2019年5月26日日曜日

ふっと感謝が溢れる

 「聖書を読む時の秘訣は2000年の壁を透明にすることだ」とはキェルケゴールの言葉だ。
 そうか!主イエスが語り、わたしがここで聞いている。主と私とはその場所に一緒にいるのだ。聖書はそういう同時性において読むのであって、2000年経った今の目で読むものではないと気づかされる。
 そういえばもうじき主の昇天日だ。この40日間、復活の主は私と一緒にいてくださったなぁと思った。人の話を伺う時、また問安の道すがら、そして掃除や料理の手伝いをするとき・・・ふっと感謝が溢れる。
 多忙である。しかし全く孤独ではない。こんなにも主と一緒にいられる毎日だから。

2019年5月19日日曜日

枇杷の実を採らせて

 兄弟教会での夕方のこと、突然5人の子どもを連れて二人のお母さんが来た。お母さんの一人は2年前に1度礼拝に来た方だ。若い人を迎えた喜びで昼食や茶菓でも大歓迎した。それを覚えていて今日は教会の枇杷の実を採らせて欲しいという。何とたくましい!
 だが、枇杷の実のオレンジ色はまだ浅い。「来週にいらっしゃい」というと高枝用のハサミを持って来ると言う。採る時間を聞かれたので「それなら礼拝からいらっしゃい」といった。礼拝後に教会のみんなと枇杷を採るのは主もお喜びだろう。枇杷繋がりもいい!
 夏のような暑さの中、家人がカルピスを出すと飲み干して「生き返りました」とニコニコ帰っていった。

2019年5月12日日曜日

天からの恵みの分かち合い

 「うちで実った甘夏です。皆さんでどうぞ」今年も教会家族のお宅で実った甘夏を届けてくださった。ゴールデンカラーに輝く甘夏は初夏の果物だ。
 この時期まで畑の木で実った甘夏は酸味が少なく、すこぶるジューシーだ。大きいものを計ってみると700グラムをゆうに超える。こんなに大きな実をつけていたら夏蜜柑の枝はさぞ重かったろうに・・・。
 「兄弟教会にもどうぞ」と言ってくださって、深く感謝した。これこそ恵みの分かち合いだ!トパーズ色の香気が立って、幸せが何倍にも膨らむ。
 教会の昼食後に、そして皆さんのお持ち帰りに、「天からの恵みの分かち合い」の甘夏をどうぞ。

2019年5月5日日曜日

神に捧げられる良い香り

 夜7時過ぎ、散歩に出てみた。日中は汗ばむ程の気温であっても日が沈めば空気はヒンヤリしてくる。その空気を通ってふいに良い香りが漂ってきた。リラックスする香りだ。深く息を吸ってみた。落ち着く。
 多分、あれはミカンの花の香りだと家人は言う。「他の花もいい匂いがするのよ」と、家人に促されて匂いを嗅ぐ・・・確かに!スイートピーは甘い香り、スミレも地味だが何気に良い香りがあるのだと知った。
 さっきの香りの主、姿は見えないが気高い香りは小さな白い花々の存在を思わせてくれた。ふと、「わたしたちはキリストによって神に捧げられる良い香りです」とパウロが言っている言葉が思い出された。

2019年4月28日日曜日

いつの間にか

 二人の弟子はすっかり希望を失ってエマオ村への道をトボトボと歩いていた。いつの間にか復活のキリストが彼らに近づき共に歩いている。彼らは少しずつ生気を取り戻し目は輝き始め、心は燃えた。
 人間には心と体とその上に精神という力があると言うのはアウシュビッツ強制収容所から生還した精神科医ヴィクトール・フランクルだ。精神は生まれながら誰にも備わっている空の器のようだという。
 たとえ、私たちの心や体が病んでも精神は病まない。精神が外からの愛の力に与るとき、私たちは生きる意味を見出し、響き合い、他者のために生きる力を得る。日々、復活の主と出会って、心は温かい!

2019年4月21日日曜日

春爛漫のミッションワーク。

 いのちの春にキリストは復活された、ハレルヤ!
 真っ赤なスイートピーが届けられた。ご不自由な身体のため礼拝に与れないないご主人をお世話される奥様からだった。「昨年、教会の庭のスイートピーの種を頂いたので植えたら、こんなに咲きました!」。
 教会の花つながりもイエス様つながりだ。教会に足を運んでくださるなんて、思いがけず嬉しい!
 黄色の菜の花、色とりどりのアネモネとチューリップが咲いている。そして、今年もスイートピーがぐんぐん蔓を伸ばして紫とピンクの花がつき始めた。
 眺めながら人が通る。「いいね、きれいだなー」って。教会の小さな庭は春爛漫のミッションワーク。

2019年4月14日日曜日

臨終の時にも

 あの日、ゴルゴダの丘には三本の十字架が立った。主イエスの左右に、十字架にかけられた二人の罪人。
 そのうちの一人は十字架上で救いに目覚め、パラダイス行を確約された最初の人。犯罪者と言う罪人も当然救われるその人なのだ。カトリック教会ではこの罪人に聖ディスマスという名がつけられ、犯罪者の守護の聖人となっているというから感心してしまう。
 私自身はというと、はたして死の間際に自分の姿をこの罪人に重ねることができるだろうか?「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と乞う信仰を・・・と願う。
 「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」ああ、臨終の時にも主のみ言葉がともにある。

