2017年11月26日日曜日

争いから交わりへ

 日本福音ルーテルと日本カトリックの宗教改革500年共同記念礼拝が長崎の浦上教会で行われた。11月23日のことだ。
 この500年の間、ルーテル教会とカトリック教会とは、主キリストと福音を信じながら、別々の教会であるかのように歩んできた。そういう私達が、この場に一同に会している。「今ここに、こうしているということは本当に素晴らしい。恩寵だ!」そう思っただけで私のテンションは否応なく上がった。
 ルターの宗教改革から500年、第二バチカン公会議から50年余り、私達は「和解と一致と交わり」によって、キリストの平和へと招かれた。さらなる融和と交わりに、聖霊が導いてくださる。

2017年11月19日日曜日

主よ、しばしお待ちを

 イエス様のたとえ話は幾重にも意味が重なっていて簡単ではない。今日の愚かな乙女たちの慌てふためきも、万事ヌケヌケの私には身につまされる。肝心な時に居眠りをし、その上、灯火を灯すための油を切らしている。人生の正念場においてなすべき準備を怠っていたという愚かな乙女たちの話だからだ。
 しかし、油店までの距離がもっと近かったなら、彼女たちもなんとか婚宴に間に合っていたかもしれない・・・「問題は距離と時間だ」などと、土壇場になっても私の頭はひたすら回転する。
 だが、遅い遅いと思っていた花婿は突然目の前に。主よ、しばしお待ちを・・・私今すぐ油、買って来ます!
(マタイ25:1〜13)

2017年11月12日日曜日

…ムニャムニャ…

 「ルターと宗教改革500年」というラジオ番組が楽しい。NHKのラジオ第一とインターネット放送の<らじる★らじる>で、江口再起先生がルターと宗教改革について分かりやすく教えてくださっている。
 毎週火曜日の夜8時半と10時の2回の放送だ。私はインターネットで<聴き逃し>をクリックしては寝る前にかけながら聞き、いつのまにか眠ってしまう。
 神学生だった頃はルターの神学はいかめしく思えたものだが、こうして今ラジオから聞くルターは親しみやすく、暖かく感じられるから不思議だ。神の義は恩寵として与えられるということを聞きながら眠る。この安心さこそ福音…ムニャムニャ…

2017年11月5日日曜日

よい実をつけるぞ

 実りの秋がやって来た。湯河原でも山や畑でミカンがオレンジに色づく。スパーの店先から買って食べるだけでは、収穫の苦労や喜びを知ることはない。
 主イエスは天の父である神を農夫、ご自分をぶどうの木、わたし達をぶどうの枝に例えられる。主に繋がっていれば神ご自身が手入れをして、わたしに達に良い実を結ばせて下さるという。果たしてわたし達は良い枝なんだろうか・・・?そういえば、主は実をつけなかったイチジクの木を、世話をしてみるので切り倒さずに待ってくれと神に頼んでくれていたね。
 そうか、わたし達は、神が切るのを惜しまれる主イエスの枝なんだ。実りの喜びを一緒に味わうために!
(ヨハネ15:1〜17)

2017年10月29日日曜日

きっと花婿ご自身が来て下さる

 ブロードウェイで大好評だったミュージカル『Cats』(キャッツ)の公演が終わって間もなくのことだった。テネシーに地方劇団の『Cats』がやって来た。車で行ける。招待状を貰ったも同然。行かなくっちゃ! 
 地方劇団とは言え生の歌や踊りはグッとくる。もはやライブ感覚だ。CatsのTシャツまで買って、タガーやグリザベラの歌に合わせ、私もノリノリで歌ってしまった。少々太り気味の猫も中にはいたが、いいじゃぁないか!そんなこと気にしていては楽しめない。
 婚宴に招かれて礼服を来てこなかったこの人、恵みに委ねられないこの人、心の暗闇で歯噛みをしているこの人のところへ、きっと花婿ご自身が来て下さる。
(マタイ22:1〜14)

2017年10月22日日曜日

全ては神によってつながっていると知る

 T姉の入院を偶然に知った。夕方遅くなっていたが病院へ訪ねる。どんな様子かとドキドキしながら病室に入ると、予想に反して彼女はベッドを起こして一人ゆったりと新聞を読んでおられた。ホッとした。
 いつものように若き日の思い出話に花が咲く。「『ウドの大木』って言われてたのよ〜」と懐かしそうに笑っておられた。手を取り合って祈った。
 別れ際に、「教会あっての私だものね。教会の皆さんによろしく。ありがとう」と言われた。これがT姉と交わした最後の言葉になった。
 その約1時間半後、突然彼女は天に召された。不思議な偶然も全ては神によってつながっていると知る。

2017年10月15日日曜日

天高く馬越ゆる秋

 「天高く 馬肥ゆる秋」という諺がある。幼い頃に聞いて私が想像したのは、白い天馬が大きく一蹴りして、秋の青く澄み渡った大空を跳躍してゆく姿だ。
 勘違いも甚だしいのだが、私は大きくなるまで「天高く馬越ゆる秋」だとばかり思っていた。耳から聞いていただけなのでこんな思い違いがあって、笑える。しかし「馬越ゆる」でもぜんぜん悪くない。天の大空はいつも神の存在を思わせてくれるからだ。
 イザヤ書は、「天が地を高く越えているように神の道も思いも私たちを高く超える」(55:9)と記す。ぶどう園の主人は5時からしか働かなかった者を馬の背に乗せてゆうゆうと飛んでゆく。最後の一人にハレルヤ!

2017年10月8日日曜日

愛と赦しの立看板

 紅葉し始めた緑を眺めながら、今年のノーベル平和賞のニュースを嬉しく聞いた。
 「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICANアイキャン)に贈られた理由は、「核兵器がもたらす破滅的な結果を人々に気づかせ、条約で禁止しようと草分け的な努力をしてきた」と言うものだ。
 小田原からの帰り道、真鶴町の見慣れた大きな立看板「核禁止平和都市宣言」が急に新鮮に感じられる。草分けの根はこんなところにまで伸びて来ていた!
 今日、人を赦せ、無限に赦せ、自分も赦されたのだからと言われる主イエスは全ての人の心に十字架の愛と赦しの立看板を立てて、平和宣言をされる。

2017年10月1日日曜日

イシグロちゃんの恵み

 ご近所の猫のイシグロちゃんの世話を始めて、かれこれ8ヶ月目に入るだろうか。飼い主だった方はご高齢のために一人暮らしができなくなって、施設に入らねばならなくなった。家には猫が一匹で残された。
 きっと家に残した猫のことが気にかかるに違いない。キャットフード、水、蚊取り線香、懐中電灯、それにペーパータオルなど猫のご飯の世話に必要な一式を持って出かける。遅くなっても必ず私たちを待っていると思うと、大変だからと言って止められない。
 猫が食べている間に、私はスクワットが100回できる。日頃は運動不足の家人も行き帰りの道のりを早足で歩いている。これをイシグロちゃんの恵みと呼ぶ。

2017年9月24日日曜日

親の愛に包まれて

 季節は夏から秋へ。今年もあちこちに真っ赤な彼岸花が咲く。その花の間をぬいながら秋の風が吹く。
 今日はなんて爽やかな風が吹くのだろう!そう思いながら見上げると、高く澄んだ秋の青空だった。
 「今日は真っ青な空ですね」と、牧師館の前を通り過ぎる人が気持ちのよい声をかけてゆく。「本当にそうですねぇ」と、思わず笑顔になる。こんなちょっとした会話が楽しい。不思議にこころが澄みきって、余計なものが落ちて行く。
 解放された心、神のみ手の中にある本当の安心こそが何よりも大切なんだと思う。言ってみれば、おさな子が親の愛に包まれている時の安心かなぁ〜。

2017年9月17日日曜日

新老人の使命ってすごい!

 「新老人の会」をご存知だろうか。故日野原重明さんが提唱してできた会だ。世界で一番早く長寿国となった日本の高齢者が、元気で生きがいを感じられる生き方をする具体的な提案活動だそうだ。
 確かに、高齢になっても自立して、これまでの人生で培った知恵や経験を社会に還元できるお年寄りはたくさんいる。65歳以上を老人とするという半世紀前の国連の取り決めは、既に実態にそぐわない。
 ソーシャル・ネットワークを駆使してお互いに繋がり合う「新老人」の唯一つの使命は「子供たちに平和と愛の大切さを教えること」だという。キリスト者であった日野原さんらしい。新老人の使命ってすごい!

2017年9月10日日曜日

若き時の

 「いやー、今日はこの言葉がズシッと来たー!」と聖書の学びで皆が言った箇所は「わたしの若き時の罪と、とがとを思い出さないでくださいだ。(詩篇25:7)
 私やもっと上の年齢の方たちは「今思い出しても恥ずかしいことを一杯やってきた」と言う。そして、私よりずっと若い彼等も笑いながら言う。「今もそうだけど、10代や20代のころはホント未熟だったよね〜。自分ばっかり偉そうだった!」。若き日は誰にも“恥多き若かりし頃”なんだと深くうなずく。
 私たちも詩篇の詩人と共に深い懺悔をする。私の罪には目をつぶり、私に対する慈しみだけを思い出してください。虫のいい言い分だが、主にだけは願える。

2017年9月3日日曜日

今、心から感謝!

 この夏、健康上の都合で外出できないが、聖書の学びがしたいという一人の方を訪ねた。
 インターネットはしないというので、テキストなどは郵送し、「感想や質問は電話か手紙で」ということで始めたものの、なかなか進まない。やっぱり手紙や電話ではね〜という思いがつのる。イエス様の「訪ねよ」という声もするので、この日思い切って訪ねた。
 西陽の射す部屋で、麦茶を飲み、飲み、吹き出す汗を拭き、拭き、学ぶこと2時間。猛暑の中、扇風機だけ?エアコンが壊れていたことを後から知った。それにしてもあの時のものすごく冷えたオシボリには救われた。訪ねて良かった。今、心から感謝!

