家の見解を受けてのドイツのメルケル首相の言葉が印象的だ。「高齢者とリスクのある人々を守る為に、私たちの団結と理性とお互いを思いやる心が試されている」。今この言葉の重みを噛みしめる。「私は大丈夫」という正常性バイアスに陥るまい!

2020年3月22日日曜日

鎮座ましたサボテン

 一年に一度、丁度クリスマスの季節に花をつけるシャコバサボテン、教会のクリスマス用にと家人が挿し芽で増やした結果9鉢になってしまった。
 日の当たる南の部屋で育てたいと言うので、フラワースタンドをネットで注文した。待つこと1ヶ月半。
 3月の初めに荷造りテープでぐるぐる巻きにされて届いたのはある国からの国際宅急便。驚いたのはそればかりではない。部品のサイズが合わないのだ。組み立てに難航する。「な〜に、単純作業さ!」と気分転換に毎夜30分、2週間かけてとうとう完成。やったぞ!
 春の日差しの中に鎮座ましたサボテン、その鉢に同居して名も知らぬ草が小さな黄色の花をつけている。

2020年3月15日日曜日

今、新鮮に映る

 Covid-19の感染は世界に広がった。私の楽しみのF1レースも中止。「やっぱり!」だが、しかたがない。
 そんな中、「仕事がキャンセルになって、聖書を読む時間が増えました」という方がいて、いいなーと思う。
 「おもしろいことをしてみよう。なんにもなくても、げんきでいなくちゃいけないもの」という言葉が思い出された。『あおい目のこねこ』という絵本の一節だ。
 ネズミの国を見つけにゆく元気な子猫は、黄色い目の5匹の猫たちから青い目を馬鹿にされながらもひょうひょうと生きていく。困難に出くわしても「なーに、こんなこと、なんでもないや」と意に介さない。
 きわめて前向きな子猫の姿は、今、新鮮に映る。

2020年3月8日日曜日

空の鳥、野の花を見よ

 新型ウイルスの目に見えない脅威で世の中は活動自粛の方向にますます傾き、根拠なきデマが飛び交う。
 薬局やスーパーでガラリと空いたスペースの棚があって、はてな?と思った。それがトイレペの買い占めだったと後から知ってビックリ!今朝もトレペを買って道路も見ずに渡ろうとしている人がいた。トレペに夢中になり事故にあっては元も子もないのに・・・。
 「空の鳥、野の花を見よ」という主の教えが今更よみがえる。空を飛ぶ鳥の自由さ!野に咲く花の無心なこと!自分が生きているんじゃない、神が生かしてくださるのだと気づく。先へ先へと私を追い立てる脳みそをストップさせ、主の前に口を閉じで静まる。

2020年3月1日日曜日

神の子の道

  コロナウイルスで落ち着かない日々が続きそうだが、こんな時こそ今が四旬節であることを覚えたい。
 今日、主イエスは荒野に導かれて悪魔の誘惑にあう。パンの誘惑、肉体を傷つけない誘惑、力の誘惑だ。
 民衆を魅了する肉のパン。自分の肉体が安全であることの保証。全世界を手中に収める権力。この3つが手に入れば神の国の完成はいとも簡単のはず。
 しかし、主はパンではなく真のいのちに導く救いのパンによって、傷つかないことではなく十字架上で自分の体が傷つくことで、人を力で屈服させるのではなく人が自由意志で喜んで神に従うようにと、全ての人を救ために「神の子としての道」を選ばれた。

2020年2月23日日曜日

直球勝負

 先日、Iさんの召天三年目の記念の祈りがあった。その日、河津桜が満開の墓苑にIさんのかつての仕事仲間であった親しき友人たち数人も集ってこられた。
 Iさんは洗礼の後、3年ほどで召された。その間、入退院を繰り返しながらも神の国の希望を持って、「赦し」と「救い」について身近な人達に語っておられた。そのことを思い巡らしながら説教をさせていただく。
 記念式の後の懇談で一人の方から質問された。「自分が赦されるにはどうしたらいいですか?」まさに直球が飛んできた!他の方も興味津々で耳を傾けている。Iさん、今も天から祈っておられるのだな〜。ここは伝道のチャンスだと、この時を主に感謝した。

2020年2月16日日曜日

一番痛いところだなぁ!

 主は山上の説教で私たちを8つの幸いで満たし、地の塩、世の光だと祝福してくださった。その後で、キリスト者の新しい生活を示される。ドキッとするが今日「心の殺人」「心の姦淫」を戒めてくださる。
 「誰しも腹を立てるくらいは仕方がない」と、どこかで自分にお墨付きを与えてはいないだろうか。法というものは決して内的在り方にまでは踏み込まない。法は外に現れた行為に対して拘束力を持つからだ。
 主は、もう律法に従うだけのトレーニングの時代は終わったと言われる。まさに「行動」ではなく、法では拘束されない目に見えない「心の有り方」が問われている。何と言ってもここが一番痛いところだなぁ!