2019年4月7日日曜日

圧倒的な神の業

 今年も桜が満開になった。昨日も小田原からの帰り、桜並木の道を通ったばかりだ。
 あの桜の満開の様子は実に美しい。どうしてあんなに美しいのか!なぜこんなに喜ばしいのか!それはもう、圧倒的に神の業だからだ。
 誰かが満開の桜をつくったわけでも、誰かが咲かせることができるものでもない。しかし、桜は時が来ると「せ〜の!」と一斉に咲く。面白いし不思議だ。
 桜の木が、それぞれ「自分は栄養たっぷりだから早く咲く」とか、「自分は寒さが苦手だから遅れて咲く」などと言うことはないんじゃないかな?大自然が咲かせている。神の業は見事だ!

2019年3月31日日曜日

晩年の放蕩息子

 「今の俺、俺は俺でもこの俺は、彼知りし後の俺でない俺」このように色紙に書いてくださったのは牧師であり神学者であった渡辺善太先生だった。
 若い時は大酒飲みでさんざん道楽の限りを尽くしたという先生は、イエス・キリストに救われて人生が一変した。その後の人生をキリスト教伝道に捧げられた。
 私はひねくれ者の中学生だったころ、先生にお会いしたことがある。ずいぶんご高齢だったと思うが、優しい目と、豪快な笑い顔を覚えている。その日、自分が、救われて、回心した晩年の「放蕩息子」に出会っていたことを思った。受洗記念の聖書に「踏み迷うともこの道を行く ただ主にありて ただ主にありて」と記した。

2019年3月24日日曜日

涙するほど有り難い

 主人は園庭に言う「実のならないいちじくの木は土地の無駄だから切ってしまえ。土地は有効利用すべきだ」。それは合理的でもっともな考え方だ。それなら最初に切られてしまうのはこの私かもしれないと思う。
 しかし、園庭は主人に向かって懇願してくれる。「肥料をやってみるから切るのは待って。来年、実がなるかもしれない。」この園庭の温情は涙するほど有り難い。
 しかしこの木、次の年も実を付けられないかもしれない。それでもこの園庭は肥料をやるので来年まで待ってと懇願してくれるに違いない。そして翌年も・・・。
 わたし達はこの園庭の辛抱強い親心に育てられているいちじくの木だということを溢れる感謝で思う。

2019年3月17日日曜日

主よ、憐れんでください

 緑が萌えいでたばかりのパレスチナの路傍に盲人は座って物乞いをしていた。行列の足音が近づいてきた。
 ナザレのイエスの一行だと聞くと、彼の心にひらめくものがあった。「ダビデの家系に一つの芽が出る。その上に神の霊が宿る。その日、光は上る。盲は見え、足萎えは立ち・・・」そうか、彼こそ来るべき者だ!
 盲人は叫びだした。「ダビデの子よ、憐れみ給え!」主は、この叫びに彼の信仰を認められた。彼を神の国を「見る」者とされた。
「主よ、憐れんでください」と叫ぶ者を主は必ず救われるルターは「私は神の乞食」と言った。「主よ、憐れんでください」。この言葉をしみじみと味わう。

2019年3月10日日曜日

40回の感謝はどうだろう

 四旬節が始まった。キリスト者が四旬節に断食や節制をするという習わしは主イエスの荒野の体験にさかのぼる。自分たちも主の断食と祈りの体験に倣いたいという思いから自然におこってきたものだ。
 私たちはどうしても日々の必要に迫られ、この世の力を求め、誘惑され、心を奪われてしまう。目先のことや身近なものの向こうにある神の国を望むことが苦手だ。主に委ねて楽になってみると魂の目が開く。
 私たちは何と多くの赦しをいただき、助けをいただき、恵をいただいていることか!だから、四旬節は恵を分かち、感謝を数えて過ごしたい。一日1つでも40回の祝福、40の感謝っていうのはどうだろう?

2019年3月3日日曜日

チラッと見えた

 主は、ご自分が時の権力者たちから排斥されて殺されるとペトロたちに告げられた。ペトロたちの不安と恐れは次第に大きくなっていったに違いない。
 その暗闇に光を放つため、主はペトロたちを連れて祈るために山に登られた。ペトロたちがそこで見たものは、主イエスの輝くばかりの御姿である。 
 暗闇を見つめて不安に頭を垂れる私たちに、主は天に風穴を開けて、天国の栄光をチラッと見せてくださる。救いは私たちの頭の中にあるのではなく、上にあるのだ。頭を起こして、天を見上げよ!主を見上げよ!きっと、安心・・安心・・ああ安心・・・聖霊のささやきが聞こえてくる。

2019年2月24日日曜日

快挙だ!