2017年8月27日日曜日

嬉しくなってそっと歌う

 このところの厳しい残暑には、正直参った!白旗を振ろうとしたとき、ふと見上げた空に広い広いうろこ雲。やっぱり秋なんだと胸を撫で下ろす。きっと明日から暑さが和らぐのだろう。そう思うだけで、気持ちはグ〜ンと楽になった。
 そうだ、あの時も主イエスはわたし達を青草の野辺に座らせて、わずかのパンと魚とを持って生き返らせてくださった。そして今日も、主は疲れ、飢え渇いている私たちを満たし、潤し、癒して下さっている。
 もう毎日が奇跡だと、もう一度空を見上げる。うろこ雲は大空にある野原のようだと思った。嬉しくなってそっと歌う。「秋よ来い、早〜やく来い」。

2017年8月20日日曜日

ちょっといい感じ

 日照不足が原因なのか、坂の上の桃の実が青いまま次から次へ落ちて、坂道を転がり落ちてくる。ゴロゴロと歩くのに邪魔になるばかりか、車に潰されて道が汚れる。
 初めは家のゴミではないのだからと、道の向こう端に足で蹴り転がしていた。しかし、桃の実は毎日転がってきては我が家の前に溜まり続ける。
 先週のこと、そうだ、拾って捨てればばいいんだとふと思った。そこで落ちてきた桃の実を上の方から拾い集めて、ゴミ袋に入れてみて思った。意外に簡単なことなんだ!お陰で道がきれいになった。なんだか嬉しい。私もちょっといい感じになった気がする。これって隠された宝を見つけた気持ちに通じてる?

2017年8月13日日曜日

発想の転換が必要だね

 灰色の猫、JDは大のブラシング嫌いのせいで、すっかり毛玉だらけになってしまった。先日、見かねた家人が毛玉を切ろうとして、誤って皮膚を切ってしまった。獣医さんで5針縫ってもらった。
 「少し毛をトリミングしてあげましょう」という獣医さんの勧めで、お願いして帰った。ところが、病院へ迎えに行ってびっくりした。丸刈だった!
 本人は綺麗さっぱり毛を捨てて結構ご機嫌だ。尻尾の先にだけ残された毛が、ライオンの尻尾のようでなんとも可愛い。毛玉のトラブルもすっかり無くなった。「君はライオンだね」とツルツルの体を撫ぜてみる。
 思い切って丸刈りか!発想の転換が必要だね。

2017年8月6日日曜日

平和の祈り-聖フランシスコによる-

主よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。
  憎しみのあるところに 愛を、
  争いのあるところに 許しを、
  分裂のあるところに 一致を、
  疑いのあるところに 信仰を、
  誤りのあるところに 真理を、
  絶望のあるところに 希望を、
  悲しみのあるところに 喜びを、
  闇には光を、もたらす者としてください。
聖なる主よ、どうぞわたしに望ませてください。
  慰められるよりも 慰めることを、
  理解されるよりも 理解することを、
  愛されるよりも 愛することを、
  わたしたちは与えるから 受け、
  すすんで赦すから 赦され、
  自分を捨てて死んでこそ 永遠の命をいただくのですから。
  アーメン

2017年7月30日日曜日

聖霊の涼しい風が吹く

 小田原への道、早川駅前を車で通り過ぎた。頭にタオルを撒き、かごを背負って、でっかいトンクを片手にゴミを拾いながら歩いている男性を見かけた。頭にタオルを巻いた姿は、どう見てもボランティアワークだ。この暑さの中、エライ人がいるものだ!
 翌朝のこと、教会前のゴミ置き場のネットを抱えていく近所の方に会った。だいぶボロボロだけれども、繕えばもう少し使えるかなと思って・・・とニコニコ顔。汚れたゴミのネットを、ホント、有り難い!
 私はと言えば、今週は暑さと忙しさとでくたびれ果てた!だが、こんな無私の行為を見れば、からだの中には聖霊の涼しい風が吹く。さあ、また頑張るか!

2017年7月23日日曜日

ラインホールド・ニーバーの祈り

ラインホールド・ニーバーの祈り」

神よ、変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、
変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

2017年7月16日日曜日

すでに愛は勝ったのだから

 主イエスは弟子たちを宣教に送り出すにあたって、迫害のあることを予告された。戦後日本では思想・信教の自由は国民の基本的人権として保証されたが、いま雲行きが怪しい。隣の国々ではなお弾圧の中にある。
 30年ほど前になるが、「愛は勝つ」という歌が流行った。…どんなに困難で、挫けそうでも、信じることさ、必ず最後に愛は勝つ…恋愛の応援歌だが、妙にキリスト教的だなぁと感じたことを思い出す。
「敵はいない」と、非暴力の戦いを続けた隣国の人は死んで負けたのではない。キリストは、私たちは孤立無援ではないこと、神の私たちに対する慈しみは決してなくならないと伝える。すでに愛は勝ったのだから。

2017年7月9日日曜日

雨の中で輝く紫陽花は

 九州北部では数十年に一度という豪雨のために多大な被害が出て心が痛むというのに、ここは真夏の天気が続く。ふと、地球温暖化、異常気象と言う言葉が頭をよぎる。
 「去年はきれいだったのに、今年は紫陽花はかわいそううですね」とは、たった今通りがかった近所の方の言葉だ。そう言えば今年の紫陽花はさっぱりだった。「どうぞご自由にお持ちください」という札も貼らずじまいだった。梅雨はまだこれからが本番なのか、それとも遅れた「梅雨明け宣言」を待つだけなのか?
 いつの間にかシトシト雨の安心で懐かしい梅雨を忘れてしまうことがないようにと願いながら、雨の中で輝く紫陽花は来年の楽しみに取っておく。

2017年7月2日日曜日

何十年ぶりかのプリン

 今週もホームで暮らす92歳になる叔母を訪ねると叔母は満面の笑顔で迎えてくれた。
 叔母は好物のプリンを見ると、「あら、こんなに美味しいもの、何十年ぶりかしら」そう言いながら、ゆっくりと美味しそうにプリンを味わって平らげた。
 「何十年ぶりだって?!」と私は内心であきれて、先週もプリンを食べましたよと訂正しようかと思って、止めた。叔母の中ではとっくに時間の観念はなくなっている。
 プリンを食べる度に、何十年ぶりかと思うほど美味しいと思えるなんて、なんて幸せなんだろう!こんな感動を神様は叔母にくださっているんだ。

2017年6月25日日曜日

枇杷を食べながら思う

 甘くておいしい実のなる枇杷の木が小田原教会の庭の外れに一本ある。もともと実生の枇杷だったらしいが、順調に育ってこの2、3年でたくさん実を付けるようになった。礼拝の後、みんなで採って楽しんだ。高い所のは、鳥や虫たちへの恵みの分かち合い。 
 手で皮をむくだけで果汁が溢れる。甘さが口一杯に。そんな枇杷を食べながら思う。良い木はイエス様だ。良い実は、イエス様が下さる福音だ。わたし達はそれをただ、ただ、頂いて味わえばいいんだ・・と。
 「自分なんかダメだ」や「・・・ねばならない」に押しつぶされそうになって生きる私たちの口に主は今日もジューシーな福音の実を食べさせて下さる。

2017年6月18日日曜日

喜んで天に送ろう

 梅雨に入ったと言うのに、このあたりは晴天続き。庭の紫陽花も心なしか、うらめしそうに空を見上げる。本来なら、シトシト、ジトジトの季節だと思えば、サヤサヤと吹く爽やかな初夏の風はもうけもの。
 この格別の天気に恵まれて、教会家族のわたし達、みんなが愛するY姉妹が天国に旅立った。107年11ヶ月3日間の長寿の生涯だった。それだけに山坂、谷ありの人生だったに違いない。
 空の鳥を養い、野の花を育てて下さる主の愛は計り知れない。しかし、空の鳥にも野の花にもまさって主はひとりの主の僕、Y姉妹を慈しんで心に留めてくださった。今日は「ハレルヤ!」と喜んで天に送ろう。

2017年6月11日日曜日

悟っておられるかのように

 リハビリ施設に入所した高齢の◯さんを時々訪ねる。今日は枕もとのところに額に入った猫の写真があった。きっとベットに入っても見ていたのだろう。
 ◯さんといつものように祈り合う。そして「クロちゃんは元気でいます。毎日、ごはんと水を持って行ってます。安心してください。◯さんの帰りを待っていますよ。リハビリ、頑張ってください」とお伝えする。
 しかしこのところ、ご自身でも家に戻ることはないと悟っておられるかのように言われる。「ご親切を感謝します。クロちゃんをよろしくお願いします」。 
 クロちゃんの餌やりももう2ヶ月になった。戻らぬ人を待つ・・・、◯さんの望みは叶えたいなぁ!

2017年6月4日日曜日

聖霊の風よ吹け

 風が吹いて、裏口でコトッと音がした。「ひょっとして主の来臨ではないかしら?」と妻。「じゃあ、ちょっと見てこよう」と立ち上がって見に行って「主はおられなかったよ」と夫。・・・これはずいぶん昔、明治生まれの老夫婦の家庭集会での会話だ。
 神がかった会話を普通にする夫婦もいるものだと半ば呆れ、半ば感心して聞いたことを思い出した。 
 それにしても聖霊降臨はまったく神がかりだ。ゴーッとものすごい聖霊の風が吹いた。すると聖霊に満たされた弟子たちは聖霊に動かされて福音を語りだす。
 すごい風でも、そよ風でもいい。コトリっとほんのチョトでもいい。聖霊の風よ吹け!わが内に吹け!

