わたしの誕生日はこの1月だ。土曜日なので、誕生日祝いは当然のように<無し>となった。牧師にとって土曜日は翌日の日曜日のための日だからだ。
心のどこかで子供たちから"Happy birthday"メールが来ることを期待した。しかし、翌日は何もなく、翌々日、LINEに長男から突然のメッセージが入った。「父さん、誕生日?」と長男。「イエス」と私。長男「やっぱり、なんか忘れてるなーってさ」。「お誕生日おめでとう!」「お父っつあん、I Love You」。すぐ長女からケーキと花束のスタンプがLINEで送られてきた。
嬉しいじゃないか!大満足の誕生日だ。この一言、<誕生日おめでとう I love you>これで充分。
それは主イエスがヨハネから洗礼を受けてほぼ2ヶ月余り経った、2月の終わり頃のことだ。早春の陽射しは明るく強くなり、何かが始まろうとしていた。
そんなある日、シモン・ペテロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネの二組の兄弟は主イエスに出会った。ガリラヤ湖で彼等は網を打って、漁をしていた。主は福音宣教をするために、この日彼等を招かれた。
主イエスに出会った喜び、招かれた喜びをなんと言えば良いのだろう。新しい何かが始まる!
「あの日、あの時、あの場所で、君に会えなかったら・・・」主イエスとの出会いもだ。私にも、あなたにも「あの日、あの時、あの場所」がある。
今日も絵に描いたような冬型の天気だ。朝に青空を吸い込み、夜には星空を仰ぐ。しかし満天の星を眺めても、星音痴の私にわかるのはオリオン座くらいだ。
この冬、ラジオの「冬休み子共科学電話相談」で、「ウルトラマンの星のM78はどこにあるんですか?」と小さい子が質問していた。答えに聞き耳を立てた。
オリオン座の三ツ星の一番東側の星の上の方にあるぼんやりした星雲で、地球からの距離は1600光年だ。とっても遠いんだよと先生。「ウルトラマンはそこで生まれたんだよー」とその子は元気に言った。
今晩もオリオンの腰に下げた剣を見つめながら、気の遠くなる光年の距離も神の御手の中だと思えた。
2018年の新しい年が明けた。雲一つない青空を飛行機雲が頭上をぐんぐん上ってゆく。天空に躍り出たでっかい白龍がうれしくて、思わずしばらく見とれてしまった。ホラ、足もある、尻尾だって伸びてきた・・・
大空を 真っ二つや 飛行雲
わたし達はキリストにあって日々新しくされ、新しい人として生きる。それは「自分は自分、他人は他人」ってことじゃない。聖霊はわたし達をキリストにある一致に向かって大胆に導き続けておられる!
宗教改革500年の記念の年、2017年も今日で終わりだ。教会の外壁に張り出してあるマルティン・ルターの肖像の入った大きなバナーともいよいよお別れかと思うと、少々寂しい。
中学生たちが教会の前を、「あっ、ルターだ!」と言って指差して通って行くのを二三度見た。彼等は授業で「ルターは宗教改革のヒーロー」だって習うのだろうか?もしそれだけなら、ちょっと理解が浅い。
私たちもそして君達も、人間はみな神の恵みを頂く器として愛されて今を生きているのだよとルターは伝えたんだ。聖書はその恵みの神について書いてある。
このツィートを読んだら、教会にぜひ来て欲しい。
羊飼いたちは、天使の言葉を受け入れて、そして、ベツレヘムに急いだ。幼子イエス様のいる厩を見つけるのは、きっと簡単じゃなかったんだと思う。
でも諦めずに、厩から厩へと訪ね続けた。そして、とうとう幼子が眠っている飼い葉桶をみつけたとき、それはもう、喜んだ。「天使のお告げ通りだ!」
厩も、飼葉桶も質素だった。しかし、神様は御子の誕生に必要なものを満たしてくださった。幼子イエス様が与えられて、マリヤとヨセフは満ち足りていた。
昔々のクリスマスの夜、羊飼いたちはこの不思議な光景を見て信じたと聖書は伝える。クリスマスは神の無償のプレゼント。満ち足りる幸いを今に伝える!
今年もクリスマス・チャリティコンサートで「メサイア」を聞いた。中学生の頃、クリスマスが近づくと「クリスマスはメサイアよ!」と叔母がよく言っていたことを思い出す。しかし、当時の私は「メサイア?それ、いったい何のこと?」と、思っていた。
後になって、「メサイア」はヘブル語のメシアのことで、「油を注がれた者」の意味だと知った。それは神様から特別の使命を与えられた者に対して使われた言葉で、そこから「救い主」の称号となった。
「ああ、メサイアって、イエス・キリストのことか!」と大いに納得して以来、主キリストは私のメサイアとなって共に歩んでくださっている。ハレルヤ三唱!
