2023年3月26日日曜日

人の目には不可能に見えるが

  主はラザロを甦らせた。科学的にも常識的にもにわかには信じがたく、それは不可能に見える。

 絶対に不可能と思われるようなことに立ち向かう人がいる。医師の中村哲さんは自ら重機を操作して、アフガニスタンで24.3キロの用水路を7年がかりで掘った。「殆どの病気は十分な食べ物都清潔な水があればかからない。飢えや乾きは薬では直せない」と気づいたからだ。今や、水無し地獄だったカンベリに緑が戻り農業ができるようになり、人々はスイカが食べられる。

 死んでしまったラザロを生き返らせるためエルサレムに向かって行く主イエスの姿の片鱗を、不可能に向かって突き進んだ中村哲さんの姿に見ることができる。


2023年3月19日日曜日

もう今は愛だけ

  先週のこと、ホスピスにおられるAさんと面会した。ようやく聞き取れる言葉と筆談でAさんが語った言葉。

 「以前はキラキラしたものに心を惹かれた。でも、今は愛だけ」この言葉を聞いて、私は大きくうなずいた。Aさんは続いて、「私はお母さんから愛されていないと思っていた。でも、今はお母さんが大好き。お母さんの愛がわかる。」それを聞いて、Aさんを抱きかかえるようにして支えていたお母さんが涙された。

 Aさんは2週間前に病床洗礼に与った。この世界で価値あるもの、キラキラしたものは自分にとってはもうどうでもいいものだ。自分にとって大切なのは愛だけなのだとAさんは言う。神にある愛だと受け取った。

2023年3月12日日曜日

まことの水を求める勇気

 四旬節は主イエスとの出会いを深めるときだ。

今日のサマリア人の女性のように私達も心の奥底に潜めて見ないようにしている自分というものがある。

 暑さと旅の疲れで休んでいた主イエスは喉の渇きを覚えて、サマリアの女性に水を乞う。そして、主はこの女性に「決して渇くことのない水」を求めるよう促す。その出会いから始まる主との対話、それに導かれるようにしてこの女性は救われてゆく。

 私達の身の回りにはその場しのぎに飲んで、その時々の乾きを潤す飲み物がたくさんある。主イエスという「まことの水」を求めるということ、主と本気で出会うことは勇気がいる。だが、素晴らしい!

2023年3月5日日曜日

聖霊は風のように

  私たちはすでに新しい命に生きるものとされているにもかかわらず、ニコデモのように旧い自分に囚われてなかなかその恵みの中を生きられない者だ。しかし、聖書は後にニコデモが主イエスの埋葬をしたことを伝えてくれている。(ヨハネ19:39)

 ニコデモがいつ、どのように生まれ変わったのか、聖書は語らない。しかし、主イエスはニコデモとの対話の中で、神の存在を風に例えて教えている。聖霊は風のように思いのままに吹いて、ニコデモを新しくしてくださったに違いない。

 聖霊の風は大枝を揺り動かし、そして小さな草花の葉をかすかに震わせて私達の魂に働きかけ続ける。

2023年2月26日日曜日

新しい枝がスクッと伸びた

   小田原教会の牧師館の跡地は今では防草シートと砂に覆われて、他の木々は牧師館の解体とともに一本残らず綺麗さっぱり取り払われた。

 解体後の敷地は建材の破片が残っていてそのままでは危険で人が踏み込めない。子どもたちの遊び場などとはとんでもない。高齢化の進んだ小田原教会にとって、雑草取りに追われることなく一番楽に管理する方法が砂利を敷くことだった。雑草対策には成功したが、砂利一面の庭では殺風景というほかない。

 ところが、すっかり枝を払って幹だけになった梅の木に新しい枝がスクッと伸びた。今、そこに梅の花が咲いている。生きている!本当に嬉しかった。


2023年2月19日日曜日

灰の水曜日におもう

 今週の「灰の水曜日」から教会の暦は四旬節に入る。私たちはこの日から復活祭までの40日間を主の受難・死・そして復活にあずかりながら過ごす。

 四旬節の日々を過ごす心構えは、ある意味で、自分を生きるのに苦しい、ぎりぎりのところに置いてみることだと言えるのではないか。そこからもう一度、神とのつながり、人とのつながりを見つめなおす。そうすることで、この自分を生かしてくださる神を思い、同時に苦しい状況の中で生きている兄弟姉妹との連帯を思うことができる。私にも何かができると思う。

