こういうとき自動ブレーキがあれば、と思われた方はいないだろうか?
先日、ぶっつけたり擦ったりした車を修理に出した。「自動ブレーキが欲しい」と言ったら、「自動車は運転するもの。自動ブレーキなどつけたら、それはもうメカじゃなくなりますよ」というディーラーの言葉。
運転中の突然死による事故や高齢者の事故は多い。そう言う私も、昨日は赤信号をおおかた見過ごすところだった。見ていても、脳が反応していないのだ!
自分のへっぽこ運転を顧みないではないが、いや、へっぽこ運転だからこそ、高齢者時代の自動ブレーキを!と声を大にしたい。
この冬の我が家の昼食の定番は「雑炊」だ。今日もやけに黒っぽい葉っぱがいっぱい入っているので、どういう野菜なのかと思いながら食べる。「これ、なに?」と聞くと、白菜だという。白菜の一番外側の葉を全部使ったのだそうだ。なるほどアクの苦味がする。
「戦時中なら、さつま芋の葉を入れていたのよ」とは、家人の弁解だ。玄米にいろんな野菜を入れた塩味だけの健康食だと自慢らしい。暖かいのは冬のごちそうだと言って、居合わせた人にも勧めている。
水加減次第で人と分かち合うことができる雑炊、なるほどレントに相応しいかも知れない。だが、味の方はというと…まあ、いいか!それ以上は言うまい。
2月10日は「灰の水曜日」、この日から四旬節が始 まった。今年、初めて「灰の式」を行った。「あなたは塵から造られ、塵に帰る」と一人ひとりに告げなが ら、棕櫚の葉を焼いて作った灰で額に十字のしるしを付けた。私も、最後に灰の十字をつけてもらった。
帰る時、お互いの額に十字の印しがあるのを見て、なんだか嬉しくなった。キリストの十字架の印しを受けるというのはこの時以外にない。「回心して福音を信じなさい」ということが主のみ心だと知る。だから「改心」ではなく、「回心」なんだ。
塵にすぎないわたし達、十字架の主を頼みに、ひたすら「天の父よ」と近づきたい。
山の上で、主イエスは弟子たちに一瞬だが天の栄光を見せてくださった。それは主が生涯でただ一度だけ見せてくださったまばゆく光り輝く姿だ。
礼拝はまさに主の変容の山の頂での出来事だ。主の死と復活を体験した教会は、こうして日曜日のたびに、わたし達を山の頂へと導いてくれている。
礼拝という頂、ここでわたし達はふもとにいた時には見ることの出来なかった天の栄光を垣間見て、励まされ、キリストの体と血を頂いて、そして下山する。礼拝は天の栄光を垣間見る瞬間だ。
ペトロのように思いっきり叫びたい。「先生、わたし達がここにいることは素晴らしいことです」と。
「幸福でなくなるということが不幸。不幸でなくなることが幸福」とは一遍上人の教え。現実の思いとして妙に納得できるものの、なんだか虚しさが残る。
今日、主は「幸いと不幸」を教えられる。すべてを神様に委ねて、生きてゆくことのできるあなたは幸い。そして、今この世のものだけで満足しているあなたは不幸だと。「幸い」とは、神の絶対的な愛で、無条件に私達が愛されていることを知ることだ。
「幸せの青い鳥」を探して旅をした兄妹は、家に帰ってみて、青い鳥は前から家にいたことに気がつく。
それと同じだ。神の愛は宇宙の創めからあなたと共にあった。思い切って主の幸いに身を委ねてはどうか。
季節は大寒に入った。木々は春の芽吹きの備えを真冬にしている。自分はこういう準備を滞ることなく、たんたんと出来る人間では決してないが、こういう自然には憧れる。
「 諦めて丸めて捨てた過去の夢 皺を伸ばせばまだ叶うはず」これは『学生百人一首』の今年の一首。 「着々と準備よく」ではなくても、諦めたものにもう一度挑戦するというのはなかなかいい。再挑戦というのもある。再、再挑戦だって構わない。
今日、主は夜通し漁をして徒労に終わったペテロにもう一度網を下ろせと言われる。「お言葉ですから」と、聖霊は働く。
身近な人たちが風邪にかかっている。そういう私も2,3日前には風邪のためその日の夕食は食べることが出来ず、そのまま床についた。
翌日も朝食から抜いて、その日は一日体に蓄えたもので過ごす。 この日の午後の「癒やしの礼拝」の後で、正月に本物の餅を食べなかったという人たちのために、餅を食べてもらおうと、おしるこを作った。