2017年5月28日日曜日

生涯神を讃美し続けた

 先日のこと、伯母の入所施設から、「これから"看取り"に入らせてください」と言う連絡を突然受けて驚いて会いに行った。そのとき、とびっきりの笑顔を見せてくれた伯母は、延命を一切しないまま3日後に微笑んで天に召された。100歳だった。
 キリスト者の両親のもとに生まれ育ち、オルガンを学び、戦後の人種差別下の米国に留学した。故渡辺善太牧師から、姉の故岡村民子は「神学」を、節子は「讃美学」を修めなさいと送り出されたそうだ。それが果たせず、帰るに帰れなかったと心の闇を覗かせた事があった。しかし最晩年も施設で礼拝に与り、生涯神を讃美し続けた。主よ、慈しみに感謝します!

2017年5月21日日曜日

不明のアーティスト

 先日、自作の歌を吹き込んだCDをいただいた。
 そう言えば、マイカーを買ってから3年以上経つというのに、車中でまだ一度もCDを聞いたことが無い。
確かCDプレヤーが装着されているはずだが・・・と説明書を見ながら、さっそく、このCDを試してみる。ボリュームを上げると、おもむろに音楽が聞こえてきた。オゥー、なかなかイイじゃーないか!
 CDのデスプレイにはちゃんと曲名が表示されたが、作曲者欄は「不明のアーティスト」とだけ。機械って全く正直だね。お世辞の一つもない。
 音楽業界では無名かもしれないが、不明じゃないよ。その人、実はイエス様つながりの人なのだから。

2017年5月14日日曜日

どんなもんだい!

 最近、私にも得意料理が出来た。豆腐の上にあんかけのようにしてのせて食べるニラ料理だ。家人が、珍しく「おいしい」というので大いに満足だ。
 ニラを5ミリほどに切って、そこに胡麻油、砂糖、酢、鰹節、醤油、赤唐辛子、すり胡麻を加えて混ぜ合わせ、冷蔵庫に保存。ニラのキムチのような味だが、そんなに辛くはない。冷奴にも、湯豆腐にもどちらでもいける。豆腐一丁くらいまたたく間に平らげられる。今年の夏は、「ニラのキムチ風あんかけヘルシー豆腐」で行こうと決めた。
 この5月、早くも真夏日が続く。「やったぜ!」「どんなもんだい!」少しばかり鼻が高くなる。

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(どなたかのHP(お名前がわかりません。ごめんなさい)からメモしたものです)
ニラひと束 5ミリに刻む 袋でまぜて冷蔵庫保存
醤油 大さじ3
酢 大さじ1
砂糖 大さじ1
ごま油 大さじ1
ごま 小さじ1
鰹節 5グラム

唐辛子 1本

2017年5月8日月曜日

おいしいね

 連休の一日、娘夫婦が訪ねてきた。何ヶ月ぶりだろうか?とにかく我が家のテーブルを片付けて、座れるところを作らなくてはと、日頃の怠慢を思いっきり反省しながら片付け始めた。しかし、床を拭き終わらないうちに、二人は牧師館の玄関に立っていた。「よく来たね」「さあさあ、上がって!」と招き入れる。
 昼ごはんは近くの店の蕎麦定食。「おいしいね、おいしいね」と言いながら食べてくれる。
 午後は真鶴半島へ。展望台で海の空気を思いっきり吸った。「やっぱり空気もおいしいね!」と二人。
 「おいしい」という二人の言葉から、親の家に帰ってきた安堵感が伝わってきた。

2017年4月30日日曜日

二人の上に祝福を!

 先日、小田原教会で結婚式をさせて頂いた。
 この3ヶ月ほど、二人には、結婚カウンセリングのために何度か教会に来ていただく。人間はみな不完全で不十分。だからお互いを赦し合い、受け入れることが何よりも大切になる。結婚における夫婦も同じだ。
 ヨハネは語りかける。「神は愛である。愛さないものは神を知らない。わたし達は神を見ることはできないけれども、わたし達が互いに愛し合うなら、その中に神はとどまってくださる」(ヨハネの手紙一4章から)
 式の後、エリカの花が満開の庭でコーヒーとケーキのレセプションを準備する。手作りの結婚式は簡素な中にも暖かさが溢れた。主よ、二人の上に祝福を!

2017年4月23日日曜日

イースターエッグのミニ・ミッション

 新緑の中を復活の主イエスの息吹を感じながら、イースターエッグをお届けした。礼拝に来られない方々とご近所の方たち、どなたも一様に喜んで下さる。
 病院に入院されている一人の方は、「イースターエッグをもらったのは初めてです。きれいですねー。」と嬉しそうに目を細める。「来年もまた。」と約束した。
 最後にお渡ししたのはミニチュアダックスを連れて牧師館の前をよく散歩される方だ。「わー、きれい!これ、飾っておいてもいいんですか?」「どうぞ、どうぞ、よろしかったら。」と、わたし。
 イエス様の復活の幸せが伝われば、それで十分。主よ、イースターエッグのミニミッションに祝福を!

2017年4月16日日曜日

この目で主を見ました!

 花とりどりを引き連れて春がやって来た。この美しい季節にわたし達の主イエス・キリストは復活された。
 主の復活は、わたし達の経験や知識というものに限界があることを教えてくれる。イエスの遺体を探しに来たマグダラのマリヤは主を墓所の園丁だと思いこんだ。にわかに復活は信じ難い。そのマリアに向かって、主は懐かしいあの声で「マリヤ」と呼びかけられた。園の中の主イエスとマリア・・・一幅の絵だ。
 主は、弟子たちが近づき得なかった十字架近くに、信仰と愛だけで近づいたマリアに、復活最初の証人の栄誉を与えられた。マリアは歓喜のうちに叫ぶ。「ああ、見ました。わたしはこの目で主を見ました!」

2017年4月9日日曜日

聖週間

 枝の主日の今日、主イエスはエルサレムに迎えられた。聖週間の始まりである。
 聖月曜日、主は神殿を清められる。聖火曜日、エルサレム神殿の境内で、主は堰を切った流れのように時を惜しんで語られる。聖水曜日、主は神殿に行かず静寂と沈黙の中で過ごされる。ユダは主イエスを売り渡すことを決めた。聖木曜日、主は弟子たちと過ぎ越しの食事を祝われる。これが最後の晩餐となった。聖金曜日、主は十字架におかかりになる。
 イエス・キリストをとおして神の愛が凝縮されたこの聖週間、主の弟子たちの経験を追体験したい。わたしも弟子のハシクレなのだから!

2017年4月2日日曜日

輝く光に包まれて

 ある方が語ってくれた話だ。
 重度の障害を持った友人が先日亡くなった。その友人は体も言葉も不自由で、ほんの2、3語を話せるだけ。しかし、いつも彼からやすらぎを与えられ、勇気づけられたという。電話で彼の死を知らされた時、輝く光に包まれて神のもとに上げられる情景が目に浮かんだ。彼との別れは悲しいけれど、自分でも驚くほど心は平和だったと話してくださった。
 人は神からの愛を受ける器として、誰もが神から頂いた命を精一杯輝かせるためにこの世に生まれ出る。
 「置かれた場所で咲きなさい」との渡辺和子さんの言葉がふと浮かんだ。

2017年3月26日日曜日

今は見える

 主イエスが生まれつきの盲人の眼を癒やされた話は、見えなかった者が見えるようにされ、主に従う者へとかえられた霊的な恵みのできごとでもある。
 英国で黒人奴隷貿易に携わったジョン・ニュートンは嵐の海で命拾いをして、悔い改めに導かれた。彼が作詞した賛美歌「アメイジン・グクレイス(驚くばかりの恵み)」に「かつては迷ったが、今は見つけられ、かつては盲目であったが、今は見える」と言う歌詞がある。あたかもこの盲人の魂の叫びのようだ。
 牧師となったニュートンは奴隷貿易禁止運動を推進する。「神の驚くばかりの恵み、それはなんという心地よい響きだろう!」と神の恵みは歌い継がれる。

2017年3月19日日曜日

満足の涙が

 施設での「歌の会」に参加していたYさんは、「私は歌が大好きだから」と言いながら、元気にわたし達を迎えてくれた。話を伺ってから、「今日は訪問聖餐にお伺いしました」と言うと、自室へ案内してくれた。
 ご自分は車椅子のままで、私にベットに腰掛けなさいとすすめてださる。この夏108歳になるYさんからこんなもてなしを受けるとは・・・と感動しつつ、感謝して聖餐に与っていただいた。
 “主われを愛す/主は強ければ/われ弱くとも/恐れはあらじ/わが主エス、われを愛す”と歌う。聖餐と讃美を通して主がYさんの内側から触れてくださった。Yさんから涙が溢れる。主から潤された満足の涙が。

2017年3月12日日曜日

猫のマーブル

 猫のマーブルが来週退院と決まった。下顎にはまだワイヤーが入り、牙も折れたが、獣医師のお陰で、とうとう自分の顎を使って食べることができるようになった。おまけに眼の先天性障害も治してもらった。車にひかれたにも関わらず九死に一生を得た。
 会いに行くと、すぐにゴロゴロ擦り寄って来てはひっくり返り、お腹を出して甘えてくる。半ノラなのに警戒心がなくおとなしい性格だ。思わず撫でてしまう。
 全幅の信頼を寄せてくるマーブルのために、どうか飼い主を与えてほしいと願う。
 “マーブルを飼って下さる方を探しています。少し長めの短毛の黒猫、人懐こい可愛い性格の猫です。”