 ウクライナに続いて今、トルコ・シリアが新たな隣人として与えられた。祈りと連帯は四旬節にふさわしい。 

2023年2月12日日曜日

プロフェッショナル

 先週のこと、パソコンのトラックパッドが突然動かなくなった。あれこれ思いつくことはやってみたがダメ。パニクってメーカーのサービスに電話した。

 電話の主は女性だった。慌てふためいているこちらの説明を冷静に聞いて、一つひとつ指示を出してトラブルの原因を探っていく。私の方は指示に従って必死に操作をしているうちに急にトイレに行きたくなった。遠慮がちに「あの、すみませんがトイレに行きたくなって・・・」と言うと、「どうぞ」との返事にホッと。

 結局、外付けのマウスで問題は解決した。パニクって電話した私に、辛抱強く手順を踏んで気長に教えて下さって本当に有難かったと感謝が湧いてきた。

2023年2月5日日曜日

寄り添う父なしには

 我が家の猫のマーブルはこの2ヶ月ほど具合が悪い。獣医師からは治療しても治らない病気だと言われて緩和ケアを続けている。それが動物にとって果たして幸せなことなのかどうか。ともすると、延命、過剰な医療ではないかという不安もある。

 しかし、マーブルは大好きな妻のベッドの上で最後の時を過ごしている。苦しそうな様子を見るのは辛いがこの小さきものが命を終える時、神が寄り添ってくださっていると信じる。

 「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。(マタイ10:29)」とある。ギリシア語本文では「父なしには」だと知った。


2023年1月29日日曜日

春の日は近い

 朝起きてみると、昨日降った雨が屋根の上で凍っている。さすがに今は大寒の最中なのだ。しかし、すっかり葉を落とした木の枝にはもう新芽が膨らんでいるのに気がついた。春の日は近い!と元気づけられる。

 「春の訪れ」は神様からの恵みのプレゼントに違いない。特に長く寒い冬を過ごす地域の人たちにとっては、日差しが長くなるのが本当に嬉しい。それだけで力が湧く。毎日の生活に起こるこんな小さな恵みは不思議な支えだ。

 葉っぱを落としたはだかの木は「頑張ろう、頑張ろう、春の日近いと歌っている(まど・みちお)」。外界が厳しければ厳しいほど天の父の懐にいる幸いを思う。


2023年1月22日日曜日

もう一日、待ってみよう

  朝、家人から「お誕生日おめでとう!」と言われて、今日が私の誕生日だということを思い出した。

 ちょうど教会総会の準備の真最中で、家人の提案で誕生日祝いは月曜日に延期することになった。

 ところが、どうも落ち着かない。いつもなら子どもたちからLINEで次々に「お誕生日、おめでとう」と送信されてくるはずなのだが・・・来ていない。チラチラとスマホを見る。家人も気にしてか「三人とも、よほど忙しいのよ」と、さり気なく慰めてくれた。それにしても、みんな順調だろうかと、老婆心から心配になった。

 遠く離れて暮らす子どもたちの上に「主の平和」を祈る。そして思った。もう一日、待ってみよう。

2023年1月15日日曜日

良しとされた

 いつもお父さんに連れられて牧師館の前の道を通るHくんは軽度の知的障害がある。彼は我が家の猫のJDが大のお気に入りで、前を通るたびに「Jちゃーん」と名前を呼びながら猫に会いにやってくる。年寄りのJDは寝ていることが多く、私も妻も少し面倒なときは知らん顔して出ていかないことがあった。

 先日のこと、Hくんはたいへん取り乱して、「Jちゃーん」と泣き叫んでやってきた。お父さんに来ることを制止されたらしいことがひと目でわかった。お父さんが私たちに迷惑をかけたくないと思ったということもよく理解できた。すぐにJDを抱いて玄関に出た。

 Jの頭をしばらく撫で、Hくんは満たされて帰っていった。ああ、良しとされたと私たちは思った。 

2023年1月8日日曜日

新しい境地

  年のはじめから季節外れの暖かい日が続いて、昼間は春のようだ。教会の庭には菜の花が咲き、牧師館の庭にも水仙、ミニバラが咲いている。

 昨年の暮、必要に迫られてとうとうそれまでのガラケイからスマホに買い替えた。いろいろ操作が覚えられなくてまごつくことしきりなのだが、すごく感心したことがある。それはGoogleレンズと言うアプリだ。

 試しに窓際においてある鉢植えの写真を撮ってみる。写真と同時にその花の名前がでて「花きりん」だとわかった。妙に気に入った。さっそく外に出て庭の花を撮ってみる。自分が花の写真を撮るなんて考えても見なかった!なんだか新しい境地に立ったのかな?

