2016年11月27日日曜日

平年並みでないクリスマスを

 あんなにきれいな紅葉はハゼの木に違いないと、左手の山々の紅葉にチラチラ見とれながらカーブを曲がる。すると、海を望んで右手に雪化粧した山々が現れた。昨日降った54年ぶりだという雪のせいだ。紅葉と雪の山が同時に楽しめるなんて滅多にない。
 このあたりでは11月には雪は降らないと言うのが平年並の気候だ。平年並みとは過去30年間の気候の平均だそうだ。平均であれば平均と同じ気候の年など一度もないということだ。
 今日からアドベントが始まる。毎年迎えるクリスマスもやっぱりどこか違うはず。心に主を迎える準備に平年並なんてないんだね。今年も小さな回心一つ!

2016年11月20日日曜日

参道を降って登って

 人を初めて訪ねるときは、いつもグーグルマップでお宅の場所を検索して出かける。伊豆山神社の石段の横に目的のお宅はあるらしく、カーナビに神社をセットして出発。ここまではいつも通りだ。
 さて、神社の境内に車を止めたものの、そこから先がわからない。付近の家を一軒一軒見て回るが目当ての家は見つからない。親切なお店の人、通りがかりの人が一緒になって探してくれた。スマホを持っている人がさらに下に続く参道付近だと教えてくれた。
 階段の苦手な家人の手を引いて、気が遠くなるほどの階段を一段一段降りた。いったい何段?ついに、探し当てた。が、帰りは登り。いやー、いい運動だった!

2016年11月13日日曜日

ルターのすすめ

 信仰入門講座で学んでいる『小教理問答書』だが、改めてルターの信仰理解の深さに驚かされている。
 例えば、十戒のうちの「あなたは隣人について偽証をしてはならない」であるが、ルターは「隣人をだましたり、裏切ったり、悪口を言ったり、あるいは悪い評判をたてたりするな」という禁止の中に、さらに主の福音を読み取る。「隣人を弁護し、隣人について良いことを語り、すべてを善意に解するように」と。
 ルーテル教会の信徒であったドイツ系アメリカ人の知人は、子どもたちに「友達の悪いところではなく良いところを話すように」と教えていたことを思い出す。そうだ、不平や愚痴もまた福音から遠いと覚えたい。

2016年11月6日日曜日

湯タンポ

 心地の良い季節になった。青く澄んだ秋の空に桜の紅葉が美しい。温暖な湯河原もさすがに朝は冷え込んできた証拠だ。朝方、目が覚めると猫達が揃って布団に入り込んで眠っている。そろそろ冬の支度にと、今年は湯タンポを買ってみた。
 使ってみて驚いた。湯タンポはシニア世代の愛用品だとばかり思っていたが、以外に使い心地が良いではないか!足の触れるか、触れないかの所に置くだけで布団の中はポカポカと温かい。有り難いことに、夜中にトイレに立つ回数が減った。
 身体にも環境にも優しい湯タンポが気に入ったのは私ばかりではない。我家の猫も勿論、目を細めている。

2016年10月30日日曜日

決戦の日曜日

 今年の日本シリーズがおもしろい。ちょこちょこラジオに聞き耳を立てたり、ちらちら横目でテレビ画面を眺めて観戦したりしている。
 ゲームは雰囲気に呑まれることもあるというが、広島ファンのあの赤一色の燃えるような熱気と白一色で白熱した日本ハムファンの姿が印象的だ。
 ところで、7戦まで観戦したい私とすれば、土曜はタイになり、そして次が「決戦の日曜日」と願いたい。
 ・・・が、我が家には全く興味のない人が一人いる。話しても反応がないばかりか、「ラジオの音は小さくね」と言われる。嗚呼!一度でもプロの生観戦に連れていけばよかったな。

2016年10月23日日曜日

そうすれば

 叔母が圧迫骨折で2度目の入院をして2週間余りになる。夕方ちょっと顔を見に行くが、たいていはぐっすり眠っている。耳が遠いので話しかけても目を覚まさない。手を握ったり腕を擦ったりして帰って来る。
 昨日のことだ。やっと目を覚ました叔母は、「とっても身体が楽なのよ。皆さんよく協力してくださって…」と言う。見れば本当に穏やかな表情だ。
 前回は、入院早々から認知症がひどくなると言われ続けて、叔母も緊張していたし、こちらも疲れた。物事には両面あるが、心配を口にすることは決してプラスじゃあない。まず神を畏れ、愛すべきだ。そうすれば「すべてのこと相働きて益となる」と言えるんだ。

2016年10月16日日曜日

神に選ばれた人たち

 娘の住む米国の小さな町が、ハリケーンで街と幹線道路が水没し孤立。電気と水と食料が絶たれた。車からスマホをチャージしてLINEで知らせてきて知った。
 やもめが不正な裁判官に「裁判をして、私を助て」っと叫んでいる。このやもめは神に選ばれた人だ。このやもめのように「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちを、神はいつまでもほうっておかれない」と主イエスは言われる。
 もう一週間以上。あなたの今の状況、すごく大変だよね。でもこの今の試練は神の選びの中にあるって受けとめると、なんだか勇気が湧いてくるよね。
 主のために頑張って!みんな祈っている。

2016年10月9日日曜日

内覧会に招待され

 お隣に延べ面積約一千坪の創価学会の文化会館が完成して、その内覧会に招待されて行ってきた。
 基礎工事から完成まで一年半がかかった。会館は震度7にも耐えうるという。いざという時は、町の災害時の避難所として提供したい。だから門戸は施錠していないという。そうだ、それでこそ宗教だと納得する。
 そういうわたし達も、あの半端でない騒音と塵埃とを気にかけないよう、よく協力してきたものだと振り返る。正直なところ、重荷を背負っているあの人のこと、この人のことを考えると、騒音に気を取られる暇もなかった。主に感謝することは、毎日の生活のどんなことにもあると気付かされた。「主よ、感謝します」。

2016年10月2日日曜日

わたしはそれを満たそう

 月が変わってカレンダーをめくる。忙しい月だったが、今年も後3枚を残すのみとなったと気づいて驚く。時間が速く過ぎ去る実感は年ごとに加速する。
 「少年老いやすく、学成りがたし」「一寸の光陰、軽んずべからず」のことわざが頭をよぎるも、還暦を過ぎれば、「時すでに遅し」の感がしないでもない。が、そこはキリスト者の強みがある。
 気を取り直して聖書に向かう。すると、こんな言葉が目に入った。「口を広く開けよ、私はそれを満たそう」(詩篇81:11)。口ばかりか、目も耳も手足も使い、マインドをオープンにすれば、恵みはあふれるばかりだねと主がおっしゃる声が聞こえた。

2016年9月25日日曜日

キリストの花嫁

 施設で暮らしていた◯さんが天に召された。ご高齢だった。主が最後の時にも共にいてくださった事がわかる、そういう静かな表情だった。
 これまでお訪ねするたびに、若く美しい花嫁姿の◯さんの写真が机にぽつんと立ててあって、彼女の寂しさが伝わって来た。そんな時は、聖餐と讃美と祈りがそこにいるわたし達を満たしてくれたものだ。
 神は見えない、確かめられない。だが、もし私たちの間に慈しみと愛と信頼があれば、そこに神はおられる。人間の愛はあてにならないが、神の愛は完全だ。今ごろ◯さん、あの花嫁姿で天国に入場している頃だろうか。キリストの花嫁として。

2016年9月18日日曜日

神の助けによって

 先週、娘の結婚式があった。
 「あなたは、◯が病気の時にも、健康な時にも、他の者が見捨てるような時にも、夫/妻として守りますか」。この中で「他の者が見捨てるような時にも」という誓いの言葉がスゴイ!
 少し前の話になるが、罪を犯した息子の面会で、ある母親が涙をこらえながら息子に言い切った言葉を思い出す。「でも、私はどんなことがあっても、あなたのお母さんだから」。この時もスゴイと思った。愛は神からのもの。
 新郎新婦は「神の助けによって、約束します。」と答えた。神の助けに支えられて幸せに!

2016年9月11日日曜日

とうとう見つけたぞ!

 羊飼いの囲いから迷い出た一匹の羊も、女が無くした一枚のドラクメ銀貨も、自分がどんなに探されているか気付かない。
 それでも羊の方は生きていて草を食んでいたり、不安になってメイメイ鳴いていたりするかもしれない。
 しかし銀貨の方は、家の片隅でただホコリの中に埋もれてじっとしているばかりである。「親の心子知らず」ということわざがぴったりの主イエスの喩え話だ。
 見つけた方がどれだけ真剣に捜したか。そして見つけた時にどれほど喜んだか。この神の忍耐、愛、喜びを知る時、本当に深い安心感、喜び、信頼、感動が起こってくる。神の大きな喜びは神の忍耐の表裏だ!

2016年9月4日日曜日

秋よ、お出で、お出で!

