2015年4月19日日曜日

わくわくで行こう

 「わくわく聖書の会」に、「今日はお天気が良いので来ました」と◯さんがしばらくぶりに来られた。「天気が良いのは、本当に気持ちが浮き浮きしますよね」と□さんが同意する。「お天気が良いとね、私も機嫌がよくなるのよ」と△さんも口をはさむ。
 お天気にかこつけて、同調しあうというのはいい。その場の雰囲気がやわらいで、久しぶりにやって来た◯さんの緊張がほぐれてくる。
 コーヒーが出されて、更に気分がなごんできたところで、「わくわく聖書の会」を始める。ともすればシリアスになりがちな聖書の学びだが、あくまでもわくわくで行こう。

2015年4月12日日曜日

クレソン摘んで

 某先生が一時間で楽しめるよといって、クレソンを摘みに連れだしてくださった。車でいくこと10分ほど。幕山公園の中の渓流に目当てのクレソンが自生していた。まるで自分の庭を案内するように公園のアチラコチラを案内してくださった。青く澄んだ空に、シャクナゲが満開だった。
 湯河原に来て3年目になったというのに、生来の遊び下手に加えての要領の悪さで、なかなか手近な楽しみにも手がつけられない。
 摘んでいると、野生のクレソンの香りがしてくる。ものの数分でたちまち小袋いっぱいに摘んだ。先生のご好意に感謝しながら、久しぶりに春を楽しんだ。

2015年4月5日日曜日

泥だらけの足

 主イエスは最後の晩餐で、弟子たちの泥だらけの足を一人ひとり洗われた。主は「あなた方も洗い合いなさい」と教えられる。
 しかし、現実には泥だらけの足を洗うのは、どれだけ大変なことか!相手の一番醜ところ、嫌なところを大切にすることはどれだけ堪忍が要ることか!できれば、触れたくない。相手になんとか変えて欲しいと思っている、それが私たちの現実だ。しかし、主は泥だらけの私たちの足を一人ひとり洗って下さる。
 聖木曜日、我が足を洗い拭ってくださった主に倣い、私も来られた方の足を洗わせていただいた。洗足は洗われる方も、洗う方も共に恵みだと知った。 

2015年3月29日日曜日

ロングドライブ

 金曜日、いつものように小田原教会に出かけた。真鶴を過ぎると、だんだん車間が詰まりとうとう渋滞。
 どんどん山の方に迂回する車を横目で見ながら、どうしようか?と迷う。しかし知らない道は今一不安と、もたもたしている内に出るチャンスを失う。結局小田原教会に着いたのは朝10時半を回っていた。
 さて帰り、落石の処理は完了せず。小田原市内からすでに渋滞。朝の優柔不断が悔しいので近道を探すが、無意味な努力だと知る。辛抱強く車の列に絆がれる。 
 裏道から割り込んでくる車を、迷いながらも入れてあげた。「俺って、いいやつだなぁ」とちょっぴり思ったりしながらロングドライブの一日を終えた。

2015年3月22日日曜日

霊の目で見たい

 カトリックの十字架はキリストのご像があり、プロテスタントのそれはシンプルである。
 先日ラジオを聞いていたら、テレビとラジオのどちらの方がより脳が活性化するか?と言うことを言っている。日頃ラジオを聞いているので、ちょっと興味を持って聞いた。答えはラジオの方だという。ラジオは映像を補う分だけ余計に前頭葉を使うという。これはいい。
 であるなら、キリストのご像のない十字架に、私たちのために苦しまれるキリストの御姿を、霊の目で見たい。そこにキリストが架かっておられる十字架はどんな苦しみも喜びに変わるというシンボルだからだ。キリストの御姿を十字架に仰ぎ見つ受難週に向かう。

2015年3月15日日曜日

蜜柑もいろいろ

 ◯さんが手に持っていたバックから蜜柑を一つ手品のように取り出してくれた。形と大きさはオレンジ、皮は甘夏そっくりで、色は伊予柑のようだ。さっそく食べてみた。味はあっさりした温州蜜柑のようだが、はて、初めて食べたこの蜜柑はいったい何だろう?
 そういえばN君のTシャツには見たこともないたくさんの柑橘類の絵がプリントしてあったなぁ。スウィティー、セトカ、セミノール、ハルミ、日向夏、黄金柑・・・品種改良がすすんで今や蜜柑にはこんなに種類があるのかと驚いた。
 名前も知らない蜜柑を食べるなどという楽しみはここ湯河原ならではだ。これもまた神の恵みと思う。

2015年3月8日日曜日

なんとなくゾクゾクしてくる

 教会の隣の広い空き地に大きな天幕がはられた。その翌日、ちょうどこちらは「聖書の学び」の最中だったが、鍬入れ式が行われたようだ。次の日、いつの間にか巨大天幕はすみやかに取り去られた。
 いよいよ某宗教団体の建築が始まり、竣工は来春3月だと聞くと、なんとなくゾクゾクしてくる。「いよいよ隣に建ちますね」と言うと、「いいじゃぁないですか!立派な鉄筋の建物の隣に、教会はやはりこれですよ。」と、◯さんが励ましてくれるのが有り難い。
 そうだ、教会は単に建物ではない。キリストの十字架によって誰もが救われるところなのだ。小さき群れの「世の光・地の塩」としての挑戦は続くと納得する。