アドヴェントのこの季節、思わぬ恵みに与った。
家人はコンビニでクリスマスカードをコピーして、それをクレジットカードで支払った。丸一日経った翌日、カードをコピー機に忘れてきたことに気がついた。かつて米国でカード被害にあった経験のある家人は青くなった。私は「たかだかコピー代にカード払いは不注意すぎる」と、家人の傷口にさらに塩を塗ってしまった。
しかし、感謝なことにカードはコンビニの店頭に届けられていた。ありがとう!どなたかの誠実さに助けられました!
家人のミスも私のネガティブ発言もすっかりおおわれて、なお余りある恵みだった。ネガティブは罪だが、恵みはあくまでもポジティブだと心にしみる。
アドベントは忙しいが、一年で一番心が躍るときだ。クリスマスの準備をしながら次第に心が整えられる。
忙しい合間にシュトーレンブレッドと紅茶でホット一息つくのはアドベントのこの時期の格別の楽しみだ。
嬉しい、楽しいクリスマスがやってくる。・・・子どものすーきなイエス様のお生まれなさったこのよい日・・・である。
子ロバのように、子どものように、イエス様をお迎えしたい。りんりんりんりんと遠くから聞こえてくる鈴の音のように、イエス様の訪れに耳をかたむけながら・・・今日から待降節が始まった。
日本福音ルーテルと日本カトリックの宗教改革500年共同記念礼拝が長崎の浦上教会で行われた。11月23日のことだ。
この500年の間、ルーテル教会とカトリック教会とは、主キリストと福音を信じながら、別々の教会であるかのように歩んできた。そういう私達が、この場に一同に会している。「今ここに、こうしているということは本当に素晴らしい。恩寵だ!」そう思っただけで私のテンションは否応なく上がった。
ルターの宗教改革から500年、第二バチカン公会議から50年余り、私達は「和解と一致と交わり」によって、キリストの平和へと招かれた。さらなる融和と交わりに、聖霊が導いてくださる。
イエス様のたとえ話は幾重にも意味が重なっていて簡単ではない。今日の愚かな乙女たちの慌てふためきも、万事ヌケヌケの私には身につまされる。肝心な時に居眠りをし、その上、灯火を灯すための油を切らしている。人生の正念場においてなすべき準備を怠っていたという愚かな乙女たちの話だからだ。
しかし、油店までの距離がもっと近かったなら、彼女たちもなんとか婚宴に間に合っていたかもしれない・・・「問題は距離と時間だ」などと、土壇場になっても私の頭はひたすら回転する。
だが、遅い遅いと思っていた花婿は突然目の前に。主よ、しばしお待ちを・・・私今すぐ油、買って来ます!
(マタイ25:1〜13)
「ルターと宗教改革500年」というラジオ番組が楽しい。NHKのラジオ第一とインターネット放送の<らじる★らじる>で、江口再起先生がルターと宗教改革について分かりやすく教えてくださっている。
毎週火曜日の夜8時半と10時の2回の放送だ。私はインターネットで<聴き逃し>をクリックしては寝る前にかけながら聞き、いつのまにか眠ってしまう。
神学生だった頃はルターの神学はいかめしく思えたものだが、こうして今ラジオから聞くルターは親しみやすく、暖かく感じられるから不思議だ。神の義は恩寵として与えられるということを聞きながら眠る。この安心さこそ福音…ムニャムニャ…
実りの秋がやって来た。湯河原でも山や畑でミカンがオレンジに色づく。スパーの店先から買って食べるだけでは、収穫の苦労や喜びを知ることはない。
主イエスは天の父である神を農夫、ご自分をぶどうの木、わたし達をぶどうの枝に例えられる。主に繋がっていれば神ご自身が手入れをして、わたしに達に良い実を結ばせて下さるという。果たしてわたし達は良い枝なんだろうか・・・?そういえば、主は実をつけなかったイチジクの木を、世話をしてみるので切り倒さずに待ってくれと神に頼んでくれていたね。
そうか、わたし達は、神が切るのを惜しまれる主イエスの枝なんだ。実りの喜びを一緒に味わうために!
(ヨハネ15:1〜17)
ブロードウェイで大好評だったミュージカル『Cats』(キャッツ)の公演が終わって間もなくのことだった。テネシーに地方劇団の『Cats』がやって来た。車で行ける。招待状を貰ったも同然。行かなくっちゃ!