2020年2月9日日曜日

主よ、憐れんでください

 お隣の国、中国では新型コロナウイルスの感染が止まない。感染者と死亡者の数が日々増え続けている報道に胸が痛む。関係者の苦難を思えば決して他人事でない。主よ、この苦境を乗り切らせてくださいと祈る。
 それにしても、花粉症などでマスクの必要な方もおられよう。が、マスクは品切れ。インターネットで普段の10倍もの値段で転売していると言うから呆れる。
 かつてヨーロッパで黒死病(ペスト)が大流行した。「死の舞踏」に描かれる恐怖は当時の現実だ。また足に大きな腺ペストのコブのあるキリスト像を見たことがある。人々はこれをさすりながら祈ったのだろうか。「主よ、憐れんでください」と聞こえてきそうだった。

2020年2月2日日曜日

でっかくて重い

 昨年の年の暮れのことだ。Tさんが泥だらけのかぼちゃのようなものを持ってニコニコ顔で来られた。
 「家の畑を掘っていたら、こんなのが出てきたよ!」蒟蒻芋だった。「へー、これが蒟蒻芋か!」生まれて初めて見る蒟蒻芋は予想外にでっかくて重い。
 さて今年に入って、4キロのこの芋からKさんが手間暇を惜しまずたくさんの蒟蒻を作ってくださった。作り方を聞いたが、私にはまったく魔法のようだ。
 礼拝後の昼食で、美味しくて食感抜群の手作り蒟蒻を皆で楽しむ。湯河原教会の兄弟教会にも蒟蒻を分かち合った。畑の隅に育った天の恵みは広がって教会家族の食卓に一役かってくれた。分かち合いの幸いだ!

2020年1月26日日曜日

教会家族

 今年も教会の年次総会が近づいてきた。昨年の振り返りをし、新しい年の宣教を思い巡らす・・・このところ、そんな時間を過ごしてきている。
 昨年から教会家族ということを思っている。お互いに欠けはあるけれども補い合って、助け合ってやっていく・・・なんか、いいなーって思う。
 今日、主は人を選んで従えと言う。主に選ばれた者とはキリスト者のことだ。私も日々主の示しに従って眼の前の人と出来事に向き合っている。私は何も誇ることができない。優れているから選ばれたのではない。主はもっとも弱く、貧しい人を選んですべての人を救おうとされている。それが教会家族から始まるんだ!

2020年1月19日日曜日

我が足元の生活から考えてみる

 今日のこの寒さはこの冬初めてと言っていい。さすがに冬だと実感できるのはおかしなことだが安心だ。
 この冬の暖かさは気にかかる。「こんにちは、暖かいですねー」という挨拶が通りでよくかわされている。「これでは夏が心配です」と言われる方もいる。これらは身近に感じる心配ということだが、実際は地球の気候変動が危機的になっているということだ。
 16歳の少女、グレタさんのことが頭をよぎる。彼女の訴えは正しい。私たち大人はこの地球を未来に残すために何ができるのか?「持続可能性」という言葉は18世紀に突然文明の滅びたイースター島の教訓から知った言葉だった。我が足元の生活から考えてみる。

2020年1月12日日曜日

同根なのだ

 平和を願って迎えた新年、飛び組んで来たニュースは暗い。アメリカとイランの紛争は、民間航空機を誤射し、176人もの命が失われる事態を招いた。
 またもや紛争が身近に感じられる。日本の中東海域への自衛隊派遣のニュースを耳にする。大戦中のラジオ放送を聞いているような錯覚を一瞬覚えた。
 平和という時、聖書は私たちの心をまず問う。世界で起きている紛争は海の向こうの出来事ではなく、実は私たちの只中で起こっている争いと同根なのだ。
 さて今年、やっぱり教会家族の交わりを豊かにしたいなーと願う。尊敬し合い、赦し合い、助け合う。私がそうなれたら、世界もやがて平和になるはずだ。

2020年1月5日日曜日

この幸いに感謝!

 2020年が明けた。どんな時にも祈り、どんなことにも感謝する一年でありますようにとお祈りします。
 1月6日は主イエス・キリストの顕現の祭日だ。メシアを示す星に導かれて遥か東方からやってきた三人の占星術の博士達はついにヨセフ、マリア、そして幼子イエスに拝謁し、宝を捧げ、喜びに満たされた。
 幼子イエスを我主として礼拝したこの三人の博士達は私たち皆の代表だ。博士達の姿に私自身を重ねてみる。彼らの姿は主を礼拝する者の原型のような気がした。神の前に謙遜にひれ伏し、喜んで献げ、神の恵みに満たされる。こういう礼拝に心から憧れる。
 年の初め、顕現日を覚えて祝うこの幸いに感謝!