2015年4月26日日曜日

日差しにつられて

 ウグイスの声がした。「ホケッ」とか、「ケキョ」とかの「まだまだだなぁ」というのではなく、「ホ~ホケキョッ」というフルスケールの美声である。     
 昨日、「今年はウグイスが鳴かないね」と話した矢先の事だった。久々の天気につられて、ようやくウグイスも歌いはじめた。姿は見えないが、近くの木立にいるにちがいない。花匂う春にほれぼれする歌声である。家人が家猫に言い聞かせている声が聞こえてきた。「いい子だからね、絶対に鳥を捕って来ないでね。それからトカゲもバッタもね」ウグイスの鳴き声に聞き耳を立てているのは人間ばかりではないようだ。家猫の耳もしきりに動く

2015年4月19日日曜日

わくわくで行こう

 「わくわく聖書の会」に、「今日はお天気が良いので来ました」と◯さんがしばらくぶりに来られた。「天気が良いのは、本当に気持ちが浮き浮きしますよね」と□さんが同意する。「お天気が良いとね、私も機嫌がよくなるのよ」と△さんも口をはさむ。
 お天気にかこつけて、同調しあうというのはいい。その場の雰囲気がやわらいで、久しぶりにやって来た◯さんの緊張がほぐれてくる。
 コーヒーが出されて、更に気分がなごんできたところで、「わくわく聖書の会」を始める。ともすればシリアスになりがちな聖書の学びだが、あくまでもわくわくで行こう。

2015年4月12日日曜日

クレソン摘んで

 某先生が一時間で楽しめるよといって、クレソンを摘みに連れだしてくださった。車でいくこと10分ほど。幕山公園の中の渓流に目当てのクレソンが自生していた。まるで自分の庭を案内するように公園のアチラコチラを案内してくださった。青く澄んだ空に、シャクナゲが満開だった。
 湯河原に来て3年目になったというのに、生来の遊び下手に加えての要領の悪さで、なかなか手近な楽しみにも手がつけられない。
 摘んでいると、野生のクレソンの香りがしてくる。ものの数分でたちまち小袋いっぱいに摘んだ。先生のご好意に感謝しながら、久しぶりに春を楽しんだ。

2015年4月5日日曜日

泥だらけの足

 主イエスは最後の晩餐で、弟子たちの泥だらけの足を一人ひとり洗われた。主は「あなた方も洗い合いなさい」と教えられる。
 しかし、現実には泥だらけの足を洗うのは、どれだけ大変なことか!相手の一番醜ところ、嫌なところを大切にすることはどれだけ堪忍が要ることか!できれば、触れたくない。相手になんとか変えて欲しいと思っている、それが私たちの現実だ。しかし、主は泥だらけの私たちの足を一人ひとり洗って下さる。
 聖木曜日、我が足を洗い拭ってくださった主に倣い、私も来られた方の足を洗わせていただいた。洗足は洗われる方も、洗う方も共に恵みだと知った。 

2015年3月29日日曜日

ロングドライブ

 金曜日、いつものように小田原教会に出かけた。真鶴を過ぎると、だんだん車間が詰まりとうとう渋滞。
 どんどん山の方に迂回する車を横目で見ながら、どうしようか?と迷う。しかし知らない道は今一不安と、もたもたしている内に出るチャンスを失う。結局小田原教会に着いたのは朝10時半を回っていた。
 さて帰り、落石の処理は完了せず。小田原市内からすでに渋滞。朝の優柔不断が悔しいので近道を探すが、無意味な努力だと知る。辛抱強く車の列に絆がれる。 
 裏道から割り込んでくる車を、迷いながらも入れてあげた。「俺って、いいやつだなぁ」とちょっぴり思ったりしながらロングドライブの一日を終えた。

2015年3月22日日曜日

霊の目で見たい

 カトリックの十字架はキリストのご像があり、プロテスタントのそれはシンプルである。
 先日ラジオを聞いていたら、テレビとラジオのどちらの方がより脳が活性化するか?と言うことを言っている。日頃ラジオを聞いているので、ちょっと興味を持って聞いた。答えはラジオの方だという。ラジオは映像を補う分だけ余計に前頭葉を使うという。これはいい。
 であるなら、キリストのご像のない十字架に、私たちのために苦しまれるキリストの御姿を、霊の目で見たい。そこにキリストが架かっておられる十字架はどんな苦しみも喜びに変わるというシンボルだからだ。キリストの御姿を十字架に仰ぎ見つ受難週に向かう。

2015年3月15日日曜日

蜜柑もいろいろ

 ◯さんが手に持っていたバックから蜜柑を一つ手品のように取り出してくれた。形と大きさはオレンジ、皮は甘夏そっくりで、色は伊予柑のようだ。さっそく食べてみた。味はあっさりした温州蜜柑のようだが、はて、初めて食べたこの蜜柑はいったい何だろう?
 そういえばN君のTシャツには見たこともないたくさんの柑橘類の絵がプリントしてあったなぁ。スウィティー、セトカ、セミノール、ハルミ、日向夏、黄金柑・・・品種改良がすすんで今や蜜柑にはこんなに種類があるのかと驚いた。
 名前も知らない蜜柑を食べるなどという楽しみはここ湯河原ならではだ。これもまた神の恵みと思う。

2015年3月8日日曜日

なんとなくゾクゾクしてくる

 教会の隣の広い空き地に大きな天幕がはられた。その翌日、ちょうどこちらは「聖書の学び」の最中だったが、鍬入れ式が行われたようだ。次の日、いつの間にか巨大天幕はすみやかに取り去られた。
 いよいよ某宗教団体の建築が始まり、竣工は来春3月だと聞くと、なんとなくゾクゾクしてくる。「いよいよ隣に建ちますね」と言うと、「いいじゃぁないですか!立派な鉄筋の建物の隣に、教会はやはりこれですよ。」と、◯さんが励ましてくれるのが有り難い。
 そうだ、教会は単に建物ではない。キリストの十字架によって誰もが救われるところなのだ。小さき群れの「世の光・地の塩」としての挑戦は続くと納得する。

2015年3月1日日曜日

魂の器

 四旬節(レント灰の水曜日からイースターの前日まで)に入った。この期間は主の十字架を思って「回心する」期間である。それは、「塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3:19)という事実を覚えるときだ。
 けれども、私達は生涯の終わりには単なる塵に返っていくのではない。イエス・キリストは十字架の愛によって、この貧しい塵の器を神の子としてくださり、私達の「魂」を永遠の命へと招き入れてくださる。
だから、私達は主キリストにあって単なる塵の器ではない。「魂」という美しくも貴い宝を内に持つ器である。
 この福音を噛みしめながら、四旬節を過ごすときに、復活祭(イースター)の喜びはひと塩となる。

2015年2月22日日曜日

弱さを誇ろう

 豊かな日差しに梅の花はいつしか満開。季節は希望の春を告げている。けれども、このところのイスラム 国のニュースには心が塞がれる。  この世はみな、強さを求め、強さを誇り、報復に報復を叫んでいる。しかし、キリスト教は違う。「…わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」と主イエ スは言われる。パウロはそのみ言葉を信じて疑わず、 「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」と告白する。
 ご自分の命に代えてわたし達を救ってくださったキリストに自分を明け渡すとき、人間は自分の弱さを誇る事ができる。弱さの中に慈しみの主はおられる。

2015年2月15日日曜日

あわれみの主に感謝!

 朝から雪が舞う中、肋骨を骨折して入院している叔母を西伊豆に見舞いに行った。12月の末以来である。
 幸い、今月末には退院と決まったが、医者は叔母が一人暮らしをするのはもう難しいと言う。
 伊豆で叔母の暮らせる施設を手を尽くして探してみたのだが、唯一の入所可能な施設は、一人部屋ではな く、建物も古いという。思案の末に「叔母さん、とにかく家に来てください」と伝えた。叔母は「すべては神のみ心のままにですから」と微笑んでくれた。
 翌日、町役場の福祉課に相談に行ったところから急展開した。叔母は牧師館の近くにある老人ホームに入れそうである。あわれみの主に感謝!