2017年3月5日日曜日

レントには

 3月1日(灰の水曜日)から四旬節(レント)が始まった。「四旬節」という言葉は40日間のことで(復活祭までの6回の日曜日を入れて実際には46日間)、40日はもともと断食の日数だった。たとえ、わたし達は断食をしないまでも、この時期には、「祈り、節制、愛の行い」が強く勧められている。
 しかし、今日は、天の父の愛の中でゆっくり心と身体を休める日だ。まずは、父と子と聖霊の愛の交わりの中にどっぷり浸かって、主に賛美と感謝を捧げたい。
 天の父が赦してくださったように、自分自身を赦し、天の父が愛してくださったように、自分自身を愛する。そうすればだんだん他者への愛と赦しも増してゆく。

2017年2月26日日曜日

喜びが増し加わる

 熱が続き、両手がパンパンに腫れてしまった叔母がとうとう入院した。痛風かリュウマチか、それとも感染症なのか診断はつかず、主に祈る。先日の夜、病院に叔母を見舞うと、驚いたことに手の腫れがすっかり引いていた。笑顔で私を迎えてくれた叔母の手を取って感謝の祈りを捧げる。
 一方、交通事故で大怪我をした猫のマーブルも下顎の手術をしてもらい、鼻からカテーテルで流動食をとって、少しずつ回復してきている。会いに行くと、ゴロゴロ言いながらお腹を出してくれる。
 大変な中にも感謝することの多い日々だ。感謝が大きければ大きいほど、喜びが増し加わる。

2017年2月19日日曜日

きっと助かる!

 生まれつき目の悪い半ノラ猫のマーブルが車に撥ねられた。血を吹き出すマーブルを車に乗せて近くの獣医師のところへ。しかし病院は休診日。K姉妹に助けを求める。彼女の案内で、数分後に別の獣医さんに診てもらうことができた。手術の必要な重篤な状態だとわかってO市の動物病院に連れていった。
 「助けてやってください」と言う家人の懇願に、「もちろんです」との返事に力づけられる。こちらの事情を知って、費用の面でも協力を申し出てくださった。
 いまマーブルは手術を受けて生きている。主よ、感謝します。一羽の雀でさえ父の許しがなければ地に落ちることはないと主は言われた。マーブルはきっと助かる! 

2017年2月12日日曜日

主よ、カバンを

 Iさんが天の父のもとに召された。忘れもしない2013年のクリスマスに、私が牧師として初めての洗礼を授けたのが彼であった。すでに病を得ておられて、その後は入退院を繰り返しながら、忍耐強く闘病生活を送られた。
 政治家の秘書という経歴からだろう、「元気になったら岡村牧師の鞄持ちをして、牧師がどんなことをしているのか知りたい」と、よく冗談に言っておられた。
 いまごろは、御国の門に出迎えてくださったエス様に「主よ、主のカバンを・・・」と、言っているのかもしれないなと、そんな情景を想像させられるほどに、Iさんの最後の顔は嬉しそうに輝いていた。

2017年2月5日日曜日

私たちにたくされている

 米国では、難民やイスラム教徒の一時入国禁止の大統領令が出された。早速、米国福音ルーテル教会の現任主教から署名入りの抗議声明文が発表された。
 ルター派のキリスト者の先駆者達が祖国を逃れる苦しみを経験し、米国で暖かく迎えられたことに触れながら、米国は歴史的に人種、国籍、宗教によって迫害された人々が、その脅威から逃れる避難場所となってきたと述べる。それは聖書の証言に基づくのであって、米国にとって最良の伝統でもあると訴えている。
 「わたしは、ちょうどめんどりが雛を翼の下に集めるようにお前たちを集めた」(エズラ記1:30)。主のみ言葉の実現は私たちにたくされている。

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米国福音ルーテル教会 現任主教 エリザベス・イートンの署名文
弱い立場にある難民の入国を一時的に禁止する大統領令は、私たちの安全を保障するものではなく、私たちのキリスト者としての価値観を反映するものでもない。アメリカに移住する難民は、人種、宗教、国籍、政治的意見または特定の団体との関連による迫害を逃れてきた者たちである。彼らは、政府の複数の情報機関による安全保障審査を無事に終えるために一年以上を優に費やしており、その期間中は、多くの場合危険にさらされながら、完全なる異文化の中で暮らしていた。ルター派のキリスト者として、私たちの先駆者たちの多くは、祖国を逃れる苦しみとアメリカ各地のコミュニティで温かく迎えられる喜びを経験している。私たちが歴史を通じて行ってきたように、私は、選挙で選出された我が国の政府関係者に、私たちの聖書に立つ証言を尊重し、また脅威からの避難場所という我が国の最良の伝統に対して敬意を払うよう強く訴え、難民の移住計画の縮小に繋がるいかなる政策に対しても、断固として立ち向かうことを宣言する。

Rev. Elizabeth Eaton, Presiding Bishop of the Evangelical Lutheran Church in America:

“Temporarily banning vulnerable refugees does not guarantee our security nor reflect our values as Christians. Refugees being resettled in the United States have fled persecution because of their race, religion, nationality, political views or association with a particular group. They have waited well over a year to successfully complete security screenings by multiple intelligence agencies while living in a completely foreign culture, many times, still facing danger. As Lutherans, many of our ancestors faced the pain of having to flee our homes and the joy of being welcomed in new communities across the United States. As we have done throughout history, I urge our elected officials to honor our biblical witness as well as the best of our nation’s traditions of refuge and stand firmly against any policies that result in scaling back the refugee resettlement program.”

2017年1月29日日曜日

主の「召し」

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」主イエスがこう声をかけると、ペテロは網を捨て主に従った。聖書は実に潔いペテロの姿を描く。
 私の父の名は巌、ペテロという名前だ。父も潔い生き方をした人である。自分を主張をするというのではなく、主の「召し」を全面的に受け入れて僻地医療に生きた人である。かつて私はこんな父に反抗した。
 しかし、人はこの主の「召し」を受け入れて生きることが実は安心なのだとわかってきた。主がお召しになったのだから、責任は召した方、主が取って下さるのだから。わたし達はただ、すべてを捨てて、その「召し」を受け入れるだけ。それは主の愛の業だから。

2017年1月22日日曜日

本当に、本当に美味しいよ

 遅くなって夕食の準備に取りかかる。前日に家人が買っておいた牡蠣が冷蔵庫にあった。
 大好な牡蠣フライが食べたいが、手間がかかるなぁと、言い出せない。無理して作ってもらっても、この前のようになってはと、衣がはがれたり、ひと餅になったかわいそうなカキフライの姿を思い出した。
 しかし、家人は手早く牡蠣を塩水で洗い、衣を丁寧につけ始めた。わたしも油を火にかけて準備する。十数分後、きつね色の美味しそうなカキフライが揚がった。「今日はあなたの誕生日だから」と家人が言う。そうか、今日のカキフライは僕の誕生日のお祝いなんだね。ありがとう。本当に、本当に美味しいよ。

2017年1月15日日曜日

尖った声を出してしまった

 集会から戻ってくると、牧師館に至る脇道をブロックして車が2台止まっている。しかも運転者が居ない。
 「こんな所に車を置くなんて非常識だ!」と憤慨して道路脇に車を止めた。見ると隣の門で運転者らしき女性2人が、しきりに何やらやっている。
 次の予定もあって気が急く。「車をどけて下さい。入れないんですけれど!」と、非難めいた、尖った声を出してしまった。女性たちはそそくさと車に乗り込むと無言で走り去った。
 こういうときこそ一呼吸入れる祈りが大事なのにパニクってしまった。寛容さを欠いた私の言葉を主イエスは何と聞かれただろうか。

2017年1月8日日曜日

ルターとクラーナハ

 この正月、上野の西洋美術館に出かけた。『クラーナハ展』でルターの肖像画の本物を見るためだ。
 ルカス・クラーナハはルターと同時代に宮廷画家として活躍した人で、ルターの友人でもあった。クラーナハの描いたルターの肖像画は宗教改革500年のバナーでも親しみ深い。この肖像画は、実際はルター夫婦が一対である肖像画だということがわかった。温かみのある二人の表情に庶民の幸せを感じる。
 初めて見るルターのドイツ語訳『新約聖書9月版』に見入った。クラーナハの微細な木版の挿絵入りの黙示録のページに、諸刃の剣が口から出ている「人の子」の姿があった。おお、これがかの聖書か!と感じ入る。

2017年1月1日日曜日

新しい気持ちで

 新しい2017年を迎えた。今年も、なすべきことを一歩一歩、忍耐強く誠実にやらせてくださいと祈る。それが信仰者の生き方の基本だと思うから。信仰のこと、魂のことこそ基本を大切にして、一つ一つやっていかなければ全て壊れてしまうからだ。
 「魂のことは目に見えない。だから壊れる時は本人も誰も気づかぬうちに崩壊してしまう。信仰者が大切に守ってきたもの。教会が一つ一つ積み重ねてきたもの。その遺産の上にあって我々もまた一つ一つささやかな石を積んでいかなければ、神の恵みにとうてい答えられない」とは大先輩の言だ。
 この言葉を新しい気持ちで心に刻んだ。

2016年12月25日日曜日

キリストの平和がなった夜

 1914年12月、第一次大戦下のドイツ軍とイギリス軍はクリスマスのこの日もベルギーの首都ブルッセルの緩衝地帯を挟んでそれぞれが塹壕の中にいた。光は見えず、希望はなく、彼らは暗闇の中にいた。
 ところが、ドイツ軍の塹壕の中で一人の兵士が「きよしこの夜」を歌い始めた。他の兵士たちが一緒に歌い初め、その歌声がイギリス兵士たちに届く。そして思いがけずに双方での大合唱となった。この日、政府が決めたわけでもなく、将校たちの誰が決めたのでもなく、兵士たちが自発的に休戦をした。ああ、御子の誕生!
 主イエスキリストはあなたの心を照らす光。暗闇に輝く希望、平和。クリスマスおめでとう!

