2022年11月27日日曜日

目を覚ましていなさい

  先日、国会中継を聞いていたら、これからの高齢化社会は健康寿命、経済寿命、生きがい寿命の3つの寿命について課題を抱えると言っていた。

 人生百年時代、確かにこのうちのどれ一つ失っても暗闇に生きることになる。不安は尽きない。果たしてこれらのことを回避できるか?かなり困難な気がする。

 主は「目を覚ましていなさい」と言われる。「助けを必要としている人に手を差し伸べること」「愛を持って生きること」の中に、キリストにある希望、恵み、喜びがあると言われる。それを忘れてしまえばそれこそ、暗闇の中に沈み込んでしまう。隣人への愛に目を覚ましていられますようにとアドヴェントの初めに願う。


2022年11月20日日曜日

三本の十字架

  小田原教会の十字架は珍しいと思うが三本の十字架が組み合わされて一組の十字架になっている。

 主イエスが十字架につけられたときに、主の右と左に二人の犯罪人が十字架につけられた。確かにあの時、ゴルゴタの丘には、三本の十字架が立てられていたのだ。この三本の十字架を見れば、十字架刑を受けている三人の情景がはっきり見えてくる。(ルカ23:32以下)

 右の犯罪人は「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、わたしを思い出してください」と願う。

 彼の願いどおり、主は「今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束された。三本の十字架を仰ぐとき、真っ先に天国入りを果たしたこの右の犯罪人がまぶしい。

2022年11月13日日曜日

対面は何かが違う

 月曜日は牧師の休日である。少し前に、今度の月曜日に来たいと長女が連絡してきた。孫たちを連れてくるのかと思えば、自分一人だという。 

 長女は夫と4歳と1歳の子供のいる家庭の主婦であり、またフルタイムで仕事をしている社会人でもある。

日々、忙しく過ごしている彼女が有給休暇を私の休みに合わせて取ったのだという。私たちが娘と水入らずに過ごしたのは、15年ぶりのことだと思いだした。

 長女の話を聞きながら、お昼ご飯を食べる。孫の話、夫の話、仕事の話・・・たったの2時間を一緒に過ごすために往復6時間かけて来た。LINEで始終話しているようなのだがやはり生はいい!対面は何かが違う。

2022年11月6日日曜日

天も地も、元気に楽しくやろうじゃないか!

 全聖徒の主日を迎えた。昨年の全聖徒主日から今日までのこの一年間に、お二人の兄弟姉妹が天に迎えられた。今年も90名余りの写真を聖壇に飾って、お一人お一人との懐かしかった日々を思い出す。

 私たちの教会は一人の兄弟と一人の姉妹を天へと送り出し、ちょっと寂しくなった。けれども天国では、お二人を増して、賑やかになったに違いない。

 天の国ではイエス様みずからホストとなって、食卓を整え、ぶどう酒を盃に溢れさせてくださる・・・そんな豊かな、楽しげな宴の有様が脳裏に浮かぶ。

 地上にいる私たちも天国の宴に触発されて、大いに隣人を喜ばせて、元気に楽しくやろうじゃないか! 

2022年10月30日日曜日

「ザアカイ!」と歌うと

 米国で過ごしたとき、長男が通っていたサンデースクールではよく「ザアカイの歌」に振りをつけて歌っていた。言わば、子どもたちのお気に入りの歌だ。

 「ザアカイは本当にちっちゃな人だ。ザアカイは木に登る。イエスはやって来て、「ザアカイ、下りて来なさい。今日あなたの家に泊まります」。全く聖書の通りの歌だけれど、子ども達が「ザカイ!」と指さしながら歌うと不思議なことにこの場面がいきいきしてくる。

 「あなたの中に素晴らしいものがある、あなたにはよいことをする力がある」とイエスはザカイを見つめた。そういう眼差しに出会ったとき、人はきっと本当に新たに生きる力を与えられる。 