2015年2月8日日曜日

のんびりいこうよ

 朝8時ころ、玄関のドアがノックされた。戸を開ければ宅配の方である。いったいこんな時間に何が配送されてきたのかと荷物を開けてみれば、前の夜10時過ぎにインターネットで注文した本だった。
 驚きだ!こんなに即行で本が手に入るとは。このスピードとサービスぶりに今という時代を感じたが、これを素直に喜んでいいのかと考えてしまった。
 注文から12時間もたたずに配送されてくるというのは、この為に夜中に働いている人があるということだ。病院や福祉施設の夜勤の方の働きには頭がさがる。しかし、それは何もかもでなくてもいいのではないか。当たり前の働き方で、普通のサービスというのでいい。

2015年2月1日日曜日

信仰は他者への愛

 「宗教がこわくなったのでキリスト教をやめます」という電話をある方から頂いた。すぐに思い当たったのは、イスラム国の人質事件である。国内でも宗教の布教活動に行って殺害されたという事件が報じられたばかりだ。
 あまたの宗教と呼ばれるものを一括りにしてしまうのはどうかと思う。宗教と信仰は違う。ましてイスラム国は自分だけが正しいとして、それ以外のものを徹底的に否定、排除する原理主義の一つである。
 私たちが信じるのは。わが身を捨てて他人の命を救ってくださったそのお方だ。友の救出に自身の命をかけたゴトウさんの解放を祈らずにおられない。

2015年1月25日日曜日

信仰の神秘

 大寒のいま、日本中が寒さに覆われている。しかし湯河原はさすがに暖かいと見えて、教会の小さな庭には菜の花が満開である。長くなってきた日差しは天父の恵みだと言わんばかりに、さんさんと輝いている。
 この時期、草花が蕾をつけ花を咲かせるのは気温というよりむしろ日照時間に関係があると聞いた。だから雪の中で芽吹く猫柳もあるし、蕾がほころぶ寒梅があるのだと納得する。
 一年で一番寒い時期に、日差しがだんだん長くなる、地球が公転すればこその不思議。自然はうまく出来ている。この平等な恵みを天父からの贈り物と感じられる不思議、それは信仰の神秘ではなかろうか。

2015年1月18日日曜日

会心の作

 今日のニュースのどれを見ても、元気の出るものがない。それどころか、またしても・・・、というような記事ばかりである。
 しかし、中に「元気だせ」とばかりに、ぱぁっと明るいものがあった。「現代学生百人一首」の記事だ。毎年この時期、朝日新聞の『天声人語』で紹介されるのを楽しみに読む。
 これぞクリスチャンの心意気にピッタリだと、私が気に入ったのは中2女子のこの歌だ。「書き初(ぞ) めの会心の作きめたのは諦めかけたラスト一枚」。
 そうだ、チャレンジを続けよだ。「門をたたけ、さらば開かれん。(マタイ7:7)」!主にあって、扉はかならず開かれる。忘れまい。

2015年1月11日日曜日

洗礼

 年明けに、小田原教会の信徒の方から湯河原教会へ一枚のハガキが届いた。「湯河原教会の皆様より心暖かい祝福を頂きました・・・」と、感謝の言葉である。
 昨年のクリスマスに受洗した小田原教会の姉妹に、湯河原教会は兄弟教会として、お祝いの言葉をその時ファックスで送った。洗礼式後の愛餐会でファックスを受け取って、彼女は驚き、感激で涙ぐんだ。
 洗礼が個人の喜びだけでなく隣り町の兄弟教会の喜びだと伝えることは、実にいい兄弟姉妹の働きではないか!それは天にあるもっと大きな喜びをも示している。
 主の洗礼日に、キリスト教会は洗礼を根拠にして立っていることを思い起こす。

2015年1月4日日曜日

ワクワク大作戦

 2015年がスタートした。新年恒例の箱根駅伝をラジオで聞いた。キリスト教主義の青山学院大学が初優勝した。箱根の山登りで新記録、往路も、復路も圧倒的な強さだった。選手本人たちもこんなに走れるとは思わなかったと驚いている。  入学当初、調子が上がらなかった1年の選手は「今、ダメでも走れるようになる」という監督の言葉を信じ、練習を続けてきたそうだ。「選手が本気で取り組めば課題が見つかる。それを乗り越えようと戦えば、強くなれる」。きっと前に進めると言うメッセージだ。
 緊張せず、楽な気持ちで、楽しく走るという「ワクワク大作戦」がみごとに実を結んだ。

2014年12月28日日曜日

神の愛の「しるし」

 アドベントから始まる怒涛の一ヶ月が終わった。今月お訪ね出来なかった方々を問安する。寂しさをお察しする。それに礼拝の恵みや教会家族の交わりに与れない方たちだ。魂が窒息寸前の方もおられた。
 静かにお話を伺う。感謝をして一緒に祈る。神の像にかたどって造られて、神の息を吹き込まれた私たち人間は、神から愛されているという目に見える「しるし」がなくては生きてはゆけない。
 同じように、忙しさでやり過ごしたものに、庭の水仙もある。しかし、こちらはいつの間にか白い花弁の真中に黄色い冠をつけて、すまし顔で咲いている。もう春の香りさえただよう。

2014年12月21日日曜日

クリスマスがいっぱい

 海の向こうからクリスマスのプレゼントが届いた。家人が箱を開けてニコニコしている。「これで、クリスマスケーキが焼ける」と言って、いそいそと台所に立っていく。子供から届いた荷物の中身は牧師の妻となった母への応援物資であった。
 今週、クリスマスカードが次々に送られてくる。教会の兄弟姉妹や友人たち、子供たちからのカードに囲まれて、クリスマスの喜びはだんだん深まってゆく。
 恵みの分かち合いをしたいと、焼いたケーキをまずはご近所の一人暮らしの方へ届ける。甘い菓子は人を 幸せにすると聞いた。玄関先で祈らせてもらい、ささやかなクリスマスの喜びと恵みをお届けする。

2014年12月14日日曜日

もう目を回してなんかいられない

 アドベント・クランツにロウソクの火が三本灯る。 あと一週間でクリスマスだ。この時期は教会も牧師も 一番忙しい時である。いや、牧師の目はすでにもう一 ヶ月前からぐるぐる回っている。
 クリスマスまでにやらなければならない準備を一つ一つチェックしてみる。終わったことを数えてホッ として、また次の準備にとりかかる。
 一昨日、クリス マスの案内状に「ご一緒にクリスマスの恵に与ること ができれば、こんなに嬉しい事はありません。ぜひクリスマスは教会に足をお運びください。」と書く。
 さて今日からの一週間、牧師は正念場を迎える。もう目を回してなんかいられない。

2014年12月7日日曜日

ひだまりで

 小田原にいく途中、西湘バイパスの入口付近に、おばあさんが二人話し込んでいるのをよく見かけた。
 北側がカーブした土手になっていて、陽だまりにな るその場所は暖かいのだろう。一人は買い物用の手お し車に腰掛けて。もう一人は杖をついて。
 話しているその様子がいかにも楽しげに見える。な にを話しているんだろう?しかし、お互いに家に呼ぶのは家族に気兼ねなのだろうかと思ったりもする。
 このところすっかり寒くなった。今日も運転しなが らおばあさんたちの姿を探すがいない。今ごろどちらかの家でこたつに入って、談笑しておられるといいなぁと、祈りながらそこを通り過ぎた。

2014年11月30日日曜日

今日からアドベント

 「ハイテンションのアップテンポ」と家人が呆れていたが、これがこのところ三つの葬儀が続いた私の二週間ばかりの状態である。やっと日常にもどってみれば、11月の最期の日はもうアドベントだ。
 大慌てでアドベントの準備にかかった。昨年はアドベント・クランツを飾る緑の枝がほしいと言われて、ご近所に柊の枝を貰いに行った。牧師館の猫の額ほどの庭に、枝ぶりの悪い大きな木があると思っていたが、それが樅の木だとは全然気づかなかったからだ。
 この樅の木、クリスマスツリーになる夢からは程遠いが、丈夫な緑の枝葉はクランツのろうそくを引き立てて案外いいではないか!さあ、今日からアドベント。

2014年11月23日日曜日

甘いのも酸っぱいのも

 蜜柑がだいだいに色づいて、深緑の葉によく似合う。まあるい実が晩秋の日差しの中で、ぬくぬく暖かそうなのを眺めながら、実を結ぶ木というのは実にいいと思う。が、甘味と酸味は陽射しによって違うらしい。
 「わたしは葡萄の木、あなたがたはその枝である。」と、イエス様はパレスチナでは身近な葡萄の木を喩えに用いられた。もしも、これが湯河原であったなら、蜜柑の木を喩えに使われたのかもしれない。
 この一週間に三人の兄弟姉妹が天に召された。その歩みを振り返りつつ、主イエスという木に繋がった枝の結んだ実を思った。イエス様はその実すべてを慈しんで下さるにちがいない。甘いのも酸っぱいのも。

2014年11月16日日曜日

Sちゃんに目をみはる

 Sちゃんが初めてお母さんに抱っこされてやって来たのは、今年の春だった。生後6ヶ月になったばかりの落ち着いた円満な赤ちゃんだった。
 そして11月、お誕生を迎えたSちゃんは積み木で遊ぶようになった。麦茶を飲み、ウエハースを食べ、帰る時には小さな手でバイバイをしてくれた。すっかり成長した。今を充分に生活して、心と体が満たされて、初めて次の年齢へと移行できる。この幼児期特有の成長の道筋を「連続的発達」というのだそうだ。
 ところで、幼児に限らず大人もまた心身の必要を満たされる事によって成長できるのではないか。隣人の必要も満たしながら「連続的発達」というのはいい。

2014年11月9日日曜日

ローレンの選択

 末期癌で余命半年と宣告された28歳の米国人女性が、安楽死を認める州で、夫に見守られ安らかに息を引き取ったとのニュースに、その是非はともかく、自死した友人のことを思い出し心が塞いだ。
 ところがその翌日、脳腫瘍で余命半年と診断された19歳の米国の女子学生ローレン・ヒルのことが報道された。夢だった大学のバスケットボールの試合に出場したという。
 シュートを決めた瞬間の彼女の笑顔は雲ひとつない秋晴れの空のようだ。自分のためにやっているのではない。私に生きる力を与えてくれる皆のためにやっているという彼女の言葉に深く頷く。支えあって最後まで生き抜こうとする彼女に心からエールを送る。



