2023年1月15日日曜日

良しとされた

 いつもお父さんに連れられて牧師館の前の道を通るHくんは軽度の知的障害がある。彼は我が家の猫のJDが大のお気に入りで、前を通るたびに「Jちゃーん」と名前を呼びながら猫に会いにやってくる。年寄りのJDは寝ていることが多く、私も妻も少し面倒なときは知らん顔して出ていかないことがあった。

 先日のこと、Hくんはたいへん取り乱して、「Jちゃーん」と泣き叫んでやってきた。お父さんに来ることを制止されたらしいことがひと目でわかった。お父さんが私たちに迷惑をかけたくないと思ったということもよく理解できた。すぐにJDを抱いて玄関に出た。

 Jの頭をしばらく撫で、Hくんは満たされて帰っていった。ああ、良しとされたと私たちは思った。 

2023年1月8日日曜日

新しい境地

  年のはじめから季節外れの暖かい日が続いて、昼間は春のようだ。教会の庭には菜の花が咲き、牧師館の庭にも水仙、ミニバラが咲いている。

 昨年の暮、必要に迫られてとうとうそれまでのガラケイからスマホに買い替えた。いろいろ操作が覚えられなくてまごつくことしきりなのだが、すごく感心したことがある。それはGoogleレンズと言うアプリだ。

 試しに窓際においてある鉢植えの写真を撮ってみる。写真と同時にその花の名前がでて「花きりん」だとわかった。妙に気に入った。さっそく外に出て庭の花を撮ってみる。自分が花の写真を撮るなんて考えても見なかった!なんだか新しい境地に立ったのかな?

2023年1月1日日曜日

新しい年、2023年を迎えて平和を願い祈る。 

  昨年はロシアがウクライナへの軍事侵攻を初めた年だった。多くの人々が犠牲になり、その中には多くの子供たちが含まれている。マタイ福音書にはヘロデ王によるベツレヘム一帯にいた幼児皆殺しの物語が記されている。凄惨な記事であるがこれは史実だ。彼らは何のために犠牲になったのだろうか?

 第二次大戦で死んでいった人々が起き上がり、「自分たちは何のために死んだのか?」と問いかけてくる映画の一場面を思い出した。世界中のあちこちで未だ戦い続ける私達に、平和を作り出すための祈りと働きが求められている。ウクライナでの戦争が終わるよう、「神の国」が来ますようにと祈り、支えてゆきたい。

2022年12月25日日曜日

友からのクリスマス・カード

  クリスマスに旧来の友からクリスマスカードが届いた。

 何歳になっても友達は良いものだが、お互いに子育てが終わって、夫婦ふたりになってからはなおさらに良い。リタイアして仕事や子育ての責任を終えた今、高齢になった親や孫の世話をしながら家事を楽しんでいるという。教会の奉仕にもゆとりがにじみ出ている。毎日の生活の一つ一つがこんなに楽しいものだと初めて味わったと書いてあり、カードの隅っこには、「今年は暖かくなったらそちらに行きます。」とあった。

 ここ何年も会うことのなかった友達との再開を心待ちにする。私のこころのうちを照らしてくれた友からのクリスマスカード、壁にピンで留める。

2022年12月18日日曜日

アドヴェントのロウソク

 アドヴェントの第4週を迎えた。「希望」、「平和」、「喜び」、「愛」を表す4本のロウソクに火が灯る。

 わたしが子どもだったころ、雷などで停電する事が度々あった。そんなときは、懐中電灯というのもあるにはあったがたいていロウソクが活躍した。

 暗闇の中で電灯がつくのを待ちながら、ぼーっと明るく周りを照らすロウソクの周りに集まってどこか神秘的で温かい光を見つめていたことを覚えている。

 冬至に近づくこの季節、日はますます短くなってゆく。電気のなかったその昔、アドヴェントのロウソクの光はそのまま人々の心に「暗闇を照らす光」として感じられたに違いない。


2022年12月11日日曜日

みんなでするって、楽しい!