2016年12月18日日曜日

主のもとに帰ってくる

 「なんだか嬉しいことが続くね」と妻と話す。
 今朝、クリスマスカードを受け取った。「不思議な神様の導きで、このクリスマスに洗礼を受けることに・・・」と書かれていた。6年前の宣教研修の時に出会ったSさんからだ。当時不登校の高校生だった。
 お昼には、礼拝から遠退いていたKさんが教会に来た。そして、しばらく連絡がとれなかった病気療養中の方からも手紙が届いた。夜になって、求道中のIさんから電話があった。「仕事のシフトが変わったので、来週から聖書の学びに行きます」と。
 みんな主のもとに帰ってくる。希望、平和、喜び、そして今日は4本目、愛のロウソクに火が灯る。

2016年12月11日日曜日

水と白湯だけで

 アドベントの一日を主に捧げようと思い、丸一日水と白湯だけで過ごした。初めての断食である。
 驚いたことに時間がゆっくり流れていく。そして、自分は自分の満足のために何かを工夫して一所懸命に取り組むというようなことを実は一日中、一年中、続けていたのだということに改めて気づかされた。
 空腹になって、空っぽになってみると、そんな満足へのこだわりからほんの少し解放される。お腹を空っぽにするように自分自身へのこだわりを空っぽにできたら、きっとその隙間を神が満たして下さる。きっと、神の世界を自由に生きる喜びを味わえるに違いない。アドベント第3週、喜びのろうそくに火が灯る。

2016年12月4日日曜日

届けたくて

 誕生日カードを届けたくて、その方の家を探した。今日はその方の誕生日、その日だからだ。この当たりらしいが、定かではない。番地も表札も出ていない。はたして、電気や水道の検針をする方は困らないのだろうか?と思ったりした。
 歩いて、訪ねて、探してみてふと思った。主もまた一人の魂の居所をたずねて、歩いて、探しておられるに違いない。しかし、その足取りは喜びいさんで、勢い良く、疲れを知らない。その人が大切で、大切で、救いたくって仕方がないからだ。
 そう思うと、また元気が出た。ろうそく2本にあかりが灯る。今週は待降節第2週だね。

2016年11月27日日曜日

平年並みでないクリスマスを

 あんなにきれいな紅葉はハゼの木に違いないと、左手の山々の紅葉にチラチラ見とれながらカーブを曲がる。すると、海を望んで右手に雪化粧した山々が現れた。昨日降った54年ぶりだという雪のせいだ。紅葉と雪の山が同時に楽しめるなんて滅多にない。
 このあたりでは11月には雪は降らないと言うのが平年並の気候だ。平年並みとは過去30年間の気候の平均だそうだ。平均であれば平均と同じ気候の年など一度もないということだ。
 今日からアドベントが始まる。毎年迎えるクリスマスもやっぱりどこか違うはず。心に主を迎える準備に平年並なんてないんだね。今年も小さな回心一つ!

2016年11月20日日曜日

参道を降って登って

 人を初めて訪ねるときは、いつもグーグルマップでお宅の場所を検索して出かける。伊豆山神社の石段の横に目的のお宅はあるらしく、カーナビに神社をセットして出発。ここまではいつも通りだ。
 さて、神社の境内に車を止めたものの、そこから先がわからない。付近の家を一軒一軒見て回るが目当ての家は見つからない。親切なお店の人、通りがかりの人が一緒になって探してくれた。スマホを持っている人がさらに下に続く参道付近だと教えてくれた。
 階段の苦手な家人の手を引いて、気が遠くなるほどの階段を一段一段降りた。いったい何段?ついに、探し当てた。が、帰りは登り。いやー、いい運動だった!

2016年11月13日日曜日

ルターのすすめ

 信仰入門講座で学んでいる『小教理問答書』だが、改めてルターの信仰理解の深さに驚かされている。
 例えば、十戒のうちの「あなたは隣人について偽証をしてはならない」であるが、ルターは「隣人をだましたり、裏切ったり、悪口を言ったり、あるいは悪い評判をたてたりするな」という禁止の中に、さらに主の福音を読み取る。「隣人を弁護し、隣人について良いことを語り、すべてを善意に解するように」と。
 ルーテル教会の信徒であったドイツ系アメリカ人の知人は、子どもたちに「友達の悪いところではなく良いところを話すように」と教えていたことを思い出す。そうだ、不平や愚痴もまた福音から遠いと覚えたい。

2016年11月6日日曜日

湯タンポ

 心地の良い季節になった。青く澄んだ秋の空に桜の紅葉が美しい。温暖な湯河原もさすがに朝は冷え込んできた証拠だ。朝方、目が覚めると猫達が揃って布団に入り込んで眠っている。そろそろ冬の支度にと、今年は湯タンポを買ってみた。
 使ってみて驚いた。湯タンポはシニア世代の愛用品だとばかり思っていたが、以外に使い心地が良いではないか!足の触れるか、触れないかの所に置くだけで布団の中はポカポカと温かい。有り難いことに、夜中にトイレに立つ回数が減った。
 身体にも環境にも優しい湯タンポが気に入ったのは私ばかりではない。我家の猫も勿論、目を細めている。

2016年10月30日日曜日

決戦の日曜日

 今年の日本シリーズがおもしろい。ちょこちょこラジオに聞き耳を立てたり、ちらちら横目でテレビ画面を眺めて観戦したりしている。
 ゲームは雰囲気に呑まれることもあるというが、広島ファンのあの赤一色の燃えるような熱気と白一色で白熱した日本ハムファンの姿が印象的だ。
 ところで、7戦まで観戦したい私とすれば、土曜はタイになり、そして次が「決戦の日曜日」と願いたい。
 ・・・が、我が家には全く興味のない人が一人いる。話しても反応がないばかりか、「ラジオの音は小さくね」と言われる。嗚呼!一度でもプロの生観戦に連れていけばよかったな。

2016年10月23日日曜日

そうすれば

 叔母が圧迫骨折で2度目の入院をして2週間余りになる。夕方ちょっと顔を見に行くが、たいていはぐっすり眠っている。耳が遠いので話しかけても目を覚まさない。手を握ったり腕を擦ったりして帰って来る。
 昨日のことだ。やっと目を覚ました叔母は、「とっても身体が楽なのよ。皆さんよく協力してくださって…」と言う。見れば本当に穏やかな表情だ。
 前回は、入院早々から認知症がひどくなると言われ続けて、叔母も緊張していたし、こちらも疲れた。物事には両面あるが、心配を口にすることは決してプラスじゃあない。まず神を畏れ、愛すべきだ。そうすれば「すべてのこと相働きて益となる」と言えるんだ。

2016年10月16日日曜日

神に選ばれた人たち

 娘の住む米国の小さな町が、ハリケーンで街と幹線道路が水没し孤立。電気と水と食料が絶たれた。車からスマホをチャージしてLINEで知らせてきて知った。
 やもめが不正な裁判官に「裁判をして、私を助て」っと叫んでいる。このやもめは神に選ばれた人だ。このやもめのように「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちを、神はいつまでもほうっておかれない」と主イエスは言われる。
 もう一週間以上。あなたの今の状況、すごく大変だよね。でもこの今の試練は神の選びの中にあるって受けとめると、なんだか勇気が湧いてくるよね。
 主のために頑張って!みんな祈っている。

2016年10月9日日曜日

内覧会に招待され

 お隣に延べ面積約一千坪の創価学会の文化会館が完成して、その内覧会に招待されて行ってきた。
 基礎工事から完成まで一年半がかかった。会館は震度7にも耐えうるという。いざという時は、町の災害時の避難所として提供したい。だから門戸は施錠していないという。そうだ、それでこそ宗教だと納得する。
 そういうわたし達も、あの半端でない騒音と塵埃とを気にかけないよう、よく協力してきたものだと振り返る。正直なところ、重荷を背負っているあの人のこと、この人のことを考えると、騒音に気を取られる暇もなかった。主に感謝することは、毎日の生活のどんなことにもあると気付かされた。「主よ、感謝します」。

2016年10月2日日曜日

わたしはそれを満たそう

 月が変わってカレンダーをめくる。忙しい月だったが、今年も後3枚を残すのみとなったと気づいて驚く。時間が速く過ぎ去る実感は年ごとに加速する。
 「少年老いやすく、学成りがたし」「一寸の光陰、軽んずべからず」のことわざが頭をよぎるも、還暦を過ぎれば、「時すでに遅し」の感がしないでもない。が、そこはキリスト者の強みがある。
 気を取り直して聖書に向かう。すると、こんな言葉が目に入った。「口を広く開けよ、私はそれを満たそう」(詩篇81:11)。口ばかりか、目も耳も手足も使い、マインドをオープンにすれば、恵みはあふれるばかりだねと主がおっしゃる声が聞こえた。

2016年9月25日日曜日

キリストの花嫁

 施設で暮らしていた◯さんが天に召された。ご高齢だった。主が最後の時にも共にいてくださった事がわかる、そういう静かな表情だった。
 これまでお訪ねするたびに、若く美しい花嫁姿の◯さんの写真が机にぽつんと立ててあって、彼女の寂しさが伝わって来た。そんな時は、聖餐と讃美と祈りがそこにいるわたし達を満たしてくれたものだ。
 神は見えない、確かめられない。だが、もし私たちの間に慈しみと愛と信頼があれば、そこに神はおられる。人間の愛はあてにならないが、神の愛は完全だ。今ごろ◯さん、あの花嫁姿で天国に入場している頃だろうか。キリストの花嫁として。

2016年9月18日日曜日

神の助けによって

 先週、娘の結婚式があった。
 「あなたは、◯が病気の時にも、健康な時にも、他の者が見捨てるような時にも、夫/妻として守りますか」。この中で「他の者が見捨てるような時にも」という誓いの言葉がスゴイ!
 少し前の話になるが、罪を犯した息子の面会で、ある母親が涙をこらえながら息子に言い切った言葉を思い出す。「でも、私はどんなことがあっても、あなたのお母さんだから」。この時もスゴイと思った。愛は神からのもの。
 新郎新婦は「神の助けによって、約束します。」と答えた。神の助けに支えられて幸せに!

