2015年11月29日日曜日

アドベントキャンドル

 紫のテーパーキャンドルが手に入った。アドベントの典礼色は待望と悔い改めを表す「紫」である。そこで欧米ではよく「紫」のロウソクが用いられる。
 アドベントの1週目は希望、2週目は平和、3週目は喜びを表すバラ色のロウソクを用いる事もある。4週目のロウソクは愛を表し、クリスマスには白いキリ ストのロウソクが灯される。エバーグリーンに囲まれながら、今年は典礼色のロウソクが飾れた。
 色々あったが、主の恵みに満たされたこの一年だったと振り返る。さあ、今日からアドベント。我儘を反省し、このロウソクの灯火が我が心にも灯されて、この世の闇を照らし出せるようにと切に祈る。

2015年11月22日日曜日

いたずらっぽく笑われた

 97歳のKさんを久しぶりにお訪ねした。長男ご夫妻のお世話で、穏やかに暮らしておられる。ベットにきちんと腰掛けて、私たちを迎えてくださった。
 讃美歌を歌い、聖書を一緒に読む。「目がしょぼしょぼして・・・」とおっしゃりながらも、讃美歌も聖書箇所も的確に開かれたのにはまったく感心する。
 「あともう二三日かな?って、いつも思うんです。でも朝、目が覚めて・・・」と、さんはニコッと、いたずらっぽく笑われた。お別れに「おどろくばかりの恵みなりき・・・」と彼女の愛唱讃美歌「アメイジング・グレイス」を共に歌い、祈りあった。
 Kさん、本当に驚くばかりの主の恵みですね!

2015年11月15日日曜日

友和への道

 13日夜、またしてもパリで同時多発テロが起きた。フランスは国家非常事態を宣言した。  一方、米国はゴトウさんたちを斬首したISのジョンと名乗る男を空爆によって殺害したと発表したばかりだ。
 しかし、このことでインタビューを受けたゴトウさんのお母さんの言葉には、さすがキリスト者だと頷く。彼女は息子の仇討がかなったとは言わず、ケンジは平和を願って死んでいった。そのことを思うと、米国の行為は決して喜べないと言った。
 自分の生命に代えて、息子を助けてほしいとうったえた母親の望みは、恨みでも憎しみでもない、息子の願ったキリストによって保たれる友和への道だ。

2015年11月8日日曜日

ひそかなブーム

 毎朝の聖書日課による祈りの時間がこの頃家人の都合でときどき昼にずれてしまうことがある。そんな時は、めいめい祈れば良いと思う。しかしその点に関して家人は融通が利かないほど几帳面だ。
 なにか忘れ物をしたようで、なんだか落ち着かないのか、「あなた、聖書日課!」と、自分のせいであっても、まるで私のせいのように急かしてくる。
 そんなおりラジオ体操がひそかなブームと聞いた。「ラジオ体操は、じわじわと体に染み込み、体をもとの健全な状態に戻す。継続することで体全体の血流がよくなり、筋肉に弾力性ができ・・・云々」なるほど、心も体も、鍵は柔軟さと継続ということか!

2015年11月1日日曜日

猫のことのようだが、これは猫のことではない。

 飼い猫のドッティが四日間ほど行方不明になった。
 いつもは私たちの帰宅を待って「おかえり」と迎えてくれるのが、その日には姿を見せなかった。どこかに行っているんだろうくらいに思っていたが、二日目ともなると家人は心配で眠れなくなった。さすがに三日目にはご近所を二人で探して歩いた。
 四日目、突然開いていた窓からドッティが飛び込んできた。家人は猫を抱きしめて泣いた。
 この間「祈っている」という言葉に励まされた。また、心配をしてくださったご近所の方たちにも出会えた。他者の痛みや悲しみに寄り添う人の優しさを知った。猫のことのようだが、これは猫のことではない。

2015年10月25日日曜日

あなた方はさいわいだ

 身体や心に病をもつ人たち、苦しみ悩む人たちがぞくぞくと主イエスのもとに集まってくる。主は彼らに向かって「あなた方はさいわいだ」と宣言される。 
 人は、突然の病気や予想もしなかった困難な状況に陥ると、そうではなくても、これは「自分に何か落ち度があったからだ」と、つい自分を責め始める。
 だが、自分がマイナスだと思い込んでいるものを、主は、さいわいなものへと造り変えてくださる。
 マルチン・ルターは「懺悔」することを教えてくれた。罪を告白し、赦しの宣言を受け、私たちは新しくされる。懺悔によって、初めて私たちは癒される。「癒やし」とは本来そういうものだ。神からの祝福だ。

2015年10月18日日曜日

歌いながら手を繋ぐ

 一週間に一度、彼の好物を持って主にある友人を病院に尋ねる。面会室でしばしのお茶の時を持って、一週間の話をゆっくり聞かせて頂く。
 心を病む彼には、親しい家族はもういない。孤独と将来の不安から「虚しくなりました」というのがこの頃の彼の口癖である。なんとか彼の支えになりたいと願う。聖書の学びと祈りのあとで一緒にテゼの讃美歌を歌う。「恐れるな わずらうな 主は共におられる 満たされる あなたは 神によって・・・」歌いながら手を繋ぐ。主が私たちの輪に入ってくださる。
 彼が救われ、主に委ねて生きてゆけるようにと祈りながら、牧者としての試行錯誤の道はまだまだ続く。

2015年10月11日日曜日

平和だからこそ

 昨年に続くノーベル賞受賞の快挙は何とも嬉しい。
 一つは、足元の土の性質に目を向けたもの。土から発見した細菌から感染症のワクチンを開発し、熱帯地域に住む発展途上国の人々を救った功績による。

 次は土から空に。世界の自然法則を理解したいという、人類の根源的な好奇心はとうとう目に見えない素 粒子ニュートリノに質量があることをつきとめた。
 澄み渡った秋の空を見ながら思う。肉の目では見え ない世界を遊び心で思い巡らすことは、神の創造され た世界を思うことだ。平和だからこそ、土中の微生物や宇宙の成り立ちにも取り組める。
 この世界に主の平和が満ちますように。

2015年10月4日日曜日

自らに問う。捨て切れるか?

 またアメリカで銃の乱射事件が起きた。尊い命が犠牲となった。オバマ大統領は、銃の規制を強く叫ぶ。 「米国は先進国で数カ月おきに、こうした銃乱射事が 起きる世界で唯一の国だ」と。しかし、銃を捨てられない勢力は相変わらず頑固で根強い。
 主イエスは、永遠の命にあずかるには片手片足を切り捨てても、と言われる。随分過激な言葉に聞こえるかもしれないが、両方を守って死に至るくらいなら、確かに片方を切り捨ててもまことの命にあずかりたい。
 物事には大切な順序というものがある。一番大事なことのためには、二番目以下のことを手放すのは当然だということだ。自らに問う。捨て切れるか?

2015年9月27日日曜日

シンプルになる

 敬老の日、幕山公園に叔母を連れだした。毎日の殆どを施設内で暮らしている叔母にとって、屋外の自然の空気は久しぶりのことだろう。緑の木立の中、川の流れの音を聞きながらしばらくベンチでくつろぐ。
 「ああ、風がいい気持ち!」と叔母。「そうですね」とわたし。特に話はしない。記憶に頼る会話はむつかしい。叔母にとって、今という時が平和であればそれで十分。明日のことは煩わない。すでにすべてを主に「お任せ」の人生が始まっている。
 人は歳を取ってシンプルになる。それは幼子の純真さに通じる。さて、歳に関係なく主にお任せの人生は如何?主はあなたを喜んで受け入れてくださる。

2015年9月20日日曜日

「本当の意味」で「救い」、「助けて下さい!」

 主イエス・キリスト様!どうか、私を含めた、私の家族5人を、「本当の意味」で「救い」、本当の意味」で「助けて下さい!」よろしく、お願いします!
 鉛筆書きのこういうハガキをだいぶ前に受け取った。知らない人からの希求の手紙だなあと思いつつ、目の前の事に追われて、つい放って置いた。
 今日、返事を書いた。「『主イエス・キリストは私の救い主です』と告白するとき、あなたの求める『本 当の意味の救い』が始まります。本当の救いは『永遠 の命』を信じることです。ぜひ、お近くのルーテル教 会の礼拝に与って下さい。そこから何かが始まります。あなたとご家族のためにお祈りします」。

2015年9月13日日曜日

このつぎはと興味津々

 目前の工事は、この夏、建物の地盤となる基礎工事をほぼ終えたらしい。掘り返し、埋め戻しの大音響の毎日だった。8月末に、でっかいキャタピラの付いたブルドーザーや首の超なが〜いクレーンが、工事後の地面の表を平らに直して次々と帰っていった。
 束の間の静寂・・・猛暑日に猛暑日が続いた夏の終わりが意外にあっけなく来たのに似ている。気がつけばいつもの彼岸花が牧師館の片隅にスイスイと姿をあらわしている。もう来週は秋分の日だ!
 さて、工事の方はと見ると、新しいクレーンが部品でやって来てここで組み立てられた。前にもまして強力強大だ。つぎの工事は如何にと、興味津々である。