  待降節の第1週は「待望」から始まって、第2週の「準備」、そして今週は第3週の「喜び」だ。

 だから今週、教会に集った教会家族で何かを一緒にできたらいいなーと思う。

 今までも時々、礼拝後にみんなで草抜きをしたりした事がある。つい最近は礼拝堂の前の歩道の落ち葉掃きをした。その後で、お汁粉を食べた。そして思った。みんなでするって、ホントに楽しい!

 火曜日は小田原教会の牧師館の跡地整備の予定だ。みんなで働いて、お昼にはカレーを食べよう。きっと幸いな時となる。たとえ小さくても神の国での喜びを味わおう。世間の喜びとはひと味もふた味も違うはず。


2022年12月4日日曜日

マイ プレジャー(My pleasure.)

 アドヴェント第2週を迎え、一日一日クリスマスが近づいてくる。会堂の椅子カバーも洗濯され、庭も清掃され、クリスマスの飾り付けもすっかりできた。

 アドヴェント・クランツにろうそくが灯されるのを見ながら願う。昨年までとは何か少し違うクリスマスを迎えたい。つまり、新しい気付きが与えられて、クリスマスへの思いが深められることを願う。

 世界にいる助けを必要とする見知らぬ誰かや、日常生活の中で出会う隣人への奉仕は喜びだと知りたい。そして、奉仕をしたなら、「これは私の喜び」“マイ プレジャー”と言おう。2000年前のクリスマスの夜、主イエスはそんな喜びの中に生まれたのだから。

2022年11月27日日曜日

目を覚ましていなさい

  先日、国会中継を聞いていたら、これからの高齢化社会は健康寿命、経済寿命、生きがい寿命の3つの寿命について課題を抱えると言っていた。

 人生百年時代、確かにこのうちのどれ一つ失っても暗闇に生きることになる。不安は尽きない。果たしてこれらのことを回避できるか?かなり困難な気がする。

 主は「目を覚ましていなさい」と言われる。「助けを必要としている人に手を差し伸べること」「愛を持って生きること」の中に、キリストにある希望、恵み、喜びがあると言われる。それを忘れてしまえばそれこそ、暗闇の中に沈み込んでしまう。隣人への愛に目を覚ましていられますようにとアドヴェントの初めに願う。


2022年11月20日日曜日

三本の十字架

  小田原教会の十字架は珍しいと思うが三本の十字架が組み合わされて一組の十字架になっている。

 主イエスが十字架につけられたときに、主の右と左に二人の犯罪人が十字架につけられた。確かにあの時、ゴルゴタの丘には、三本の十字架が立てられていたのだ。この三本の十字架を見れば、十字架刑を受けている三人の情景がはっきり見えてくる。(ルカ23:32以下)

 右の犯罪人は「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、わたしを思い出してください」と願う。

 彼の願いどおり、主は「今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束された。三本の十字架を仰ぐとき、真っ先に天国入りを果たしたこの右の犯罪人がまぶしい。

2022年11月13日日曜日

対面は何かが違う

 月曜日は牧師の休日である。少し前に、今度の月曜日に来たいと長女が連絡してきた。孫たちを連れてくるのかと思えば、自分一人だという。 

 長女は夫と4歳と1歳の子供のいる家庭の主婦であり、またフルタイムで仕事をしている社会人でもある。

日々、忙しく過ごしている彼女が有給休暇を私の休みに合わせて取ったのだという。私たちが娘と水入らずに過ごしたのは、15年ぶりのことだと思いだした。

 長女の話を聞きながら、お昼ご飯を食べる。孫の話、夫の話、仕事の話・・・たったの2時間を一緒に過ごすために往復6時間かけて来た。LINEで始終話しているようなのだがやはり生はいい!対面は何かが違う。

2022年11月6日日曜日

天も地も、元気に楽しくやろうじゃないか!