2014年11月2日日曜日

クリックしてみたら

 もっぱら仕事で向かうインターネットだが、昨日(30日)からグーグルのポータルサイトが楽しい。
 カラスが鳴くとカカシの頭からお化けが出てくる画面を見て、ハローウィーンだと思い出した。
 しばらくして、再びサイトを開くと新しいのにかわっていた。月が出るとグーグルの文字の二番目のoが狼男に変身する。残りの4文字G,g,l,eはびっくり仰天!その仕草がひょうきんで思わず吹き出した。
 夜中にもう一度サイトを見てみる。また新しいのに変わっている。魔女が洞窟で大ガメを前に何やら不思議な薬を作っていた。束の間のハローウィーンを楽しみながら牧師の10月がこうして暮れてゆく。

2014年10月26日日曜日

風に吹かれて

 巡礼街道沿いにあるけやき並木の紅葉はまだまだなのに、教会の前の歩道にはいつしか落ち葉の吹き溜まりができるようになった。
 落ち葉をはいていると、どこかのおばあさんが向こうからニコニコしながら歩いてきた。「ご苦労さんですね。掃いても、掃いてもまた風さんがあとから落ち葉を運んでくるからねぇ〜」とねぎらってくれる。
 確かに昨日は風雨が強かった。落ち葉だけでない、外壁に貼ってあった特別礼拝案内もすっかり吹き飛ばされていた。そよ風から、台風の風まで、目に見えない風の存在を私たちはこうして知る。見えない聖霊に導かれて、今日また礼拝案内を貼り直す。

2014年10月19日日曜日

なんだか楽しいな

 このところ気持ちのよい秋晴れの日が続く。湯河原から小田原への車の運転は気分を一新させてくれる。
遠く広く、水平線までの眺めが、時折目に飛び込んできて、それは豊かで平和な一瞬だ。
 曲がりくねった海岸線の国道を運転しているのに、助手席の人はときどき対向車を指さしながら、「あっ、ベンツ!」とか、「アウディ!」とか賑やかだ。だが、ハンドルを握っている身としては、じっと見る訳にはいかない。ところが週末ともなると、すれ違って通り過ぎる車に思わず目が行ってしまうことがある。
 おお、フェラーリだ!ポルシェも!しばらくして、ランボルギーニも通り過ぎる。なんだか楽しいな。

2014年10月12日日曜日

自由の賜物

 我が家の居間にはLED照明がある。この照明が今回ノーベル物理学賞を受賞した青色の発光ダイオードの発明による派生品の一つだったとは知らなかった!
 昨年の暮に買い替えたばかりのLED照明を改めて眺めた。こんな身近に世紀の発明品があったとなると、ノーベル賞が身近に感じられるから面白い。
 最年長の博士がインタビューに答えていた。「40年間も研究し続けられたのは、自由にやらせてもらったからだ」と。これを聞いて「なるほど」と思った。
 発明も発見も自由な精神の賜物だ。創世記は神が人間に命の息と自由を与えたことを伝えている。自由の賜物、ノーベル賞の受賞に気持ちがふくらむ。

2014年10月5日日曜日

これはいい

 ドーナツ座布団を買った。ドーナツ座布団と聞けば、だれでも想像がつく「トホホ」の病のためのものである。いよいよ私もご厄介になることにした。
 しかし、これがなかなかの優れものであると知った。固さといい、バランスといい長く座っていても尻が痛くなるということはない。おまけに、この座布団の厚みで、机でパソコン作業をするのに丁度いい高さになった。おかげで、左手のしびれも楽になった。
 イイコトづく目のドーナツ座布団、さて、座って仕事に取り掛かろうすると、何やらとぐろを巻いているものがいる。我が家の猫が私のドーナツにスッポリとおさまって、実に具合良さそうに寝入っていた

2014年9月28日日曜日

せめて、これくらいはしたい

 この月曜日に一ヶ月ぶりに都内に出かけたが、小田急線の車窓からの眺めがすっかり秋になっていた。
 私には89歳の叔母の他に、もう一人97歳の伯母がいる。今は伊豆にあるホームで暮らしている。米国で30年余年を過ごした伯母は生涯独身だった。
 その伯母に、毎月一回アメリカから送られてくる年金の手続きのために都心に出かけてゆく。忙しいのと距離があるため、伯母を訪ねることはめったにない。
 心のうちで不孝を詫びながら、せめて、これくらいはしたいと、今日も月に四度の休みの一回を伯母のために使う。
 暑さは過ぎた。初秋はきっと伯母にも優しかろう。

2014年9月21日日曜日

ここを見て下さい

 木曜日の朝、『聖書に親しむ会』の看板を出した。しばらくして高齢の夫婦が教会の前を通って行く。看板を見ながらの話し声が聞こえてきた。
  「へー、『お茶とお喋りのくつろいだ時』だって。わたしらお茶もお喋りも、いつもしているよね~」。そう聞いて、思わず吹き出した。
 しかしである、私としては、その上の一行を読んで欲しかった。『聖書に親しむ会』の一行を。
 お茶とお喋りは付け足しである。つまり、お茶とお喋りがあったほうが気軽かな?と思ったに過ぎない。だが、これは考えものかもしれない。
 さて、今度は『聖書に親しむ会』とストレートに大書してみるか。

2014年9月14日日曜日

山盛りのイサキ

 昨日のこと、地元で捕れた新鮮なイサキを格安の値段で買って帰った。皿にひと盛りのイサキ。家に帰って数えてみると小さいが18尾入っていた。
 ひと手間かけて鱗を取り、腹わたを出して塩をせずにグリルで焼く。さすがにイサキは高級魚だけあって、小さくても味のよさはなかなかのものだ。
 丁度、夕飯を差し入れてくださったHさんに、失礼を顧みず、焼いたイサキを何尾か持ち帰って頂いた。それから今か今かと待っていた我が家の猫達にもお頭つきを一尾ずつ。
 海の幸を人も動物もみんなで惜しげも無くわかちあえる豊かさも、たまにはいいものではないか!

2014年9月7日日曜日

一歩、また一歩

 8月半ばにいただいてきた「夏すみれ」ことトレニアが20日間を超えてもなお咲き続けている。
 蕾をすべて咲かせきったばかりでなく、切り取った茎からは、糸のような根まで生え始めた。実に力づけられる。
 このところ心を病む方から電話をいただくことが日常になっている。今朝も不安げな電話が来た。
 「家族は出かけて一人。その後「人が怖くて外出できない」。しばらくして「勇気を出して外出したい。祈ってほしい」。またしばらくして、「外出できた。いま駅にいる。これから帰る。再びしばらくして「無事家についた。ありがとう」。最後はすっかり弾んだ声だった。
 草花と主に支えられつつこの方の声に耳を傾けた。

2014年8月31日日曜日

心から尊敬する

 盲導犬が全盲の飼い主と一緒に職場に向かう途中で刺されたというニュースに衝撃を受けた。フォークのような鋭利な刃物で腰のあたりを2,3箇所、その傷の深さは3センチに達していたという。この卑劣な行為に胸塞がれる思いがした。
 学生の頃、山手線に飛び乗ったら目の前に盲導犬がいたことがある。その毅然としてあまりにも気高い姿に僕は一瞬気後れして、そして感動した。
 「刺されても、鳴き声一つ上げなかったオスカー君、君は耐えて、赦したのだろうか。心から尊敬するよ!」
 僕は十字を切る。天の父の前に卑劣漢が悔い改め、救いへと導かれるようにと切に祈る。  

2014年8月24日日曜日

ガッツいっぱい

 先週この欄に書いた青と紫色の高山植物であるが、この花を下さったAさんにお聞きしたところ、実はインド原産のトレニアと言う一年草だと分かった。
 あの時、頂いた後で4人の方々を問安した。ハンカチに包んであったが、家に戻ってみると、すっかり萎れてしまっていた。
 ああ、かわいそうなことをしたと、冷たい水をかけてコップにさした。すると2、3時間で葉はピンとなり、小さな花は生き返った。
 今日でもう一週間余り経ったのに、次々と新しい蕾が膨らんでは花が咲いている。コップの中でも、暑くても、ガッツいっぱいの生命力で咲いている







2014年8月17日日曜日

高原の涼を送ってくれる

 午後から問安に出かけた。気温は29度。猛暑の候であればそう高いとはいえない。しかし、ときおりザーッと降る雨に、湿度は90%となっていた。
 気温を湿度との関係で表す体感温度というのがあるが、これを表す数式というのは、実はものすごく科学的、かつ複雑である。便利な体感温度表によると、今日の体感温度は39度ということになる。なるほど今日は過ごしにくいわけだと納得する。
 問安に伺ったお宅の庭から、紫色の花を付けた小さな高山植物を頂いた。帰って直ぐにガラスのコップに挿す。この花、すっかり名前を忘れたが、今日の蒸し暑さに爽やかな高原の涼を送ってくれている。


2014年8月10日日曜日

今日はまるで天国


 この休み、一人暮らしをしている叔母を半年ぶりに訪ねた。この24日で89歳になる。
 着いてそうそう、叔母を近くのお蕎麦屋さんにお昼ごはんに連れ出した。車で行けば店まではほんの数分ほどの距離である。叔母を乗せて車をスタートすると、「ああ、嬉しい。今日はまるで天国だわ!」と、弾んだ声が後部座席から聞こえてきた。
 なんの変哲もない毎日を過ごしている叔母にとって、今日はささやかな変化ある一日だと知った。
 「じゃあ、今日は誕生日のお祝いね」と言って、美味しそうに食べる叔母を、日頃の親不孝ならぬ叔母不幸を許してもらいながら、感謝の思いで眺めた。