2015年9月6日日曜日

「たった一人」を見逃すまいと祈る

 いまヨーロッパ中を駆け巡っている衝撃の写真がある。ギリシャに向かう移民船がトルコ沖で沈没し、シリア難民の男児の遺体がトルコの海岸に打ち上げられた。靴をはいたまま、膝をまげて砂浜にうつ伏しているその姿はあまりにもあどけなく、可愛らしい。そして、痛々しくて胸がつぶれる悲しい写真だ。
 「たった一人の子どもでも、力になれたら」と思って活動してきた。これはユニセフ親善大使を1984年から務めてきた黒柳徹子さんの直近の言葉だ。
 この「たった一人」にキリストは絶えず目を注ぎ、憐れまれたと聖書は告げる。私も、目の前の手の届くところの「たった一人」を見逃すまいと祈る。


( #KiyiyaVuranInsanlik  というハッシュタグでTwitter を検索すると世界の人々からのツイートに触れられます。)

2015年8月30日日曜日

イエス様が手を広げて待つところ

 「もうすぐ二学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい。‥‥…一日いても誰も何も言わないよ。……」これは某図書館の公式ツイッターに掲載中のツイートだ。
 素直に感動した。そして『としょかんライオン』(ミシェル・ヌドーセン作/ケビン・ホークス絵)という絵本を思い出した。町の図書館に突然やって来た大きなライオンが図書館で過ごす話は、きまりを巡ってすったもんだあるものの、胸がキュンとするほど暖かい。 
 学校や職場、そして家に居場所がないと感じたら、その時こそ教会を思い出してほしい。ここはイエス様が手を広げて待つところ。いつでも連絡をと祈る。

2015年8月23日日曜日

ビタミンを有り難く頂戴する

 教会の横の鉢には30センチはありそうな、なが~い豆の莢(さや)がツルから何本もぶら下がっている。「十六ササゲ」だ。関東では珍しい豆だと思うが、岐阜では大正時代から、その名も「十六豆」と言って栽培してきて、今では伝統野菜の一つとなっている。
 原産国はアフリカで高温、乾燥に強い。カンカン照りの毎日、鉢に土を足して、毎日水をやる。見るたびに、背丈ほど伸びたツルのいたるところ、莢豆が長々と垂れ下がっている。「まだまだ、まだまだ」と言いながら、できるだけ莢が太り、長く伸びるのを待つ。
 茹でてよし、煮てもよし。この夏たっぷりのビタミンを「十六ササゲ」から、有り難く頂戴する。

2015年8月16日日曜日

そこに曖昧さはない。

 戦後70年目の談話を読んだ。日本が戦争に突き進んでいったその背景に、欧米諸国を始めとする植民地政策と世界恐慌後の経済のブロック化によって日本が孤立感を深めたという理由が述べられていた。
 日本の戦争責任の他に、世界のとりわけ欧米の責任を匂わせる。その文章を読んで思った。アジアの国々にお詫びをするには、いささか「悔い改め」が甘すぎるのではないか?
 周囲の状況、相手の正誤に関わらず、自らの有り様について「悔い改める」ことを聖書はまず説く。そこに曖昧さはない。戦争への道から踵を返して、180度反対方向を目指せ。そこに平和の主もおられる。

2015年8月9日日曜日

おいしくなれ〜、おいしくなれ〜

 記録的な酷暑と絶え間なく続く工事の騒音の中で家人はこのところ台所でジャム作りに余念がない。
 牧師館の庭にある「イヌビワ」の木に親指大の実が なった。◯先生がジャムになるよと教えてくださったとかで、まずは収穫。
 「イヌビワ」をインターネットで調べたところ、イチジクの一種で、食べられるのは雌木の実で、残念ながらここのは雄木だとわかった。
 雄木にもメゲズ、この暑さにもメゲズ、我が家の初収穫だからとグツグツ煮ている。「おいしくなれ〜、おいしくなれ〜」と言いながら。
 試食してみる。私の口には、うまい!というほどではないが、家人にはこよなく貴重なジャムらしい。

2015年8月2日日曜日

右脳から平和

 左脳と言うのは、「自分」という「個」を認識させ る知性の働きだ。それは過去から未来を生きる私であり、言葉で考える私である。この左脳を使って、私達は現実世界と向き合うことができる。  仮に、脳梗塞などによって左脳の働きが失われ、右脳だけが働くとしたら、一体どうなるだろうか?右脳はわずらわない。今感じている感覚がすべて。「私」はこの世界に存在する全ての人々と一体となり、広大な宇 宙の一切の中に溶け込んでいくという。それは筆舌に尽くしがたい至福感だそうだ。
 さて、時には左脳の「私」へのこだわりを捨てて、右脳の至福に浸ってみたい。きっとそこは神の国だ。

2015年7月26日日曜日

なんだか家族の会話みたいで

 精神科の入院病棟の面会室で毎週一回、信仰入門講座を始めてから2ヶ月ほどになる。最初面会申込書に、本人との関係をなんと書いたものかと迷った。いわゆる家族親戚ではない。友人、知人というのも今一しっくり来ない。その他の欄にやはり「牧師」と書いた。
 おやつとお茶で和んできたところで学びをする。途中、いろいろ話も飛んで脱線もするが、それも楽しい。最後は祈り合って終わる。
 今日は別れるとき、初めて「気をつけて」と私達に言葉をかけてくれた。妙に嬉しい。「ありがとうございました」はどうしても上下の言葉になる。
 なんだか家族の会話みたいで嬉しかった。

2015年7月19日日曜日

夏が来る、来る。

 降り続く長雨にもそろそろうんざりし始めた頃、いきなり真夏のような暑さがやってきた。てっきり梅雨が明けて夏が来たかと思えば、今度は台風の到来で、激しい雨。
 「天気よ、お前には丁度良いということはないのだね」そう、独りごちてみるものの、相手が天気ではどうしようもない。しかし、晴れたり、降ったりを繰り返しながら、そろそろこの梅雨とも来年までの別れとなる。
 まもなく水平線から入道雲が湧き上がり、夏がくる。先週はクロアゲハやトンボが飛んでいた。今日はセミも鳴いていた。来週の月曜日は海の日だ。ああ、もうすぐ夏が来る!夏が来る、来る、夏が来る。

2015年7月12日日曜日

妙なことだが

 牧師館の二階からは向かいの建設現場の様子がよく見える。朝8時、いつものようにラジオ体操で始まる。それから、今日の予定の確認でもしているのか、みんな一段高いところに立つ人の話を聞いている・・・どうやら終わったらしい。
 すると全員が向かい合って、やおら片手を前に出して、「オゥ!」と叫んで振り下ろした。円陣こそ組まないが、なんだかスポーツの試合前のようだと思った。まもなく、ブルドーザーの大音響が聞こえ始めた。
 ラジオ体操、円陣、おまけに工事現場の入り口に作られた小さな花壇を思い浮かべる。妙なことだが、この大騒音を我慢しようという気になる。

2015年7月5日日曜日

海の向こうから祈りがとどいた

 一通のエアメールが届いた。はて?と思いながら封筒の表を見る。米国、ノースキャロライナ州のランバートンにある聖マルコ・ルーテル教会から。宛先は湯河原教会の皆様である。
 それは、引っ越したばかりの二女が通い始めた教会で、先だって家人が訪れた時、日本福音ルーテル湯河原教会は同じ流れをくむルーテル教会だと自己紹介したという。
 封を開ける。教会の便箋に教会員それぞれがサインをした手紙が入っていた。「聖霊降臨後第4主日に、湯河原教会を覚えて祈りました。・・・湯河原教会を今年度の私たちの教会の祈りのリストに入れました・・・」
 すごい!海の向こうから祈りがとどいた。

2015年6月28日日曜日

アオダイショウ

 梅雨のこの時期、雨が止んでいてもいたるところ湿気だらけである。気がつけば風呂場にも台所にもナメクジが這っている。どこからやってくるのか、さっぱり謎である。
 だがまてよ、考えてみると牧師館の庭は雑草と雑木で覆われていて、この時期は水浸しである。思い立って下草を取り、雑木の剪定をする。
 見ると、1メートルもあろうかと思えるアオダイショウが木の枝を下りて道を横断して行った。隣の工事のせいで、アオダイショウは我が家に避難して来たのかもしれない。せっかく牧師館の庭にいたのに、まことに申し訳ない。だが、確かに風通しは良くなった。

2015年6月21日日曜日

洗礼の水をたたえる“釜”

 湯河原教会を創設した米国人ジョン・ボーマン牧師は、土地の人々から「青い目の良寛さん」と親しまれた。終戦後の復興期のことである。
 ボーマン夫妻は、近所の海岸で多くの家族が海水浴を楽しむのを見て、東京で出会った貧しい家庭の子供たちを招いて思う存分楽しませてあげたいと考えた。
 夫妻は生活を切り詰めて費用をため、まず母子寮の子供たち30人を三泊四日の教会キャンプに招待した。その時の子供らの喜びが当時の記事に綴られている。
 2年前、この催しに使われた大きな釜が教会堂の屋根裏で見つかった。湯河原教会宣教60周年の今年、この釜は洗礼の水をたたえる器として蘇ろうとしている。

2015年6月14日日曜日

「美味しくたべてもらいたいんです」

 さて、お目当てのきび餅を買いに某和菓子屋を探しに出かけた。小さいが簡素で古い構えの店に、老婆と年配の女性が接客をしていた。
 やっと探し当ててきたというと、「そうですか、そうですか」と大歓迎された。すすめられるままにきび餅を試食する。
 「うまい!」。きな粉の味も、モチモチ感も満点である。実は今まで、きび餅という庶民的な和菓子が、こうまで美味しいものだとは知らなかった。
 ああ、これが本物の湯河原名物のきび餅だと納得。これまで何軒かの和菓子屋で買ってみたが、このきび餅の味には出会えなかった。創業当時から作り方を変えていないというこだわりも大いに気に入った。

