2021年8月29日日曜日

リメンバー・ザ・キューカンバー

  以前、米国のルーテル教会の礼拝での出来事だ。

 牧師が聖壇の前に集まった子どもたちに、貧しい人たちに何ができるだろうかと問いかけた。

 大きな子たちから順番に答えて、最後は4歳のジョシュア:「僕、キューカンバー(胡瓜)をあげる」

牧師:「???どうしてキューカンバーなの?」

ジョシュア:「だって僕、キューカンバー嫌いだから」

 聖堂の大人たちは爆笑した!礼拝が終わって帰る時、“Hiro , Remember the cucumber”(ヒロ、胡瓜のこと、覚えていようね)と、友人は私に向かって笑顔でウインクした。モチのロンで神様はジョシュアのキューカンバーを喜んでくださるに違いない。

2021年8月22日日曜日

献身者を求める祈り

 「私たちの主よ。

あなたは、キリストの体である教会を私たちに与えてくださいました。この恵みに心から感謝いたします。

教会に連なる私たちをキリストの枝として教会の働きのために用いてください。それぞれに与えられた役割を、喜びと感謝をもって担うことができますように必要な力を与えてください。

福音宣教の働きへと召される献身者を起こしてください。また献身の思いを与えられ、牧師を志して神学校で学ぶ神学生を導いてください。そのために神学校で働かれる方々を支え、その働きを祝福してください。

私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。」

2021年8月15日日曜日

聖餐は嬉し

  訪問聖餐を思い出す・・・主に出会えてこんなに嬉しいことはないと涙して聖餐に与った兄弟のこと。ベッドの上で居住まいをただし、聖餐の前に頭を垂れて、まるで幼子のようだった姉妹のこと。聖餐を受けたあと、安心に満たされて召されて行った姉妹のこと・・・。

 主イエスはご自身が命のパンであると宣言された。それは、主イエスだけが、私たちの魂を育み、たとえ人に失望させられても「神に愛されている」と確信させてくれて、困難な時でも愛し、ゆるす力を与え、さらには永遠の命を与えてくださるからだ。

 私は想像する。一信徒として聖餐に与る時には恵みと感謝でいっぱいでニコニコしてしまうだろうな!

2021年8月8日日曜日

これほどわかりやすい地図はない

 友人が世界地図を送ってくれた。A3のコピー用紙4枚に収められた地図に、国名だけが記載されている。

 手紙に、「オリンピック開会式の選手団入場をみながら、自分の知らない国の名前があまりにも多いのに驚いた。これは小学生向けの学習地図だが、世界の国の名前と位置を知るにはこれほどわかりやすい地図はないと思ったので送ります」とあった。

 改めて地図を見る。戦争、政変、民族紛争などの結果だろう、多くの国名の変化に気付かされて驚いた。

 不動の位置を占める大国の間にある小さな国々の名前を追う。ここにどれほど血の犠牲が払われたことか!知ることから始める平和への道があると思った。

2021年8月1日日曜日

蝉、夏の応援歌を歌う

  青空に真っ白な入道雲!熱い太陽に届けとばかり蝉が鳴く。「ジージージジジィー」夏の応援歌のようだ。

 毎夜、蝉は人が知らないうちに羽化するらしい。朝玄関に出てみて、いくつもの蝉の抜け殻を見つける。草や木ばかりか庭石の上、ホースやバケツにまでも。

 先日のこと、履こうとした履物に蝉の抜け殻があって、その隣にまだ孵化したての蝉がじっーとているのを見つけた。その履物をそのまま玄関の外にそっと置いて、別の履物をはいて出かけた。

 しばらくして帰ってみると、蝉はめでたく飛び立ったらしい。私は安心して履物をはいた。繊細な細工物のような抜け殻をあじさいの葉の上にそっと置く。


2021年7月25日日曜日

慌ただしさに忙殺されずに

  オリンピックの開会式をビデオに撮った。最初のところだけ少し見て、あとはビデオで見るつもりだった。ところが、見始めると引き込まれてしまって途中で止めることができずにとうとう終わりまで見てしまった。

 翌朝は予定があった。電話もかかってくるし、人もやってくる。当然気ぜわしくなった。そして思った。慌ただしさに忙殺されない心のときは大事だ。自分のすることだけに捕らわれないでいることで、他者に気づき、他者の痛みや必要としていることに気づける。

 思いやりは静かで穏やかなこころから生まれるように感じる。沈黙の時は大事だ。オリンピックはリオの時のようにビデオで見よう。後からゆっくりと。

2021年7月18日日曜日

まことの羊飼い

 「飼い主 我が主よ 迷う我らを 若草の野辺に導きたまえ・・・我らは主のもの 主に在りて生く」この讃美歌を歌うと詩篇23篇が思い起こされる。 

 真に良い牧者である主イエスは飼い主のない羊の群れのような群衆を目の前にして深く憐れんでいる。この人達はどこへ行けば平安が得られ、どっちに進めば自分らしく生きられるのか分からなくなっている。目的地にまで安全に導いてくれる牧者の存在は大きい!