「イエス 内なる光 闇にとどまることなく イエ ス あなたの愛を伝えられるように」と歌った。その後のおしるこは格別だった。「イエスさまは本当に優しいんです」って伝えたい。よ~く伸びるお餅とあったか~いおしるこで。外は寒いが教会は暖か。私は空きっ腹。
朝食の欠食率は2割近くという中学校のニュースが目に止まった。校長自ら生徒に呼びかけ、フードバンクなどから調達した朝食を食べさせているという。
朝8時前、校長と教頭それに養護教諭たちが林檎の皮を剥いたり、パンを皿に載せたりして、生徒に給仕する。「目の前に食べていない子がいる。この子たちが大人になれば、その習慣が次の世代に引き継がれてしまう」と校長はいう。彼は、「目の前の必要に向き合う」ことが「負の連鎖を断つ」ということになると確信するのだろう。深く共感する。
新しい年も、主は求める方々を教会へと招かれるに違いない。さあ、私も自ら給仕するものとされて。
元日の朝、祈祷のために礼拝堂を開ける。教会入口にある電柱の足元に、自生してすっかり大きくなった菜の花が、黄色い花をつけていた。鼻を近づけると、蜜の良い香りがする。爽やかな新春の喜びを目と鼻で受け取った。
新しい年の始め、今年は聖書を通読しようと心に決める。旧約3章と新約1章、毎日通読すれば一年で聖書全巻を読み終える。
さて、それでは今日からと聖書の冒頭を開く。そうか、新しい年、2016年もこのみ言葉で始まるんだ。「初めに、神は天地を創造された」。菜の花も年頭の志も万物の創造主あってこその、この喜び。
クリスマス、すっかり暗くなって帰ってきた。先 に車から降りて玄関に向かった家人が叫んでいる。
「あなた!うちにもサンタさんが来たー!!!」
車のヘッドライトに照らされて、夜目にも分かるくらい牧師館の庭がすっきりしている。庭の木々は剪定 され、玄関前に無造作に置いていた植木鉢が綺麗に整頓されている。忙しさの中で、買ったまま放置されて いたスミレの苗、それが植木鉢にちゃんと植えられて いるではないか!気になりつつ横目で見ながら、水だ けやっていたスミレの苗だ。
喜んだのは家人ばかりではない。これって、いいな ぁ〜。今夜は我が家も“Oh, Holy Night”だ!
「暗闇に住む民は大きな光を見、死の蔭の地に住む者に光が射し込んだ」(イザヤ書9:1)と、聖書は主イエス・キリストを光として語る。
このクリスマス、誰かの心に小さな光を灯したいと願う。Aさんの表情がこの頃チョット良くなってきた!Bさんも昨日初めてニコッと笑ったね。Cさんとは電話で、いっぱい話が聞けた。Dさん、救われた。
キリスト者はキリストの光に照らされて、主を証しする。主は私の心の暗闇に輝く光だ。それは全ての人を救うためにご自分を捧げてくださった命の光だ。喜び来る!わが救い来る!クリスマスおめでとう。
「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられる」とは、天使がマリアに言った言葉である。
この後で、マリアはとても自分が恵まれているとは思えないような事実を告げられる。人間の目には、とうてい「めでたい」とは思えない事だ。マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と受け入れ、主キリストが誕生する。
キリスト者は、苦しい時ばかりでなく、どんな時もこのマリアのように、「御心のままに」と祈ることができる。まずはウソでもいいから、「御心のままに」と唱えてみては如何だろう?「御心のままに」。この言葉には不思議な力がある。
ルーテル教会では毎日曜日の礼拝で「平和の挨拶」というのをする。「主の平和がありますように」と言って握手をする。私はこの時が大好きだ。
初めての方「ようこそ」。久しぶりにあう方「お久しぶり、お元気でしたか?」。昨日もあった方「今日もあえて嬉しい!」。えっ?何やらもやもやするって?心になんだかわだかまりだって?そんなの「平和の挨拶」をすれば、みんな吹っ飛んじゃいますよ。
アドベント第2週の今日、平和を表わす「天使のキャンドル」が灯される。天使はまず「恐れるな」と告げ、そして「地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美する。私たちはみな一人ひとり御心に適う人!