 9月になった。ギラギラ太陽は変わらずだが、すでに風には秋の気配がただよう。暑かった夏もそろそろ終わりだ。
 さて、この夏もっぱらエコ生活を通したはずだが、返って肥ってしまった。朝食は口当たりのよいシリアルと豆乳、昼食は蕎麦、夕食は素麺を食べて過ごしたからだろうか。そろそろ夏前の生活に戻したいが、実際はまだまだ暑い。なるべく火を使わないエコ炊事の食事はもうしばらく続きそうだ。
 小田原からの帰り道、今日はススキの子が白い穂を風に揺らしていた。「秋よ、お出で、お出で!」と呼んでいるようだ。

2016年8月28日日曜日

きっと地球は報いてくれる

 これ以上暑い日が続くと「エコ生活はもう無理!」と音を上げた頃、台風がやってきた。束の間の涼だ。
 子供の頃、夏はここまで暑くはなかったと記憶する。この異常な暑さも地球温暖化が原因なのか?と戦後人類の環境破壊という罪責感が頭をかすめる。
 地球は過去3億年に渡って、空気中の酸素濃度を21%に保ってきた。酸素がたった1%増えるだけで山火事は消えず、森林は消え去るという。
 地球は生きている。あらゆる生き物がお互いに働き合ってこの均衡を保っている。いま謙遜に、人は地球に生きる命の一つだということを思い巡らす。謙遜に自然を尊べば、きっと地球は報いてくれる。

2016年8月21日日曜日

変わり始めている

 オリンピック、日本選手の応援をしながら、私としては珍しくテレビを見た。選手の一球に、「そこだ!」、「よっしゃ!」と心の中で叫ぶ。もうハラハラドキドキの連続だ。生中継は全く心臓に悪い。
 日本の選手が失敗するのがやるせない。負けるのが気の毒。そこで、結果を知ってのダイジェスト版を見る。窮地に陥っても、ケセラセラと楽しめる。
 なんといってもオリンピックだ、ちょっとナショナリズムに浸ってしまった。しかし、気がついたのだが、今回は柔道でも、陸上でもハーフの選手の活躍がちらほら目についた。こんな風景は米国では普通だった。日本も変わり始めている。いいじゃないか! 

2016年8月14日日曜日

これは私の独り言

 今夏、我が家は暑さと熱い戦いをしている。
 エアコンは使わず、窓という窓、戸という戸は全開、よしずとすだれで日光をさえぎり、庭の緑に水を撒く。冷やしタオルで首を巻き、扇風機の風に吹かれて、うちわで扇ぎ、一息入れる。「ああ、涼しい!」。
 エコ生活を特別に心がけているというわけではないが、猫たちが自由に出入りする我が家では、部屋を閉めきってエアコンを入れるのは難しい。
 玄関先の道を通る人たちが猫たちに声をかけていくのが聞こえる。「可愛いね〜」。この一言で家人は報われるらしい。「エコで行くわよ!」と宣言している。
付き合うしかないな・・・これは私の独り言。

2016年8月7日日曜日

ドッカーン

 「ドッカーン」と心の臓に響く最初の一発が鳴った。
 「あっ、花火が始まった!」と、二階の窓からさっさと屋根に出た家人に続いて私も屋根へ。
 十字架塔の隣に色とりどりの火の花が咲いては消え、消えては咲いている。ここから花火が見えるとは、知らなかった!
 ヒュ〜〜と火の玉が高く上って、いったん闇に消え、次の瞬間、空を覆う大輪の花。そして「ドカーン」と轟音。この4尺玉には胸がすく。
 みんなのためにとばかりに、ドカン、ドカンと打ち上がる。「宵越しの銭は持たぬ」とばかりの潔さがいい。
 ついでだが、聖書の話の「愚かな金持ち」(ルカ12:13ー21)に、みんのための潔さを少し煎じてあげたらどうだろう?

2016年7月31日日曜日

素直な感性

 毎年楽しみに聞いているNHKのラジオ番組『夏休み子ども科学電話相談』が今年も始まった。
 「どうして地球にだけ酸素があるんですか?」といった質問に混じって、「どうして動物は歯を磨かないの?」という5歳児の質問があって、思わず笑ってしまう。
 こんな素朴な質問にも、第一線で活躍している各分野の専門家が身近な経験を通しながら説明している。中には「へぇーぇ!」「そうなんだ!」を連発しながら聞いている子どもがいる。驚いて目を丸くして聞いている様子が想像できて、微笑ましい。
 素直な感性は主のほめられるところだ。この夏、ラジオを通して子どもの感性に養われるのも楽しい。

2016年7月24日日曜日

ある宗教では・・・

 ちょうど米国に滞在していた頃、『ダ・ヴィンチ・コード』という小説がヒットして映画が作られた。イエスはマグダラのマリアと結婚し、子孫がいるというフィクションに全米の真面目クリスチャンが憤った。
 いま思い出しても吹き出してしまうのだが、私たちの教会でも一人のシニアの男性が興奮して言った。「私は、今までトム・ハンクス(主人公役)は大好きだったが、もう、嫌いだ!」。中年の男性がすぐ冷静に言った。「彼は俳優だ。彼は俳優なんですよ!」。
 これと同様のことが起きている。ポケモンGOが配信された。進化するポケモンはある宗教には反するという。私も叫ぶ。「これはゲームだ。遊びなんだ!」と。

2016年7月17日日曜日

留まらず・・・

 明るいニュースがあった。外出先で家族とはぐれ、捜索願の出されていた91歳のおばあさんが、高1の男子生徒の機転と親切によって無事家族のもとに戻った。清々しい笑顔の若者の写真を眺めながら、善行は主の喜ばれるところだと、素直に嬉しい。
 だが、「善きサマリヤ人」の喩え話は、「一日一善」のような話とは根本的に違う。主は律法学者の「自己正当化」に対する答えとして、この話をされた。
 自分を正当化し、気づかぬうちに人を区別し、そういう自分に留まってはいないだろうか?と自問する。有り難いな!この喩えは、自分の中にもある律法主義、原理主義という自己正当化の罪に気づかせてくれる。

2016年7月10日日曜日

ヨナだけではない

 異邦の民、敵国アッシリアの都ニネベに遣わされた預言者ヨナはこの召命を「快し」とせず、逃亡した。
 大魚に飲まれて、救い出されたヨナは回心してニネベに行って預言した。すると、王も民も家畜に至るまでが悔い改めた。ヨナにとってこの結果は意外だった。
 怒って、すねて砂漠の中で座り込むヨナを、主はトウゴマを生やして熱気から守られた。しかし、翌日にはトウゴマは枯れて、ヨナの怒りは頂点に達した。
 主のみ心がわからないのはヨナだけではない。主の憐れみには選民と異邦人の区別はもとより、何の差別もない。主は右も左もわきまえないこの私を愛し、この私が滅びるのを惜しみ、救ってくださった。

2016年7月3日日曜日

さっそく救出!

 信徒さんの問安で訪れた下曽我のあたりは、斜面にも小さな水田があって、田植えの後の稲が青々と育っていた。昔ながらの用水路には水草が茂って、そこをサラサラと涼やかな音をたてて水が流れていた。「なんて快い音なんだ!」子供の頃、こんな小川でメダカを捕ったものだったと足を止めてしばらく眺めた。
 この辺りは里山の風景が未だに残っているが、その実は、ずいぶん変わってしまっているに違いない。メダカはとうの昔に絶滅危惧種だ。ミツバチがいなくなると地球の生態系が変わるという話も聞いたばかり。
 今朝、ちっちゃなもぐらのようなのが廊下でもがいていた。猫が捕ってきたオケラだ。さっそく救出!

2016年6月26日日曜日

その響き実に爽快

 6年ぶりに帰国した末娘を連れて、伊豆のホームに伯母を訪ねた。まもなく100歳になる伯母は40年ほどをアメリカで過ごして、60歳を過ぎて帰国した。
 白髪の頭をしっかり持ち上げて、背筋を伸ばして、真正面をむいて車椅子に座っていた。「ご無沙汰していました。お元気で何よりです。」と声をかけると、「私、何もかもすっかり忘れちゃったのよ。」と言いながら笑顔で迎えてくれた。家族の近況を報告し、今は天の国に憩う人達の名前を挙げて懐かしむ。
 最後に、讃美歌を一緒に歌った。「主、我を愛す」を初め日本語で、次に英語 “Yes, Jesus loves me!”と何度も歌った。“Yes!”とその響きが実に爽快だった。

2016年6月19日日曜日

アドナイエレ

 梅雨に入った。日中は蒸し暑いが夜になると冷えてくる。油断をしてすっかり風邪をひいた。風邪をひくと、思考力も記憶力も鈍る。先日も、ある信徒さんのところへ聖餐をお持ちしたことはいいのだが、肝心のホスチアを忘れてしまった。ちょうど家人が焼いて持参したケーキを小さく切って、聖別する。「主の山に備えあり(アドナイエレ)」だと感謝だった。
 ところが、この風邪が家人にも感染って、家事はストップ。冷蔵庫を開ければ納豆、野菜、トマトジュースがある。「備えあれば憂いなし」だと、胸を撫で下ろす。けれどこれって、きっと人間の備えなんだ。人間の力の及ばないところに主の備えがあるのだから。

2016年6月12日日曜日

Be nice”(ナイスであれ)

 「まあ、緑色の綺麗な目をしている」とは、通りかかった中年夫婦が我が家の黒猫ドッティを見ての会話だ。家の前を通る人に寄って行って愛嬌を振りまいているのだ。そういえば今朝方、老婦人が我が家の灰色猫をしばらく撫でていた。家人によれば、彼らには他にも人間の友達が何人もいるらしい。
 かつてはよその人が玄関に来ただけで、家の奥に逃げ込んでいた臆病者だ。この変わりようには驚く。
 まさかと思うが、牧師館で飼われている猫だという自覚があるのかもしれない。どんなときにも “Be nice”(ナイスであれ)と言い聞かせている家人の言葉通り猫は自覚していたとしたら・・・僕よりスゴイ!