2016年9月11日日曜日

とうとう見つけたぞ!

 羊飼いの囲いから迷い出た一匹の羊も、女が無くした一枚のドラクメ銀貨も、自分がどんなに探されているか気付かない。
 それでも羊の方は生きていて草を食んでいたり、不安になってメイメイ鳴いていたりするかもしれない。
 しかし銀貨の方は、家の片隅でただホコリの中に埋もれてじっとしているばかりである。「親の心子知らず」ということわざがぴったりの主イエスの喩え話だ。
 見つけた方がどれだけ真剣に捜したか。そして見つけた時にどれほど喜んだか。この神の忍耐、愛、喜びを知る時、本当に深い安心感、喜び、信頼、感動が起こってくる。神の大きな喜びは神の忍耐の表裏だ!

2016年9月4日日曜日

秋よ、お出で、お出で!

 9月になった。ギラギラ太陽は変わらずだが、すでに風には秋の気配がただよう。暑かった夏もそろそろ終わりだ。
 さて、この夏もっぱらエコ生活を通したはずだが、返って肥ってしまった。朝食は口当たりのよいシリアルと豆乳、昼食は蕎麦、夕食は素麺を食べて過ごしたからだろうか。そろそろ夏前の生活に戻したいが、実際はまだまだ暑い。なるべく火を使わないエコ炊事の食事はもうしばらく続きそうだ。
 小田原からの帰り道、今日はススキの子が白い穂を風に揺らしていた。「秋よ、お出で、お出で!」と呼んでいるようだ。

2016年8月28日日曜日

きっと地球は報いてくれる

 これ以上暑い日が続くと「エコ生活はもう無理!」と音を上げた頃、台風がやってきた。束の間の涼だ。
 子供の頃、夏はここまで暑くはなかったと記憶する。この異常な暑さも地球温暖化が原因なのか?と戦後人類の環境破壊という罪責感が頭をかすめる。
 地球は過去3億年に渡って、空気中の酸素濃度を21%に保ってきた。酸素がたった1%増えるだけで山火事は消えず、森林は消え去るという。
 地球は生きている。あらゆる生き物がお互いに働き合ってこの均衡を保っている。いま謙遜に、人は地球に生きる命の一つだということを思い巡らす。謙遜に自然を尊べば、きっと地球は報いてくれる。

2016年8月21日日曜日

変わり始めている

 オリンピック、日本選手の応援をしながら、私としては珍しくテレビを見た。選手の一球に、「そこだ!」、「よっしゃ!」と心の中で叫ぶ。もうハラハラドキドキの連続だ。生中継は全く心臓に悪い。
 日本の選手が失敗するのがやるせない。負けるのが気の毒。そこで、結果を知ってのダイジェスト版を見る。窮地に陥っても、ケセラセラと楽しめる。
 なんといってもオリンピックだ、ちょっとナショナリズムに浸ってしまった。しかし、気がついたのだが、今回は柔道でも、陸上でもハーフの選手の活躍がちらほら目についた。こんな風景は米国では普通だった。日本も変わり始めている。いいじゃないか! 

2016年8月14日日曜日

これは私の独り言

 今夏、我が家は暑さと熱い戦いをしている。
 エアコンは使わず、窓という窓、戸という戸は全開、よしずとすだれで日光をさえぎり、庭の緑に水を撒く。冷やしタオルで首を巻き、扇風機の風に吹かれて、うちわで扇ぎ、一息入れる。「ああ、涼しい!」。
 エコ生活を特別に心がけているというわけではないが、猫たちが自由に出入りする我が家では、部屋を閉めきってエアコンを入れるのは難しい。
 玄関先の道を通る人たちが猫たちに声をかけていくのが聞こえる。「可愛いね〜」。この一言で家人は報われるらしい。「エコで行くわよ!」と宣言している。
付き合うしかないな・・・これは私の独り言。

2016年8月7日日曜日

ドッカーン

 「ドッカーン」と心の臓に響く最初の一発が鳴った。
 「あっ、花火が始まった!」と、二階の窓からさっさと屋根に出た家人に続いて私も屋根へ。
 十字架塔の隣に色とりどりの火の花が咲いては消え、消えては咲いている。ここから花火が見えるとは、知らなかった!
 ヒュ〜〜と火の玉が高く上って、いったん闇に消え、次の瞬間、空を覆う大輪の花。そして「ドカーン」と轟音。この4尺玉には胸がすく。
 みんなのためにとばかりに、ドカン、ドカンと打ち上がる。「宵越しの銭は持たぬ」とばかりの潔さがいい。
 ついでだが、聖書の話の「愚かな金持ち」(ルカ12:13ー21)に、みんのための潔さを少し煎じてあげたらどうだろう?

2016年7月31日日曜日

素直な感性

 毎年楽しみに聞いているNHKのラジオ番組『夏休み子ども科学電話相談』が今年も始まった。
 「どうして地球にだけ酸素があるんですか?」といった質問に混じって、「どうして動物は歯を磨かないの?」という5歳児の質問があって、思わず笑ってしまう。
 こんな素朴な質問にも、第一線で活躍している各分野の専門家が身近な経験を通しながら説明している。中には「へぇーぇ!」「そうなんだ!」を連発しながら聞いている子どもがいる。驚いて目を丸くして聞いている様子が想像できて、微笑ましい。
 素直な感性は主のほめられるところだ。この夏、ラジオを通して子どもの感性に養われるのも楽しい。

2016年7月24日日曜日

ある宗教では・・・

 ちょうど米国に滞在していた頃、『ダ・ヴィンチ・コード』という小説がヒットして映画が作られた。イエスはマグダラのマリアと結婚し、子孫がいるというフィクションに全米の真面目クリスチャンが憤った。
 いま思い出しても吹き出してしまうのだが、私たちの教会でも一人のシニアの男性が興奮して言った。「私は、今までトム・ハンクス(主人公役)は大好きだったが、もう、嫌いだ!」。中年の男性がすぐ冷静に言った。「彼は俳優だ。彼は俳優なんですよ!」。
 これと同様のことが起きている。ポケモンGOが配信された。進化するポケモンはある宗教には反するという。私も叫ぶ。「これはゲームだ。遊びなんだ!」と。

2016年7月17日日曜日

留まらず・・・

 明るいニュースがあった。外出先で家族とはぐれ、捜索願の出されていた91歳のおばあさんが、高1の男子生徒の機転と親切によって無事家族のもとに戻った。清々しい笑顔の若者の写真を眺めながら、善行は主の喜ばれるところだと、素直に嬉しい。
 だが、「善きサマリヤ人」の喩え話は、「一日一善」のような話とは根本的に違う。主は律法学者の「自己正当化」に対する答えとして、この話をされた。
 自分を正当化し、気づかぬうちに人を区別し、そういう自分に留まってはいないだろうか?と自問する。有り難いな!この喩えは、自分の中にもある律法主義、原理主義という自己正当化の罪に気づかせてくれる。

2016年7月10日日曜日

ヨナだけではない

 異邦の民、敵国アッシリアの都ニネベに遣わされた預言者ヨナはこの召命を「快し」とせず、逃亡した。
 大魚に飲まれて、救い出されたヨナは回心してニネベに行って預言した。すると、王も民も家畜に至るまでが悔い改めた。ヨナにとってこの結果は意外だった。
 怒って、すねて砂漠の中で座り込むヨナを、主はトウゴマを生やして熱気から守られた。しかし、翌日にはトウゴマは枯れて、ヨナの怒りは頂点に達した。
 主のみ心がわからないのはヨナだけではない。主の憐れみには選民と異邦人の区別はもとより、何の差別もない。主は右も左もわきまえないこの私を愛し、この私が滅びるのを惜しみ、救ってくださった。

2016年7月3日日曜日

さっそく救出!

 信徒さんの問安で訪れた下曽我のあたりは、斜面にも小さな水田があって、田植えの後の稲が青々と育っていた。昔ながらの用水路には水草が茂って、そこをサラサラと涼やかな音をたてて水が流れていた。「なんて快い音なんだ!」子供の頃、こんな小川でメダカを捕ったものだったと足を止めてしばらく眺めた。
 この辺りは里山の風景が未だに残っているが、その実は、ずいぶん変わってしまっているに違いない。メダカはとうの昔に絶滅危惧種だ。ミツバチがいなくなると地球の生態系が変わるという話も聞いたばかり。
 今朝、ちっちゃなもぐらのようなのが廊下でもがいていた。猫が捕ってきたオケラだ。さっそく救出!