2014年8月3日日曜日

りゅうじを真似て言ってみる


 いよいよ今週は休暇だ。一回きりだが説教の準備もない。そう思うだけでほっとする。しばしの休みだ。
 夏空に入道雲、花火に夏祭り、西瓜に蝉の声・・・全く意味を成さないただの夏の単語の羅列だが、休みを目の前にすればすべてが輝いている。
 こういう時そこ「かまきりりゅうじ」(工藤直子著 詩集『のはらうた』)のセリフほどしっくりくるものはない。
 「おう なつだぜ/おれは げんきだぜ/あまり ちかよるな/おれの こころも かまも/どきどきするほど ひかってるぜ」
 私も片腕を太陽にかざして、かまきりりゅうじを真似て言ってみる。「おう 夏だぜ 暑いぜ 俺は頑張るぜ! 」

2014年7月27日日曜日

こうまで流行るのは


 いつも行くスーパーマーケットで流れていたBGMが変わっているのに気がついた。ありの〜ままの〜自分でいいの〜。アニメ映画『アナと雪の女王』と主題歌『ありのままで(Let it go)』が大ヒット中だ。だがこの好評ぶりは海外メディアには驚きだという。
 こうまで流行るのは、よほど自分というものを押さえて生きている人が多いのだろうと思ってしまう。
 『ありのままで』『Let it go』の歌詞を比べると、そこに英詩にはない日本社会の独特さが考慮されていて、それがピッタリくるもとだと思えてきた。
 私などには、「ありのまま」というのは創造の姿のままがいいと歌っていると感じられるのだが・・・。



2014年7月20日日曜日

うん、あれはなかなか良かったな


 さて、わたしの頭の怪我であるが一週間が経って抜糸してもらえた。教会の皆さんにもすっかり心配をおかけした。
 うっとうしい絆創膏は頭から消えたものの、最初のクッションの入った手のひらサイズの絆創膏はちょっと気に入っていた。
 それは、一見ユダヤ教徒が頭のてっぺんにちょこんと乗せるあのまあるい帽子を思わせた。「神の前では頭を低く恭順の意を表す」という意味のキッパ(Kipper)のようだった。私もユダヤ教の礼拝に参加させてもらうためにキッパをつけたことがある。
うん、あの絆創膏、あれはなかなか良かったな。

2014年7月13日日曜日

初めてのご挨拶



 迷ってきた仔猫を捕まえようとお隣とのブロック塀によじ登った途端、バランスを崩して後ろ向きに倒れた。エアコンの室外機に頭頂部をブッツケて見事に切れた。
 しかし、この室外機がなければ、まともにコンクリートの地面にたたきつけられていたに違いない。
 一瞬の出来事なのに、倒れながら「おれも歳を取ったものだ」と思ったから人間の感覚とは不思議だ。
 ちょうど居合わせた娘が、「パパが大変、ママ、タオル持ってきて!」と叫びながら、小高いブロック塀の上をつたって忍者みたいにやって来た。
 幸いお隣はY外科医院である。引っ越して来て以来初めてのご挨拶をかねて、8cmの傷を縫って頂いた。


2014年7月6日日曜日

神にゆだねて


 教会の掲示板に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのところに来なさい。わたしが休ませてあげよう」(マタイ11:28)と書いて貼り出した。
 掲示を出してから4日目、聖書研究会に飛び入り参加者があった。クリスチャンだというホームレス風のNさん。彼は聖書の場面を即興で演じたり、立て板に水のような聖書解説をするので、一同舌をまいた。
 ところでそのNさん、住基カードのある某市に戻り、生活保護を申請し、仕事を得たいと祈った。首をかしげる節もなくはないが、その祈りを聞いて、援助を申し出た。彼は金額にガックリした様子だったが、この先を神に委ねてと送り出した。

2014年6月29日日曜日

遠慮のない仲

 すっかり大人になった息子が帰ってきて、家の中の空気が和んでいる。
 どこの家でも夫婦の意見が違うというのはままあることで、我が家も例外ではない。
 一対一だと互いに言い張ってせり上がる。余裕の無いときはなおさらだ。「あなたの方がおかしいわよ」「いや、そういうことじゃないね」と、つい声が大きくなる。
 しかし、このところよく話を聞いてくれる仲裁役の息子がいる。話を聞いてもらえば治まることもあると、牧師たるもの、当然解っているはずだが、遠慮がない仲ではどうしても言いたい事が先に立つ。自戒を込めて思う。傾聴するところに神はおられる。

2014年6月22日日曜日

膨らむ笑顔を抑えきれない

 息子から、京都に来ているからと突然電話がかかってきた。「おとっつぁん、ちょっと聞きたいんだけれどね、教会でお香、炊く?」「?、いやー、うちの教会ではお香はたかないね」と応じる。 
 すると、「おっかさんは、お香が欲しいかな?」と再び聞いてくる。「じゃ、『おっかさん』に代わるから」と笑いながら妻に受話器を渡す。 
 妻は「おっかさんなんて言わないで。マミーと言いなさいなさい!」と言いながら、もう大変な笑顔だ。 
 久しぶりの息子の電話に妻も私ももうバカみたいに膨らむ笑顔を抑えきれない。二年ぶりだろうか、息子が帰国した。お香を母に贈ろうという。

2014年6月15日日曜日

紫オーラ

 6月も中旬となった。からりとした青空はとうぶん望めそうにもない。梅雨の曇天を見上げて恨めしい気がするのは私ばかりではない。外出もままならないとか、洗濯物が乾かないとか、こう毎日雨ばかりでは気が滅入る方もおられよう。
 しかし、牧師館の庭の紫陽花は雨の中で青に紫にひときわ輝いている。「きれいですね」と紫陽花を褒めながら通って行く人がいる。「どうぞ、よろしかったらお持ち下さい」と家人が応えている。
  確かにオーラを放ちながら、紫陽花は日毎にその色を変えてゆく。しばらくはこの色の変化を楽しむとしようか。梅雨もさほど悪くはないかな。

2014年6月8日日曜日

実に得意げ

 先週のあの病気の猫のことだが、注射の効果で涙目は止まった。だが、鼻詰まりは変わらずで、食べないし飲まない。このままではいずれ死んでしまう。
 そんな心配をしていた日曜日、礼拝と懇談を終えて帰ろうとしたその時、老婦人がやって来た。飼い猫が金曜から帰って来ず、この辺りを探しているという。
 特徴を聞けば、我が家に連れ帰ったあの猫に違いない。持病をもった仔猫が捨てられているのを可哀想に思い、ご夫婦で世話してすでに6年だという。手作りの決まった餌しか食べないと知った。
 すぐに、猫を届けた。猫のミーちゃんは家の中を実に得意気に歩きまわった。祈りは聞かれた。万々歳である。

2014年6月1日日曜日

病気の猫もやってくる


 先日小田原教会の信仰入門講座で集まっていた時のこと、ズィー、グジーと変な音がしてきた。一匹の迷い猫が窓の外にいて、その奇妙な音は詰まった鼻で懸命に息をするたびに出るとわかった。病気なのだ。水と餌をやろうとしたが逃げてしまった。
 三日の後、帰ろうと車を出しかけたその時、あの猫がやはり苦しげな音をたてながら現れた。今日は近づいても逃げない。小田原教会の庭に病気の猫が救いを求めてやって来たのだと思った
 抱きかかえて獣医に直行した。ひどい風邪だという。注射とノミの薬を処置してもらって連れ帰った。
 どうぞ、この小さな生命をもお救いくださいと祈る。

2014年5月25日日曜日

可愛いね

 このところ連日のようにインターネットニュースで「動物の赤ちゃん誕生」の記事を楽しんでいる。
 今日はイノシシの赤ちゃんが紹介されていた。「濃い茶と薄い茶のしま模様で、瓜(うり)に似ていることから『うり坊』と呼ばれる。つぶらな瞳で母親に寄り添う姿はかわいらしさ満点。一日中畜舎にいても見飽きない」とある。他にも、ごまあざらしの赤ちゃんがひなたぼっこをしているし、母親のお腹の袋から顔を出すカンガルーの赤ちゃんがいる。また、母鳥の後を泳いでいるカルガモの雛たちはロバート・マクロスキーの絵本『かもさんおとおり』そのものだ。
 今日も「可愛いね」を連発しながら心が和んでいく。

2014年5月18日日曜日

ああ、おばさん

 先週の月曜日、叔母を迎えに行き牧師館に一泊してもらった。叔母はわたしを育ててくれた母のような人である。
 今年89歳になる叔母はひどい難聴であるが、補聴器に助けられて伊豆で一人暮らしをしている。先週は何度電話をしても電話にでない。結局、ご近所や教会の牧師に連絡をとって、やっと無事が確認できた。
 周囲の大騒動にもかかわらず、会えば叔母はおさな子のように事も無げで涼しい顔をしていた。
 夕食後、久しぶりに叔母の入れた緑茶を飲んだ。ぬるめのお湯でゆっくり入れたお茶は実にうまい。この味は昔と少しも変わらない。ほっと人心地がついた。

2014年5月11日日曜日

お預かりします!