 そういう私もイエスと言う大牧者に導かれるまでは、迷いに迷った!だが、今はどうにかして隣人を案内したい。「主のもとへどうぞー!草も水もありますよ〜」。

2021年7月11日日曜日

肩をポンと叩いてくれる

  熱海の土砂災害はすぐ近くで起こった。このときの実際の土石流の様子をインターネットで見たが生々しすぎてSFXかと思ったくらいだ。

 湯河原の私たちを気遣って電話がかかってくる。予想せず懐かしい人達と旧交を温めることになった。

 時間の経過とともにこの土石流の原因は山の斜面の盛り土らしいとわかってきた。目的を達成するために人間は頭を最大限に駆使し、計画をめぐらす。

 目的のために只計画するならそこには欲望と頭脳があるだけで神への畏怖はない。いつも横にいて、必要な時に私の肩をポンと叩いて黄色信号を出してくれるイエス様の存在はほんとうに有り難い。



2021年7月4日日曜日

実りを得た!

 主イエスは12人を二人ひと組で、杖一本のほか何も持たせず、「着の身着のまま」で宣教に送り出された。

 この12人のいかにも軽々とした旅姿を思い描いてみた。そして、かつて旅行に出かけた時などの自分のパンパンに詰まったリュックサックを思い出した。

 旅先でのいろんな状況を想定して「これも要るかもしれない」と考えると持っていく物が増える。膨れた荷物を前に再度選び直すということもやっていたなー。

 ところがこの12人は主から「汚れた霊を制する権威」を授けられたほかは無一物同様で送り出されている。物に頼らず、見えない霊的主イエスとの三人四脚を心に頼んで、12人の宣教伝道は実りを得た!

2021年6月27日日曜日

キリストがきっと触れてくださる

  新型コロナワクチンの接種が進む中、私も一回目のワクチン接種を受けた。ワクチンによる集団免疫という可能性までの道のりを思うが希望を持って待つ。

 コロナ禍が何ヶ月も続いて、暗闇が覆っているように感じられる時がある。そんな状況でも夢と思い出と祈りの道のりを歩む中、主キリストと共にいることで主は私たちに新たな旅路を進む力を与えてくださる。

 女性会が古着プロジェクトに取り組んでいる。アフリカのより貧しい人々との分かち合いができるなら、それは主の心を届けることになる。コロナ禍の中で、生活上の困難を抱えて忍耐している全ての人々の心に慈しみの主キリストがきっと触れてくださる。



2021年6月20日日曜日

あの人は、イエス様だったに違いない!

 以前、テネシー州に住み始めた頃、一時帰国する家人を空港まで送った。帰りの夜のドライブ、空港を出たところで一つ道を間違えた。夜の暗がりで周囲の様子が見えなかったからだ。知らない土地の知らない場所!ひたすら眼の前の道を走り続ける。パニックだった。

 やっと見つけたガソリンスタンドで、スイートウオーターへの道を尋ねると、一人の人が、「私のあとについて来て。そちらの方に行くから」と申し出てくれた。

 その人は私の目指す町への分岐点のところまで先導してくれ、交差点で窓から手を振って合図を送ってくれた。感謝と安堵の思いが胸にあふれてきた。今でも思う。あの時のあの人は、イエス様だったに違いない!

2021年6月13日日曜日

「からし種」がいっぱいだ!

  以前、からし種を5,6粒もらったことがある。それは胡麻より遥かに小さかった。撒いてみようと思ってはいたものの、いつの間にか無くしてしまった。「あれはなんとも惜しい事をした!」と今にして思う。

 主は「神の国」をこの吹けば飛ぶような小さなからし種にたとえている。この種はどんなに小さくても種なのだ。種が本物で生きていれば、いつかそれは必ず大きく成長していって、大きな実りがもたらされる。

 たとえみすぼらしく、弱々しく、こんなのでは何にもならないと思われるような現実にも神の国の「種」を見ていくとしたら、私たちの身の回りには「からし種」がいっぱいだ! そしてそれは大きな実りとなる。

2021年6月6日日曜日

脱帽です!

 このコロナ禍の上に健康上の問題もあり、教会に来ることができない方と私はよくメールや電話でお話をする。Qさんは今、孤独である。教会に友達と呼べるような方を求めておられることを知った。

 さっそく、教会のPさんに電話をして「この方の話を聞いてあげて、友達になっていただけないか」と遠慮がちにお願いしてみた。Pさんは、私が思っていたとおり気持ちよく引き受けてくださった。

 が、この後にPさんの言われたことが私の想像を超えていた。「私がQさんの友達になるというより、Qさんの方が私の友達になってくださるのだというふうに思います」。この謙遜な言葉に、私は脱帽した!