地方劇団とは言え生の歌や踊りはグッとくる。もはやライブ感覚だ。CatsのTシャツまで買って、タガーやグリザベラの歌に合わせ、私もノリノリで歌ってしまった。少々太り気味の猫も中にはいたが、いいじゃぁないか!そんなこと気にしていては楽しめない。
婚宴に招かれて礼服を来てこなかったこの人、恵みに委ねられないこの人、心の暗闇で歯噛みをしているこの人のところへ、きっと花婿ご自身が来て下さる。
(マタイ22:1〜14)
T姉の入院を偶然に知った。夕方遅くなっていたが病院へ訪ねる。どんな様子かとドキドキしながら病室に入ると、予想に反して彼女はベッドを起こして一人ゆったりと新聞を読んでおられた。ホッとした。
いつものように若き日の思い出話に花が咲く。「『ウドの大木』って言われてたのよ〜」と懐かしそうに笑っておられた。手を取り合って祈った。
別れ際に、「教会あっての私だものね。教会の皆さんによろしく。ありがとう」と言われた。これがT姉と交わした最後の言葉になった。
その約1時間半後、突然彼女は天に召された。不思議な偶然も全ては神によってつながっていると知る。
「天高く 馬肥ゆる秋」という諺がある。幼い頃に聞いて私が想像したのは、白い天馬が大きく一蹴りして、秋の青く澄み渡った大空を跳躍してゆく姿だ。
勘違いも甚だしいのだが、私は大きくなるまで「天高く馬越ゆる秋」だとばかり思っていた。耳から聞いていただけなのでこんな思い違いがあって、笑える。しかし「馬越ゆる」でもぜんぜん悪くない。天の大空はいつも神の存在を思わせてくれるからだ。
イザヤ書は、「天が地を高く越えているように神の道も思いも私たちを高く超える」(55:9)と記す。ぶどう園の主人は5時からしか働かなかった者を馬の背に乗せてゆうゆうと飛んでゆく。最後の一人にハレルヤ!
紅葉し始めた緑を眺めながら、今年のノーベル平和賞のニュースを嬉しく聞いた。
「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICANアイキャン)に贈られた理由は、「核兵器がもたらす破滅的な結果を人々に気づかせ、条約で禁止しようと草分け的な努力をしてきた」と言うものだ。
小田原からの帰り道、真鶴町の見慣れた大きな立看板「核禁止平和都市宣言」が急に新鮮に感じられる。草分けの根はこんなところにまで伸びて来ていた!
今日、人を赦せ、無限に赦せ、自分も赦されたのだからと言われる主イエスは全ての人の心に十字架の愛と赦しの立看板を立てて、平和宣言をされる。
ご近所の猫のイシグロちゃんの世話を始めて、かれこれ8ヶ月目に入るだろうか。飼い主だった方はご高齢のために一人暮らしができなくなって、施設に入らねばならなくなった。家には猫が一匹で残された。
きっと家に残した猫のことが気にかかるに違いない。キャットフード、水、蚊取り線香、懐中電灯、それにペーパータオルなど猫のご飯の世話に必要な一式を持って出かける。遅くなっても必ず私たちを待っていると思うと、大変だからと言って止められない。
猫が食べている間に、私はスクワットが100回できる。日頃は運動不足の家人も行き帰りの道のりを早足で歩いている。これをイシグロちゃんの恵みと呼ぶ。
季節は夏から秋へ。今年もあちこちに真っ赤な彼岸花が咲く。その花の間をぬいながら秋の風が吹く。
今日はなんて爽やかな風が吹くのだろう!そう思いながら見上げると、高く澄んだ秋の青空だった。
「今日は真っ青な空ですね」と、牧師館の前を通り過ぎる人が気持ちのよい声をかけてゆく。「本当にそうですねぇ」と、思わず笑顔になる。こんなちょっとした会話が楽しい。不思議にこころが澄みきって、余計なものが落ちて行く。
解放された心、神のみ手の中にある本当の安心こそが何よりも大切なんだと思う。言ってみれば、おさな子が親の愛に包まれている時の安心かなぁ〜。
「新老人の会」をご存知だろうか。故日野原重明さんが提唱してできた会だ。世界で一番早く長寿国となった日本の高齢者が、元気で生きがいを感じられる生き方をする具体的な提案活動だそうだ。
確かに、高齢になっても自立して、これまでの人生で培った知恵や経験を社会に還元できるお年寄りはたくさんいる。65歳以上を老人とするという半世紀前の国連の取り決めは、既に実態にそぐわない。
ソーシャル・ネットワークを駆使してお互いに繋がり合う「新老人」の唯一つの使命は「子供たちに平和と愛の大切さを教えること」だという。キリスト者であった日野原さんらしい。新老人の使命ってすごい!