2023年1月1日日曜日

新しい年、2023年を迎えて平和を願い祈る。 

  昨年はロシアがウクライナへの軍事侵攻を初めた年だった。多くの人々が犠牲になり、その中には多くの子供たちが含まれている。マタイ福音書にはヘロデ王によるベツレヘム一帯にいた幼児皆殺しの物語が記されている。凄惨な記事であるがこれは史実だ。彼らは何のために犠牲になったのだろうか?

 第二次大戦で死んでいった人々が起き上がり、「自分たちは何のために死んだのか?」と問いかけてくる映画の一場面を思い出した。世界中のあちこちで未だ戦い続ける私達に、平和を作り出すための祈りと働きが求められている。ウクライナでの戦争が終わるよう、「神の国」が来ますようにと祈り、支えてゆきたい。

2022年12月25日日曜日

友からのクリスマス・カード

  クリスマスに旧来の友からクリスマスカードが届いた。

 何歳になっても友達は良いものだが、お互いに子育てが終わって、夫婦ふたりになってからはなおさらに良い。リタイアして仕事や子育ての責任を終えた今、高齢になった親や孫の世話をしながら家事を楽しんでいるという。教会の奉仕にもゆとりがにじみ出ている。毎日の生活の一つ一つがこんなに楽しいものだと初めて味わったと書いてあり、カードの隅っこには、「今年は暖かくなったらそちらに行きます。」とあった。

 ここ何年も会うことのなかった友達との再開を心待ちにする。私のこころのうちを照らしてくれた友からのクリスマスカード、壁にピンで留める。

2022年12月18日日曜日

アドヴェントのロウソク

 アドヴェントの第4週を迎えた。「希望」、「平和」、「喜び」、「愛」を表す4本のロウソクに火が灯る。

 わたしが子どもだったころ、雷などで停電する事が度々あった。そんなときは、懐中電灯というのもあるにはあったがたいていロウソクが活躍した。

 暗闇の中で電灯がつくのを待ちながら、ぼーっと明るく周りを照らすロウソクの周りに集まってどこか神秘的で温かい光を見つめていたことを覚えている。

 冬至に近づくこの季節、日はますます短くなってゆく。電気のなかったその昔、アドヴェントのロウソクの光はそのまま人々の心に「暗闇を照らす光」として感じられたに違いない。


2022年12月11日日曜日

みんなでするって、楽しい!

  待降節の第1週は「待望」から始まって、第2週の「準備」、そして今週は第3週の「喜び」だ。

 だから今週、教会に集った教会家族で何かを一緒にできたらいいなーと思う。

 今までも時々、礼拝後にみんなで草抜きをしたりした事がある。つい最近は礼拝堂の前の歩道の落ち葉掃きをした。その後で、お汁粉を食べた。そして思った。みんなでするって、ホントに楽しい!

 火曜日は小田原教会の牧師館の跡地整備の予定だ。みんなで働いて、お昼にはカレーを食べよう。きっと幸いな時となる。たとえ小さくても神の国での喜びを味わおう。世間の喜びとはひと味もふた味も違うはず。


2022年12月4日日曜日

マイ プレジャー(My pleasure.)

 アドヴェント第2週を迎え、一日一日クリスマスが近づいてくる。会堂の椅子カバーも洗濯され、庭も清掃され、クリスマスの飾り付けもすっかりできた。

 アドヴェント・クランツにろうそくが灯されるのを見ながら願う。昨年までとは何か少し違うクリスマスを迎えたい。つまり、新しい気付きが与えられて、クリスマスへの思いが深められることを願う。

 世界にいる助けを必要とする見知らぬ誰かや、日常生活の中で出会う隣人への奉仕は喜びだと知りたい。そして、奉仕をしたなら、「これは私の喜び」“マイ プレジャー”と言おう。2000年前のクリスマスの夜、主イエスはそんな喜びの中に生まれたのだから。