2016年6月26日日曜日

その響き実に爽快

 6年ぶりに帰国した末娘を連れて、伊豆のホームに伯母を訪ねた。まもなく100歳になる伯母は40年ほどをアメリカで過ごして、60歳を過ぎて帰国した。
 白髪の頭をしっかり持ち上げて、背筋を伸ばして、真正面をむいて車椅子に座っていた。「ご無沙汰していました。お元気で何よりです。」と声をかけると、「私、何もかもすっかり忘れちゃったのよ。」と言いながら笑顔で迎えてくれた。家族の近況を報告し、今は天の国に憩う人達の名前を挙げて懐かしむ。
 最後に、讃美歌を一緒に歌った。「主、我を愛す」を初め日本語で、次に英語 “Yes, Jesus loves me!”と何度も歌った。“Yes!”とその響きが実に爽快だった。

2016年6月19日日曜日

アドナイエレ

 梅雨に入った。日中は蒸し暑いが夜になると冷えてくる。油断をしてすっかり風邪をひいた。風邪をひくと、思考力も記憶力も鈍る。先日も、ある信徒さんのところへ聖餐をお持ちしたことはいいのだが、肝心のホスチアを忘れてしまった。ちょうど家人が焼いて持参したケーキを小さく切って、聖別する。「主の山に備えあり(アドナイエレ)」だと感謝だった。
 ところが、この風邪が家人にも感染って、家事はストップ。冷蔵庫を開ければ納豆、野菜、トマトジュースがある。「備えあれば憂いなし」だと、胸を撫で下ろす。けれどこれって、きっと人間の備えなんだ。人間の力の及ばないところに主の備えがあるのだから。

2016年6月12日日曜日

Be nice”(ナイスであれ)

 「まあ、緑色の綺麗な目をしている」とは、通りかかった中年夫婦が我が家の黒猫ドッティを見ての会話だ。家の前を通る人に寄って行って愛嬌を振りまいているのだ。そういえば今朝方、老婦人が我が家の灰色猫をしばらく撫でていた。家人によれば、彼らには他にも人間の友達が何人もいるらしい。
 かつてはよその人が玄関に来ただけで、家の奥に逃げ込んでいた臆病者だ。この変わりようには驚く。
 まさかと思うが、牧師館で飼われている猫だという自覚があるのかもしれない。どんなときにも “Be nice”(ナイスであれ)と言い聞かせている家人の言葉通り猫は自覚していたとしたら・・・僕よりスゴイ!

2016年6月5日日曜日

「しつけ」だった

 「人を噛む子は犬と同じだから、犬のところに行きなさい。」と、近所の学童保育所の犬小屋のところに行かせた。長女がまだ2歳の頃だった。
 長女に毛布をもたせると、「ほんとうにナーちゃんを犬にあげちゃうの?」と長男は泣きそう。それなら僕も行くという5歳年上の長男と長女を一緒に犬小屋の前に置いて来たことがあった。「しつけ」だった。
 筋を通さなければという「正しさ」と、親は子どもに負けてはならないという「恐れ」があった。そんな未熟な親だった我が身を振り返り、大和くんのことは人事ではない。ひたすら無事を祈っていた大和くんが戻された。主よ、あなたの憐れみに感謝します!

2016年5月29日日曜日

みんなニコニコ

 教会の姉妹のみかん山に「ピクニック」に行った。「暑からず、寒からず、もし雨が降ってもパラパラ程度に…」と姉妹が祈られたその通りの日になった。
 教会からは11人で繰り出す。車を出して手助けをしてくださった姉妹のお孫さん、みかん山の隣の畑のおばあちゃんも参加され、総勢13人となった。
 山の上はなんて心地いいんだろう!眼下に海を眺め、黄色い蜜柑に囲まれて、賛美の歌を歌い、み言葉に聞く。お昼ごはんは手作りのおにぎりだ。もぎたての甘夏、実生の枇杷を味わいながら、みんなニコニコ。
 外気浴、自然の恵み、友の交わりを満喫。その夜、主は、ここちよい眠りを一人ひとりに下さったに違いない。

2016年5月22日日曜日

多様さと寛容さの群れ

 先週の礼拝に御両親に連れられて赤ちゃんがやって来た。10ヶ月の乳児のもつエネルギーはすごい!なんていいんだろう!ついニコニコしてしまう。もちろん、お年寄りは文句無しにいい!けれども、この小さな赤ん坊の無限のエネルギーは皆を元気にする。
 初めて会う大人の顔を、じっーと、それこそ穴の開くほど見つめる。澄んだ瞳は、わたしの心の底まで見通しているようで思わず恥じ入ってしまうくらいだ。
 図らずも「教会は0歳から百歳過ぎまで、いろんな人が集うのがいい」と誰かが言った。確かに、この多様さと寛容さこそが主イエスの愛される群れ、教会の姿だ。来たれ、子どもよ!今週から「子供食堂」が始まる。

2016年5月15日日曜日

聖霊に導かれて

 新緑の美しい季節となった。緑の枝をさらさらとゆすらせながら気持ちの良い風が吹いている。聖霊は風のように思いのままに吹く。そして、その聖霊に導かれて、突然ひとりの若者が教会にやって来た。
 聖書を読んでいてわからないことがあるから教えて欲しいという。話してみて、彼が聖書を実によく読んでいるのに驚いた。インターネットでキリスト教の動画を見て感銘を受けて以来、聖書を読むようになったという。生活を通して、聖書の言葉を素直に受け止めているのが新鮮だ。わたしの方こそ生きかえる。
 聖霊の風に吹かれて、人は新たに生まれることができると主は言われた。今日、きっと聖霊の風は吹く。

2016年5月8日日曜日

主よ、母をありがとう

 おかあさんは ぼくを 一ばんすき!
 ぼくは おかあさんを 一ばん すき!
 かぜ ふけ びょうびょう 
 あめ ふれ じゃんじゃか
 これはまど・みちおの「おかあさん」という詩だ。お母さんと子どもは相思相愛だ。たとえ嵐が襲ってきても平気。この安心感の中で、子どもは育つ。
 勢いのある詩だ。優しさよりも、むしろ力強さを感じるのはわたしだけだろうか?母の無私の愛、そして子どもの全き信頼は、主イエスの示された「幼子の信仰」を思わせる。相思相愛の母と子の姿は神の国の雛形だ。今日は母の日、「主よ、母をありがとう」。

2016年5月1日日曜日

天を仰いで

 先日、叔母の急用に迫られて鎌倉に行き、叔母の知り合いのTさんを訪ねた。彼は隠れキリシタンの殉教者の地蔵があるから、牧師の私にぜひ見てほしいと言って五所神社の境内に案内してくださった。
 社殿の隅に数体の石仏が並び、その中に他のものとは違う小さな地蔵があった。着物姿、長い髪を背中で束ねた女性だ。膝をついて後ろ手に縛られている。しかし、天を仰ぎ祈っている。その穏やかで平和な表情に惹きつけられた。
 ふと、殉教者聖ステファノが思い浮かんだ。聖霊に満たされて、天を見つめる彼の表情はきっとこの様だったに違いない。古びたキリシタン地蔵に、野の花が優しく捧げられていた。

2016年4月24日日曜日

聖霊に励まされて

 緑が美しい季節になった。周りの山々は濃淡さまざまな緑が浮き立つようだ。だが、熊本を中心に起きている地震はまだ収束の気配がない。
 JELC(日本福音ルーテル教会)もいよいよ動き出した。現地の様子はまだ十分には把握できていないのだが、被災地への支援がスタートする。
 現地のルーテル教会のS牧師、赴任まもなく消防団に入っていると聞いていたが、被災した町のために懸命の復旧活動にあたっている様子をフェイスブックで知った。
 17日も被災地の牧師たちは、集まってきた信徒の方々と礼拝を持ち、祈り合ったそうだ。聖霊に励まされてキリストの教会は共に働く!

2016年4月17日日曜日

主よ、日ごとの糧を与えたまえ

 『イースターコンサート』での献金の総額6万あまりを送ったところ、国連WFP協会の日本事務所から礼状とともに領収書が送られてきた。出演してくださったダ・カーポの皆さんに心から感謝いたします。
 WFPと言うのは飢餓のない世界を目指し最前線で活動する国連の唯一の機関だ。シリア難民の食糧支援、世界中で起きる災害被害に対する緊急食料援助、また毎年2,000万人以上の子どもたちへの学校給食の提供など、身を挺して行われている人道支援の活動だ。
 わたし達は「主の祈り」で、「日ごとの糧」を祈る。それは自分のためばかりか、すべての人の糧なのだ。「主よ、日ごとの糧を、すべての人に与えたまえ」。


2016年4月10日日曜日

ほらね、ここも満開だ

 昨日の激しい風で桜はきっと散ってしまったに違いないと、無残な桜を想像しながら小田原へ向かった。しかしである。海沿いの国道にある桜は、散るどころか満開だった。思いがけず、「きれいだねぇ」と花見をしながらのドライブとなった・・・聖書は何事にも時があるという。神の時でなければ強風ぐらいでは桜は散らないものだと感じ入った。
 時にかなって天父は主イエスを永遠の命に蘇らせた。もう決して後戻りはしない。わたし達は死で終わる人生ではなく、新しい命に誕生するという希望の時を生きている・・・いま、小田原市内の桜並木の下を車はゆっくり通りかかる。「ほらね、ここも満開だ」。

2016年4月3日日曜日

エマオへの道をいく

 今日4月3日は、私達夫婦が湯河原にやって来たその日だ。年齢のいった新米牧師夫婦の二人三脚の日々を、両教会の信徒の皆さんはよく支えてくださった。何より、今日までの3年間の主の導きと恵みに感謝。  
 100メートルを10秒切る最速ランナーは確かに輝かしい。しかし、教会は信徒皆で走るムカデ競争の進みがいい。ズッコケでいい。転んでいい。いずれ神の国というゴールに到達する。だったら皆で楽しいってことのほうが、ずーっといいじゃないか。
 今日、弟子たちの心は、復活の主に出会って暖かく燃えた。主の慈しみと愛に燃やされながら、わたし達も、今まさに主と共に行くエマオへの道にいる!