2015年6月7日日曜日

まるでイエス様みたいね

 教会の掲示板を掃除した。ガラスを外し、濡れ雑巾で拭き、歯ブラシでこすり、隅っこは爪楊枝で汚れをかき出す。しかし石鹸、洗剤、ベンジンを持ってしても外枠の煮汁のような汚れはどうにも落とせない。
 家人が台所から小さな白いスポンジを持ってきた。果たして・・・?きれいに落ちるではないか!しかし、当のタワシは私の手の中でぽろぽろと垢となって、とうとう無くなってしまった。洗剤は要らない。水だけで、ひたすら身を削って汚れを落とす『メラニン研磨タワシ』の力を知った。
 「まるでイエス様みたいね」と、家人の一言が痛かったが、掲示板はすっかり新しく生まれ変わった。

2015年5月31日日曜日

教会の花は救いたい

 先週あんなにきれいに咲いていたスイトーピーが、気がつけば無残に枯れかかっているではないか!きっとこの2日ばかり、水やりを怠ってしまったためだと、早速バケツに水を持って急ぐ。
 しかし、よく見ると、それは無数のアブラムシにたかられている事によるものだと分かった。上の方の柔らかな茎という茎は、まるで緑色のゴマをまぶしたようになっていた。
 反射的に手が伸びる。「この、アブラムシめ!目に物見せようぞ!」とばかり、アブラムシのついた枝を次々しごいた。こんなことで、アブラムシに勝利するとは思えないが、それでも教会の花は救いたい。

2015年5月24日日曜日

ナイスなスペース

 湯河原教会の前庭に新しいスペースが誕生した。丁寧な仕事ぶりが伺える。施工してくださったY建業さんに感謝である。
 お礼を言うと、「教会って言うのは、みんな奉仕で成り立っているんでしょ?だから、うちもそういう気持ちでやらせてもらっています」と言われる。これはすごい!教会の本質をよく心得ておられる。
 それにしてもこの空間が出来て、印象がずいぶん変わった。ちょっとした事なのに、広々としてなかなかいい。
 ここにベンチが据えられる。横にはプランターが並び、花が植えられる。このスペースからも「どなたもおいでください」とのメッセージを是非届けたい。

2015年5月17日日曜日

天に上げられた主

 人間は肉体としての「見る」という機能を科学の力で発展させてきた。レンズやレントゲンなどは人間が見る力を追求してきた結果である。
 だが、主イエスの昇天の姿は科学を駆使しても見ることはできない。ひとえに心の目、信仰の目が開かれる事による。
 礼拝で、司式者は手を上げて祝福する。それは主イエスが、手を上げて弟子たちを祝福しながら天に上げられたからである。
 この主キリストの普遍的な姿を心の目を開かれた弟子たちは見ることができた。
 心の目を開いていただくと、今まで見ていても気づかずにいたものが、そうだったのかとわかってくる。
 今日は主の昇天主日である。

2015年5月10日日曜日

ああ、この広さよ!人の寛大さよ!

 家族全員で集まろうと9年ぶりにテネシー州の地方空港に降り立った。ガラス張りの広々とした空港ロビーは到着ロビーから2階までゆるやかな長いスロープに作ってある。 中央には緑と岩に囲まれたアパラチアンの渓谷にみたてた噴水が音を立てて流れていた。
 昼食にファーストフードの店に入った。「アップル・クランベリー・チキンサラダにしよう」とカウン ターに並びながら相談していると、前に並んでいた見ず知らずの女性が、「良かったら使って」と、自分のクーポンを切り取ってくれた。2ドルの割引だ。
 「ああ、この広さよ!人の寛大さよ!」と山盛りのサラダを食べながら思う。

2015年5月3日日曜日

優しさのハーモニー

 「森のイスキア」を主催している佐藤初女さんは訪れてくる心を病む人たちに手塩で握ったおにぎりと、野菜を使った手料理でもてなす。一緒に食べながらその人の話をひたすら聞く。ただ、それだけでみんな癒やされて帰っていくのだそうだ。初めてから19年、今年で93歳だというから、ますます驚きである。
 彼女は野菜の皮も包丁でむく。決して皮むき器は使わない。皮むき器で剥かれる野菜はヒリヒリと痛そうだという。同様におにぎりも手塩で握る。お米が窒息するからと言ってラップは使わない。
 素朴なおにぎりは相手の気持ちをそっと受け入れる。優しい気持ちで作った料理は味も優しいのだろう。

2015年4月26日日曜日

日差しにつられて

 ウグイスの声がした。「ホケッ」とか、「ケキョ」とかの「まだまだだなぁ」というのではなく、「ホ~ホケキョッ」というフルスケールの美声である。     
 昨日、「今年はウグイスが鳴かないね」と話した矢先の事だった。久々の天気につられて、ようやくウグイスも歌いはじめた。姿は見えないが、近くの木立にいるにちがいない。花匂う春にほれぼれする歌声である。家人が家猫に言い聞かせている声が聞こえてきた。「いい子だからね、絶対に鳥を捕って来ないでね。それからトカゲもバッタもね」ウグイスの鳴き声に聞き耳を立てているのは人間ばかりではないようだ。家猫の耳もしきりに動く

2015年4月19日日曜日

わくわくで行こう

 「わくわく聖書の会」に、「今日はお天気が良いので来ました」と◯さんがしばらくぶりに来られた。「天気が良いのは、本当に気持ちが浮き浮きしますよね」と□さんが同意する。「お天気が良いとね、私も機嫌がよくなるのよ」と△さんも口をはさむ。
 お天気にかこつけて、同調しあうというのはいい。その場の雰囲気がやわらいで、久しぶりにやって来た◯さんの緊張がほぐれてくる。
 コーヒーが出されて、更に気分がなごんできたところで、「わくわく聖書の会」を始める。ともすればシリアスになりがちな聖書の学びだが、あくまでもわくわくで行こう。

2015年4月12日日曜日

クレソン摘んで

 某先生が一時間で楽しめるよといって、クレソンを摘みに連れだしてくださった。車でいくこと10分ほど。幕山公園の中の渓流に目当てのクレソンが自生していた。まるで自分の庭を案内するように公園のアチラコチラを案内してくださった。青く澄んだ空に、シャクナゲが満開だった。
 湯河原に来て3年目になったというのに、生来の遊び下手に加えての要領の悪さで、なかなか手近な楽しみにも手がつけられない。
 摘んでいると、野生のクレソンの香りがしてくる。ものの数分でたちまち小袋いっぱいに摘んだ。先生のご好意に感謝しながら、久しぶりに春を楽しんだ。

2015年4月5日日曜日

泥だらけの足

 主イエスは最後の晩餐で、弟子たちの泥だらけの足を一人ひとり洗われた。主は「あなた方も洗い合いなさい」と教えられる。
 しかし、現実には泥だらけの足を洗うのは、どれだけ大変なことか!相手の一番醜ところ、嫌なところを大切にすることはどれだけ堪忍が要ることか!できれば、触れたくない。相手になんとか変えて欲しいと思っている、それが私たちの現実だ。しかし、主は泥だらけの私たちの足を一人ひとり洗って下さる。
 聖木曜日、我が足を洗い拭ってくださった主に倣い、私も来られた方の足を洗わせていただいた。洗足は洗われる方も、洗う方も共に恵みだと知った。 

2015年3月29日日曜日

ロングドライブ

 金曜日、いつものように小田原教会に出かけた。真鶴を過ぎると、だんだん車間が詰まりとうとう渋滞。
 どんどん山の方に迂回する車を横目で見ながら、どうしようか?と迷う。しかし知らない道は今一不安と、もたもたしている内に出るチャンスを失う。結局小田原教会に着いたのは朝10時半を回っていた。
 さて帰り、落石の処理は完了せず。小田原市内からすでに渋滞。朝の優柔不断が悔しいので近道を探すが、無意味な努力だと知る。辛抱強く車の列に絆がれる。 
 裏道から割り込んでくる車を、迷いながらも入れてあげた。「俺って、いいやつだなぁ」とちょっぴり思ったりしながらロングドライブの一日を終えた。

2015年3月22日日曜日

霊の目で見たい

 カトリックの十字架はキリストのご像があり、プロテスタントのそれはシンプルである。
 先日ラジオを聞いていたら、テレビとラジオのどちらの方がより脳が活性化するか?と言うことを言っている。日頃ラジオを聞いているので、ちょっと興味を持って聞いた。答えはラジオの方だという。ラジオは映像を補う分だけ余計に前頭葉を使うという。これはいい。
 であるなら、キリストのご像のない十字架に、私たちのために苦しまれるキリストの御姿を、霊の目で見たい。そこにキリストが架かっておられる十字架はどんな苦しみも喜びに変わるというシンボルだからだ。キリストの御姿を十字架に仰ぎ見つ受難週に向かう。