 新宿駅前で、「福島のペット・シェルターで世話されている犬ちゃん、猫ちゃんたちに援助をお願いします・・・」と、学生風の青年たちが訴えていた。
 このような募金活動のなかには、わずかでも協力したいと感じられる訴えがある。その一方で親団体のはっきりしないものもある。(このグループはどうだろうか?)と思いながら足早に通り過ぎかけた。
 その時だ。「・・・自分も参加してきて、・・・」と聞こえた。足を止め、信じてみようと引き返した。
 募金すると、「お預かりします!」と、歯切れのよい掛け値なしの返事が返ってきた。都会の喧騒のなかに、ボランティアの清々しさが響きわたった。

2014年5月4日日曜日

たのしい夢

  出張先に連絡が入った。女性会の皆さんが教会堂の片付けしをしたところ、昔のバザーで売れ残ったバイオリンを見つけたという。なんと未発見のストラディバリウスかもしれないという話である。
 「もし、本物だったら、一億円はするよ!」「それなら、新しい会堂が建つね!」などなど、その場は大いに盛り上がったそうだ。
 という訳で、帰ってくるなりバイオリンを見に教会堂へ連れて行かれた。オッ、ラベルにはストラディバリウス・クレメンス!だが、まてよ、ラベルの端に小さく・・・メイド・イン・チェコスロバキア。
 みなさん、楽しい夢をありがとう。会堂の片付け、ほんとうにありがとう!




 
 
 

2014年4月27日日曜日

こんなときにも神頼み

 早天礼拝から戻ってくると、珍しく飼い猫のジェイの姿が見えなかった。夜になって雨も降り始めた。
 普段なら、大慌てで帰ってくるはずだが、近所を呼び歩いても気配がない。尋常ではないと不安がよぎった。妻はもっと遠くまで探しに出ようと身支度をした。
 わたしは自分の願と引き換えに、ジェイを無事に戻して下さいと祈った。そして、ドアを開けた途端、濡れ鼠のジェイが飛び込んできた。
 「ジェイ、よく帰ってきたね!」ジェイを抱き上げた。不覚にも、鼻がムズムズした。妻は耳がちぎれても、尻尾が折れても、生きてジェイを戻して下さいと祈ったそうだ。
 いつくしみの主に感謝!

2014年4月20日日曜日

フリー・ギフト


 今や、クリスマス・セールは世界の各地で風物詩なのに、イースター(復活祭)・セールというのは、まるで聞いたことがない。
 ユダヤの『過越しの祭』の期間中に、イエス・キリストが処刑されたことを聖書はつげている。だが受苦と十字架の死の後に、キリストは復活された。それを思えば、キリストの復活を祝うイースターが世俗化しないのは、むしろ当然である。
 主の十字架と復活によって死は打ち破られた。キリスト者は復活の信仰と希望を生きる。信仰は教えではない。ましてや義務でもない。信仰は、天の父が私たちにくださった無償の贈り物だ。喜びだ。

2014年4月13日日曜日

「今日もまた、サンキュ−・ジーザス」

 ある人のメールの最後に「今日もまた、サンキュ−・ジーザス」とあった。「今日も、また」という言葉に新鮮さを感じた。
 この人は自分を甘やかさず、夢を追い続けている。忍耐も努力も要る。きっと毎日が挑戦と感謝との繰り返しに違いない。翻って牧者の自分は、伝道の日々を、今日もまた感謝と言えているかと自問する。
 この日曜日から受難週が始まる。主イエスの十字架のおかげで、私(たち)は、今、救われている。
 この喜びを、まっすぐに伝えよう。これが私の夢、私の挑戦、私の感謝。その日その日の恵みに生かされて、「今日もまた、主に感謝!」

2014年4月6日日曜日

信徒魂


 思い出すが、2013年4月3日、昨年のこの日、私達夫婦はここ湯河原駅に降り立ち、小雨の中を牧師館へ向かった。
 それから引越しトラックが着き荷物が降ろされた。すると、祈祷会だからと引っ張りだされた。祈祷会?その日は水曜日だった。
 ここでは引っ越し荷物をほどくいと間もなく、まず祈祷会をするのですか?と内心驚いたものだ。
 しかしこの祈祷会、牧師が病気の時にも出張の時にも信徒の方々によって休むことなく続けられている。
 神によって集められた小さな群れは「礼拝」と「聖研・祈祷会」という教会の両輪をはずさない。この信徒魂に感じ入り、また誇りに思う一年後の今日である。

2014年3月30日日曜日

おかげさまで

 牧会の御用にと、信徒の方が車を貸して下さった。「おかげさまで」この一年間、湯河原と小田原の往復と、病院や施設におられる信徒の方々の訪問ができた。
 壮年で始めた不慣れな運転である。運転技術が未熟で、道を知らないへっぽこ運転者をこの車は一身に引き受けてくれた。バンパーに擦り傷が増えた。だが、「おかげさまで」安全にこの一年を走れた。
 そして、先週最後の運転が終わって、この先は廃車と決まった。最後まで、黙々と、本当によく主の御用をはたしてくれた。心からありがとう。
  主イエスのおかげをはじめ、私たちは、あれもこれも沢山の「おかげさまで」に囲まれている。



これも、天の父の「おかげさまで」。

一週間で、アネモネからチューリップへと教会の前庭はさまがわり。




教会の掲示板のところには水仙が咲いています。



2014年3月23日日曜日

ほころぶ顔、顔、顔

 3月11日、仙台教会で行われた東日本大震災記念礼拝に出席し、湯河原教会がみかんなどを送って支援を続けている石巻市のファミリーホームを訪ねた。
 ここでは、震災の影響を受けた3人の子どもが親を離れて暮らしている。この日の午前中に、彼らはホームのスタッフに伴われて、身を切るような寒さの中、身じろぎもせずに、慰霊祭に参加したという。
 夕食前のわずかな時間に、Mさん、K君、H君と語り合った。親元ならば我儘の一つも言うのだろうにと 思いながら、別れる前に一人ひとり両肩をぐっと掴んで祝福した。すると子供たちの表情がほころんだ。子を思う天の父の祝福に触れて安心がふくらんだ。





教会の小さな庭には、アネモネが満開!

 


イエス様が愛された野の花。(マタイによる福音書6: 29)













2014年3月16日日曜日

おお、誘惑

創世記2:15-17・3:1-7  
ローマの信徒への手紙3:21-31
マタイによる福音書4:1-11

 エデンの園で人は神の祝福に包まれていた。そこでは、神と人とは愛の関係にあり、否定というものが介在しなかったという。しかし、蛇に象徴される悪魔の誘惑によって、人は神を否定し、神との直接的な愛の関係は絶たれたと、創世記は失楽園を伝える。
 悪魔は、常に私たちを神から引き離そうとする。だから私たちは、常に誘惑にさらされている。栄誉、お金、権力と誘惑は巧みで限りない。だから、天の父よ、試みにあわせず、悪より救いだしたまえと祈る。
 私たちを真に満たしてくださるのは、主イエスのみである。荒野で、十字架上で悪魔の試みに勝利してくださったその主の愛によってのみである。

2014年3月9日日曜日

イエスさまぁー、やってきました!

 あの日、山に登られた主イエスは、弟子たちにご自身の神の国での本当の姿を一瞬だけ見せてくだった。
 実は、私たちの身の回りには、あの神の国を見るような輝きが満ち満ちているのではないだろうか。
だから、詩人は手のひらを太陽にすかしながら、「オケラだって、ミミズだって、アメンボウだって」と、その命のまばゆさを歌うのだろう。しかし、日常に追われている私たちはこのまばゆさに気づかない。
 その日には、私たち自身があの輝きの中に迎えられる。「イエスさまぁー、やってきました!」と主イエスと共に手を取り合う。主の変容は、私たちにそんな希望を与えてくれる。

2014年3月2日日曜日

もちろん、 自分でもない

 以前第一位になったサラリーマン川柳に「『ご飯 よ』と呼ばれて行けばタマだった」というのがあり、 我が家も同じと思わずにが笑した。 
  人間の主人となるものとして、主イエスは「神」と 「富」の二つを挙げられた。そして、人は、神と富の 二人の主人に兼ね仕える事はできない。どちらか一方 にだけ仕えるものだと明言されている。 
 ある学者が「富」とは、人間の欲望を叶えるための モノだという。自分の欲求を叶えるモノを主人にした時、人はモノの奴隷となる。「我が家の主人はキリス トなり」である。猫でもない。富でもない。「もちろん、 自分でもない」と心のなかで声がした。
(マタイ6・24から)

2014年2月23日日曜日

からし種メッセージ(マタイ5・38-48)

 主イエスは、右の頬を打たれたら、左の頬を差し出し、一里を強いるものと共に二里を行くようにと言われるのだが、それは道理に合わないと主張をするのが人間である。私達は自分の正しさを主張するが、人間の正しさなどは常に相対的であって絶対的ではない。
 天の父は悪人と呼ばれる人にも善人と呼ばれる人にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださっている。だから私達は誰もが神の前に罪人(悪人)であることを悟る時、もはや仲間か敵かと区別すること自体が意味をなさなくなるのである。
 私達は神の前に等しく罪人であり、主イエスの十字架によって赦された者同士に違いない。