 全聖徒の主日を迎えた。昨年の全聖徒主日から今日までのこの一年間に、お二人の兄弟姉妹が天に迎えられた。今年も90名余りの写真を聖壇に飾って、お一人お一人との懐かしかった日々を思い出す。

 私たちの教会は一人の兄弟と一人の姉妹を天へと送り出し、ちょっと寂しくなった。けれども天国では、お二人を増して、賑やかになったに違いない。

 天の国ではイエス様みずからホストとなって、食卓を整え、ぶどう酒を盃に溢れさせてくださる・・・そんな豊かな、楽しげな宴の有様が脳裏に浮かぶ。

 地上にいる私たちも天国の宴に触発されて、大いに隣人を喜ばせて、元気に楽しくやろうじゃないか! 

2022年10月30日日曜日

「ザアカイ!」と歌うと

 米国で過ごしたとき、長男が通っていたサンデースクールではよく「ザアカイの歌」に振りをつけて歌っていた。言わば、子どもたちのお気に入りの歌だ。

 「ザアカイは本当にちっちゃな人だ。ザアカイは木に登る。イエスはやって来て、「ザアカイ、下りて来なさい。今日あなたの家に泊まります」。全く聖書の通りの歌だけれど、子ども達が「ザカイ!」と指さしながら歌うと不思議なことにこの場面がいきいきしてくる。

 「あなたの中に素晴らしいものがある、あなたにはよいことをする力がある」とイエスはザカイを見つめた。そういう眼差しに出会ったとき、人はきっと本当に新たに生きる力を与えられる。 

2022年10月23日日曜日

ちょっと粋がってもいい

  私も若かった頃は、「好玉必打だ!いい球が来れば、必ず打つ」と、そんなふうにけっこう粋がって、やっていたと思う。

 自分は頑張っているし、やればできると、自分の力で生きているような感覚になっていた。たとえ謙遜でなくても、それが「若さ」ということだ。だから、若いころはちょっと粋がって、自分の力だけで頑張っているような気になって、たくさん失敗を重ねていい。

 そういう日々があればこそ、自分の限界を知り、人間の弱さを知って、神の愛に目覚めていく。人生には、そういう若いときも必要だ。この鼻持ちならないパリサイ人も救いに招かれている。(ルカ18:9〜14)

2022年10月16日日曜日

主キリストは人を自由にする

  某宗教団体に「解散命令」の要請をだすよう連日国会で審議されている。マインドコントロールによって人を不安にし、恐怖をあおって束縛する。「ねばならない」という思いにさせる。結果、多額の献金をさせ、家庭崩壊や子どもへの様々な人権侵害が起きている。

 しかし、私たちの主キリストは人を自由にする。罰せられるべき罪ある私たちの身代わりとなって、自ら十字架にかかってくださった。そして、私たちは無償で無罪放免になった。ピラトの公邸でキリストの代わりに放免されたあのバラバのことをふと思う。ああ、恵み、この自由、この軽やかさ・・・涙を拭う。今、自由の翼にのって、主のために何でもできる気がする。



2022年10月9日日曜日

「こいつね、ドジなんだよ」

 思い切って久しぶりに東京に出た。所要があって中高時代の友達に会うためだった。ところが、肝心なものを忘れてしまった。それがなくては会う意味がない。気がついたときは目的地に到着する電車の中だった。仕方がない、会うだけで帰るとしようと決めた。

 彼の工場に訪ねてみると、懐かしい顔で迎えてくれた。冷たいお茶やコーヒーをテーブル代わりのトラックの荷台に並べて勧めながら、「こいつね、ドジなんだよ」と、家人に高校生時代の私の失敗を告げ口する。