2015年3月15日日曜日

蜜柑もいろいろ

 ◯さんが手に持っていたバックから蜜柑を一つ手品のように取り出してくれた。形と大きさはオレンジ、皮は甘夏そっくりで、色は伊予柑のようだ。さっそく食べてみた。味はあっさりした温州蜜柑のようだが、はて、初めて食べたこの蜜柑はいったい何だろう?
 そういえばN君のTシャツには見たこともないたくさんの柑橘類の絵がプリントしてあったなぁ。スウィティー、セトカ、セミノール、ハルミ、日向夏、黄金柑・・・品種改良がすすんで今や蜜柑にはこんなに種類があるのかと驚いた。
 名前も知らない蜜柑を食べるなどという楽しみはここ湯河原ならではだ。これもまた神の恵みと思う。

2015年3月8日日曜日

なんとなくゾクゾクしてくる

 教会の隣の広い空き地に大きな天幕がはられた。その翌日、ちょうどこちらは「聖書の学び」の最中だったが、鍬入れ式が行われたようだ。次の日、いつの間にか巨大天幕はすみやかに取り去られた。
 いよいよ某宗教団体の建築が始まり、竣工は来春3月だと聞くと、なんとなくゾクゾクしてくる。「いよいよ隣に建ちますね」と言うと、「いいじゃぁないですか!立派な鉄筋の建物の隣に、教会はやはりこれですよ。」と、◯さんが励ましてくれるのが有り難い。
 そうだ、教会は単に建物ではない。キリストの十字架によって誰もが救われるところなのだ。小さき群れの「世の光・地の塩」としての挑戦は続くと納得する。

2015年3月1日日曜日

魂の器

 四旬節(レント灰の水曜日からイースターの前日まで)に入った。この期間は主の十字架を思って「回心する」期間である。それは、「塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3:19)という事実を覚えるときだ。
 けれども、私達は生涯の終わりには単なる塵に返っていくのではない。イエス・キリストは十字架の愛によって、この貧しい塵の器を神の子としてくださり、私達の「魂」を永遠の命へと招き入れてくださる。
だから、私達は主キリストにあって単なる塵の器ではない。「魂」という美しくも貴い宝を内に持つ器である。
 この福音を噛みしめながら、四旬節を過ごすときに、復活祭(イースター)の喜びはひと塩となる。

2015年2月22日日曜日

弱さを誇ろう

 豊かな日差しに梅の花はいつしか満開。季節は希望の春を告げている。けれども、このところのイスラム 国のニュースには心が塞がれる。  この世はみな、強さを求め、強さを誇り、報復に報復を叫んでいる。しかし、キリスト教は違う。「…わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」と主イエ スは言われる。パウロはそのみ言葉を信じて疑わず、 「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」と告白する。
 ご自分の命に代えてわたし達を救ってくださったキリストに自分を明け渡すとき、人間は自分の弱さを誇る事ができる。弱さの中に慈しみの主はおられる。

2015年2月15日日曜日

あわれみの主に感謝!

 朝から雪が舞う中、肋骨を骨折して入院している叔母を西伊豆に見舞いに行った。12月の末以来である。
 幸い、今月末には退院と決まったが、医者は叔母が一人暮らしをするのはもう難しいと言う。
 伊豆で叔母の暮らせる施設を手を尽くして探してみたのだが、唯一の入所可能な施設は、一人部屋ではな く、建物も古いという。思案の末に「叔母さん、とにかく家に来てください」と伝えた。叔母は「すべては神のみ心のままにですから」と微笑んでくれた。
 翌日、町役場の福祉課に相談に行ったところから急展開した。叔母は牧師館の近くにある老人ホームに入れそうである。あわれみの主に感謝!

2015年2月8日日曜日

のんびりいこうよ

 朝8時ころ、玄関のドアがノックされた。戸を開ければ宅配の方である。いったいこんな時間に何が配送されてきたのかと荷物を開けてみれば、前の夜10時過ぎにインターネットで注文した本だった。
 驚きだ!こんなに即行で本が手に入るとは。このスピードとサービスぶりに今という時代を感じたが、これを素直に喜んでいいのかと考えてしまった。
 注文から12時間もたたずに配送されてくるというのは、この為に夜中に働いている人があるということだ。病院や福祉施設の夜勤の方の働きには頭がさがる。しかし、それは何もかもでなくてもいいのではないか。当たり前の働き方で、普通のサービスというのでいい。

2015年2月1日日曜日

信仰は他者への愛

 「宗教がこわくなったのでキリスト教をやめます」という電話をある方から頂いた。すぐに思い当たったのは、イスラム国の人質事件である。国内でも宗教の布教活動に行って殺害されたという事件が報じられたばかりだ。
 あまたの宗教と呼ばれるものを一括りにしてしまうのはどうかと思う。宗教と信仰は違う。ましてイスラム国は自分だけが正しいとして、それ以外のものを徹底的に否定、排除する原理主義の一つである。
 私たちが信じるのは。わが身を捨てて他人の命を救ってくださったそのお方だ。友の救出に自身の命をかけたゴトウさんの解放を祈らずにおられない。

2015年1月25日日曜日

信仰の神秘

 大寒のいま、日本中が寒さに覆われている。しかし湯河原はさすがに暖かいと見えて、教会の小さな庭には菜の花が満開である。長くなってきた日差しは天父の恵みだと言わんばかりに、さんさんと輝いている。
 この時期、草花が蕾をつけ花を咲かせるのは気温というよりむしろ日照時間に関係があると聞いた。だから雪の中で芽吹く猫柳もあるし、蕾がほころぶ寒梅があるのだと納得する。
 一年で一番寒い時期に、日差しがだんだん長くなる、地球が公転すればこその不思議。自然はうまく出来ている。この平等な恵みを天父からの贈り物と感じられる不思議、それは信仰の神秘ではなかろうか。

2015年1月18日日曜日

会心の作

 今日のニュースのどれを見ても、元気の出るものがない。それどころか、またしても・・・、というような記事ばかりである。
 しかし、中に「元気だせ」とばかりに、ぱぁっと明るいものがあった。「現代学生百人一首」の記事だ。毎年この時期、朝日新聞の『天声人語』で紹介されるのを楽しみに読む。
 これぞクリスチャンの心意気にピッタリだと、私が気に入ったのは中2女子のこの歌だ。「書き初(ぞ) めの会心の作きめたのは諦めかけたラスト一枚」。
 そうだ、チャレンジを続けよだ。「門をたたけ、さらば開かれん。(マタイ7:7)」!主にあって、扉はかならず開かれる。忘れまい。

2015年1月11日日曜日

洗礼

 年明けに、小田原教会の信徒の方から湯河原教会へ一枚のハガキが届いた。「湯河原教会の皆様より心暖かい祝福を頂きました・・・」と、感謝の言葉である。
 昨年のクリスマスに受洗した小田原教会の姉妹に、湯河原教会は兄弟教会として、お祝いの言葉をその時ファックスで送った。洗礼式後の愛餐会でファックスを受け取って、彼女は驚き、感激で涙ぐんだ。
 洗礼が個人の喜びだけでなく隣り町の兄弟教会の喜びだと伝えることは、実にいい兄弟姉妹の働きではないか!それは天にあるもっと大きな喜びをも示している。
 主の洗礼日に、キリスト教会は洗礼を根拠にして立っていることを思い起こす。

2015年1月4日日曜日

ワクワク大作戦

 2015年がスタートした。新年恒例の箱根駅伝をラジオで聞いた。キリスト教主義の青山学院大学が初優勝した。箱根の山登りで新記録、往路も、復路も圧倒的な強さだった。選手本人たちもこんなに走れるとは思わなかったと驚いている。  入学当初、調子が上がらなかった1年の選手は「今、ダメでも走れるようになる」という監督の言葉を信じ、練習を続けてきたそうだ。「選手が本気で取り組めば課題が見つかる。それを乗り越えようと戦えば、強くなれる」。きっと前に進めると言うメッセージだ。
 緊張せず、楽な気持ちで、楽しく走るという「ワクワク大作戦」がみごとに実を結んだ。

2014年12月28日日曜日

神の愛の「しるし」

 アドベントから始まる怒涛の一ヶ月が終わった。今月お訪ね出来なかった方々を問安する。寂しさをお察しする。それに礼拝の恵みや教会家族の交わりに与れない方たちだ。魂が窒息寸前の方もおられた。
 静かにお話を伺う。感謝をして一緒に祈る。神の像にかたどって造られて、神の息を吹き込まれた私たち人間は、神から愛されているという目に見える「しるし」がなくては生きてはゆけない。
 同じように、忙しさでやり過ごしたものに、庭の水仙もある。しかし、こちらはいつの間にか白い花弁の真中に黄色い冠をつけて、すまし顔で咲いている。もう春の香りさえただよう。

2014年12月21日日曜日

クリスマスがいっぱい

 海の向こうからクリスマスのプレゼントが届いた。家人が箱を開けてニコニコしている。「これで、クリスマスケーキが焼ける」と言って、いそいそと台所に立っていく。子供から届いた荷物の中身は牧師の妻となった母への応援物資であった。
 今週、クリスマスカードが次々に送られてくる。教会の兄弟姉妹や友人たち、子供たちからのカードに囲まれて、クリスマスの喜びはだんだん深まってゆく。
 恵みの分かち合いをしたいと、焼いたケーキをまずはご近所の一人暮らしの方へ届ける。甘い菓子は人を 幸せにすると聞いた。玄関先で祈らせてもらい、ささやかなクリスマスの喜びと恵みをお届けする。