2016年6月5日日曜日

「しつけ」だった

 「人を噛む子は犬と同じだから、犬のところに行きなさい。」と、近所の学童保育所の犬小屋のところに行かせた。長女がまだ2歳の頃だった。
 長女に毛布をもたせると、「ほんとうにナーちゃんを犬にあげちゃうの?」と長男は泣きそう。それなら僕も行くという5歳年上の長男と長女を一緒に犬小屋の前に置いて来たことがあった。「しつけ」だった。
 筋を通さなければという「正しさ」と、親は子どもに負けてはならないという「恐れ」があった。そんな未熟な親だった我が身を振り返り、大和くんのことは人事ではない。ひたすら無事を祈っていた大和くんが戻された。主よ、あなたの憐れみに感謝します!

2016年5月29日日曜日

みんなニコニコ

 教会の姉妹のみかん山に「ピクニック」に行った。「暑からず、寒からず、もし雨が降ってもパラパラ程度に…」と姉妹が祈られたその通りの日になった。
 教会からは11人で繰り出す。車を出して手助けをしてくださった姉妹のお孫さん、みかん山の隣の畑のおばあちゃんも参加され、総勢13人となった。
 山の上はなんて心地いいんだろう!眼下に海を眺め、黄色い蜜柑に囲まれて、賛美の歌を歌い、み言葉に聞く。お昼ごはんは手作りのおにぎりだ。もぎたての甘夏、実生の枇杷を味わいながら、みんなニコニコ。
 外気浴、自然の恵み、友の交わりを満喫。その夜、主は、ここちよい眠りを一人ひとりに下さったに違いない。

2016年5月22日日曜日

多様さと寛容さの群れ

 先週の礼拝に御両親に連れられて赤ちゃんがやって来た。10ヶ月の乳児のもつエネルギーはすごい!なんていいんだろう!ついニコニコしてしまう。もちろん、お年寄りは文句無しにいい!けれども、この小さな赤ん坊の無限のエネルギーは皆を元気にする。
 初めて会う大人の顔を、じっーと、それこそ穴の開くほど見つめる。澄んだ瞳は、わたしの心の底まで見通しているようで思わず恥じ入ってしまうくらいだ。
 図らずも「教会は0歳から百歳過ぎまで、いろんな人が集うのがいい」と誰かが言った。確かに、この多様さと寛容さこそが主イエスの愛される群れ、教会の姿だ。来たれ、子どもよ!今週から「子供食堂」が始まる。

2016年5月15日日曜日

聖霊に導かれて

 新緑の美しい季節となった。緑の枝をさらさらとゆすらせながら気持ちの良い風が吹いている。聖霊は風のように思いのままに吹く。そして、その聖霊に導かれて、突然ひとりの若者が教会にやって来た。
 聖書を読んでいてわからないことがあるから教えて欲しいという。話してみて、彼が聖書を実によく読んでいるのに驚いた。インターネットでキリスト教の動画を見て感銘を受けて以来、聖書を読むようになったという。生活を通して、聖書の言葉を素直に受け止めているのが新鮮だ。わたしの方こそ生きかえる。
 聖霊の風に吹かれて、人は新たに生まれることができると主は言われた。今日、きっと聖霊の風は吹く。

2016年5月8日日曜日

主よ、母をありがとう

 おかあさんは ぼくを 一ばんすき!
 ぼくは おかあさんを 一ばん すき!
 かぜ ふけ びょうびょう 
 あめ ふれ じゃんじゃか
 これはまど・みちおの「おかあさん」という詩だ。お母さんと子どもは相思相愛だ。たとえ嵐が襲ってきても平気。この安心感の中で、子どもは育つ。
 勢いのある詩だ。優しさよりも、むしろ力強さを感じるのはわたしだけだろうか?母の無私の愛、そして子どもの全き信頼は、主イエスの示された「幼子の信仰」を思わせる。相思相愛の母と子の姿は神の国の雛形だ。今日は母の日、「主よ、母をありがとう」。

2016年5月1日日曜日

天を仰いで

 先日、叔母の急用に迫られて鎌倉に行き、叔母の知り合いのTさんを訪ねた。彼は隠れキリシタンの殉教者の地蔵があるから、牧師の私にぜひ見てほしいと言って五所神社の境内に案内してくださった。
 社殿の隅に数体の石仏が並び、その中に他のものとは違う小さな地蔵があった。着物姿、長い髪を背中で束ねた女性だ。膝をついて後ろ手に縛られている。しかし、天を仰ぎ祈っている。その穏やかで平和な表情に惹きつけられた。
 ふと、殉教者聖ステファノが思い浮かんだ。聖霊に満たされて、天を見つめる彼の表情はきっとこの様だったに違いない。古びたキリシタン地蔵に、野の花が優しく捧げられていた。

2016年4月24日日曜日

聖霊に励まされて

 緑が美しい季節になった。周りの山々は濃淡さまざまな緑が浮き立つようだ。だが、熊本を中心に起きている地震はまだ収束の気配がない。
 JELC(日本福音ルーテル教会)もいよいよ動き出した。現地の様子はまだ十分には把握できていないのだが、被災地への支援がスタートする。
 現地のルーテル教会のS牧師、赴任まもなく消防団に入っていると聞いていたが、被災した町のために懸命の復旧活動にあたっている様子をフェイスブックで知った。
 17日も被災地の牧師たちは、集まってきた信徒の方々と礼拝を持ち、祈り合ったそうだ。聖霊に励まされてキリストの教会は共に働く!

2016年4月17日日曜日

主よ、日ごとの糧を与えたまえ

 『イースターコンサート』での献金の総額6万あまりを送ったところ、国連WFP協会の日本事務所から礼状とともに領収書が送られてきた。出演してくださったダ・カーポの皆さんに心から感謝いたします。
 WFPと言うのは飢餓のない世界を目指し最前線で活動する国連の唯一の機関だ。シリア難民の食糧支援、世界中で起きる災害被害に対する緊急食料援助、また毎年2,000万人以上の子どもたちへの学校給食の提供など、身を挺して行われている人道支援の活動だ。
 わたし達は「主の祈り」で、「日ごとの糧」を祈る。それは自分のためばかりか、すべての人の糧なのだ。「主よ、日ごとの糧を、すべての人に与えたまえ」。


2016年4月10日日曜日

ほらね、ここも満開だ

 昨日の激しい風で桜はきっと散ってしまったに違いないと、無残な桜を想像しながら小田原へ向かった。しかしである。海沿いの国道にある桜は、散るどころか満開だった。思いがけず、「きれいだねぇ」と花見をしながらのドライブとなった・・・聖書は何事にも時があるという。神の時でなければ強風ぐらいでは桜は散らないものだと感じ入った。
 時にかなって天父は主イエスを永遠の命に蘇らせた。もう決して後戻りはしない。わたし達は死で終わる人生ではなく、新しい命に誕生するという希望の時を生きている・・・いま、小田原市内の桜並木の下を車はゆっくり通りかかる。「ほらね、ここも満開だ」。

2016年4月3日日曜日

エマオへの道をいく

 今日4月3日は、私達夫婦が湯河原にやって来たその日だ。年齢のいった新米牧師夫婦の二人三脚の日々を、両教会の信徒の皆さんはよく支えてくださった。何より、今日までの3年間の主の導きと恵みに感謝。  
 100メートルを10秒切る最速ランナーは確かに輝かしい。しかし、教会は信徒皆で走るムカデ競争の進みがいい。ズッコケでいい。転んでいい。いずれ神の国というゴールに到達する。だったら皆で楽しいってことのほうが、ずーっといいじゃないか。
 今日、弟子たちの心は、復活の主に出会って暖かく燃えた。主の慈しみと愛に燃やされながら、わたし達も、今まさに主と共に行くエマオへの道にいる!

2016年3月27日日曜日

死んでも君を離さない

 「イエスの復活」を描いたイコンの中に、陰府(よみ)に降ったイエスが人間の祖であるアダムとエバを、死の床から引っ張りだしているフレスコ画がある。十字架の死後、すぐに復活されなかった訳はそれか!と初代正教会の信仰を知って、少なからず衝撃を受けた。
 ところで、年配の方はポール・アンカという歌手のデビュー作『ダイアナ』をご存知だろう。“I love you with all my heart”(心の限りあなたを愛している)“Oh. please stay with me”(ああ、どうか私と一緒にいて欲しい)と原作に繰り返されるが、日本語の意訳が実に利いている。「死んでも君を離さない/地獄の底までついて行く」。これって、まるで死へとくだるイエスじゃないか!