私の重大な忘れ物も「なんでもないよ」とばかりの口ぶりだ。目がニコニコ笑っている。相変わらず、いいやつだなー。主にある友人にすっかり温められた。

2022年10月2日日曜日

叔母をなつかしむ

  先日、叔母の納骨式を彼女の母教会で済ませた。

 叔母は日曜日の朝、礼拝が始まる15分前に亡くなった。あの日10時30分、湯河原教会の礼拝堂のいつものあの席に、叔母は座っているように感じたことを覚えている。肉の体から解き放たれて、自由な霊の存在で叔母は確かに礼拝に与っていた。

 叔母はいつも教会が大好きだった。「物心ついたときにはもう両親に連れられて教会に行っていたのよ。世の中の人はみんな教会にいっていると思っていたわ。」と言っていた。生涯独身だった叔母の95年の人生は教会と共にあったと言っても差し支えない。賛美を捧げ、よく仕えた。改めて、叔母に敬意を表したい。

2022年9月24日土曜日

主イエスの声が響いてくる

 自然災害は平等に人を襲う。だが、その影響と立ち直る力は貧富の格差によって、決して平等ではない。

 パキスタンの大雨と洪水の影響は深刻だ。国連が援助を訴える。「パキスタンの人々は前代未聞の大雨や洪水の影響に直面している。南アジアは気候変動の危機が顕著に現れる地域だが、今日のパキスタンで起きていることは、明日のあなたの国でも起きるかもしれない」と。

 今日、「金持ちとラザロの話」から響いてくる福音に耳を傾ける。この金持ちは門前の物乞いラザロの困窮を知っていながら一切、憐れみをかけなかった。彼は「自己中心の罪」を問われている。私達の中に巣くう「怠りの罪」に改めて気付かされる。主イエスの愛を私の中に燃やしてくださいと祈る。

2022年9月18日日曜日

信仰の飛躍が求められている

  赤とんぼが飛び、彼岸花が咲き始めた。夏から秋へと季節が進み始めていることを感じる。

 9月、小田原教会では礼拝堂に隣接して建っていた牧師館を取り壊した。後には一軒分の更地が現れた。

 牧師館の解体までには多くの準備があった。それらの一つ一つが手順を追って進められて、ようやくこの状況にまでたどり着いた。

 今、更地に立って思うこと。それは、この土地は新たな宣教の手段として与えられたということだ。どのように利用するか。それは、どのように宣教していくのかということだ。これまでと同様の関わりでいいのか。一人ひとりに信仰の飛躍が求められている。

2022年9月11日日曜日

自分らしく生きられる気がした

  1匹の迷いでてしまった羊を探しに探して、やっと見つけた羊飼いは「ああ、見つかってよかった!無事でよかった!」と涙するほどに羊を抱きしめたに違いない。

 また、1枚の銀貨を失くした主婦は家中を掃除して、「銀貨が見つかりました。部屋の隅に転がっていたんですよ!」と近所の人々に大喜びで伝えただろう。

 1匹を探すために99匹を残して出かける羊飼いも、近所の人には関係のない銀貨のことで大騒ぎをする主婦も尋常ではない。それは失ったものが大事だからだ。

 天の父の懐から逃れて迷った一匹の羊、一個の銀貨はこの私自身だ!天の父に救われて、繋がって、安心できた。そこに立つ時、自分らしく生きられる気がした。


2022年9月4日日曜日

これでお前とは兄弟になったなあ

 私は大学4年の時に洗礼を受けた。無医村の医者で家庭に時間をほとんど割けなかった父の言葉を思い出す。「これでお前とは新しく兄弟になったなあ」。

 また父は「やっと親としての責任を果たせました」と牧師に語ったそうだ。その父は、徹底した信仰の祖父に反抗して37歳でやっと信仰告白に至ったそうだ。祖父は食事のときにも聖書を離さなかったというが、父の信仰告白に祖父は天で喜び踊ったことだろう。

 あいかわらず親子だけれど、主キリストにつながる兄弟の関係、そんな霊的につながった新しい家族関係を主は与えてくださる。この私が、祖父や父と共に主にある兄弟だというのは、有り難い恵みだ!