2014年12月14日日曜日

もう目を回してなんかいられない

 アドベント・クランツにロウソクの火が三本灯る。 あと一週間でクリスマスだ。この時期は教会も牧師も 一番忙しい時である。いや、牧師の目はすでにもう一 ヶ月前からぐるぐる回っている。
 クリスマスまでにやらなければならない準備を一つ一つチェックしてみる。終わったことを数えてホッ として、また次の準備にとりかかる。
 一昨日、クリス マスの案内状に「ご一緒にクリスマスの恵に与ること ができれば、こんなに嬉しい事はありません。ぜひクリスマスは教会に足をお運びください。」と書く。
 さて今日からの一週間、牧師は正念場を迎える。もう目を回してなんかいられない。

2014年12月7日日曜日

ひだまりで

 小田原にいく途中、西湘バイパスの入口付近に、おばあさんが二人話し込んでいるのをよく見かけた。
 北側がカーブした土手になっていて、陽だまりにな るその場所は暖かいのだろう。一人は買い物用の手お し車に腰掛けて。もう一人は杖をついて。
 話しているその様子がいかにも楽しげに見える。な にを話しているんだろう?しかし、お互いに家に呼ぶのは家族に気兼ねなのだろうかと思ったりもする。
 このところすっかり寒くなった。今日も運転しなが らおばあさんたちの姿を探すがいない。今ごろどちらかの家でこたつに入って、談笑しておられるといいなぁと、祈りながらそこを通り過ぎた。

2014年11月30日日曜日

今日からアドベント

 「ハイテンションのアップテンポ」と家人が呆れていたが、これがこのところ三つの葬儀が続いた私の二週間ばかりの状態である。やっと日常にもどってみれば、11月の最期の日はもうアドベントだ。
 大慌てでアドベントの準備にかかった。昨年はアドベント・クランツを飾る緑の枝がほしいと言われて、ご近所に柊の枝を貰いに行った。牧師館の猫の額ほどの庭に、枝ぶりの悪い大きな木があると思っていたが、それが樅の木だとは全然気づかなかったからだ。
 この樅の木、クリスマスツリーになる夢からは程遠いが、丈夫な緑の枝葉はクランツのろうそくを引き立てて案外いいではないか!さあ、今日からアドベント。

2014年11月23日日曜日

甘いのも酸っぱいのも

 蜜柑がだいだいに色づいて、深緑の葉によく似合う。まあるい実が晩秋の日差しの中で、ぬくぬく暖かそうなのを眺めながら、実を結ぶ木というのは実にいいと思う。が、甘味と酸味は陽射しによって違うらしい。
 「わたしは葡萄の木、あなたがたはその枝である。」と、イエス様はパレスチナでは身近な葡萄の木を喩えに用いられた。もしも、これが湯河原であったなら、蜜柑の木を喩えに使われたのかもしれない。
 この一週間に三人の兄弟姉妹が天に召された。その歩みを振り返りつつ、主イエスという木に繋がった枝の結んだ実を思った。イエス様はその実すべてを慈しんで下さるにちがいない。甘いのも酸っぱいのも。

2014年11月16日日曜日

Sちゃんに目をみはる

 Sちゃんが初めてお母さんに抱っこされてやって来たのは、今年の春だった。生後6ヶ月になったばかりの落ち着いた円満な赤ちゃんだった。
 そして11月、お誕生を迎えたSちゃんは積み木で遊ぶようになった。麦茶を飲み、ウエハースを食べ、帰る時には小さな手でバイバイをしてくれた。すっかり成長した。今を充分に生活して、心と体が満たされて、初めて次の年齢へと移行できる。この幼児期特有の成長の道筋を「連続的発達」というのだそうだ。
 ところで、幼児に限らず大人もまた心身の必要を満たされる事によって成長できるのではないか。隣人の必要も満たしながら「連続的発達」というのはいい。

2014年11月9日日曜日

ローレンの選択

 末期癌で余命半年と宣告された28歳の米国人女性が、安楽死を認める州で、夫に見守られ安らかに息を引き取ったとのニュースに、その是非はともかく、自死した友人のことを思い出し心が塞いだ。
 ところがその翌日、脳腫瘍で余命半年と診断された19歳の米国の女子学生ローレン・ヒルのことが報道された。夢だった大学のバスケットボールの試合に出場したという。
 シュートを決めた瞬間の彼女の笑顔は雲ひとつない秋晴れの空のようだ。自分のためにやっているのではない。私に生きる力を与えてくれる皆のためにやっているという彼女の言葉に深く頷く。支えあって最後まで生き抜こうとする彼女に心からエールを送る。



2014年11月2日日曜日

クリックしてみたら

 もっぱら仕事で向かうインターネットだが、昨日(30日)からグーグルのポータルサイトが楽しい。
 カラスが鳴くとカカシの頭からお化けが出てくる画面を見て、ハローウィーンだと思い出した。
 しばらくして、再びサイトを開くと新しいのにかわっていた。月が出るとグーグルの文字の二番目のoが狼男に変身する。残りの4文字G,g,l,eはびっくり仰天!その仕草がひょうきんで思わず吹き出した。
 夜中にもう一度サイトを見てみる。また新しいのに変わっている。魔女が洞窟で大ガメを前に何やら不思議な薬を作っていた。束の間のハローウィーンを楽しみながら牧師の10月がこうして暮れてゆく。

2014年10月26日日曜日

風に吹かれて

 巡礼街道沿いにあるけやき並木の紅葉はまだまだなのに、教会の前の歩道にはいつしか落ち葉の吹き溜まりができるようになった。
 落ち葉をはいていると、どこかのおばあさんが向こうからニコニコしながら歩いてきた。「ご苦労さんですね。掃いても、掃いてもまた風さんがあとから落ち葉を運んでくるからねぇ〜」とねぎらってくれる。
 確かに昨日は風雨が強かった。落ち葉だけでない、外壁に貼ってあった特別礼拝案内もすっかり吹き飛ばされていた。そよ風から、台風の風まで、目に見えない風の存在を私たちはこうして知る。見えない聖霊に導かれて、今日また礼拝案内を貼り直す。

2014年10月19日日曜日

なんだか楽しいな

 このところ気持ちのよい秋晴れの日が続く。湯河原から小田原への車の運転は気分を一新させてくれる。
遠く広く、水平線までの眺めが、時折目に飛び込んできて、それは豊かで平和な一瞬だ。
 曲がりくねった海岸線の国道を運転しているのに、助手席の人はときどき対向車を指さしながら、「あっ、ベンツ!」とか、「アウディ!」とか賑やかだ。だが、ハンドルを握っている身としては、じっと見る訳にはいかない。ところが週末ともなると、すれ違って通り過ぎる車に思わず目が行ってしまうことがある。
 おお、フェラーリだ!ポルシェも!しばらくして、ランボルギーニも通り過ぎる。なんだか楽しいな。

2014年10月12日日曜日

自由の賜物

 我が家の居間にはLED照明がある。この照明が今回ノーベル物理学賞を受賞した青色の発光ダイオードの発明による派生品の一つだったとは知らなかった!
 昨年の暮に買い替えたばかりのLED照明を改めて眺めた。こんな身近に世紀の発明品があったとなると、ノーベル賞が身近に感じられるから面白い。
 最年長の博士がインタビューに答えていた。「40年間も研究し続けられたのは、自由にやらせてもらったからだ」と。これを聞いて「なるほど」と思った。
 発明も発見も自由な精神の賜物だ。創世記は神が人間に命の息と自由を与えたことを伝えている。自由の賜物、ノーベル賞の受賞に気持ちがふくらむ。

2014年10月5日日曜日

これはいい

 ドーナツ座布団を買った。ドーナツ座布団と聞けば、だれでも想像がつく「トホホ」の病のためのものである。いよいよ私もご厄介になることにした。
 しかし、これがなかなかの優れものであると知った。固さといい、バランスといい長く座っていても尻が痛くなるということはない。おまけに、この座布団の厚みで、机でパソコン作業をするのに丁度いい高さになった。おかげで、左手のしびれも楽になった。
 イイコトづく目のドーナツ座布団、さて、座って仕事に取り掛かろうすると、何やらとぐろを巻いているものがいる。我が家の猫が私のドーナツにスッポリとおさまって、実に具合良さそうに寝入っていた

2014年9月28日日曜日

せめて、これくらいはしたい

 この月曜日に一ヶ月ぶりに都内に出かけたが、小田急線の車窓からの眺めがすっかり秋になっていた。
 私には89歳の叔母の他に、もう一人97歳の伯母がいる。今は伊豆にあるホームで暮らしている。米国で30年余年を過ごした伯母は生涯独身だった。
 その伯母に、毎月一回アメリカから送られてくる年金の手続きのために都心に出かけてゆく。忙しいのと距離があるため、伯母を訪ねることはめったにない。
 心のうちで不孝を詫びながら、せめて、これくらいはしたいと、今日も月に四度の休みの一回を伯母のために使う。
 暑さは過ぎた。初秋はきっと伯母にも優しかろう。

2014年9月21日日曜日

ここを見て下さい

 木曜日の朝、『聖書に親しむ会』の看板を出した。しばらくして高齢の夫婦が教会の前を通って行く。看板を見ながらの話し声が聞こえてきた。
  「へー、『お茶とお喋りのくつろいだ時』だって。わたしらお茶もお喋りも、いつもしているよね~」。そう聞いて、思わず吹き出した。
 しかしである、私としては、その上の一行を読んで欲しかった。『聖書に親しむ会』の一行を。
 お茶とお喋りは付け足しである。つまり、お茶とお喋りがあったほうが気軽かな?と思ったに過ぎない。だが、これは考えものかもしれない。
 さて、今度は『聖書に親しむ会』とストレートに大書してみるか。

2014年9月14日日曜日

山盛りのイサキ

 昨日のこと、地元で捕れた新鮮なイサキを格安の値段で買って帰った。皿にひと盛りのイサキ。家に帰って数えてみると小さいが18尾入っていた。
 ひと手間かけて鱗を取り、腹わたを出して塩をせずにグリルで焼く。さすがにイサキは高級魚だけあって、小さくても味のよさはなかなかのものだ。
 丁度、夕飯を差し入れてくださったHさんに、失礼を顧みず、焼いたイサキを何尾か持ち帰って頂いた。それから今か今かと待っていた我が家の猫達にもお頭つきを一尾ずつ。
 海の幸を人も動物もみんなで惜しげも無くわかちあえる豊かさも、たまにはいいものではないか!