2021年5月30日日曜日

主の弟子ニコデモ

  画家カラヴァッジョの傑作「キリスト埋葬」に、ニコデモはキリストの下半身を支える姿で描かれている。中央の重要なボジションで描かれたのは、この絵にニコデモの主の弟子としての姿を描きたいという画家の思いではなかっただろうか。

 キリストが十字架刑で殺された時、ニコデモは側にいてキリスト埋葬に重要な役割を果たした。ここに描かれているニコデモの姿や表情は見る者の心を打つ。

 ニコデモはある夜、主イエスを訪ねた。その時からニコデモの中で何かが変わった。聖霊の風が吹いた。正しさに生きる律法の世界ではなく、神の愛と赦しの世界に生きるよう導かれた。聖霊の風は、今も吹く。

2021年5月23日日曜日

楽しんでいます

  いつもはこちらが手紙を出すと返事をくださる長期入院の方が、今月は先に手紙をくださった。

 いつもは決まって「早く教会に行きたい」とあるのに、今月はちょっと調子が違う。「僕はギターを楽しんでいます。詩も楽しんでいます。筋トレも楽しんでいます…教会の皆様の上に主の平和をお祈りします」。

 入院生活にコロナ禍では不自由の二乗なのに「楽しんでいる」というのはとてもいいなー!この方の中に心のユトリみたいなものができて、私の心がほころぶ。

 私たちの日々の生活の中に、私たちの集いの中に、今も神が、キリストが共にいて、何かをしてくださっている。目に見えないが、それが「聖霊」の働き。

2021年5月16日日曜日

主の昇天を思いつつ

  新型コロナワクチン接種の申込みのため電話をした。 予想通り全くつながらない。二度目はHPから試してみたが、予定とにらみ合わせてまごまごしているうちに予約は埋まってしまった。わずか数分の出来事である。

 いずれ接種は受けられるのだから、予約できる時まで待つとしよう!ワクチン競争曲を聞き流し、名前も知らない小鳥たちのさえずり協奏曲に耳を傾ける。ここはいいなー。鳥たちと彼らの住処である青葉があふれている。

 ちょうどベタニアもこんなだっただろうか?緑豊かなベタニアはマルタとマリアの家、それに香油が注がれたシモンの家がある。懐かしいベタニアから私たちを祝福しながら主が天父のもとへと昇られた出来事を思う。


2021年5月9日日曜日

安心な居場所

  そこは乳幼児を含む家族四人が暮らす住居だ。二つの小さなベッドルームと小さなダイニングキッチン、そしてやはり広くはないリビングルームがある。

 ベッドルームの一つはこの家の主人の仕事部屋となっていて、居住空間には家具や日用品が溢れている。

 今、この家の猫は闘病中でそう長くはないらしい。リビングの窓際に低めでゆったりしたキャットタワーが置かれている。ここでなら病気の猫が安心して体を横たえることができるにちがいない。

 キャットタワーのその脇にベビーベッドが置かれているのを見て、私はハットとした。そして、病気の猫にも子供と同じように居場所があるのに感謝した。

2021年5月2日日曜日

主につながっていよう

 私はぶどうの木のたとえが大好きだ。

 こういう見方が科学的かどうかわからないが、葡萄の木は同じ果物を実らせる木と比べてちょっと違う。

 例えば幹と枝がはっきり区別できる林檎や蜜柑の木に比べ、葡萄の木はどこまでが幹でどこからが枝なのかはっきりしない。「わたしはまことのぶどうの木、あなた方はその枝である」と主が言う時、私達は主イエスと一緒に一つのぶどうの木を形作っているのだ。

 慈愛の父である農夫はせっせと私達を手入れして、実がなるようにと育ててくださっている。育ての父が見守ってくださるこの安心感!このぶどうの木のイメージは私を力づけ、また幸せにしてくれる。

2021年4月25日日曜日

たぐいなきみ恵みよ

  「われ見たり 御子イエスを 緑の木陰に…(教会讃美歌105)」。今の季節、この様子が現実のように迫ってきて、復活の主をふと身近に感じることがある。

 4月は、主の育ったパレスチナ地方も新緑が美しかったのかなぁ。麦は新しい穂が出て、葡萄の葉は柔らかく茂り、いちじく桑は若葉をゆったり広げていただろうか・・・今と重ねてそんな風景が目に浮かぶ。

 「私は生きているよ。ほら、あなたのすぐ近くの緑の木陰をごらん!」と、主の声が聞こえるようだ。

 私達の日々にはいろんな事が起こるが、全ては御国へのプロセスの中にあることだ。今日も良き羊飼いの主は私達を導いてくださる。「さあ、ついておいで!」

2021年4月18日日曜日

復活の主はプラクティカル

  復活の主を見て「亡霊だ!」とうろたえる弟子たちに、主は手と足を見せてくださった。その上「まさしく主だが、これは現実だろうか?」と疑う彼らに、主は焼いた魚まで食べて見せてくださった。

 復活の主は弟子たちにくどくど小言などは言わず、どこまでもあるがままの彼らを受け入れて、「復活の証人」となるようにプラクティカルに教えてくださった。この復活の主に教えられ、励まされて今日も過ごせた。

 一日の終わりに思う。それは主の私達への慈しみのせいばかりではなく、主の証人となるよう期待しているからだ。罪の過去ではなく赦された未来に向かって進めという復活の主が示した有り難い実践なのだ。