2016年3月20日日曜日

ほくほく

 先日は海の向こうに住む末の娘の誕生日だった。日本の食品をなにか送ってやりたいと、こころばかりのものを送った。
 送って一週間が経ったが、本人からはなにも連絡はない。国際小包の配送状況はインタ−ネット上で追跡できる。見れば「配達完了」となっていた。
 けれども、家人はどうしても娘のことばが聞きたいらしく、メールを出す。「届いた?」。直ぐに返事がきた。「届いたも ほくほく ありがちょ○」。この○は彼女の名前の最初の一文字である。
 二人で思わず笑ってしまった。まったく!末っ子と言うものは幾つになっても親を楽しませてくれる。

2016年3月13日日曜日

泣けて仕方がなかった

 3.11から5年の節目を迎えた。あの日、自分は何をしていたのか思い出した。そう、授業中だった!
 あの頃、私はまだ神学校の学生で、落第が決まったばかりだった。震災の二日後はアメリカにいる家族の元へいく予定だった。ところが、交通機関は混乱をきわめ、とうてい成田へなど行きつけない。諦めて、なんとか二日後のチケットを買い直してアメリカに行った。
 着の身着のままで飛行機に乗ったらしい。家族が、私の身なりを見てびっくりしていた。妻や子どもたちに会って泣ける。地元の教会で礼拝後に頼まれて震災の様子を話したが、泣ける。何を見ても泣けて仕方がなかった。未だ厳しい状況にある方々を覚えて祈る。

2016年3月6日日曜日

わたしを可愛がって

 この二三日、お転婆なミント(猫)がおとなしい。キャットボックスにすっぽり入ったまま出てこない。怪我か?どこか体の具合でも悪いのではないか?あちこち触ってみるが、取り立てて異常はないようだ。
 飼猫であってもこうなのだから、これが我が子であれば「何をか言わんや」である。が、現実には子どもの虐待が繰り返し報道されている。
 子どもを育てることは、言ってみれば親の献身のひとことに尽きる。親は理屈抜きで、子どものために体が動く。あのまぁるい、フラットな顔にちょこっと目鼻のついた、四等身のプニョッとした体つきはどう見ても、「わたしを可愛がって」と言っているではないか!

2016年2月28日日曜日

自動ブレーキ

 こういうとき自動ブレーキがあれば、と思われた方はいないだろうか? 
 先日、ぶっつけたり擦ったりした車を修理に出した。「自動ブレーキが欲しい」と言ったら、「自動車は運転するもの。自動ブレーキなどつけたら、それはもうメカじゃなくなりますよ」というディーラーの言葉。
 運転中の突然死による事故や高齢者の事故は多い。そう言う私も、昨日は赤信号をおおかた見過ごすところだった。見ていても、脳が反応していないのだ!
 自分のへっぽこ運転を顧みないではないが、いや、へっぽこ運転だからこそ、高齢者時代の自動ブレーキを!と声を大にしたい。

2016年2月21日日曜日

レントに相応しいかも知れない

 この冬の我が家の昼食の定番は「雑炊」だ。今日もやけに黒っぽい葉っぱがいっぱい入っているので、どういう野菜なのかと思いながら食べる。「これ、なに?」と聞くと、白菜だという。白菜の一番外側の葉を全部使ったのだそうだ。なるほどアクの苦味がする。
 「戦時中なら、さつま芋の葉を入れていたのよ」とは、家人の弁解だ。玄米にいろんな野菜を入れた塩味だけの健康食だと自慢らしい。暖かいのは冬のごちそうだと言って、居合わせた人にも勧めている。
 水加減次第で人と分かち合うことができる雑炊、なるほどレントに相応しいかも知れない。だが、味の方はというと…まあ、いいか!それ以上は言うまい。

2016年2月14日日曜日

灰の水曜日

 2月10日は「灰の水曜日」、この日から四旬節が始 まった。今年、初めて「灰の式」を行った。「あなたは塵から造られ、塵に帰る」と一人ひとりに告げなが ら、棕櫚の葉を焼いて作った灰で額に十字のしるしを付けた。私も、最後に灰の十字をつけてもらった。
 帰る時、お互いの額に十字の印しがあるのを見て、なんだか嬉しくなった。キリストの十字架の印しを受けるというのはこの時以外にない。「回心して福音を信じなさい」ということが主のみ心だと知る。だから「改心」ではなく、「回心」なんだ。
 塵にすぎないわたし達、十字架の主を頼みに、ひたすら「天の父よ」と近づきたい。

2016年2月7日日曜日

礼拝はまさに

 山の上で、主イエスは弟子たちに一瞬だが天の栄光を見せてくださった。それは主が生涯でただ一度だけ見せてくださったまばゆく光り輝く姿だ。
 礼拝はまさに主の変容の山の頂での出来事だ。主の死と復活を体験した教会は、こうして日曜日のたびに、わたし達を山の頂へと導いてくれている。
 礼拝という頂、ここでわたし達はふもとにいた時には見ることの出来なかった天の栄光を垣間見て、励まされ、キリストの体と血を頂いて、そして下山する。礼拝は天の栄光を垣間見る瞬間だ。
 ペトロのように思いっきり叫びたい。「先生、わたし達がここにいることは素晴らしいことです」と。

2016年1月31日日曜日

幸いなるかな

 「幸福でなくなるということが不幸。不幸でなくなることが幸福」とは一遍上人の教え。現実の思いとして妙に納得できるものの、なんだか虚しさが残る。
 今日、主は「幸いと不幸」を教えられる。すべてを神様に委ねて、生きてゆくことのできるあなたは幸い。そして、今この世のものだけで満足しているあなたは不幸だと。「幸い」とは、神の絶対的な愛で、無条件に私達が愛されていることを知ることだ。
 「幸せの青い鳥」を探して旅をした兄妹は、家に帰ってみて、青い鳥は前から家にいたことに気がつく。 
 それと同じだ。神の愛は宇宙の創めからあなたと共にあった。思い切って主の幸いに身を委ねてはどうか。

2016年1月24日日曜日

「お言葉ですから」

 季節は大寒に入った。木々は春の芽吹きの備えを真冬にしている。自分はこういう準備を滞ることなく、たんたんと出来る人間では決してないが、こういう自然には憧れる。
「 諦めて丸めて捨てた過去の夢 皺を伸ばせばまだ叶うはず」これは『学生百人一首』の今年の一首。 「着々と準備よく」ではなくても、諦めたものにもう一度挑戦するというのはなかなかいい。再挑戦というのもある。再、再挑戦だって構わない。
 今日、主は夜通し漁をして徒労に終わったペテロにもう一度網を下ろせと言われる。「お言葉ですから」と、聖霊は働く。

2016年1月17日日曜日

あったか〜いおしるこで

 身近な人たちが風邪にかかっている。そういう私も2,3日前には風邪のためその日の夕食は食べることが出来ず、そのまま床についた。 
 翌日も朝食から抜いて、その日は一日体に蓄えたもので過ごす。 この日の午後の「癒やしの礼拝」の後で、正月に本物の餅を食べなかったという人たちのために、餅を食べてもらおうと、おしるこを作った。
 「イエス 内なる光 闇にとどまることなく イエ ス あなたの愛を伝えられるように」と歌った。その後のおしるこは格別だった。「イエスさまは本当に優しいんです」って伝えたい。よく伸びるお餅とあったか~いおしるこで。外は寒いが教会は暖か。私は空きっ腹。

2016年1月10日日曜日

あっぱれ校長先生

 朝食の欠食率は2割近くという中学校のニュースが目に止まった。校長自ら生徒に呼びかけ、フードバンクなどから調達した朝食を食べさせているという。
 朝8時前、校長と教頭それに養護教諭たちが林檎の皮を剥いたり、パンを皿に載せたりして、生徒に給仕する。「目の前に食べていない子がいる。この子たちが大人になれば、その習慣が次の世代に引き継がれてしまう」と校長はいう。彼は、「目の前の必要に向き合う」ことが「負の連鎖を断つ」ということになると確信するのだろう。深く共感する。
 新しい年も、主は求める方々を教会へと招かれるに違いない。さあ、私も自ら給仕するものとされて。

2016年1月3日日曜日

このみ言葉で始まる

 元日の朝、祈祷のために礼拝堂を開ける。教会入口にある電柱の足元に、自生してすっかり大きくなった菜の花が、黄色い花をつけていた。鼻を近づけると、蜜の良い香りがする。爽やかな新春の喜びを目と鼻で受け取った。
 新しい年の始め、今年は聖書を通読しようと心に決める。旧約3章と新約1章、毎日通読すれば一年で聖書全巻を読み終える。
 さて、それでは今日からと聖書の冒頭を開く。そうか、新しい年、2016年もこのみ言葉で始まるんだ。「初めに、神は天地を創造された」。菜の花も年頭の志も万物の創造主あってこその、この喜び。




2015年12月27日日曜日

うちにもサンタさんが来たー!!!

 クリスマス、すっかり暗くなって帰ってきた。先 に車から降りて玄関に向かった家人が叫んでいる。
 「あなた!うちにもサンタさんが来たー!!!」
 車のヘッドライトに照らされて、夜目にも分かるくらい牧師館の庭がすっきりしている。庭の木々は剪定 され、玄関前に無造作に置いていた植木鉢が綺麗に整頓されている。忙しさの中で、買ったまま放置されて いたスミレの苗、それが植木鉢にちゃんと植えられて いるではないか!気になりつつ横目で見ながら、水だ けやっていたスミレの苗だ。
 喜んだのは家人ばかりではない。これって、いいな ぁ〜。今夜は我が家も“Oh, Holy Night”だ!