紫のテーパーキャンドルが手に入った。アドベントの典礼色は待望と悔い改めを表す「紫」である。そこで欧米ではよく「紫」のロウソクが用いられる。
アドベントの1週目は希望、2週目は平和、3週目は喜びを表すバラ色のロウソクを用いる事もある。4週目のロウソクは愛を表し、クリスマスには白いキリ ストのロウソクが灯される。エバーグリーンに囲まれながら、今年は典礼色のロウソクが飾れた。
色々あったが、主の恵みに満たされたこの一年だったと振り返る。さあ、今日からアドベント。我儘を反省し、このロウソクの灯火が我が心にも灯されて、この世の闇を照らし出せるようにと切に祈る。
97歳のKさんを久しぶりにお訪ねした。長男ご夫妻のお世話で、穏やかに暮らしておられる。ベットにきちんと腰掛けて、私たちを迎えてくださった。
讃美歌を歌い、聖書を一緒に読む。「目がしょぼしょぼして・・・」とおっしゃりながらも、讃美歌も聖書箇所も的確に開かれたのにはまったく感心する。
「あともう二三日かな?って、いつも思うんです。でも朝、目が覚めて・・・」と、Kさんはニコッと、いたずらっぽく笑われた。お別れに「おど~ろく~ばかりの~恵みなりき・・・」と彼女の愛唱讃美歌「アメイジング・グレイス」を共に歌い、祈りあった。
Kさん、本当に驚くばかりの主の恵みですね!
13日夜、またしてもパリで同時多発テロが起きた。フランスは国家非常事態を宣言した。 一方、米国はゴトウさんたちを斬首したISのジョンと名乗る男を空爆によって殺害したと発表したばかりだ。
しかし、このことでインタビューを受けたゴトウさんのお母さんの言葉には、さすがキリスト者だと頷く。彼女は息子の仇討がかなったとは言わず、ケンジは平和を願って死んでいった。そのことを思うと、米国の行為は決して喜べないと言った。
自分の生命に代えて、息子を助けてほしいとうったえた母親の望みは、恨みでも憎しみでもない、息子の願ったキリストによって保たれる友和への道だ。
毎朝の聖書日課による祈りの時間がこの頃家人の都合でときどき昼にずれてしまうことがある。そんな時は、めいめい祈れば良いと思う。しかしその点に関して家人は融通が利かないほど几帳面だ。
なにか忘れ物をしたようで、なんだか落ち着かないのか、「あなた、聖書日課!」と、自分のせいであっても、まるで私のせいのように急かしてくる。
そんなおりラジオ体操がひそかなブームと聞いた。「ラジオ体操は、じわじわと体に染み込み、体をもとの健全な状態に戻す。継続することで体全体の血流がよくなり、筋肉に弾力性ができ・・・云々」なるほど、心も体も、鍵は柔軟さと継続ということか!
飼い猫のドッティが四日間ほど行方不明になった。
いつもは私たちの帰宅を待って「おかえり」と迎えてくれるのが、その日には姿を見せなかった。どこかに行っているんだろうくらいに思っていたが、二日目ともなると家人は心配で眠れなくなった。さすがに三日目にはご近所を二人で探して歩いた。
四日目、突然開いていた窓からドッティが飛び込んできた。家人は猫を抱きしめて泣いた。
この間「祈っている」という言葉に励まされた。また、心配をしてくださったご近所の方たちにも出会えた。他者の痛みや悲しみに寄り添う人の優しさを知った。猫のことのようだが、これは猫のことではない。
身体や心に病をもつ人たち、苦しみ悩む人たちがぞくぞくと主イエスのもとに集まってくる。主は彼らに向かって「あなた方はさいわいだ」と宣言される。
人は、突然の病気や予想もしなかった困難な状況に陥ると、そうではなくても、これは「自分に何か落ち度があったからだ」と、つい自分を責め始める。
だが、自分がマイナスだと思い込んでいるものを、主は、さいわいなものへと造り変えてくださる。
マルチン・ルターは「懺悔」することを教えてくれた。罪を告白し、赦しの宣言を受け、私たちは新しくされる。懺悔によって、初めて私たちは癒される。「癒やし」とは本来そういうものだ。神からの祝福だ。
一週間に一度、彼の好物を持って主にある友人を病院に尋ねる。面会室でしばしのお茶の時を持って、一週間の話をゆっくり聞かせて頂く。
心を病む彼には、親しい家族はもういない。孤独と将来の不安から「虚しくなりました」というのがこの頃の彼の口癖である。なんとか彼の支えになりたいと願う。聖書の学びと祈りのあとで一緒にテゼの讃美歌を歌う。「恐れるな わずらうな 主は共におられる 満たされる あなたは 神によって・・・」歌いながら手を繋ぐ。主が私たちの輪に入ってくださる。
彼が救われ、主に委ねて生きてゆけるようにと祈りながら、牧者としての試行錯誤の道はまだまだ続く。