2016年3月27日日曜日

死んでも君を離さない

 「イエスの復活」を描いたイコンの中に、陰府(よみ)に降ったイエスが人間の祖であるアダムとエバを、死の床から引っ張りだしているフレスコ画がある。十字架の死後、すぐに復活されなかった訳はそれか!と初代正教会の信仰を知って、少なからず衝撃を受けた。
 ところで、年配の方はポール・アンカという歌手のデビュー作『ダイアナ』をご存知だろう。“I love you with all my heart”(心の限りあなたを愛している)“Oh. please stay with me”(ああ、どうか私と一緒にいて欲しい)と原作に繰り返されるが、日本語の意訳が実に利いている。「死んでも君を離さない/地獄の底までついて行く」。これって、まるで死へとくだるイエスじゃないか!

2016年3月20日日曜日

ほくほく

 先日は海の向こうに住む末の娘の誕生日だった。日本の食品をなにか送ってやりたいと、こころばかりのものを送った。
 送って一週間が経ったが、本人からはなにも連絡はない。国際小包の配送状況はインタ−ネット上で追跡できる。見れば「配達完了」となっていた。
 けれども、家人はどうしても娘のことばが聞きたいらしく、メールを出す。「届いた?」。直ぐに返事がきた。「届いたも ほくほく ありがちょ○」。この○は彼女の名前の最初の一文字である。
 二人で思わず笑ってしまった。まったく!末っ子と言うものは幾つになっても親を楽しませてくれる。

2016年3月13日日曜日

泣けて仕方がなかった

 3.11から5年の節目を迎えた。あの日、自分は何をしていたのか思い出した。そう、授業中だった!
 あの頃、私はまだ神学校の学生で、落第が決まったばかりだった。震災の二日後はアメリカにいる家族の元へいく予定だった。ところが、交通機関は混乱をきわめ、とうてい成田へなど行きつけない。諦めて、なんとか二日後のチケットを買い直してアメリカに行った。
 着の身着のままで飛行機に乗ったらしい。家族が、私の身なりを見てびっくりしていた。妻や子どもたちに会って泣ける。地元の教会で礼拝後に頼まれて震災の様子を話したが、泣ける。何を見ても泣けて仕方がなかった。未だ厳しい状況にある方々を覚えて祈る。

2016年3月6日日曜日

わたしを可愛がって

 この二三日、お転婆なミント(猫)がおとなしい。キャットボックスにすっぽり入ったまま出てこない。怪我か?どこか体の具合でも悪いのではないか?あちこち触ってみるが、取り立てて異常はないようだ。
 飼猫であってもこうなのだから、これが我が子であれば「何をか言わんや」である。が、現実には子どもの虐待が繰り返し報道されている。
 子どもを育てることは、言ってみれば親の献身のひとことに尽きる。親は理屈抜きで、子どものために体が動く。あのまぁるい、フラットな顔にちょこっと目鼻のついた、四等身のプニョッとした体つきはどう見ても、「わたしを可愛がって」と言っているではないか!

2016年2月28日日曜日

自動ブレーキ

 こういうとき自動ブレーキがあれば、と思われた方はいないだろうか? 
 先日、ぶっつけたり擦ったりした車を修理に出した。「自動ブレーキが欲しい」と言ったら、「自動車は運転するもの。自動ブレーキなどつけたら、それはもうメカじゃなくなりますよ」というディーラーの言葉。
 運転中の突然死による事故や高齢者の事故は多い。そう言う私も、昨日は赤信号をおおかた見過ごすところだった。見ていても、脳が反応していないのだ!
 自分のへっぽこ運転を顧みないではないが、いや、へっぽこ運転だからこそ、高齢者時代の自動ブレーキを!と声を大にしたい。

2016年2月21日日曜日

レントに相応しいかも知れない

 この冬の我が家の昼食の定番は「雑炊」だ。今日もやけに黒っぽい葉っぱがいっぱい入っているので、どういう野菜なのかと思いながら食べる。「これ、なに?」と聞くと、白菜だという。白菜の一番外側の葉を全部使ったのだそうだ。なるほどアクの苦味がする。
 「戦時中なら、さつま芋の葉を入れていたのよ」とは、家人の弁解だ。玄米にいろんな野菜を入れた塩味だけの健康食だと自慢らしい。暖かいのは冬のごちそうだと言って、居合わせた人にも勧めている。
 水加減次第で人と分かち合うことができる雑炊、なるほどレントに相応しいかも知れない。だが、味の方はというと…まあ、いいか!それ以上は言うまい。

2016年2月14日日曜日

灰の水曜日

 2月10日は「灰の水曜日」、この日から四旬節が始 まった。今年、初めて「灰の式」を行った。「あなたは塵から造られ、塵に帰る」と一人ひとりに告げなが ら、棕櫚の葉を焼いて作った灰で額に十字のしるしを付けた。私も、最後に灰の十字をつけてもらった。
 帰る時、お互いの額に十字の印しがあるのを見て、なんだか嬉しくなった。キリストの十字架の印しを受けるというのはこの時以外にない。「回心して福音を信じなさい」ということが主のみ心だと知る。だから「改心」ではなく、「回心」なんだ。
 塵にすぎないわたし達、十字架の主を頼みに、ひたすら「天の父よ」と近づきたい。

2016年2月7日日曜日

礼拝はまさに

 山の上で、主イエスは弟子たちに一瞬だが天の栄光を見せてくださった。それは主が生涯でただ一度だけ見せてくださったまばゆく光り輝く姿だ。
 礼拝はまさに主の変容の山の頂での出来事だ。主の死と復活を体験した教会は、こうして日曜日のたびに、わたし達を山の頂へと導いてくれている。
 礼拝という頂、ここでわたし達はふもとにいた時には見ることの出来なかった天の栄光を垣間見て、励まされ、キリストの体と血を頂いて、そして下山する。礼拝は天の栄光を垣間見る瞬間だ。
 ペトロのように思いっきり叫びたい。「先生、わたし達がここにいることは素晴らしいことです」と。

2016年1月31日日曜日

幸いなるかな

 「幸福でなくなるということが不幸。不幸でなくなることが幸福」とは一遍上人の教え。現実の思いとして妙に納得できるものの、なんだか虚しさが残る。
 今日、主は「幸いと不幸」を教えられる。すべてを神様に委ねて、生きてゆくことのできるあなたは幸い。そして、今この世のものだけで満足しているあなたは不幸だと。「幸い」とは、神の絶対的な愛で、無条件に私達が愛されていることを知ることだ。
 「幸せの青い鳥」を探して旅をした兄妹は、家に帰ってみて、青い鳥は前から家にいたことに気がつく。 
 それと同じだ。神の愛は宇宙の創めからあなたと共にあった。思い切って主の幸いに身を委ねてはどうか。

2016年1月24日日曜日

「お言葉ですから」

 季節は大寒に入った。木々は春の芽吹きの備えを真冬にしている。自分はこういう準備を滞ることなく、たんたんと出来る人間では決してないが、こういう自然には憧れる。
「 諦めて丸めて捨てた過去の夢 皺を伸ばせばまだ叶うはず」これは『学生百人一首』の今年の一首。 「着々と準備よく」ではなくても、諦めたものにもう一度挑戦するというのはなかなかいい。再挑戦というのもある。再、再挑戦だって構わない。
 今日、主は夜通し漁をして徒労に終わったペテロにもう一度網を下ろせと言われる。「お言葉ですから」と、聖霊は働く。

2016年1月17日日曜日

あったか〜いおしるこで

 身近な人たちが風邪にかかっている。そういう私も2,3日前には風邪のためその日の夕食は食べることが出来ず、そのまま床についた。 
 翌日も朝食から抜いて、その日は一日体に蓄えたもので過ごす。 この日の午後の「癒やしの礼拝」の後で、正月に本物の餅を食べなかったという人たちのために、餅を食べてもらおうと、おしるこを作った。
 「イエス 内なる光 闇にとどまることなく イエ ス あなたの愛を伝えられるように」と歌った。その後のおしるこは格別だった。「イエスさまは本当に優しいんです」って伝えたい。よく伸びるお餅とあったか~いおしるこで。外は寒いが教会は暖か。私は空きっ腹。

2016年1月10日日曜日

あっぱれ校長先生

 朝食の欠食率は2割近くという中学校のニュースが目に止まった。校長自ら生徒に呼びかけ、フードバンクなどから調達した朝食を食べさせているという。
 朝8時前、校長と教頭それに養護教諭たちが林檎の皮を剥いたり、パンを皿に載せたりして、生徒に給仕する。「目の前に食べていない子がいる。この子たちが大人になれば、その習慣が次の世代に引き継がれてしまう」と校長はいう。彼は、「目の前の必要に向き合う」ことが「負の連鎖を断つ」ということになると確信するのだろう。深く共感する。
 新しい年も、主は求める方々を教会へと招かれるに違いない。さあ、私も自ら給仕するものとされて。

2016年1月3日日曜日

このみ言葉で始まる

 元日の朝、祈祷のために礼拝堂を開ける。教会入口にある電柱の足元に、自生してすっかり大きくなった菜の花が、黄色い花をつけていた。鼻を近づけると、蜜の良い香りがする。爽やかな新春の喜びを目と鼻で受け取った。
 新しい年の始め、今年は聖書を通読しようと心に決める。旧約3章と新約1章、毎日通読すれば一年で聖書全巻を読み終える。
 さて、それでは今日からと聖書の冒頭を開く。そうか、新しい年、2016年もこのみ言葉で始まるんだ。「初めに、神は天地を創造された」。菜の花も年頭の志も万物の創造主あってこその、この喜び。