2014年2月16日日曜日

思いは早くも復活祭

 先週、太平洋沿岸の広い地域に雪が降った。所によっては45年ぶりの積雪だったそうだ。この湯河原の海岸付近でも、家の屋根や樹々の枝にこんもりと雪が積もった。ちょうど、わたの布団を被ったようで見ていて楽しい。暖かそうに見えるから不思議だ。
 立春を過ぎてから雪が降るというのは珍しくないが、この時期、黄河流域で生まれた春が三寒四温で近づいてくる。そろそろ春の日差しが恋しい。
 カレンダーを見ながら思いは早くも復活祭だ。3月9日に始まる四旬節までおよそ後一ヶ月と数え、その後、受難週を過ごして、復活祭を迎える。今年のイースター、4月20日に大きな○印をつける。

2014年2月9日日曜日

黄金の道

 熱海朝祷会に出席するため、湯河原を朝7時に出発する車に同乗さていただいた。
 東の海に見える島々を眺めながら海岸線を走る。丁度、昇ったばかりの太陽が光の粒を波間にキラキラ反射させながらしだいに水平線から離れていくところだ。
見ると、見事な黄金の道がこちらに向かって一直線に延びているではないか!
 この道路のすぐ上のホームにおられるTさんは、毎朝この黄金の道を眺めるという。頂いた手紙には「イエス様に従って、神の国へ行く黄金の道なんだと…私は勝手に思って祈ります」とあった。Tさん、この黄金の道を見て、私も思わず祈りたくなりました。

2014年2月2日日曜日

忘れまい

 朝起きて使う水の冷たさに思わず身震いする。大寒の今日、さもありなんだと思う。有り難いことは、この寒さに反比例するように日差しが着実に長くなってきたことだ。天気さえ良ければ、窓ぎわはぽかぽかと春の暖かさだ。
 この時期、特に気温と日照時間との関係にやけに公平さを感じるのは私ばかりではないだろう。この大自然のサイクルも神の創造の御手による。神は、この神の恵みである地球のすべてを人に託された。所有者ではなく、よき管理人としてであることを忘れまい。
 東京都都知事選が告示された。原発の継続か脱却かが争点とも言われる。真摯な関心を持って見守る。

2014年1月26日日曜日

人間の選びとはまったくちがう

 主イエスは、正統派の人々からさげすまれた土地であったガリラヤの漁師たちを最初の弟子とされた。人間的に見れば、世界宣教の担い手が、貧しく、無学であるのはおよそふさわしいこととは言えないだろう。
 しかし、主イエスはこのふさわしくない者を選ぶのである。神の選びは人間の選びとはまったくちがう。
 ふさわしくない私たちが召命によって集められたのが教会である。ある説教者がこう言っている「この私だって全くふさわしくないのに選ばれて、神がなおも用いてくださっている」そういう謙虚さを持ってお互いに受け入れ合わなければ、召命だけで成り立っている教会の世界は立ちゆかなくなる。」

2014年1月19日日曜日

確かに力が湧いてきた

 さきごろ、浜松の小学校で児童1,000人を越えるノロウイルスの集団感染が伝えられた。「ノロウイルスの集団感染・・・さぞ大変だろう」と思う。
 そういう私も昨年、あろうことか、クリスマス直前に牡蠣の生食によってノロウイルスにかかった当の本人である。クリスマスには受洗式も予定されていた。
 折しも教会は聖書研究・祈祷会の日で、早速、私のために信徒祈祷会がもたれた。床に突っ伏しながら、不思議なことに自分の体に友の祈りがビンビンと響いてきた。祈りに治癒力があるかどうか分からないが、確かに力が湧いてきた。昨年の教会の主題「祈り」の締めくくりにふさわしい。今更ながらにありがたい。

2014年1月12日日曜日

主も新しいスタートを切られた

 今週5日から寒に入った。これからしばらくは一年中で一番寒い季節が続く。今日はこの冬一番の寒さだという。小田原への道中、丹沢の山々は雪の薄化粧で新春にふさわしく麗々しい。
 しかし、ここ湯河原の冬は今まで住んでいた東京の寒さに比べると、格段の暖かさだ。牧師館の小さな庭には水仙が満開。妻が切り花にして、ガラスのコップに挿して食卓テーブルに置いた。
 水仙の良い香りもまた新たな出発への力をみなぎらせてくれる。1月12日は主イエスの洗礼日である。公生涯に臨まれるにあたり、主も新しいスタートを切られた。人類の救いに至るスタートである。

2014年1月5日日曜日

詩篇の喜びと希望を胸に

 2014年、新しい年を迎えた。新しい年の抱負やチャレンジが頭をよぎる。しかし、人の計画は、得てして「独り善がり」になりがちなもの。
 昨年を振り返って、自分では気が進まないことの中に、むしろ神の愛の計画があったと知らされる。御言葉に聞き、人の話に耳を傾けることの中にこそ、恵みが隠されていた。「主のみ心にかないますように」。そして「主よ、お用い下さい」と、祈る。
 「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡りくれば実を結び 葉も萎れることがない」この詩篇の喜びと希望を胸に、新年をスタートしよう。

2013年12月29日日曜日

このぬくもりを再度届けたい

 こんなに冷え込んだ夜の翌日は快晴だと聞いた。案の定、朝日が昇って牧師館の樅の木を輝かせ始めた。
「朝日は昇りて、世を照らせり。暗きに住む人、来たり仰げ・・」と讃美歌が口をついて出た。
 クリスマスから今日で3日が経った。赤ちゃんのイエス様を囲むヨセフとマリアの暖かな家庭の情景が思われた。家族が集う年末年始、折しも帰省ラッシュのニュースが流れる。
 クリスマスが、24日のケーキとシャンパンと共に、一瞬のうちに過去のものとなった方もおられよう。だが、主イエスは私たちのもとに来られ、年の瀬の今も一緒にいてくださる。このぬくもりを再度届けたい。

2013年12月22日日曜日

「榊」でクリスマスの飾り付けもありかも

 戦後、日本にクリスマスの習慣が急速に広がった。当時、多くの日本人は、クリスマスがキリストの降誕祭であることを知らなかったに違いない。
 ある人が子供の頃、クリスマスツリーを飾ろうと、樅の木を求めた。ところが当時、何処にも樅の木は売っていない。近所のおばさんが、それならと言って榊をくれたそうだ。「これも神様の木だから」と。
 常緑樹はキリストの「永遠のいのち」を象徴する。ヨーロッパでは厳しい寒さの中でも葉を落とさない樅の木がクリスマスの木として尊ばれた。とすれば、日本ではいつもつやつやとした緑の葉っぱの、成長も速い「榊」でクリスマスの飾り付けも悪くはないか!

2013年12月15日日曜日

そうしたらフッと楽になり

 電話を頂いた。「このところ毎日辛くて仕方がない。どうしても持ちこたえることが出来ないと思った時、天の父も自分と同じ苦しみを味わっていてくださると思えた。そうしたらフッと楽になり、涙が出てきて仕方がなかった。お陰で、涙を拭ってその日の午後いっぱいを働き通すことができた」。
 この方も、苦しい、辛い現実を抱えて生きている。このような人がどれほど多いかということを思う。
 クリスマス、この人たちのもとにこそイエスは生まれてくださるに違いない。礼拝に集ってほしい。そこでこそ、インマヌエルの主、我々と共におられる神に出会えるのだから。

2013年12月8日日曜日

融和の道を

 南アフリカで同国初の黒人大統領となり、ノーベル平和賞も受賞したネルソン・マンデラ氏が5日夜、ヨハネスブルクの自宅から天に召された。95歳だった。
 44歳から27年間に及ぶ投獄生活。「決して忘れられないが、赦せる」と微笑んで語る彼には三つの支えがあったという。一つは目標。アパルトヘイト(人種隔離)政策を撤廃して白人と黒人が対等に生きるようにすること。もう一つは友人がいたこと。そして、「キリスト教の信仰があったこと」の三つである。
 米国の公民権法成立が1964年。南アのアパルトヘイト撤廃が1994年。主イエスが示された融和の道を人類は歩んでいる。私達もこの道をさらに進もう。

2013年12月1日日曜日

そんな王がやってこられた

 ロバは予想外に小さな動物だ。大人がまたがると足先は地面からいくらもない。子ロバにまたがった主の姿はお世辞にも格好がよいとは言えなかっただろう。
 ロバの子にのって、穏やかに主イエスはエルサレムの都に入城された。人々はほとんど同じ目の高さで主を出迎えただろう。見あげるのでもなく、見おろすのですのでもない。そんな王がやってこられた。
 その一週間後には、主イエスは私たちの罪をその身に引き受けて、十字架につけられることになる。
 12月1日から待降節が始まる。固い決意を持って、すべての人の救いのために、死を覚悟して、エルサレムに入城された王の心を想う時節である。

2013年11月24日日曜日

オットあぶない!