2015年3月1日日曜日

魂の器

 四旬節(レント:灰の水曜日からイースターの前日まで)に入った。この期間は主の十字架を思って「回心する」期間である。それは、「塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3:19)という事実を覚えるときだ。
 けれども、私達は生涯の終わりには単なる塵に返っていくのではない。イエス・キリストは十字架の愛によって、この貧しい塵の器を神の子としてくださり、私達の「魂」を永遠の命へと招き入れてくださる。
だから、私達は主キリストにあって単なる塵の器ではない。「魂」という美しくも貴い宝を内に持つ器である。
 この福音を噛みしめながら、四旬節を過ごすときに、復活祭(イースター)の喜びはひと塩となる。

2015年2月22日日曜日

弱さを誇ろう

 豊かな日差しに梅の花はいつしか満開。季節は希望の春を告げている。けれども、このところのイスラム 国のニュースには心が塞がれる。  この世はみな、強さを求め、強さを誇り、報復に報復を叫んでいる。しかし、キリスト教は違う。「…わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」と主イエ スは言われる。パウロはそのみ言葉を信じて疑わず、 「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」と告白する。
 ご自分の命に代えてわたし達を救ってくださったキリストに自分を明け渡すとき、人間は自分の弱さを誇る事ができる。弱さの中に慈しみの主はおられる。

2015年2月15日日曜日

あわれみの主に感謝!

 朝から雪が舞う中、肋骨を骨折して入院している叔母を西伊豆に見舞いに行った。12月の末以来である。
 幸い、今月末には退院と決まったが、医者は叔母が一人暮らしをするのはもう難しいと言う。
 伊豆で叔母の暮らせる施設を手を尽くして探してみたのだが、唯一の入所可能な施設は、一人部屋ではな く、建物も古いという。思案の末に「叔母さん、とにかく家に来てください」と伝えた。叔母は「すべては神のみ心のままにですから」と微笑んでくれた。
 翌日、町役場の福祉課に相談に行ったところから急展開した。叔母は牧師館の近くにある老人ホームに入れそうである。あわれみの主に感謝!

2015年2月8日日曜日

のんびりいこうよ

 朝8時ころ、玄関のドアがノックされた。戸を開ければ宅配の方である。いったいこんな時間に何が配送されてきたのかと荷物を開けてみれば、前の夜10時過ぎにインターネットで注文した本だった。
 驚きだ!こんなに即行で本が手に入るとは。このスピードとサービスぶりに今という時代を感じたが、これを素直に喜んでいいのかと考えてしまった。
 注文から12時間もたたずに配送されてくるというのは、この為に夜中に働いている人があるということだ。病院や福祉施設の夜勤の方の働きには頭がさがる。しかし、それは何もかもでなくてもいいのではないか。当たり前の働き方で、普通のサービスというのでいい。

2015年2月1日日曜日

信仰は他者への愛

 「宗教がこわくなったのでキリスト教をやめます」という電話をある方から頂いた。すぐに思い当たったのは、イスラム国の人質事件である。国内でも宗教の布教活動に行って殺害されたという事件が報じられたばかりだ。
 あまたの宗教と呼ばれるものを一括りにしてしまうのはどうかと思う。宗教と信仰は違う。ましてイスラム国は自分だけが正しいとして、それ以外のものを徹底的に否定、排除する原理主義の一つである。
 私たちが信じるのは。わが身を捨てて他人の命を救ってくださったそのお方だ。友の救出に自身の命をかけたゴトウさんの解放を祈らずにおられない。

2015年1月25日日曜日

信仰の神秘

 大寒のいま、日本中が寒さに覆われている。しかし湯河原はさすがに暖かいと見えて、教会の小さな庭には菜の花が満開である。長くなってきた日差しは天父の恵みだと言わんばかりに、さんさんと輝いている。
 この時期、草花が蕾をつけ花を咲かせるのは気温というよりむしろ日照時間に関係があると聞いた。だから雪の中で芽吹く猫柳もあるし、蕾がほころぶ寒梅があるのだと納得する。
 一年で一番寒い時期に、日差しがだんだん長くなる、地球が公転すればこその不思議。自然はうまく出来ている。この平等な恵みを天父からの贈り物と感じられる不思議、それは信仰の神秘ではなかろうか。