2015年12月20日日曜日

命の光きたる

 「暗闇に住む民は大きな光を見、死の蔭の地に住む者に光が射し込んだ」(イザヤ書9:1)と、聖書は主イエス・キリストを光として語る。
 このクリスマス、誰かの心に小さな光を灯したいと願う。Aさんの表情がこの頃チョット良くなってきた!Bさんも昨日初めてニコッと笑ったね。Cさんとは電話で、いっぱい話が聞けた。Dさん、救われた。
 キリスト者はキリストの光に照らされて、主を証しする。主は私の心の暗闇に輝く光だ。それは全ての人を救うためにご自分を捧げてくださった命の光だ。喜び来る!わが救い来る!クリスマスおめでとう。

2015年12月13日日曜日

ウソでもいいから

  「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられる」とは、天使がマリアに言った言葉である。
 この後で、マリアはとても自分が恵まれているとは思えないような事実を告げられる。人間の目には、とうてい「めでたい」とは思えない事だ。マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と受け入れ、主キリストが誕生する。
 キリスト者は、苦しい時ばかりでなく、どんな時もこのマリアのように、「御心のままに」と祈ることができる。まずはウソでもいいから、「御心のままに」と唱えてみては如何だろう?「御心のままに」。この言葉には不思議な力がある。

2015年12月6日日曜日

地には主の平和あれ

 ルーテル教会では毎日曜日の礼拝で「平和の挨拶」というのをする。「主の平和がありますように」と言って握手をする。私はこの時が大好きだ。
 初めての方「ようこそ」。久しぶりにあう方「お久しぶり、お元気でしたか?」。昨日もあった方「今日もあえて嬉しい!」。えっ?何やらもやもやするって?心になんだかわだかまりだって?そんなの「平和の挨拶」をすれば、みんな吹っ飛んじゃいますよ。
 アドベント第2週の今日、平和を表わす「天使のキャンドル」が灯される。天使はまず「恐れるな」と告げ、そして「地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美する。私たちはみな一人ひとり御心に適う人!

2015年11月29日日曜日

アドベントキャンドル

 紫のテーパーキャンドルが手に入った。アドベントの典礼色は待望と悔い改めを表す「紫」である。そこで欧米ではよく「紫」のロウソクが用いられる。
 アドベントの1週目は希望、2週目は平和、3週目は喜びを表すバラ色のロウソクを用いる事もある。4週目のロウソクは愛を表し、クリスマスには白いキリ ストのロウソクが灯される。エバーグリーンに囲まれながら、今年は典礼色のロウソクが飾れた。
 色々あったが、主の恵みに満たされたこの一年だったと振り返る。さあ、今日からアドベント。我儘を反省し、このロウソクの灯火が我が心にも灯されて、この世の闇を照らし出せるようにと切に祈る。

2015年11月22日日曜日

いたずらっぽく笑われた

 97歳のKさんを久しぶりにお訪ねした。長男ご夫妻のお世話で、穏やかに暮らしておられる。ベットにきちんと腰掛けて、私たちを迎えてくださった。
 讃美歌を歌い、聖書を一緒に読む。「目がしょぼしょぼして・・・」とおっしゃりながらも、讃美歌も聖書箇所も的確に開かれたのにはまったく感心する。
 「あともう二三日かな?って、いつも思うんです。でも朝、目が覚めて・・・」と、さんはニコッと、いたずらっぽく笑われた。お別れに「おどろくばかりの恵みなりき・・・」と彼女の愛唱讃美歌「アメイジング・グレイス」を共に歌い、祈りあった。
 Kさん、本当に驚くばかりの主の恵みですね!

2015年11月15日日曜日

友和への道

 13日夜、またしてもパリで同時多発テロが起きた。フランスは国家非常事態を宣言した。  一方、米国はゴトウさんたちを斬首したISのジョンと名乗る男を空爆によって殺害したと発表したばかりだ。
 しかし、このことでインタビューを受けたゴトウさんのお母さんの言葉には、さすがキリスト者だと頷く。彼女は息子の仇討がかなったとは言わず、ケンジは平和を願って死んでいった。そのことを思うと、米国の行為は決して喜べないと言った。
 自分の生命に代えて、息子を助けてほしいとうったえた母親の望みは、恨みでも憎しみでもない、息子の願ったキリストによって保たれる友和への道だ。

2015年11月8日日曜日

ひそかなブーム

 毎朝の聖書日課による祈りの時間がこの頃家人の都合でときどき昼にずれてしまうことがある。そんな時は、めいめい祈れば良いと思う。しかしその点に関して家人は融通が利かないほど几帳面だ。
 なにか忘れ物をしたようで、なんだか落ち着かないのか、「あなた、聖書日課!」と、自分のせいであっても、まるで私のせいのように急かしてくる。
 そんなおりラジオ体操がひそかなブームと聞いた。「ラジオ体操は、じわじわと体に染み込み、体をもとの健全な状態に戻す。継続することで体全体の血流がよくなり、筋肉に弾力性ができ・・・云々」なるほど、心も体も、鍵は柔軟さと継続ということか!

2015年11月1日日曜日

猫のことのようだが、これは猫のことではない。

 飼い猫のドッティが四日間ほど行方不明になった。
 いつもは私たちの帰宅を待って「おかえり」と迎えてくれるのが、その日には姿を見せなかった。どこかに行っているんだろうくらいに思っていたが、二日目ともなると家人は心配で眠れなくなった。さすがに三日目にはご近所を二人で探して歩いた。
 四日目、突然開いていた窓からドッティが飛び込んできた。家人は猫を抱きしめて泣いた。
 この間「祈っている」という言葉に励まされた。また、心配をしてくださったご近所の方たちにも出会えた。他者の痛みや悲しみに寄り添う人の優しさを知った。猫のことのようだが、これは猫のことではない。

2015年10月25日日曜日

あなた方はさいわいだ

 身体や心に病をもつ人たち、苦しみ悩む人たちがぞくぞくと主イエスのもとに集まってくる。主は彼らに向かって「あなた方はさいわいだ」と宣言される。 
 人は、突然の病気や予想もしなかった困難な状況に陥ると、そうではなくても、これは「自分に何か落ち度があったからだ」と、つい自分を責め始める。
 だが、自分がマイナスだと思い込んでいるものを、主は、さいわいなものへと造り変えてくださる。
 マルチン・ルターは「懺悔」することを教えてくれた。罪を告白し、赦しの宣言を受け、私たちは新しくされる。懺悔によって、初めて私たちは癒される。「癒やし」とは本来そういうものだ。神からの祝福だ。

2015年10月18日日曜日

歌いながら手を繋ぐ

 一週間に一度、彼の好物を持って主にある友人を病院に尋ねる。面会室でしばしのお茶の時を持って、一週間の話をゆっくり聞かせて頂く。
 心を病む彼には、親しい家族はもういない。孤独と将来の不安から「虚しくなりました」というのがこの頃の彼の口癖である。なんとか彼の支えになりたいと願う。聖書の学びと祈りのあとで一緒にテゼの讃美歌を歌う。「恐れるな わずらうな 主は共におられる 満たされる あなたは 神によって・・・」歌いながら手を繋ぐ。主が私たちの輪に入ってくださる。
 彼が救われ、主に委ねて生きてゆけるようにと祈りながら、牧者としての試行錯誤の道はまだまだ続く。

2015年10月11日日曜日

平和だからこそ

 昨年に続くノーベル賞受賞の快挙は何とも嬉しい。
 一つは、足元の土の性質に目を向けたもの。土から発見した細菌から感染症のワクチンを開発し、熱帯地域に住む発展途上国の人々を救った功績による。

 次は土から空に。世界の自然法則を理解したいという、人類の根源的な好奇心はとうとう目に見えない素 粒子ニュートリノに質量があることをつきとめた。
 澄み渡った秋の空を見ながら思う。肉の目では見え ない世界を遊び心で思い巡らすことは、神の創造され た世界を思うことだ。平和だからこそ、土中の微生物や宇宙の成り立ちにも取り組める。
 この世界に主の平和が満ちますように。

2015年10月4日日曜日

自らに問う。捨て切れるか?

 またアメリカで銃の乱射事件が起きた。尊い命が犠牲となった。オバマ大統領は、銃の規制を強く叫ぶ。 「米国は先進国で数カ月おきに、こうした銃乱射事が 起きる世界で唯一の国だ」と。しかし、銃を捨てられない勢力は相変わらず頑固で根強い。
 主イエスは、永遠の命にあずかるには片手片足を切り捨てても、と言われる。随分過激な言葉に聞こえるかもしれないが、両方を守って死に至るくらいなら、確かに片方を切り捨ててもまことの命にあずかりたい。
 物事には大切な順序というものがある。一番大事なことのためには、二番目以下のことを手放すのは当然だということだ。自らに問う。捨て切れるか?