 11月22日は「いい夫婦の日」だそうだ。「生まれ変わったとしたら、今のパートナーを選びますか?」というアンケート調査が行われた。男女全体では「もちろんYes」は34%だが、60代となると、男性は40%を超えるのに、女性は16%と俄然低い。ちなみに、我が妻に聞いてみた。ニッコリ笑って答えない。
 オットあぶない!キリスト教に輪廻の思想はない。日曜日の説教で、「キリスト者は死んでも新しい命に生まれて、天使のようになり、娶ったり嫁いだりしない」と語ったばかりだった。一回限りの人生、この世では夫婦となった者である。互いに慈しみ、天国に希望を託そう。

2013年11月17日日曜日

「驚くばかりの恵み」と振り返る

 数日前、94歳になるKさんは、部屋の中で障子に仰向けに転倒した。大きな物音に家族が駆けつけた。障子の裏側はガラス戸になっている。障子の桟もガラスも微塵に砕けた。しかし、Kさんはまったく無傷であった。神様のおかげと家族の方が語ってくれた。
 夫を戦争で失い、二人の子どもを育てた。玄孫も膝に抱いた。73年の信仰の人生には色々あったことだろう。Kさんは「驚くばかりの恵み」と振り返る。
 喜びも悲しみも全てをくるめて、私の人生は驚くばかりの神の恵に満ちていたと言っておられるのだと受け止めた。Kさん愛唱のアメイジンググレイス、「驚くばかりの恵み」(聖歌版)を一緒に歌った。

2013年11月10日日曜日

この信頼と真っ正直こそ

 最近、一流ホテルや有名百貨店のレストランの偽装メニューのニュースが目白押しである。偽装を公表した各ホテルは揃って“担当者の知識不足”などと、意図的な偽装を否定している。
 けれども、食材についてはホテルの担当者間で入手の問題や、原価率について細かい意思疎通がとれているはずだ、というシェフの内部証言も出ている。
 「お前は真っ正直すぎるんだ。もっとずるくならないと世間を渡っちゃ行けないよ」と、幼いころに親からはっぱをかけられたという人の話を思い出した。
 しかし、主イエスは十字架に架かられた。神へのこの信頼と真っ正直こそが真の救いであることを思う。

2013年11月3日日曜日

私達だって同じだ

 教会の花壇に、気がつけば柔らかな肥料がこんもり盛られていた。いわゆる「お礼肥(おれいごえ)」である。
 これを見て、なんとなくホッとした。この夏の酷暑を思えば、いっぱいに種をつけて、咲き終えた夏の花に「ごくろうさん、ありがとう」と、ねぎらってくださるのは、ありがたい。
 庭の草花を気にかけて世話をしてくれる人がいる。だから、草花は元気でいられる。私達だって同じだ。
 主イエスの十字架に救われ、聖霊の慰めと励ましで私達は生かされ実を結ぶ。天の父の見守りの中で。

2013年10月27日日曜日

アンパンマンにキリストを思った

 絵本『アンパンマン』の作者、やなせたかしさんが亡くなった。アンパンマンは54歳の時、やなせさんが生み出した空飛ぶヒーローだ。スタートとなった絵本では砂漠で飢えて彷徨っている人に、自分の顔を食べさせる。本当の正義は必ず自分が傷つくというのがやなせさんの主張である。当初は自分の顔まで提供するのは残酷だとの感想が相次いだそうだ。
 しかしその後がある。ジャムおじさんによって、再びアンパンマンの顔は修復される。復活しながら活躍するヒーローが誕生した。自分の顔を食べ物として与えるアンパンマンが、おさない子供たちは大好きだ。
 このアンパンマンにキリストを思った。

2013年10月20日日曜日

わが伝道もかくありたい

 夜の集会のために教会の玄関扉を開けた途端、暗闇の中から見知らぬ青年がぬっと現れ、驚いた。
 一昨日注文した車のカタログを届けに来たセールスマンだった。聖書研究会が始まるまで、話を聞いた。
 バックモニターとカーナビ、ETC・・・と注文をいうと、iPadにデータを入れ、すぐ見積もりをだしてくれる。最新のセールススタイルに感心することしきり。
 しかし、夜討ち朝駆けとばかりに、足で稼ぐ基本は同じらしい。おまけに誠実そうで爽やかな笑顔だ。
 わが伝道もかくありたい。キャッチコピーは「ピカイチのキリストの福音——当方、胸を張って売り込みます」。

2013年10月13日日曜日

十字架の神秘に触れて

 湯河原教会の礼拝堂には、正面いっぱいに広がる大きな十字架が、小塔に向かって伸びている。
 先日のこと、礼拝堂に入って来た方が、湯河原教会の礼拝堂はよく手入れが行き届いていて、礼拝の場にふさわしい凛とした雰囲気があるということを言われた。確かに、聖壇の前に立って、白壁に焦げ茶色のシンプルで大きな十字架を見上げると迫力を感じる。
 この十字架を仰ぎ、聖壇の前にひざまずくと、ひとりでに頭が下がる。
 時にはこうして祈るのが良いと思う。ともすれば観念的になりやすい言葉の祈りも、十字架の神秘に触れて平安と安堵の思いに満たされるから。

2013年10月6日日曜日

柱と鴨居とで十字架が

 今日も一人の方を、病床にお尋ねする。高齢で、腰の痛みのため身動きのままならないこの方はすべてを人の手に頼っておられる。動けない、申し訳ない、痛い・・・。ただ、「お迎えが早く来てほしい」と言われる。この方を慰めることのできる人の言葉はいくら探しても見つからない。
 我が身を委ねられずに苦しむ。人にはそういう苦しみがある。部屋を見回してみると、縦の柱と横の鴨居とで十字架ができているではないか!十字架の主がおられる。そう気づけた途端、ふっと息がつけた。
 苦しむ者と共にいて下さる主に感謝して祈り、そして言う、「大丈夫、主は一番よい時をご存じです」。

2013年9月29日日曜日

隣人を想おう

 今日24日、ラジオを聞いていたら、シリアの難民は2百万人、食料不足の人々は3百万人にも及び、今、世界で最も困窮した状態にあると解説されていた。
 イタリアのランペドゥーサ島にも多くの難民が避難して助けを求めているという。8日、フランシスコ教皇がその島を訪れ、難民支援にあたる人々に心からの感謝を表されたという。
 「無関心のグローバル化」が進む今日、その悪魔的な力に抗し、それを突き破る祈りがなされている。
 世界の様々な土地で極限状態におかれている隣人を想おう。人の苦しみに慣れ、無関心にならないように聖霊の助けをいただいて祈ろう。

2013年9月22日日曜日

いわば天国の花である

 台風が過ぎ去った朝、深緑の丘の稜線が青空にくっきりと美しい。急に気候も秋めいてきた。朝夕の室温は20度前後と、異常に暑かったこの夏を思えば、さすがに人心地がつく。
 目を足元に移してみると、曼珠沙華が咲き始めているではないか!もうすぐ彼岸なのを思い出した。
「曼珠沙華」は梵語であり、ヒガンバナの別称である。
仏教でいう天上の花で、見るものの心を柔軟にするという。その意味ではキリスト教にも勝るとも劣らない花がある。野の白百合である。
 白百合は主イエスの復活と永遠の命を想ういわば天国の花である。

2013年9月15日日曜日

ちょっと敬礼して、襟を正す

 9月も中旬に入った。気のせいか青空が高くなり、朝夕には秋の空気も忍び寄る。そういえば、前の空き地の夏草もずいぶん褐色に変わってきている。
 今朝は、教会の窓辺に伸びているゴーヤも十六豆も葉が枯れて蔓が上がり始めているのに気がついた。
 それにしても僅かばかりの鉢植えの土で、よく実ってくれたものだと思う。我が家の食卓をたびたび豊かにしてくれた。今朝、最後の収穫をし、感謝を込めて「ありがとう」という。
 彼らは、誰のためでもなく、被造物として己の命をみごとに謳歌した。その潔さにちょっと敬礼して、襟を正す。

2013年9月8日日曜日

空と海とがつながっていた

 早川駅を過ぎて、根府川方面へと向かうと、車窓には太平洋の広がりが飛び込んでくる。
 9月になっても、真夏と変わらないその日は、どんよりと湿度が高く、晴天ならば大島が浮かぶはずの水平線がまったくかすんでいて、空と海とがつながっていた。
 手前の海の青さが水平線のあたりに向けて次第にうすくなり、そのまま空につながっていく。目を空の高みに転ずるほどに、また青さがましていく。大自然がおりなすグラデーションの眺望だ。
 湯河原と小田原の往復のたびに、時どきにに変わる海を眺めるのが楽しみの一つとなった。

2013年9月1日日曜日

 8月28日の『天声人語』は「キング牧師の歴史的な演説から、今日で50年になる。」と、演説を引用していた。「私には夢がある。いつの日か、あのジョージアの赤い丘の上で、かつての奴隷の息子と、かつての奴隷所有者の息子とが同じテーブルに座れる日の来ることを・・・」
 公民権運動の推進者であったキング牧師のこの有名なフレーズは、イザヤ書65章25節「狼と子羊はともに草をはみ、獅子は牛のように藁を食べ・・・」を彷彿とさせる。彼の見た「夢」は聖書に拠っている。
 聖書の与える「夢」はいつの時代にも苦境に立つ人に希望を与え、進むべき道を示し続けている。

2013年8月25日日曜日

湯河原の海岸から

 行こう、行こうと思っていた湯河原海岸に行ってみた。寄せては返す波に足を洗われながら砂浜を歩く。
 波というのは何回かに一、二度大きいのが来ると子供の頃の記憶をたどっていると、いきなり大きいのが来た。腰のあたりまでびしょ濡れになった。思い出していたところだったのに・・・波の奇襲攻撃にしてやられたと大笑い。
 海岸から海を眺める。真鶴岬から、伊東市のあたりに向かってゆるやかに弧を描くと、ほぼガリラヤ湖の大きさになりそうだ。左手前方にくっきり突き出た真鶴岬と、遠く霞んで見える彼方の岬を見比べながら、ガリラヤ湖の大きさを想像してみた。