2022年10月23日日曜日

ちょっと粋がってもいい

  私も若かった頃は、「好玉必打だ!いい球が来れば、必ず打つ」と、そんなふうにけっこう粋がって、やっていたと思う。

 自分は頑張っているし、やればできると、自分の力で生きているような感覚になっていた。たとえ謙遜でなくても、それが「若さ」ということだ。だから、若いころはちょっと粋がって、自分の力だけで頑張っているような気になって、たくさん失敗を重ねていい。

 そういう日々があればこそ、自分の限界を知り、人間の弱さを知って、神の愛に目覚めていく。人生には、そういう若いときも必要だ。この鼻持ちならないパリサイ人も救いに招かれている。(ルカ18:9〜14)

2022年10月16日日曜日

主キリストは人を自由にする

  某宗教団体に「解散命令」の要請をだすよう連日国会で審議されている。マインドコントロールによって人を不安にし、恐怖をあおって束縛する。「ねばならない」という思いにさせる。結果、多額の献金をさせ、家庭崩壊や子どもへの様々な人権侵害が起きている。

 しかし、私たちの主キリストは人を自由にする。罰せられるべき罪ある私たちの身代わりとなって、自ら十字架にかかってくださった。そして、私たちは無償で無罪放免になった。ピラトの公邸でキリストの代わりに放免されたあのバラバのことをふと思う。ああ、恵み、この自由、この軽やかさ・・・涙を拭う。今、自由の翼にのって、主のために何でもできる気がする。



2022年10月9日日曜日

「こいつね、ドジなんだよ」

 思い切って久しぶりに東京に出た。所要があって中高時代の友達に会うためだった。ところが、肝心なものを忘れてしまった。それがなくては会う意味がない。気がついたときは目的地に到着する電車の中だった。仕方がない、会うだけで帰るとしようと決めた。

 彼の工場に訪ねてみると、懐かしい顔で迎えてくれた。冷たいお茶やコーヒーをテーブル代わりのトラックの荷台に並べて勧めながら、「こいつね、ドジなんだよ」と、家人に高校生時代の私の失敗を告げ口する。

私の重大な忘れ物も「なんでもないよ」とばかりの口ぶりだ。目がニコニコ笑っている。相変わらず、いいやつだなー。主にある友人にすっかり温められた。

2022年10月2日日曜日

叔母をなつかしむ

  先日、叔母の納骨式を彼女の母教会で済ませた。

 叔母は日曜日の朝、礼拝が始まる15分前に亡くなった。あの日10時30分、湯河原教会の礼拝堂のいつものあの席に、叔母は座っているように感じたことを覚えている。肉の体から解き放たれて、自由な霊の存在で叔母は確かに礼拝に与っていた。

 叔母はいつも教会が大好きだった。「物心ついたときにはもう両親に連れられて教会に行っていたのよ。世の中の人はみんな教会にいっていると思っていたわ。」と言っていた。生涯独身だった叔母の95年の人生は教会と共にあったと言っても差し支えない。賛美を捧げ、よく仕えた。改めて、叔母に敬意を表したい。

2022年9月24日土曜日

主イエスの声が響いてくる

 自然災害は平等に人を襲う。だが、その影響と立ち直る力は貧富の格差によって、決して平等ではない。

 パキスタンの大雨と洪水の影響は深刻だ。国連が援助を訴える。「パキスタンの人々は前代未聞の大雨や洪水の影響に直面している。南アジアは気候変動の危機が顕著に現れる地域だが、今日のパキスタンで起きていることは、明日のあなたの国でも起きるかもしれない」と。

 今日、「金持ちとラザロの話」から響いてくる福音に耳を傾ける。この金持ちは門前の物乞いラザロの困窮を知っていながら一切、憐れみをかけなかった。彼は「自己中心の罪」を問われている。私達の中に巣くう「怠りの罪」に改めて気付かされる。主イエスの愛を私の中に燃やしてくださいと祈る。