2015年9月27日日曜日

シンプルになる

 敬老の日、幕山公園に叔母を連れだした。毎日の殆どを施設内で暮らしている叔母にとって、屋外の自然の空気は久しぶりのことだろう。緑の木立の中、川の流れの音を聞きながらしばらくベンチでくつろぐ。
 「ああ、風がいい気持ち!」と叔母。「そうですね」とわたし。特に話はしない。記憶に頼る会話はむつかしい。叔母にとって、今という時が平和であればそれで十分。明日のことは煩わない。すでにすべてを主に「お任せ」の人生が始まっている。
 人は歳を取ってシンプルになる。それは幼子の純真さに通じる。さて、歳に関係なく主にお任せの人生は如何?主はあなたを喜んで受け入れてくださる。

2015年9月20日日曜日

「本当の意味」で「救い」、「助けて下さい!」

 主イエス・キリスト様!どうか、私を含めた、私の家族5人を、「本当の意味」で「救い」、本当の意味」で「助けて下さい!」よろしく、お願いします!
 鉛筆書きのこういうハガキをだいぶ前に受け取った。知らない人からの希求の手紙だなあと思いつつ、目の前の事に追われて、つい放って置いた。
 今日、返事を書いた。「『主イエス・キリストは私の救い主です』と告白するとき、あなたの求める『本 当の意味の救い』が始まります。本当の救いは『永遠 の命』を信じることです。ぜひ、お近くのルーテル教 会の礼拝に与って下さい。そこから何かが始まります。あなたとご家族のためにお祈りします」。

2015年9月13日日曜日

このつぎはと興味津々

 目前の工事は、この夏、建物の地盤となる基礎工事をほぼ終えたらしい。掘り返し、埋め戻しの大音響の毎日だった。8月末に、でっかいキャタピラの付いたブルドーザーや首の超なが〜いクレーンが、工事後の地面の表を平らに直して次々と帰っていった。
 束の間の静寂・・・猛暑日に猛暑日が続いた夏の終わりが意外にあっけなく来たのに似ている。気がつけばいつもの彼岸花が牧師館の片隅にスイスイと姿をあらわしている。もう来週は秋分の日だ!
 さて、工事の方はと見ると、新しいクレーンが部品でやって来てここで組み立てられた。前にもまして強力強大だ。つぎの工事は如何にと、興味津々である。

2015年9月6日日曜日

「たった一人」を見逃すまいと祈る

 いまヨーロッパ中を駆け巡っている衝撃の写真がある。ギリシャに向かう移民船がトルコ沖で沈没し、シリア難民の男児の遺体がトルコの海岸に打ち上げられた。靴をはいたまま、膝をまげて砂浜にうつ伏しているその姿はあまりにもあどけなく、可愛らしい。そして、痛々しくて胸がつぶれる悲しい写真だ。
 「たった一人の子どもでも、力になれたら」と思って活動してきた。これはユニセフ親善大使を1984年から務めてきた黒柳徹子さんの直近の言葉だ。
 この「たった一人」にキリストは絶えず目を注ぎ、憐れまれたと聖書は告げる。私も、目の前の手の届くところの「たった一人」を見逃すまいと祈る。


( #KiyiyaVuranInsanlik  というハッシュタグでTwitter を検索すると世界の人々からのツイートに触れられます。)

2015年8月30日日曜日

イエス様が手を広げて待つところ

 「もうすぐ二学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい。‥‥…一日いても誰も何も言わないよ。……」これは某図書館の公式ツイッターに掲載中のツイートだ。
 素直に感動した。そして『としょかんライオン』(ミシェル・ヌドーセン作/ケビン・ホークス絵)という絵本を思い出した。町の図書館に突然やって来た大きなライオンが図書館で過ごす話は、きまりを巡ってすったもんだあるものの、胸がキュンとするほど暖かい。 
 学校や職場、そして家に居場所がないと感じたら、その時こそ教会を思い出してほしい。ここはイエス様が手を広げて待つところ。いつでも連絡をと祈る。

2015年8月23日日曜日

ビタミンを有り難く頂戴する

 教会の横の鉢には30センチはありそうな、なが~い豆の莢(さや)がツルから何本もぶら下がっている。「十六ササゲ」だ。関東では珍しい豆だと思うが、岐阜では大正時代から、その名も「十六豆」と言って栽培してきて、今では伝統野菜の一つとなっている。
 原産国はアフリカで高温、乾燥に強い。カンカン照りの毎日、鉢に土を足して、毎日水をやる。見るたびに、背丈ほど伸びたツルのいたるところ、莢豆が長々と垂れ下がっている。「まだまだ、まだまだ」と言いながら、できるだけ莢が太り、長く伸びるのを待つ。
 茹でてよし、煮てもよし。この夏たっぷりのビタミンを「十六ササゲ」から、有り難く頂戴する。

2015年8月16日日曜日

そこに曖昧さはない。

 戦後70年目の談話を読んだ。日本が戦争に突き進んでいったその背景に、欧米諸国を始めとする植民地政策と世界恐慌後の経済のブロック化によって日本が孤立感を深めたという理由が述べられていた。
 日本の戦争責任の他に、世界のとりわけ欧米の責任を匂わせる。その文章を読んで思った。アジアの国々にお詫びをするには、いささか「悔い改め」が甘すぎるのではないか?
 周囲の状況、相手の正誤に関わらず、自らの有り様について「悔い改める」ことを聖書はまず説く。そこに曖昧さはない。戦争への道から踵を返して、180度反対方向を目指せ。そこに平和の主もおられる。

2015年8月9日日曜日

おいしくなれ〜、おいしくなれ〜

 記録的な酷暑と絶え間なく続く工事の騒音の中で家人はこのところ台所でジャム作りに余念がない。
 牧師館の庭にある「イヌビワ」の木に親指大の実が なった。◯先生がジャムになるよと教えてくださったとかで、まずは収穫。
 「イヌビワ」をインターネットで調べたところ、イチジクの一種で、食べられるのは雌木の実で、残念ながらここのは雄木だとわかった。
 雄木にもメゲズ、この暑さにもメゲズ、我が家の初収穫だからとグツグツ煮ている。「おいしくなれ〜、おいしくなれ〜」と言いながら。
 試食してみる。私の口には、うまい!というほどではないが、家人にはこよなく貴重なジャムらしい。

2015年8月2日日曜日

右脳から平和

 左脳と言うのは、「自分」という「個」を認識させ る知性の働きだ。それは過去から未来を生きる私であり、言葉で考える私である。この左脳を使って、私達は現実世界と向き合うことができる。  仮に、脳梗塞などによって左脳の働きが失われ、右脳だけが働くとしたら、一体どうなるだろうか?右脳はわずらわない。今感じている感覚がすべて。「私」はこの世界に存在する全ての人々と一体となり、広大な宇 宙の一切の中に溶け込んでいくという。それは筆舌に尽くしがたい至福感だそうだ。
 さて、時には左脳の「私」へのこだわりを捨てて、右脳の至福に浸ってみたい。きっとそこは神の国だ。

2015年7月26日日曜日

なんだか家族の会話みたいで

 精神科の入院病棟の面会室で毎週一回、信仰入門講座を始めてから2ヶ月ほどになる。最初面会申込書に、本人との関係をなんと書いたものかと迷った。いわゆる家族親戚ではない。友人、知人というのも今一しっくり来ない。その他の欄にやはり「牧師」と書いた。
 おやつとお茶で和んできたところで学びをする。途中、いろいろ話も飛んで脱線もするが、それも楽しい。最後は祈り合って終わる。
 今日は別れるとき、初めて「気をつけて」と私達に言葉をかけてくれた。妙に嬉しい。「ありがとうございました」はどうしても上下の言葉になる。
 なんだか家族の会話みたいで嬉しかった。

2015年7月19日日曜日

夏が来る、来る。

 降り続く長雨にもそろそろうんざりし始めた頃、いきなり真夏のような暑さがやってきた。てっきり梅雨が明けて夏が来たかと思えば、今度は台風の到来で、激しい雨。
 「天気よ、お前には丁度良いということはないのだね」そう、独りごちてみるものの、相手が天気ではどうしようもない。しかし、晴れたり、降ったりを繰り返しながら、そろそろこの梅雨とも来年までの別れとなる。
 まもなく水平線から入道雲が湧き上がり、夏がくる。先週はクロアゲハやトンボが飛んでいた。今日はセミも鳴いていた。来週の月曜日は海の日だ。ああ、もうすぐ夏が来る!夏が来る、来る、夏が来る。

2015年7月12日日曜日

妙なことだが

 牧師館の二階からは向かいの建設現場の様子がよく見える。朝8時、いつものようにラジオ体操で始まる。それから、今日の予定の確認でもしているのか、みんな一段高いところに立つ人の話を聞いている・・・どうやら終わったらしい。
 すると全員が向かい合って、やおら片手を前に出して、「オゥ!」と叫んで振り下ろした。円陣こそ組まないが、なんだかスポーツの試合前のようだと思った。まもなく、ブルドーザーの大音響が聞こえ始めた。
 ラジオ体操、円陣、おまけに工事現場の入り口に作られた小さな花壇を思い浮かべる。妙なことだが、この大騒音を我慢しようという気になる。

2015年7月5日日曜日

海の向こうから祈りがとどいた

 一通のエアメールが届いた。はて?と思いながら封筒の表を見る。米国、ノースキャロライナ州のランバートンにある聖マルコ・ルーテル教会から。宛先は湯河原教会の皆様である。
 それは、引っ越したばかりの二女が通い始めた教会で、先だって家人が訪れた時、日本福音ルーテル湯河原教会は同じ流れをくむルーテル教会だと自己紹介したという。
 封を開ける。教会の便箋に教会員それぞれがサインをした手紙が入っていた。「聖霊降臨後第4主日に、湯河原教会を覚えて祈りました。・・・湯河原教会を今年度の私たちの教会の祈りのリストに入れました・・・」
 すごい!海の向こうから祈りがとどいた。

2015年6月28日日曜日

アオダイショウ

 梅雨のこの時期、雨が止んでいてもいたるところ湿気だらけである。気がつけば風呂場にも台所にもナメクジが這っている。どこからやってくるのか、さっぱり謎である。
 だがまてよ、考えてみると牧師館の庭は雑草と雑木で覆われていて、この時期は水浸しである。思い立って下草を取り、雑木の剪定をする。
 見ると、1メートルもあろうかと思えるアオダイショウが木の枝を下りて道を横断して行った。隣の工事のせいで、アオダイショウは我が家に避難して来たのかもしれない。せっかく牧師館の庭にいたのに、まことに申し訳ない。だが、確かに風通しは良くなった。