 はやぶさ2が小惑星リュウグウにタッチダウンして、土の塵や石を採集するのに成功した。快挙だ!
 リユウグウは46億年前にできた太陽系初期の情報を多く保っていると言われている。地球に生きる私たちのような生命を造る元となった材料がどんなものであったのか?その謎を解く手がかりがつかめるかもしれないという。リュウグウには生命の源となる有機物と水の存在が予想されているからだ。
 「地下から湧きでた水が土の面をすべて潤した。神はその土の塵で私たちを造った」と聖書は言う。生命の材料は塵と水!聖書はそこに神の息を加える。創造の不思議に科学は畏敬を持ってまた一歩近づいた。

2019年2月17日日曜日

落っこちたなら

 ブリューゲルの描いた絵画「盲人が盲人の道案内をする寓話」の写真を見た。てっきり二人だと思っていたが、ブルーゲルはそこに6人の盲人を描いていた。
 先頭の一人はすでに水の溜まった溝に落っこちている。2番目は危うく落っこちる寸前である。3番目は両足が爪先立って、すでにバランスを崩している。4番目は危険を察知したかのような顔つきだ。5番目と6番目はまだ危険に気づいていない。
 導く盲人も、導かれてゆく盲人もこの私自身だ。自分に頼る限り、6段階の危険のどこかに私はいつもいるのではないだろうか?だが、落っこちたなら、なりふり構わず叫ぶ。「主よ、お助けください!」と。

2019年2月10日日曜日

あのひと時は

 インフルエンザの流行で問安を諦めていた先週のこと、久しぶりの方々が訪れてくださった。
 どの方もこの曜日、この時間なら牧師はいるに違いないと、私の予定を知って来られた。中には「電話がつながれば来る。もし、つながらなければ諦めよう。それは神の時ではないからだ」と、賭けをするような気持ちの方もおられた。教会への電話はいつでも牧師につながることの大切さを改めて思う。
 どの方もキリストの暖かさに触れたくてこられた。しばし、お話に耳を傾ける。折しも季節は一番寒い時だ。外気は冷たい。主と共に、一杯のお茶で過ごしたひと時は、あなたを暖かく包んでくれただろうか・・・

2019年2月3日日曜日

きっと見いだせるに違いない

 「青い鳥はどこにいるの、青い鳥さえ捕まえられたら幸福になれるのに」。チルチルとミチルの兄妹は幸福の青い鳥を探して旅に出る。青い鳥は手に入らない。しかし、自分が飼っていた鳥が青い鳥だったと気づく。幸福は身近なところにあるというメーテルリンクの示唆に富んだ思想だ。
 わたしも幸いを求めて、「キリスト」にお会いすべく旅に出る・・・ちょっと、カッコイイ!
 火や水や光の精、イヌやネコと一緒に「キリスト」を探す旅に、さあ、出かけよう!
 私たちの只中に、もっとも小さくされた者の中に、きっとキリストを見いだせるに違いない。

2019年1月27日日曜日

決して徒労に終わらない

 一年で一番寒いこの時期、「は~るよ来い、は~やくこい!」と、春の来るのが待ち遠しい。
 我が家の外には一匹の地域猫が住み着いている。冬の寒さは外猫には厳しい。このところくしゃみと鼻水で可愛そうだと、早速ホッカイロを買い、猫ハウスに入れてやる。心なしか鼻水が止まったようだ。
 猫ばかりではない。庭のすみれは寒さに耐えて花をつけ、菊の花も霜枯れした葉っぱの中で「まだまだ」っと頑張っている。春を待つ、祈って待つ・・・。
 待つ心は、どこか信仰に通じている。「おことばですから」と従ったペトロにおびただしい魚をもって応えられた主を待つ。宣教は決して徒労に終わらない。

2019年1月20日日曜日

フットワークが良くなってきたぞ

 主イエスが故郷のナザレで福音を述べる。すると人々は「この人はヨセフの子ではないか」と言う。つまり、彼はこの村の大工ヨセフの子だから、彼が何者なのかを我々は知っているというのだ。
 固定観念と先入観は枷となって彼らの心を縛る。せっかくの恵は彼らから遠ざかってしまった。
 「自分は知っている、わかっている」と思うようになったら黄色信号かもしれない。知らないこと、知りえないことは多々ある。「決めつけない」と自戒する。
 この固定観念と先入観という枷を主イエスは打ち砕いて自由の身にしてくださる。フットワークが良くなってきたぞ。この軽さよ!この恵よ!

2019年1月13日日曜日

「見よ、わたしの僕を!」と

 今日は主イエスが水と聖霊による洗礼を受けられた日だ。主の洗礼は、主と同じ洗礼を受ける私たちをも「神の子」としてくれる。「見よ、わたしの僕・・・わたしが選び、喜び迎える者を」(イザヤ書42:1)と天父は高らかに宣言される。
 いただいた年賀状に「人生100年時代になり、気合を入れ直して日曜礼拝に出席し、感謝と反省をしながら、健康で元気に過ごしたいと思います。・・・周りに迷惑をかけずに明るく、楽しく生活できることを願っています」とあった。実に明るく前向きだ。
 「見よ、わたしの僕」と迎えてくださる神の喜びがこの挨拶を通じて響いてきた。オッ、元気がでる!