2014年9月7日日曜日

一歩、また一歩

 8月半ばにいただいてきた「夏すみれ」ことトレニアが20日間を超えてもなお咲き続けている。
 蕾をすべて咲かせきったばかりでなく、切り取った茎からは、糸のような根まで生え始めた。実に力づけられる。
 このところ心を病む方から電話をいただくことが日常になっている。今朝も不安げな電話が来た。
 「家族は出かけて一人。その後「人が怖くて外出できない」。しばらくして「勇気を出して外出したい。祈ってほしい」。またしばらくして、「外出できた。いま駅にいる。これから帰る。再びしばらくして「無事家についた。ありがとう」。最後はすっかり弾んだ声だった。
 草花と主に支えられつつこの方の声に耳を傾けた。

2014年8月31日日曜日

心から尊敬する

 盲導犬が全盲の飼い主と一緒に職場に向かう途中で刺されたというニュースに衝撃を受けた。フォークのような鋭利な刃物で腰のあたりを2,3箇所、その傷の深さは3センチに達していたという。この卑劣な行為に胸塞がれる思いがした。
 学生の頃、山手線に飛び乗ったら目の前に盲導犬がいたことがある。その毅然としてあまりにも気高い姿に僕は一瞬気後れして、そして感動した。
 「刺されても、鳴き声一つ上げなかったオスカー君、君は耐えて、赦したのだろうか。心から尊敬するよ!」
 僕は十字を切る。天の父の前に卑劣漢が悔い改め、救いへと導かれるようにと切に祈る。  

2014年8月24日日曜日

ガッツいっぱい

 先週この欄に書いた青と紫色の高山植物であるが、この花を下さったAさんにお聞きしたところ、実はインド原産のトレニアと言う一年草だと分かった。
 あの時、頂いた後で4人の方々を問安した。ハンカチに包んであったが、家に戻ってみると、すっかり萎れてしまっていた。
 ああ、かわいそうなことをしたと、冷たい水をかけてコップにさした。すると2、3時間で葉はピンとなり、小さな花は生き返った。
 今日でもう一週間余り経ったのに、次々と新しい蕾が膨らんでは花が咲いている。コップの中でも、暑くても、ガッツいっぱいの生命力で咲いている







2014年8月17日日曜日

高原の涼を送ってくれる

 午後から問安に出かけた。気温は29度。猛暑の候であればそう高いとはいえない。しかし、ときおりザーッと降る雨に、湿度は90%となっていた。
 気温を湿度との関係で表す体感温度というのがあるが、これを表す数式というのは、実はものすごく科学的、かつ複雑である。便利な体感温度表によると、今日の体感温度は39度ということになる。なるほど今日は過ごしにくいわけだと納得する。
 問安に伺ったお宅の庭から、紫色の花を付けた小さな高山植物を頂いた。帰って直ぐにガラスのコップに挿す。この花、すっかり名前を忘れたが、今日の蒸し暑さに爽やかな高原の涼を送ってくれている。


2014年8月10日日曜日

今日はまるで天国


 この休み、一人暮らしをしている叔母を半年ぶりに訪ねた。この24日で89歳になる。
 着いてそうそう、叔母を近くのお蕎麦屋さんにお昼ごはんに連れ出した。車で行けば店まではほんの数分ほどの距離である。叔母を乗せて車をスタートすると、「ああ、嬉しい。今日はまるで天国だわ!」と、弾んだ声が後部座席から聞こえてきた。
 なんの変哲もない毎日を過ごしている叔母にとって、今日はささやかな変化ある一日だと知った。
 「じゃあ、今日は誕生日のお祝いね」と言って、美味しそうに食べる叔母を、日頃の親不孝ならぬ叔母不幸を許してもらいながら、感謝の思いで眺めた。

2014年8月3日日曜日

りゅうじを真似て言ってみる


 いよいよ今週は休暇だ。一回きりだが説教の準備もない。そう思うだけでほっとする。しばしの休みだ。
 夏空に入道雲、花火に夏祭り、西瓜に蝉の声・・・全く意味を成さないただの夏の単語の羅列だが、休みを目の前にすればすべてが輝いている。
 こういう時そこ「かまきりりゅうじ」(工藤直子著 詩集『のはらうた』)のセリフほどしっくりくるものはない。
 「おう なつだぜ/おれは げんきだぜ/あまり ちかよるな/おれの こころも かまも/どきどきするほど ひかってるぜ」
 私も片腕を太陽にかざして、かまきりりゅうじを真似て言ってみる。「おう 夏だぜ 暑いぜ 俺は頑張るぜ! 」

2014年7月27日日曜日

こうまで流行るのは


 いつも行くスーパーマーケットで流れていたBGMが変わっているのに気がついた。ありの〜ままの〜自分でいいの〜。アニメ映画『アナと雪の女王』と主題歌『ありのままで(Let it go)』が大ヒット中だ。だがこの好評ぶりは海外メディアには驚きだという。
 こうまで流行るのは、よほど自分というものを押さえて生きている人が多いのだろうと思ってしまう。
 『ありのままで』『Let it go』の歌詞を比べると、そこに英詩にはない日本社会の独特さが考慮されていて、それがピッタリくるもとだと思えてきた。
 私などには、「ありのまま」というのは創造の姿のままがいいと歌っていると感じられるのだが・・・。



2014年7月20日日曜日

うん、あれはなかなか良かったな


 さて、わたしの頭の怪我であるが一週間が経って抜糸してもらえた。教会の皆さんにもすっかり心配をおかけした。
 うっとうしい絆創膏は頭から消えたものの、最初のクッションの入った手のひらサイズの絆創膏はちょっと気に入っていた。
 それは、一見ユダヤ教徒が頭のてっぺんにちょこんと乗せるあのまあるい帽子を思わせた。「神の前では頭を低く恭順の意を表す」という意味のキッパ(Kipper)のようだった。私もユダヤ教の礼拝に参加させてもらうためにキッパをつけたことがある。
うん、あの絆創膏、あれはなかなか良かったな。

2014年7月13日日曜日

初めてのご挨拶



 迷ってきた仔猫を捕まえようとお隣とのブロック塀によじ登った途端、バランスを崩して後ろ向きに倒れた。エアコンの室外機に頭頂部をブッツケて見事に切れた。
 しかし、この室外機がなければ、まともにコンクリートの地面にたたきつけられていたに違いない。
 一瞬の出来事なのに、倒れながら「おれも歳を取ったものだ」と思ったから人間の感覚とは不思議だ。
 ちょうど居合わせた娘が、「パパが大変、ママ、タオル持ってきて!」と叫びながら、小高いブロック塀の上をつたって忍者みたいにやって来た。
 幸いお隣はY外科医院である。引っ越して来て以来初めてのご挨拶をかねて、8cmの傷を縫って頂いた。


2014年7月6日日曜日

神にゆだねて


 教会の掲示板に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのところに来なさい。わたしが休ませてあげよう」(マタイ11:28)と書いて貼り出した。
 掲示を出してから4日目、聖書研究会に飛び入り参加者があった。クリスチャンだというホームレス風のNさん。彼は聖書の場面を即興で演じたり、立て板に水のような聖書解説をするので、一同舌をまいた。
 ところでそのNさん、住基カードのある某市に戻り、生活保護を申請し、仕事を得たいと祈った。首をかしげる節もなくはないが、その祈りを聞いて、援助を申し出た。彼は金額にガックリした様子だったが、この先を神に委ねてと送り出した。

2014年6月29日日曜日

遠慮のない仲

 すっかり大人になった息子が帰ってきて、家の中の空気が和んでいる。
 どこの家でも夫婦の意見が違うというのはままあることで、我が家も例外ではない。
 一対一だと互いに言い張ってせり上がる。余裕の無いときはなおさらだ。「あなたの方がおかしいわよ」「いや、そういうことじゃないね」と、つい声が大きくなる。
 しかし、このところよく話を聞いてくれる仲裁役の息子がいる。話を聞いてもらえば治まることもあると、牧師たるもの、当然解っているはずだが、遠慮がない仲ではどうしても言いたい事が先に立つ。自戒を込めて思う。傾聴するところに神はおられる。