2015年6月21日日曜日

洗礼の水をたたえる“釜”

 湯河原教会を創設した米国人ジョン・ボーマン牧師は、土地の人々から「青い目の良寛さん」と親しまれた。終戦後の復興期のことである。
 ボーマン夫妻は、近所の海岸で多くの家族が海水浴を楽しむのを見て、東京で出会った貧しい家庭の子供たちを招いて思う存分楽しませてあげたいと考えた。
 夫妻は生活を切り詰めて費用をため、まず母子寮の子供たち30人を三泊四日の教会キャンプに招待した。その時の子供らの喜びが当時の記事に綴られている。
 2年前、この催しに使われた大きな釜が教会堂の屋根裏で見つかった。湯河原教会宣教60周年の今年、この釜は洗礼の水をたたえる器として蘇ろうとしている。

2015年6月14日日曜日

「美味しくたべてもらいたいんです」

 さて、お目当てのきび餅を買いに某和菓子屋を探しに出かけた。小さいが簡素で古い構えの店に、老婆と年配の女性が接客をしていた。
 やっと探し当ててきたというと、「そうですか、そうですか」と大歓迎された。すすめられるままにきび餅を試食する。
 「うまい!」。きな粉の味も、モチモチ感も満点である。実は今まで、きび餅という庶民的な和菓子が、こうまで美味しいものだとは知らなかった。
 ああ、これが本物の湯河原名物のきび餅だと納得。これまで何軒かの和菓子屋で買ってみたが、このきび餅の味には出会えなかった。創業当時から作り方を変えていないというこだわりも大いに気に入った。

2015年6月7日日曜日

まるでイエス様みたいね

 教会の掲示板を掃除した。ガラスを外し、濡れ雑巾で拭き、歯ブラシでこすり、隅っこは爪楊枝で汚れをかき出す。しかし石鹸、洗剤、ベンジンを持ってしても外枠の煮汁のような汚れはどうにも落とせない。
 家人が台所から小さな白いスポンジを持ってきた。果たして・・・?きれいに落ちるではないか!しかし、当のタワシは私の手の中でぽろぽろと垢となって、とうとう無くなってしまった。洗剤は要らない。水だけで、ひたすら身を削って汚れを落とす『メラニン研磨タワシ』の力を知った。
 「まるでイエス様みたいね」と、家人の一言が痛かったが、掲示板はすっかり新しく生まれ変わった。

2015年5月31日日曜日

教会の花は救いたい

 先週あんなにきれいに咲いていたスイトーピーが、気がつけば無残に枯れかかっているではないか!きっとこの2日ばかり、水やりを怠ってしまったためだと、早速バケツに水を持って急ぐ。
 しかし、よく見ると、それは無数のアブラムシにたかられている事によるものだと分かった。上の方の柔らかな茎という茎は、まるで緑色のゴマをまぶしたようになっていた。
 反射的に手が伸びる。「この、アブラムシめ!目に物見せようぞ!」とばかり、アブラムシのついた枝を次々しごいた。こんなことで、アブラムシに勝利するとは思えないが、それでも教会の花は救いたい。

2015年5月24日日曜日

ナイスなスペース

 湯河原教会の前庭に新しいスペースが誕生した。丁寧な仕事ぶりが伺える。施工してくださったY建業さんに感謝である。
 お礼を言うと、「教会って言うのは、みんな奉仕で成り立っているんでしょ?だから、うちもそういう気持ちでやらせてもらっています」と言われる。これはすごい!教会の本質をよく心得ておられる。
 それにしてもこの空間が出来て、印象がずいぶん変わった。ちょっとした事なのに、広々としてなかなかいい。
 ここにベンチが据えられる。横にはプランターが並び、花が植えられる。このスペースからも「どなたもおいでください」とのメッセージを是非届けたい。

2015年5月17日日曜日

天に上げられた主

 人間は肉体としての「見る」という機能を科学の力で発展させてきた。レンズやレントゲンなどは人間が見る力を追求してきた結果である。
 だが、主イエスの昇天の姿は科学を駆使しても見ることはできない。ひとえに心の目、信仰の目が開かれる事による。
 礼拝で、司式者は手を上げて祝福する。それは主イエスが、手を上げて弟子たちを祝福しながら天に上げられたからである。
 この主キリストの普遍的な姿を心の目を開かれた弟子たちは見ることができた。
 心の目を開いていただくと、今まで見ていても気づかずにいたものが、そうだったのかとわかってくる。
 今日は主の昇天主日である。

2015年5月10日日曜日

ああ、この広さよ!人の寛大さよ!

 家族全員で集まろうと9年ぶりにテネシー州の地方空港に降り立った。ガラス張りの広々とした空港ロビーは到着ロビーから2階までゆるやかな長いスロープに作ってある。 中央には緑と岩に囲まれたアパラチアンの渓谷にみたてた噴水が音を立てて流れていた。
 昼食にファーストフードの店に入った。「アップル・クランベリー・チキンサラダにしよう」とカウン ターに並びながら相談していると、前に並んでいた見ず知らずの女性が、「良かったら使って」と、自分のクーポンを切り取ってくれた。2ドルの割引だ。
 「ああ、この広さよ!人の寛大さよ!」と山盛りのサラダを食べながら思う。

2015年5月3日日曜日

優しさのハーモニー

 「森のイスキア」を主催している佐藤初女さんは訪れてくる心を病む人たちに手塩で握ったおにぎりと、野菜を使った手料理でもてなす。一緒に食べながらその人の話をひたすら聞く。ただ、それだけでみんな癒やされて帰っていくのだそうだ。初めてから19年、今年で93歳だというから、ますます驚きである。
 彼女は野菜の皮も包丁でむく。決して皮むき器は使わない。皮むき器で剥かれる野菜はヒリヒリと痛そうだという。同様におにぎりも手塩で握る。お米が窒息するからと言ってラップは使わない。
 素朴なおにぎりは相手の気持ちをそっと受け入れる。優しい気持ちで作った料理は味も優しいのだろう。

2015年4月26日日曜日

日差しにつられて

 ウグイスの声がした。「ホケッ」とか、「ケキョ」とかの「まだまだだなぁ」というのではなく、「ホ~ホケキョッ」というフルスケールの美声である。     
 昨日、「今年はウグイスが鳴かないね」と話した矢先の事だった。久々の天気につられて、ようやくウグイスも歌いはじめた。姿は見えないが、近くの木立にいるにちがいない。花匂う春にほれぼれする歌声である。家人が家猫に言い聞かせている声が聞こえてきた。「いい子だからね、絶対に鳥を捕って来ないでね。それからトカゲもバッタもね」ウグイスの鳴き声に聞き耳を立てているのは人間ばかりではないようだ。家猫の耳もしきりに動く

2015年4月19日日曜日

わくわくで行こう

 「わくわく聖書の会」に、「今日はお天気が良いので来ました」と◯さんがしばらくぶりに来られた。「天気が良いのは、本当に気持ちが浮き浮きしますよね」と□さんが同意する。「お天気が良いとね、私も機嫌がよくなるのよ」と△さんも口をはさむ。
 お天気にかこつけて、同調しあうというのはいい。その場の雰囲気がやわらいで、久しぶりにやって来た◯さんの緊張がほぐれてくる。
 コーヒーが出されて、更に気分がなごんできたところで、「わくわく聖書の会」を始める。ともすればシリアスになりがちな聖書の学びだが、あくまでもわくわくで行こう。

2015年4月12日日曜日

クレソン摘んで

 某先生が一時間で楽しめるよといって、クレソンを摘みに連れだしてくださった。車でいくこと10分ほど。幕山公園の中の渓流に目当てのクレソンが自生していた。まるで自分の庭を案内するように公園のアチラコチラを案内してくださった。青く澄んだ空に、シャクナゲが満開だった。
 湯河原に来て3年目になったというのに、生来の遊び下手に加えての要領の悪さで、なかなか手近な楽しみにも手がつけられない。
 摘んでいると、野生のクレソンの香りがしてくる。ものの数分でたちまち小袋いっぱいに摘んだ。先生のご好意に感謝しながら、久しぶりに春を楽しんだ。

2015年4月5日日曜日

泥だらけの足

 主イエスは最後の晩餐で、弟子たちの泥だらけの足を一人ひとり洗われた。主は「あなた方も洗い合いなさい」と教えられる。
 しかし、現実には泥だらけの足を洗うのは、どれだけ大変なことか!相手の一番醜ところ、嫌なところを大切にすることはどれだけ堪忍が要ることか!できれば、触れたくない。相手になんとか変えて欲しいと思っている、それが私たちの現実だ。しかし、主は泥だらけの私たちの足を一人ひとり洗って下さる。
 聖木曜日、我が足を洗い拭ってくださった主に倣い、私も来られた方の足を洗わせていただいた。洗足は洗われる方も、洗う方も共に恵みだと知った。 