2013年8月18日日曜日

平和な時代であったなら

 映画『風立ちぬ』を見た。監督の宮崎駿は「1920年代の日本は不景気と貧困、病気そして大震災とまことに生きるのに辛い時代だった。そして戦争、当時の若者たちはそんな時代をどう生きたのか?」と語る。
 一人の若者の見た飛行機造りの夢が、戦争という重苦しい現実を背負いながらも、どこまでも明るく高く突き抜けて行く。見ていて気持ちが膨らむ。
 当時の日本の航空機技術は欧米よりも20年以上遅れていたという。彼は欧米に追いつき、追い越してとうとう最新鋭の飛行機を設計した。こうして零戦が誕生した。けれども多くの貴い命が失われた。平和な時代であったならと思わずにいられない。

2013年8月11日日曜日

ヨナとトウゴマ

 第二次大戦当初、飛行機の燃料に使うからとヒマの栽培が奨励されたことがあったという。ヒマとは、ひまし油の原料となる植物の蓖麻(ひま)のことだ。今、その加工品はラジコン飛行機の燃料やレース車のエンジンオイル、医薬品などに使われている。
 蓖麻の別名は「トウゴマ」である。旧約の昔、神はトウゴマを生やしてヨナを照り付ける陽射しから守り、また翌日には枯らせた。熱波に苦しみつつ、枯れてしまったトウゴマを惜しむヨナに、神は「右も左もわきまえないとはいえ、人間が滅びるのを惜しまずにはおられない」と告げられた。神の憐れみを明かししたヨナ書の蓖麻の話である。

2013年8月4日日曜日

ミョウガが旬だ

 ミョウガが旬だ。礼拝堂の裏手にあるネコのひたいほどの畑は今がミョウガの収穫期。そうめんや冷奴の薬味、吸い物や味噌汁の具にしてみる。さらに野菜の浅漬けに入れてみたらこれまた最高だった!
 このミョウガ「食べると物忘れがひどくなる」との俗説があり、これ以上の物忘れはと気後れがあった。
 ところが調べてみると栄養学的にそのような成分は含まれていず、なんら科学的根拠はないと分かった。
逆に、香り成分に集中力を増す効果があることが昨今明らかになっているという。
 物忘れの俗説は、釈迦の弟子に由来する。心配無用と分かったら、ミョウガ摘みの楽しさが倍増した。

2013年7月28日日曜日

ものは試しと

 [ 砂抜きをしてください ] という注意書きがついてアサリが売られている。ところが、水と塩の割合も浸しておく時間もわからない。砂抜きに失敗すれば食感は台なしになる。食べたいと思いながら手が出なかったのだが、「砂抜きは50度のお湯に5分浸すだけでよい」ということをインターネットで知った。
  ものは試しと挑戦した。まずはアサリを下洗い。給湯器の温度を50度に設定。温度が下がると雑菌が繁殖するというので50度のお湯を足しながら待つ事5分。
 バター焼きにした。砂もなく身はぷりぷりとして美味しい!「砂抜きは海水に近い塩水でするもの」と思っていた。何にでも思わぬやり方があるものだ。

2013年7月21日日曜日

ゴウヤは語る

 10センチに7センチに5センチとカレンダーに書き込んだ。ゴウヤの茎にできたイボイボの小さな膨らみを、これが実になるのかと眺めたのは1週間前か、それとも2週間前だったろうか。この1週間でぐんぐん大きくなった。計っておこうと定規を当てた。
 教会家族のお宅で、種から育てられた3鉢である。教会の窓の外に張ったネットに触覚のように蔓を伸ばしながら成長してきた。絡み合った蔓を何度かほどいてやった。今年もグリーン・カーテンを目指して成長中のゴウヤ。人は植え、水を注いだ。(一コリ3:6参)
 「でも、成長させてくださったのは神です」とゴウヤは語る。

2013年7月14日日曜日

だから答えは「Yes」

 「生物が絶滅しても夕焼けは赤いか」という詩がある。「色は対象そのものの性質ではなく、むしろ対象とそれを見る者との合作だ」というのだ。だから、見る者がいなくなったら、物は色を失う。世界は本来、無色なのであり、色とは自分の視野に現れる性質に他ならないと詩人は言う。
 夕暮れの空を見上げて、神が天地を創造される前はどうだったのかと考えた。混沌と闇、確かに色は無かったはずだ。光が創られ、青く輝く地球を赤い夕焼けが彩った。天も地も、人間も美しく創造された。
 だから答えは「Yes」。終わりの日にも、主と共にながめる夕焼けは美しいに違いない。

2013年7月7日日曜日

労りあいを感じた

 牧師館の前の坂道を下ったところにゴミの回収場所がある。学校に向かう子、身なりを整えた通勤途中の人、普段着のお母さん、犬を散歩させる人、車で行く人、朝、様々な人がゴミ袋を持って坂を降って行く。
 「ちょっと休めば?」両手にゴミ袋を提げて、すたすた降っていくおばあさんが振り返りながら声をかけた。「だぁいじょうぶ!」という返事があった。見ると、ずっとうしろを、片手にゴミ袋を下げたおじいさんが杖をつきながら降ってくる。
 二人の何気ない会話に年輪を重ねた夫婦の労りあいを感じた。ゴミ出しで始まる一日も悪くない。見知らぬ人たちの今日の一日に主の祝福と平安を祈った。

2013年6月30日日曜日

さえずり比べをしてみたくなった

 牧師館の前の坂道は緑の小山に続く。山の上を電車が通り過ぎた直後に、「ホー、ホケケキョ」と少し高めの細いさえずりが聞こえた。その途端「ホー、ホケキョ」と、今度は力強い艶のある返事があった。
 鶯だ!しばらく手を休めて二羽の鳴き交わす声に聞き入った。ずっと以前に、指笛で鶯と鳴き比べをしたことが思い出された。こちらが「ホー、ホケキョ」と鳴いてみせると、鶯のほうでも「お前さん、まだまだだね」とばかりに、鳴き返してくる。「ケキョ」とか
「ホケケキョ」と鳴くのはまだ修行中の若鳥だろう。
 梅雨の合間、久しぶりに鶯とさえずり比べをしてみたくなった。

2013年6月23日日曜日

海から昇る朝日

 「あさひは のぼりて 世を照らせれり」と讃美歌を口ずさみながら雨戸を開けたら、なんと曇天。まだ梅雨はあけていなかった。 
 湯河原赴任が決まったとき、海から昇る朝日が見られるのではないかという期待が浮かんだ。
 郷里の西伊豆では、太陽は山から昇り水平線のかなたに沈んで行く。子どもの頃、ひんやりと冷めてきた砂浜に腰をおろして、赤と紫を帯びた雲を従えた黄金の光が夕闇にかわっていく様をよく眺めた。
 教会の墓地は湾内を一望する小高い丘にある。そうだ、梅雨が開けたら、まだ暗いうちにあの丘に行こう。海から昇る朝日に会いに行こう。

2013年6月16日日曜日

実生(みしょう)の枇杷

 礼拝後の愛餐会で枇杷をたっぷりご馳走になった。
「今年も初物をいただけた」とS兄。K姉の畑に自生した「実生(みしょう)の枇杷」だ。
 「実生」とは枇杷の種類ではなく、種から一人生えしたものの総称だと初めて知った。しっかりとした酸味とほのかな甘みの初夏の実は自然の恵。
 そう云えばエデンの園にも枇杷の樹があったに違いない。「それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ」と神は言われた。
 先週、街を歩いていたら鈴なりの枇杷の大木に出くわした。これも実生の枇杷だろうかと眺めたら、楽しいひと時とあの味がよみがえってきた。

2013年6月9日日曜日

たっぷりともてなしてみたら

 台所の壁に浮かんだ唐草模様の渦巻きが忙しく動いている。ワッ、蟻!思わず体が痒くなりそうだった。退治しようにもきりがない。ウーン蟻たちを殺さずに撃退する方法はないものか。蟻たちの命を保証して、しかも殺虫剤も使わずに・・・。
 彼らは食べ物が足りないからやって来るのだと気がついて、彼らを追い立てるのではなく、たっぷりともてなしてみてはどうかと思いついた。
 外壁際の蟻の道に格安ビスケットを振る舞ってみた。彼らは相変わらずせっせと働いている。外で!
 箴言に「怠け者よ、蟻のところに行ってみよ。その道を見て、知恵を得よ」とある。納得、納得。

2013年6月2日日曜日

動きのある景色

 動きのある景色はいい。見ていて見飽きない。目をあげて、窓の外を見ることは気分転換になる。
 南に見える山は緑が濃くなって夏の色合いだ。ふと見ると右手の山の中ほどを東海道線の電車が走って行く。左下の道路を車が行き来している。
 近所の人が家の前を通り過ぎた。向こうの家の屋根に一匹の黒猫がいて、あっという間に二階の窓に飛び乗った。それから座って、こちらを見ている、・・・多分。
 動きのある景色、それは私達の暮らし、私たちの社会そのものだ。創造主はこの一つひとつの動きをじっとご覧になっている。