2014年6月22日日曜日

膨らむ笑顔を抑えきれない

 息子から、京都に来ているからと突然電話がかかってきた。「おとっつぁん、ちょっと聞きたいんだけれどね、教会でお香、炊く?」「?、いやー、うちの教会ではお香はたかないね」と応じる。 
 すると、「おっかさんは、お香が欲しいかな?」と再び聞いてくる。「じゃ、『おっかさん』に代わるから」と笑いながら妻に受話器を渡す。 
 妻は「おっかさんなんて言わないで。マミーと言いなさいなさい!」と言いながら、もう大変な笑顔だ。 
 久しぶりの息子の電話に妻も私ももうバカみたいに膨らむ笑顔を抑えきれない。二年ぶりだろうか、息子が帰国した。お香を母に贈ろうという。

2014年6月15日日曜日

紫オーラ

 6月も中旬となった。からりとした青空はとうぶん望めそうにもない。梅雨の曇天を見上げて恨めしい気がするのは私ばかりではない。外出もままならないとか、洗濯物が乾かないとか、こう毎日雨ばかりでは気が滅入る方もおられよう。
 しかし、牧師館の庭の紫陽花は雨の中で青に紫にひときわ輝いている。「きれいですね」と紫陽花を褒めながら通って行く人がいる。「どうぞ、よろしかったらお持ち下さい」と家人が応えている。
  確かにオーラを放ちながら、紫陽花は日毎にその色を変えてゆく。しばらくはこの色の変化を楽しむとしようか。梅雨もさほど悪くはないかな。

2014年6月8日日曜日

実に得意げ

 先週のあの病気の猫のことだが、注射の効果で涙目は止まった。だが、鼻詰まりは変わらずで、食べないし飲まない。このままではいずれ死んでしまう。
 そんな心配をしていた日曜日、礼拝と懇談を終えて帰ろうとしたその時、老婦人がやって来た。飼い猫が金曜から帰って来ず、この辺りを探しているという。
 特徴を聞けば、我が家に連れ帰ったあの猫に違いない。持病をもった仔猫が捨てられているのを可哀想に思い、ご夫婦で世話してすでに6年だという。手作りの決まった餌しか食べないと知った。
 すぐに、猫を届けた。猫のミーちゃんは家の中を実に得意気に歩きまわった。祈りは聞かれた。万々歳である。

2014年6月1日日曜日

病気の猫もやってくる


 先日小田原教会の信仰入門講座で集まっていた時のこと、ズィー、グジーと変な音がしてきた。一匹の迷い猫が窓の外にいて、その奇妙な音は詰まった鼻で懸命に息をするたびに出るとわかった。病気なのだ。水と餌をやろうとしたが逃げてしまった。
 三日の後、帰ろうと車を出しかけたその時、あの猫がやはり苦しげな音をたてながら現れた。今日は近づいても逃げない。小田原教会の庭に病気の猫が救いを求めてやって来たのだと思った
 抱きかかえて獣医に直行した。ひどい風邪だという。注射とノミの薬を処置してもらって連れ帰った。
 どうぞ、この小さな生命をもお救いくださいと祈る。

2014年5月25日日曜日

可愛いね

 このところ連日のようにインターネットニュースで「動物の赤ちゃん誕生」の記事を楽しんでいる。
 今日はイノシシの赤ちゃんが紹介されていた。「濃い茶と薄い茶のしま模様で、瓜(うり)に似ていることから『うり坊』と呼ばれる。つぶらな瞳で母親に寄り添う姿はかわいらしさ満点。一日中畜舎にいても見飽きない」とある。他にも、ごまあざらしの赤ちゃんがひなたぼっこをしているし、母親のお腹の袋から顔を出すカンガルーの赤ちゃんがいる。また、母鳥の後を泳いでいるカルガモの雛たちはロバート・マクロスキーの絵本『かもさんおとおり』そのものだ。
 今日も「可愛いね」を連発しながら心が和んでいく。

2014年5月18日日曜日

ああ、おばさん

 先週の月曜日、叔母を迎えに行き牧師館に一泊してもらった。叔母はわたしを育ててくれた母のような人である。
 今年89歳になる叔母はひどい難聴であるが、補聴器に助けられて伊豆で一人暮らしをしている。先週は何度電話をしても電話にでない。結局、ご近所や教会の牧師に連絡をとって、やっと無事が確認できた。
 周囲の大騒動にもかかわらず、会えば叔母はおさな子のように事も無げで涼しい顔をしていた。
 夕食後、久しぶりに叔母の入れた緑茶を飲んだ。ぬるめのお湯でゆっくり入れたお茶は実にうまい。この味は昔と少しも変わらない。ほっと人心地がついた。

2014年5月11日日曜日

お預かりします!

 新宿駅前で、「福島のペット・シェルターで世話されている犬ちゃん、猫ちゃんたちに援助をお願いします・・・」と、学生風の青年たちが訴えていた。
 このような募金活動のなかには、わずかでも協力したいと感じられる訴えがある。その一方で親団体のはっきりしないものもある。(このグループはどうだろうか?)と思いながら足早に通り過ぎかけた。
 その時だ。「・・・自分も参加してきて、・・・」と聞こえた。足を止め、信じてみようと引き返した。
 募金すると、「お預かりします!」と、歯切れのよい掛け値なしの返事が返ってきた。都会の喧騒のなかに、ボランティアの清々しさが響きわたった。

2014年5月4日日曜日

たのしい夢

  出張先に連絡が入った。女性会の皆さんが教会堂の片付けしをしたところ、昔のバザーで売れ残ったバイオリンを見つけたという。なんと未発見のストラディバリウスかもしれないという話である。
 「もし、本物だったら、一億円はするよ!」「それなら、新しい会堂が建つね!」などなど、その場は大いに盛り上がったそうだ。
 という訳で、帰ってくるなりバイオリンを見に教会堂へ連れて行かれた。オッ、ラベルにはストラディバリウス・クレメンス!だが、まてよ、ラベルの端に小さく・・・メイド・イン・チェコスロバキア。
 みなさん、楽しい夢をありがとう。会堂の片付け、ほんとうにありがとう!




 
 
 

2014年4月27日日曜日

こんなときにも神頼み

 早天礼拝から戻ってくると、珍しく飼い猫のジェイの姿が見えなかった。夜になって雨も降り始めた。
 普段なら、大慌てで帰ってくるはずだが、近所を呼び歩いても気配がない。尋常ではないと不安がよぎった。妻はもっと遠くまで探しに出ようと身支度をした。
 わたしは自分の願と引き換えに、ジェイを無事に戻して下さいと祈った。そして、ドアを開けた途端、濡れ鼠のジェイが飛び込んできた。
 「ジェイ、よく帰ってきたね!」ジェイを抱き上げた。不覚にも、鼻がムズムズした。妻は耳がちぎれても、尻尾が折れても、生きてジェイを戻して下さいと祈ったそうだ。
 いつくしみの主に感謝!

2014年4月20日日曜日

フリー・ギフト


 今や、クリスマス・セールは世界の各地で風物詩なのに、イースター(復活祭)・セールというのは、まるで聞いたことがない。
 ユダヤの『過越しの祭』の期間中に、イエス・キリストが処刑されたことを聖書はつげている。だが受苦と十字架の死の後に、キリストは復活された。それを思えば、キリストの復活を祝うイースターが世俗化しないのは、むしろ当然である。
 主の十字架と復活によって死は打ち破られた。キリスト者は復活の信仰と希望を生きる。信仰は教えではない。ましてや義務でもない。信仰は、天の父が私たちにくださった無償の贈り物だ。喜びだ。

2014年4月13日日曜日

「今日もまた、サンキュ−・ジーザス」

 ある人のメールの最後に「今日もまた、サンキュ−・ジーザス」とあった。「今日も、また」という言葉に新鮮さを感じた。
 この人は自分を甘やかさず、夢を追い続けている。忍耐も努力も要る。きっと毎日が挑戦と感謝との繰り返しに違いない。翻って牧者の自分は、伝道の日々を、今日もまた感謝と言えているかと自問する。
 この日曜日から受難週が始まる。主イエスの十字架のおかげで、私(たち)は、今、救われている。
 この喜びを、まっすぐに伝えよう。これが私の夢、私の挑戦、私の感謝。その日その日の恵みに生かされて、「今日もまた、主に感謝!」

2014年4月6日日曜日

信徒魂


 思い出すが、2013年4月3日、昨年のこの日、私達夫婦はここ湯河原駅に降り立ち、小雨の中を牧師館へ向かった。
 それから引越しトラックが着き荷物が降ろされた。すると、祈祷会だからと引っ張りだされた。祈祷会?その日は水曜日だった。
 ここでは引っ越し荷物をほどくいと間もなく、まず祈祷会をするのですか?と内心驚いたものだ。
 しかしこの祈祷会、牧師が病気の時にも出張の時にも信徒の方々によって休むことなく続けられている。
 神によって集められた小さな群れは「礼拝」と「聖研・祈祷会」という教会の両輪をはずさない。この信徒魂に感じ入り、また誇りに思う一年後の今日である。

2014年3月30日日曜日

おかげさまで

 牧会の御用にと、信徒の方が車を貸して下さった。「おかげさまで」この一年間、湯河原と小田原の往復と、病院や施設におられる信徒の方々の訪問ができた。
 壮年で始めた不慣れな運転である。運転技術が未熟で、道を知らないへっぽこ運転者をこの車は一身に引き受けてくれた。バンパーに擦り傷が増えた。だが、「おかげさまで」安全にこの一年を走れた。
 そして、先週最後の運転が終わって、この先は廃車と決まった。最後まで、黙々と、本当によく主の御用をはたしてくれた。心からありがとう。
  主イエスのおかげをはじめ、私たちは、あれもこれも沢山の「おかげさまで」に囲まれている。



これも、天の父の「おかげさまで」。

一週間で、アネモネからチューリップへと教会の前庭はさまがわり。




教会の掲示板のところには水仙が咲いています。



2014年3月23日日曜日

ほころぶ顔、顔、顔

 3月11日、仙台教会で行われた東日本大震災記念礼拝に出席し、湯河原教会がみかんなどを送って支援を続けている石巻市のファミリーホームを訪ねた。
 ここでは、震災の影響を受けた3人の子どもが親を離れて暮らしている。この日の午前中に、彼らはホームのスタッフに伴われて、身を切るような寒さの中、身じろぎもせずに、慰霊祭に参加したという。
 夕食前のわずかな時間に、Mさん、K君、H君と語り合った。親元ならば我儘の一つも言うのだろうにと 思いながら、別れる前に一人ひとり両肩をぐっと掴んで祝福した。すると子供たちの表情がほころんだ。子を思う天の父の祝福に触れて安心がふくらんだ。





教会の小さな庭には、アネモネが満開!