2022年9月18日日曜日

信仰の飛躍が求められている

  赤とんぼが飛び、彼岸花が咲き始めた。夏から秋へと季節が進み始めていることを感じる。

 9月、小田原教会では礼拝堂に隣接して建っていた牧師館を取り壊した。後には一軒分の更地が現れた。

 牧師館の解体までには多くの準備があった。それらの一つ一つが手順を追って進められて、ようやくこの状況にまでたどり着いた。

 今、更地に立って思うこと。それは、この土地は新たな宣教の手段として与えられたということだ。どのように利用するか。それは、どのように宣教していくのかということだ。これまでと同様の関わりでいいのか。一人ひとりに信仰の飛躍が求められている。

2022年9月11日日曜日

自分らしく生きられる気がした

  1匹の迷いでてしまった羊を探しに探して、やっと見つけた羊飼いは「ああ、見つかってよかった!無事でよかった!」と涙するほどに羊を抱きしめたに違いない。

 また、1枚の銀貨を失くした主婦は家中を掃除して、「銀貨が見つかりました。部屋の隅に転がっていたんですよ!」と近所の人々に大喜びで伝えただろう。

 1匹を探すために99匹を残して出かける羊飼いも、近所の人には関係のない銀貨のことで大騒ぎをする主婦も尋常ではない。それは失ったものが大事だからだ。

 天の父の懐から逃れて迷った一匹の羊、一個の銀貨はこの私自身だ!天の父に救われて、繋がって、安心できた。そこに立つ時、自分らしく生きられる気がした。


2022年9月4日日曜日

これでお前とは兄弟になったなあ

 私は大学4年の時に洗礼を受けた。無医村の医者で家庭に時間をほとんど割けなかった父の言葉を思い出す。「これでお前とは新しく兄弟になったなあ」。

 また父は「やっと親としての責任を果たせました」と牧師に語ったそうだ。その父は、徹底した信仰の祖父に反抗して37歳でやっと信仰告白に至ったそうだ。祖父は食事のときにも聖書を離さなかったというが、父の信仰告白に祖父は天で喜び踊ったことだろう。

 あいかわらず親子だけれど、主キリストにつながる兄弟の関係、そんな霊的につながった新しい家族関係を主は与えてくださる。この私が、祖父や父と共に主にある兄弟だというのは、有り難い恵みだ!

2022年8月28日日曜日

草取りは神の親心の祝福

 草取りをしながら徳富蘆花のエッセイを思い出した。

 彼は言う。農家は6,7,8,9の月が草との合戦だ。五穀は野草に比べて脆弱だから放っておけばやられてしまう。息つく間なく取ってもキリがないと言いながら「一本抜けば、確実に一本減る」と自ら励まし、草を取る。

 彼は、「油断をすれば畑も、人の心も、あたりの社会も草だらけになってしまう」と言いながら、世界の草の種を取ることは必ずしも我らにとって幸福でないかもしれないと自戒もする。創世記3章を引用して「旧約聖書は、草は人間の罰と見た。草取りは神の人に対する親心の祝福である」と結んでいるのには驚いた。

 神の親心に答えて草を取る、そう思うと楽しくなる。

 

2022年8月21日日曜日

人も家畜も元気を回復するための日

  主イエスの当時、安息日の規定では卵一個の重さまではよし、それ以上の物を持ち運ぶことは労働とみなされたという。笑ってしまうが、似たような話が高校時代の校則にあったことを思い出した。無意味な校則のチェックに先生方は疲労したことだろう。

 安息日の律法、それはシナイ半島での選民イスラエルに対する天父の愛の配慮にほかならなかった。規範がなくては選民もただの烏合の衆だ。時代を経て安息日は奴隷や牛やろばを休ませるため(出エジプト23:12)の日となった。