2015年1月18日日曜日

会心の作

 今日のニュースのどれを見ても、元気の出るものがない。それどころか、またしても・・・、というような記事ばかりである。
 しかし、中に「元気だせ」とばかりに、ぱぁっと明るいものがあった。「現代学生百人一首」の記事だ。毎年この時期、朝日新聞の『天声人語』で紹介されるのを楽しみに読む。
 これぞクリスチャンの心意気にピッタリだと、私が気に入ったのは中2女子のこの歌だ。「書き初(ぞ) めの会心の作きめたのは諦めかけたラスト一枚」。
 そうだ、チャレンジを続けよだ。「門をたたけ、さらば開かれん。(マタイ7:7)」!主にあって、扉はかならず開かれる。忘れまい。

2015年1月11日日曜日

洗礼

 年明けに、小田原教会の信徒の方から湯河原教会へ一枚のハガキが届いた。「湯河原教会の皆様より心暖かい祝福を頂きました・・・」と、感謝の言葉である。
 昨年のクリスマスに受洗した小田原教会の姉妹に、湯河原教会は兄弟教会として、お祝いの言葉をその時ファックスで送った。洗礼式後の愛餐会でファックスを受け取って、彼女は驚き、感激で涙ぐんだ。
 洗礼が個人の喜びだけでなく隣り町の兄弟教会の喜びだと伝えることは、実にいい兄弟姉妹の働きではないか!それは天にあるもっと大きな喜びをも示している。
 主の洗礼日に、キリスト教会は洗礼を根拠にして立っていることを思い起こす。

2015年1月4日日曜日

ワクワク大作戦

 2015年がスタートした。新年恒例の箱根駅伝をラジオで聞いた。キリスト教主義の青山学院大学が初優勝した。箱根の山登りで新記録、往路も、復路も圧倒的な強さだった。選手本人たちもこんなに走れるとは思わなかったと驚いている。  入学当初、調子が上がらなかった1年の選手は「今、ダメでも走れるようになる」という監督の言葉を信じ、練習を続けてきたそうだ。「選手が本気で取り組めば課題が見つかる。それを乗り越えようと戦えば、強くなれる」。きっと前に進めると言うメッセージだ。
 緊張せず、楽な気持ちで、楽しく走るという「ワクワク大作戦」がみごとに実を結んだ。

2014年12月28日日曜日

神の愛の「しるし」

 アドベントから始まる怒涛の一ヶ月が終わった。今月お訪ね出来なかった方々を問安する。寂しさをお察しする。それに礼拝の恵みや教会家族の交わりに与れない方たちだ。魂が窒息寸前の方もおられた。
 静かにお話を伺う。感謝をして一緒に祈る。神の像にかたどって造られて、神の息を吹き込まれた私たち人間は、神から愛されているという目に見える「しるし」がなくては生きてはゆけない。
 同じように、忙しさでやり過ごしたものに、庭の水仙もある。しかし、こちらはいつの間にか白い花弁の真中に黄色い冠をつけて、すまし顔で咲いている。もう春の香りさえただよう。

2014年12月21日日曜日

クリスマスがいっぱい

 海の向こうからクリスマスのプレゼントが届いた。家人が箱を開けてニコニコしている。「これで、クリスマスケーキが焼ける」と言って、いそいそと台所に立っていく。子供から届いた荷物の中身は牧師の妻となった母への応援物資であった。
 今週、クリスマスカードが次々に送られてくる。教会の兄弟姉妹や友人たち、子供たちからのカードに囲まれて、クリスマスの喜びはだんだん深まってゆく。
 恵みの分かち合いをしたいと、焼いたケーキをまずはご近所の一人暮らしの方へ届ける。甘い菓子は人を 幸せにすると聞いた。玄関先で祈らせてもらい、ささやかなクリスマスの喜びと恵みをお届けする。

2014年12月14日日曜日

もう目を回してなんかいられない

 アドベント・クランツにロウソクの火が三本灯る。 あと一週間でクリスマスだ。この時期は教会も牧師も 一番忙しい時である。いや、牧師の目はすでにもう一 ヶ月前からぐるぐる回っている。
 クリスマスまでにやらなければならない準備を一つ一つチェックしてみる。終わったことを数えてホッ として、また次の準備にとりかかる。
 一昨日、クリス マスの案内状に「ご一緒にクリスマスの恵に与ること ができれば、こんなに嬉しい事はありません。ぜひクリスマスは教会に足をお運びください。」と書く。
 さて今日からの一週間、牧師は正念場を迎える。もう目を回してなんかいられない。

2014年12月7日日曜日

ひだまりで

 小田原にいく途中、西湘バイパスの入口付近に、おばあさんが二人話し込んでいるのをよく見かけた。
 北側がカーブした土手になっていて、陽だまりにな るその場所は暖かいのだろう。一人は買い物用の手お し車に腰掛けて。もう一人は杖をついて。
 話しているその様子がいかにも楽しげに見える。な にを話しているんだろう?しかし、お互いに家に呼ぶのは家族に気兼ねなのだろうかと思ったりもする。
 このところすっかり寒くなった。今日も運転しなが らおばあさんたちの姿を探すがいない。今ごろどちらかの家でこたつに入って、談笑しておられるといいなぁと、祈りながらそこを通り過ぎた。