2015年3月29日日曜日

ロングドライブ

 金曜日、いつものように小田原教会に出かけた。真鶴を過ぎると、だんだん車間が詰まりとうとう渋滞。
 どんどん山の方に迂回する車を横目で見ながら、どうしようか?と迷う。しかし知らない道は今一不安と、もたもたしている内に出るチャンスを失う。結局小田原教会に着いたのは朝10時半を回っていた。
 さて帰り、落石の処理は完了せず。小田原市内からすでに渋滞。朝の優柔不断が悔しいので近道を探すが、無意味な努力だと知る。辛抱強く車の列に絆がれる。 
 裏道から割り込んでくる車を、迷いながらも入れてあげた。「俺って、いいやつだなぁ」とちょっぴり思ったりしながらロングドライブの一日を終えた。

2015年3月22日日曜日

霊の目で見たい

 カトリックの十字架はキリストのご像があり、プロテスタントのそれはシンプルである。
 先日ラジオを聞いていたら、テレビとラジオのどちらの方がより脳が活性化するか?と言うことを言っている。日頃ラジオを聞いているので、ちょっと興味を持って聞いた。答えはラジオの方だという。ラジオは映像を補う分だけ余計に前頭葉を使うという。これはいい。
 であるなら、キリストのご像のない十字架に、私たちのために苦しまれるキリストの御姿を、霊の目で見たい。そこにキリストが架かっておられる十字架はどんな苦しみも喜びに変わるというシンボルだからだ。キリストの御姿を十字架に仰ぎ見つ受難週に向かう。

2015年3月15日日曜日

蜜柑もいろいろ

 ◯さんが手に持っていたバックから蜜柑を一つ手品のように取り出してくれた。形と大きさはオレンジ、皮は甘夏そっくりで、色は伊予柑のようだ。さっそく食べてみた。味はあっさりした温州蜜柑のようだが、はて、初めて食べたこの蜜柑はいったい何だろう?
 そういえばN君のTシャツには見たこともないたくさんの柑橘類の絵がプリントしてあったなぁ。スウィティー、セトカ、セミノール、ハルミ、日向夏、黄金柑・・・品種改良がすすんで今や蜜柑にはこんなに種類があるのかと驚いた。
 名前も知らない蜜柑を食べるなどという楽しみはここ湯河原ならではだ。これもまた神の恵みと思う。

2015年3月8日日曜日

なんとなくゾクゾクしてくる

 教会の隣の広い空き地に大きな天幕がはられた。その翌日、ちょうどこちらは「聖書の学び」の最中だったが、鍬入れ式が行われたようだ。次の日、いつの間にか巨大天幕はすみやかに取り去られた。
 いよいよ某宗教団体の建築が始まり、竣工は来春3月だと聞くと、なんとなくゾクゾクしてくる。「いよいよ隣に建ちますね」と言うと、「いいじゃぁないですか!立派な鉄筋の建物の隣に、教会はやはりこれですよ。」と、◯さんが励ましてくれるのが有り難い。
 そうだ、教会は単に建物ではない。キリストの十字架によって誰もが救われるところなのだ。小さき群れの「世の光・地の塩」としての挑戦は続くと納得する。

2015年3月1日日曜日

魂の器

 四旬節(レント灰の水曜日からイースターの前日まで)に入った。この期間は主の十字架を思って「回心する」期間である。それは、「塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3:19)という事実を覚えるときだ。
 けれども、私達は生涯の終わりには単なる塵に返っていくのではない。イエス・キリストは十字架の愛によって、この貧しい塵の器を神の子としてくださり、私達の「魂」を永遠の命へと招き入れてくださる。
だから、私達は主キリストにあって単なる塵の器ではない。「魂」という美しくも貴い宝を内に持つ器である。
 この福音を噛みしめながら、四旬節を過ごすときに、復活祭(イースター)の喜びはひと塩となる。

2015年2月22日日曜日

弱さを誇ろう

 豊かな日差しに梅の花はいつしか満開。季節は希望の春を告げている。けれども、このところのイスラム 国のニュースには心が塞がれる。  この世はみな、強さを求め、強さを誇り、報復に報復を叫んでいる。しかし、キリスト教は違う。「…わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」と主イエ スは言われる。パウロはそのみ言葉を信じて疑わず、 「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」と告白する。
 ご自分の命に代えてわたし達を救ってくださったキリストに自分を明け渡すとき、人間は自分の弱さを誇る事ができる。弱さの中に慈しみの主はおられる。

2015年2月15日日曜日

あわれみの主に感謝!

 朝から雪が舞う中、肋骨を骨折して入院している叔母を西伊豆に見舞いに行った。12月の末以来である。
 幸い、今月末には退院と決まったが、医者は叔母が一人暮らしをするのはもう難しいと言う。
 伊豆で叔母の暮らせる施設を手を尽くして探してみたのだが、唯一の入所可能な施設は、一人部屋ではな く、建物も古いという。思案の末に「叔母さん、とにかく家に来てください」と伝えた。叔母は「すべては神のみ心のままにですから」と微笑んでくれた。
 翌日、町役場の福祉課に相談に行ったところから急展開した。叔母は牧師館の近くにある老人ホームに入れそうである。あわれみの主に感謝!

2015年2月8日日曜日

のんびりいこうよ

 朝8時ころ、玄関のドアがノックされた。戸を開ければ宅配の方である。いったいこんな時間に何が配送されてきたのかと荷物を開けてみれば、前の夜10時過ぎにインターネットで注文した本だった。
 驚きだ!こんなに即行で本が手に入るとは。このスピードとサービスぶりに今という時代を感じたが、これを素直に喜んでいいのかと考えてしまった。
 注文から12時間もたたずに配送されてくるというのは、この為に夜中に働いている人があるということだ。病院や福祉施設の夜勤の方の働きには頭がさがる。しかし、それは何もかもでなくてもいいのではないか。当たり前の働き方で、普通のサービスというのでいい。

2015年2月1日日曜日

信仰は他者への愛

 「宗教がこわくなったのでキリスト教をやめます」という電話をある方から頂いた。すぐに思い当たったのは、イスラム国の人質事件である。国内でも宗教の布教活動に行って殺害されたという事件が報じられたばかりだ。
 あまたの宗教と呼ばれるものを一括りにしてしまうのはどうかと思う。宗教と信仰は違う。ましてイスラム国は自分だけが正しいとして、それ以外のものを徹底的に否定、排除する原理主義の一つである。
 私たちが信じるのは。わが身を捨てて他人の命を救ってくださったそのお方だ。友の救出に自身の命をかけたゴトウさんの解放を祈らずにおられない。

2015年1月25日日曜日

信仰の神秘

 大寒のいま、日本中が寒さに覆われている。しかし湯河原はさすがに暖かいと見えて、教会の小さな庭には菜の花が満開である。長くなってきた日差しは天父の恵みだと言わんばかりに、さんさんと輝いている。
 この時期、草花が蕾をつけ花を咲かせるのは気温というよりむしろ日照時間に関係があると聞いた。だから雪の中で芽吹く猫柳もあるし、蕾がほころぶ寒梅があるのだと納得する。
 一年で一番寒い時期に、日差しがだんだん長くなる、地球が公転すればこその不思議。自然はうまく出来ている。この平等な恵みを天父からの贈り物と感じられる不思議、それは信仰の神秘ではなかろうか。

2015年1月18日日曜日

会心の作

 今日のニュースのどれを見ても、元気の出るものがない。それどころか、またしても・・・、というような記事ばかりである。
 しかし、中に「元気だせ」とばかりに、ぱぁっと明るいものがあった。「現代学生百人一首」の記事だ。毎年この時期、朝日新聞の『天声人語』で紹介されるのを楽しみに読む。
 これぞクリスチャンの心意気にピッタリだと、私が気に入ったのは中2女子のこの歌だ。「書き初(ぞ) めの会心の作きめたのは諦めかけたラスト一枚」。
 そうだ、チャレンジを続けよだ。「門をたたけ、さらば開かれん。(マタイ7:7)」!主にあって、扉はかならず開かれる。忘れまい。

2015年1月11日日曜日

洗礼

 年明けに、小田原教会の信徒の方から湯河原教会へ一枚のハガキが届いた。「湯河原教会の皆様より心暖かい祝福を頂きました・・・」と、感謝の言葉である。
 昨年のクリスマスに受洗した小田原教会の姉妹に、湯河原教会は兄弟教会として、お祝いの言葉をその時ファックスで送った。洗礼式後の愛餐会でファックスを受け取って、彼女は驚き、感激で涙ぐんだ。
 洗礼が個人の喜びだけでなく隣り町の兄弟教会の喜びだと伝えることは、実にいい兄弟姉妹の働きではないか!それは天にあるもっと大きな喜びをも示している。
 主の洗礼日に、キリスト教会は洗礼を根拠にして立っていることを思い起こす。

2015年1月4日日曜日

ワクワク大作戦

 2015年がスタートした。新年恒例の箱根駅伝をラジオで聞いた。キリスト教主義の青山学院大学が初優勝した。箱根の山登りで新記録、往路も、復路も圧倒的な強さだった。選手本人たちもこんなに走れるとは思わなかったと驚いている。  入学当初、調子が上がらなかった1年の選手は「今、ダメでも走れるようになる」という監督の言葉を信じ、練習を続けてきたそうだ。「選手が本気で取り組めば課題が見つかる。それを乗り越えようと戦えば、強くなれる」。きっと前に進めると言うメッセージだ。
 緊張せず、楽な気持ちで、楽しく走るという「ワクワク大作戦」がみごとに実を結んだ。