 主日は「主の復活の日」だ。その主日を「喜びの日」と言われた主イエスの配慮は何かと、今思い巡らす。

2022年8月14日日曜日

麦茶が好きだ

  コップ一杯の冷たい麦茶を机に置いて、聖書を読み始める。夏の朝5時、冷房無しの爽やかな朝、しばらく主と共に過ごす。これが日課である。

 夏は水分を取らなければと、せっせと麦茶を飲む。沸かした麦茶は胃への負担が少なく、体に優しいと言うのが長年麦茶を愛用してきた私の感想だ。だが、最近の日本の夏は亜熱帯地方の暑さだ。麦茶ばかりを飲んでいてはかえって熱中症の心配がある。「シニア世代の麦茶信仰」と子どもたちは警告する。確かに環境は変化した。この夏は経口補水液と併用することにした。 

 「朝風静かに吹き 小鳥も目覚めるとき・・・」主との語らいの時、やはり私は麦茶が好きだ。

2022年8月7日日曜日

どんな中にも主の慈しみが

  年一回、牧師に与えられた休暇を喜んで迎えた。ところがこの暑さの中、家人が体調を崩して寝込んだ。

 今の時期、どこの「発熱外来」も一杯。やむなく自宅療養することに。すぐに「抗原検査キット」で、陰性だとわかったが、一週間近く寝込むことになった。

 家人が回復し始めた頃、5年ぶりに米国滞在の長男が一人で訪ねてきた。孫がやはり熱を出したためだ。

 久しぶりに親子水入らずの時を過ごした。長男の顔を見て話を聞きながら長男とその家族の過ぎ去った日々の経験を頷いて聞く。それはこの5年間の空白を埋め合わせて有り余る恵みだ。病気は嫌だが、どんな中にも主の慈しみが満ち溢れていることを実感した。

2022年7月31日日曜日

すべては過ぎ去る。しかし・・・

 小田原教会では間もなく牧師館解体が始まる。先日、解体業者の方々から説明を受けた。手順に従って一つ一つ進めてゆく。

 礼拝後に、牧師館に残された廃棄する多くの物から残すものを選別する予定。もう使わないだろうと思える数々の物を前にして、「もう役目が終わったのだ」と、簡単には割り切れない思いが残る。その時、そこに奉仕してきた多くの兄弟姉妹の思いが想像される。

 しかし、神を愛し、人に仕える小田原教会のこれからにふさわしいあり方を模索しながら進みたい。「すべては過ぎ去る。しかし主の言葉はいつまでも残る」との主イエスの言葉に力を得る。

*8月7日の牧師のツイートは休暇のため休ませていただきます。


2022年7月24日日曜日

夏対策

 今年も暑い夏が来た!この夏を元気で過ごしたいと願う。私なりに「夏対策」をする。

 一つはヨシズである。窓の外にヨシズを立てかける。そして、窓という窓を開け放ち、外から風を入れる。これで部屋の空気もずいぶん涼しくなった。

 もう一つはウォーキングだ。一日7000歩を目指す。歩くのはもっぱら夕食後だが、流れる汗をかいた後は疲れるが、達成感はちょっとあるかな・・・?

 暑いしコロナも猛威を奮っている。しかし、ギラギラ太陽に向かって鎌を振り上げて、「暑いぜ!おれは負けないぜ!」と照れながら言うかまきりりゅうじ(『のはらうた』より)に自分を重ねて、ふと楽しくなる。

2022年7月17日日曜日

マルタからもマリアからもだ

 主イエスをもてなすために忙しく立ち働くマルタ。これまで教会はこのマルタの働きにどれほど助けられてきただろうか! マルタの働きは尊い。

 ところが、忙しさの余り、マルタは主の言葉に聞き入ってばかりいるマリアを非難する。

 従来、ここはマルタとマリアを比較して、マリアは御言葉に聞く観想的なタイプ。マルタは活動的なタイプ。そして、御言葉に聞くことが何より大切との結論によって、このマルタを批判的に見てきた。

 しかし、主は祈りながら活動し、活動しながら祈ることを教えてくださっている。ここから学ぶのは、マルタかマリアではなく、マルタからもマリアからもだ。