 


イエス様が愛された野の花。(マタイによる福音書6: 29)













2014年3月16日日曜日

おお、誘惑

創世記2:15-17・3:1-7  
ローマの信徒への手紙3:21-31
マタイによる福音書4:1-11

 エデンの園で人は神の祝福に包まれていた。そこでは、神と人とは愛の関係にあり、否定というものが介在しなかったという。しかし、蛇に象徴される悪魔の誘惑によって、人は神を否定し、神との直接的な愛の関係は絶たれたと、創世記は失楽園を伝える。
 悪魔は、常に私たちを神から引き離そうとする。だから私たちは、常に誘惑にさらされている。栄誉、お金、権力と誘惑は巧みで限りない。だから、天の父よ、試みにあわせず、悪より救いだしたまえと祈る。
 私たちを真に満たしてくださるのは、主イエスのみである。荒野で、十字架上で悪魔の試みに勝利してくださったその主の愛によってのみである。

2014年3月9日日曜日

イエスさまぁー、やってきました!

 あの日、山に登られた主イエスは、弟子たちにご自身の神の国での本当の姿を一瞬だけ見せてくだった。
 実は、私たちの身の回りには、あの神の国を見るような輝きが満ち満ちているのではないだろうか。
だから、詩人は手のひらを太陽にすかしながら、「オケラだって、ミミズだって、アメンボウだって」と、その命のまばゆさを歌うのだろう。しかし、日常に追われている私たちはこのまばゆさに気づかない。
 その日には、私たち自身があの輝きの中に迎えられる。「イエスさまぁー、やってきました!」と主イエスと共に手を取り合う。主の変容は、私たちにそんな希望を与えてくれる。

2014年3月2日日曜日

もちろん、 自分でもない

 以前第一位になったサラリーマン川柳に「『ご飯 よ』と呼ばれて行けばタマだった」というのがあり、 我が家も同じと思わずにが笑した。 
  人間の主人となるものとして、主イエスは「神」と 「富」の二つを挙げられた。そして、人は、神と富の 二人の主人に兼ね仕える事はできない。どちらか一方 にだけ仕えるものだと明言されている。 
 ある学者が「富」とは、人間の欲望を叶えるための モノだという。自分の欲求を叶えるモノを主人にした時、人はモノの奴隷となる。「我が家の主人はキリス トなり」である。猫でもない。富でもない。「もちろん、 自分でもない」と心のなかで声がした。
(マタイ6・24から)

2014年2月23日日曜日

からし種メッセージ(マタイ5・38-48)

 主イエスは、右の頬を打たれたら、左の頬を差し出し、一里を強いるものと共に二里を行くようにと言われるのだが、それは道理に合わないと主張をするのが人間である。私達は自分の正しさを主張するが、人間の正しさなどは常に相対的であって絶対的ではない。
 天の父は悪人と呼ばれる人にも善人と呼ばれる人にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださっている。だから私達は誰もが神の前に罪人(悪人)であることを悟る時、もはや仲間か敵かと区別すること自体が意味をなさなくなるのである。
 私達は神の前に等しく罪人であり、主イエスの十字架によって赦された者同士に違いない。

2014年2月16日日曜日

思いは早くも復活祭

 先週、太平洋沿岸の広い地域に雪が降った。所によっては45年ぶりの積雪だったそうだ。この湯河原の海岸付近でも、家の屋根や樹々の枝にこんもりと雪が積もった。ちょうど、わたの布団を被ったようで見ていて楽しい。暖かそうに見えるから不思議だ。
 立春を過ぎてから雪が降るというのは珍しくないが、この時期、黄河流域で生まれた春が三寒四温で近づいてくる。そろそろ春の日差しが恋しい。
 カレンダーを見ながら思いは早くも復活祭だ。3月9日に始まる四旬節までおよそ後一ヶ月と数え、その後、受難週を過ごして、復活祭を迎える。今年のイースター、4月20日に大きな○印をつける。

2014年2月9日日曜日

黄金の道

 熱海朝祷会に出席するため、湯河原を朝7時に出発する車に同乗さていただいた。
 東の海に見える島々を眺めながら海岸線を走る。丁度、昇ったばかりの太陽が光の粒を波間にキラキラ反射させながらしだいに水平線から離れていくところだ。
見ると、見事な黄金の道がこちらに向かって一直線に延びているではないか!
 この道路のすぐ上のホームにおられるTさんは、毎朝この黄金の道を眺めるという。頂いた手紙には「イエス様に従って、神の国へ行く黄金の道なんだと…私は勝手に思って祈ります」とあった。Tさん、この黄金の道を見て、私も思わず祈りたくなりました。

2014年2月2日日曜日

忘れまい

 朝起きて使う水の冷たさに思わず身震いする。大寒の今日、さもありなんだと思う。有り難いことは、この寒さに反比例するように日差しが着実に長くなってきたことだ。天気さえ良ければ、窓ぎわはぽかぽかと春の暖かさだ。
 この時期、特に気温と日照時間との関係にやけに公平さを感じるのは私ばかりではないだろう。この大自然のサイクルも神の創造の御手による。神は、この神の恵みである地球のすべてを人に託された。所有者ではなく、よき管理人としてであることを忘れまい。
 東京都都知事選が告示された。原発の継続か脱却かが争点とも言われる。真摯な関心を持って見守る。

2014年1月26日日曜日

人間の選びとはまったくちがう

 主イエスは、正統派の人々からさげすまれた土地であったガリラヤの漁師たちを最初の弟子とされた。人間的に見れば、世界宣教の担い手が、貧しく、無学であるのはおよそふさわしいこととは言えないだろう。
 しかし、主イエスはこのふさわしくない者を選ぶのである。神の選びは人間の選びとはまったくちがう。
 ふさわしくない私たちが召命によって集められたのが教会である。ある説教者がこう言っている「この私だって全くふさわしくないのに選ばれて、神がなおも用いてくださっている」そういう謙虚さを持ってお互いに受け入れ合わなければ、召命だけで成り立っている教会の世界は立ちゆかなくなる。」

2014年1月19日日曜日

確かに力が湧いてきた

 さきごろ、浜松の小学校で児童1,000人を越えるノロウイルスの集団感染が伝えられた。「ノロウイルスの集団感染・・・さぞ大変だろう」と思う。
 そういう私も昨年、あろうことか、クリスマス直前に牡蠣の生食によってノロウイルスにかかった当の本人である。クリスマスには受洗式も予定されていた。
 折しも教会は聖書研究・祈祷会の日で、早速、私のために信徒祈祷会がもたれた。床に突っ伏しながら、不思議なことに自分の体に友の祈りがビンビンと響いてきた。祈りに治癒力があるかどうか分からないが、確かに力が湧いてきた。昨年の教会の主題「祈り」の締めくくりにふさわしい。今更ながらにありがたい。

2014年1月12日日曜日

主も新しいスタートを切られた

 今週5日から寒に入った。これからしばらくは一年中で一番寒い季節が続く。今日はこの冬一番の寒さだという。小田原への道中、丹沢の山々は雪の薄化粧で新春にふさわしく麗々しい。
 しかし、ここ湯河原の冬は今まで住んでいた東京の寒さに比べると、格段の暖かさだ。牧師館の小さな庭には水仙が満開。妻が切り花にして、ガラスのコップに挿して食卓テーブルに置いた。
 水仙の良い香りもまた新たな出発への力をみなぎらせてくれる。1月12日は主イエスの洗礼日である。公生涯に臨まれるにあたり、主も新しいスタートを切られた。人類の救いに至るスタートである。

2014年1月5日日曜日

詩篇の喜びと希望を胸に

 2014年、新しい年を迎えた。新しい年の抱負やチャレンジが頭をよぎる。しかし、人の計画は、得てして「独り善がり」になりがちなもの。
 昨年を振り返って、自分では気が進まないことの中に、むしろ神の愛の計画があったと知らされる。御言葉に聞き、人の話に耳を傾けることの中にこそ、恵みが隠されていた。「主のみ心にかないますように」。そして「主よ、お用い下さい」と、祈る。
 「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡りくれば実を結び 葉も萎れることがない」この詩篇の喜びと希望を胸に、新年をスタートしよう。