2022年11月27日日曜日

目を覚ましていなさい

  先日、国会中継を聞いていたら、これからの高齢化社会は健康寿命、経済寿命、生きがい寿命の3つの寿命について課題を抱えると言っていた。

 人生百年時代、確かにこのうちのどれ一つ失っても暗闇に生きることになる。不安は尽きない。果たしてこれらのことを回避できるか?かなり困難な気がする。

 主は「目を覚ましていなさい」と言われる。「助けを必要としている人に手を差し伸べること」「愛を持って生きること」の中に、キリストにある希望、恵み、喜びがあると言われる。それを忘れてしまえばそれこそ、暗闇の中に沈み込んでしまう。隣人への愛に目を覚ましていられますようにとアドヴェントの初めに願う。


2022年11月20日日曜日

三本の十字架

  小田原教会の十字架は珍しいと思うが三本の十字架が組み合わされて一組の十字架になっている。

 主イエスが十字架につけられたときに、主の右と左に二人の犯罪人が十字架につけられた。確かにあの時、ゴルゴタの丘には、三本の十字架が立てられていたのだ。この三本の十字架を見れば、十字架刑を受けている三人の情景がはっきり見えてくる。(ルカ23:32以下)

 右の犯罪人は「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、わたしを思い出してください」と願う。

 彼の願いどおり、主は「今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束された。三本の十字架を仰ぐとき、真っ先に天国入りを果たしたこの右の犯罪人がまぶしい。

2022年11月13日日曜日

対面は何かが違う

 月曜日は牧師の休日である。少し前に、今度の月曜日に来たいと長女が連絡してきた。孫たちを連れてくるのかと思えば、自分一人だという。 

 長女は夫と4歳と1歳の子供のいる家庭の主婦であり、またフルタイムで仕事をしている社会人でもある。

日々、忙しく過ごしている彼女が有給休暇を私の休みに合わせて取ったのだという。私たちが娘と水入らずに過ごしたのは、15年ぶりのことだと思いだした。

 長女の話を聞きながら、お昼ご飯を食べる。孫の話、夫の話、仕事の話・・・たったの2時間を一緒に過ごすために往復6時間かけて来た。LINEで始終話しているようなのだがやはり生はいい!対面は何かが違う。

2022年11月6日日曜日

天も地も、元気に楽しくやろうじゃないか!

 全聖徒の主日を迎えた。昨年の全聖徒主日から今日までのこの一年間に、お二人の兄弟姉妹が天に迎えられた。今年も90名余りの写真を聖壇に飾って、お一人お一人との懐かしかった日々を思い出す。

 私たちの教会は一人の兄弟と一人の姉妹を天へと送り出し、ちょっと寂しくなった。けれども天国では、お二人を増して、賑やかになったに違いない。

 天の国ではイエス様みずからホストとなって、食卓を整え、ぶどう酒を盃に溢れさせてくださる・・・そんな豊かな、楽しげな宴の有様が脳裏に浮かぶ。

 地上にいる私たちも天国の宴に触発されて、大いに隣人を喜ばせて、元気に楽しくやろうじゃないか! 

2022年10月30日日曜日

「ザアカイ!」と歌うと

 米国で過ごしたとき、長男が通っていたサンデースクールではよく「ザアカイの歌」に振りをつけて歌っていた。言わば、子どもたちのお気に入りの歌だ。

 「ザアカイは本当にちっちゃな人だ。ザアカイは木に登る。イエスはやって来て、「ザアカイ、下りて来なさい。今日あなたの家に泊まります」。全く聖書の通りの歌だけれど、子ども達が「ザカイ!」と指さしながら歌うと不思議なことにこの場面がいきいきしてくる。

 「あなたの中に素晴らしいものがある、あなたにはよいことをする力がある」とイエスはザカイを見つめた。そういう眼差しに出会ったとき、人はきっと本当に新たに生きる力を与えられる。 

2022年10月23日日曜日

ちょっと粋がってもいい

  私も若かった頃は、「好玉必打だ!いい球が来れば、必ず打つ」と、そんなふうにけっこう粋がって、やっていたと思う。

 自分は頑張っているし、やればできると、自分の力で生きているような感覚になっていた。たとえ謙遜でなくても、それが「若さ」ということだ。だから、若いころはちょっと粋がって、自分の力だけで頑張っているような気になって、たくさん失敗を重ねていい。

 そういう日々があればこそ、自分の限界を知り、人間の弱さを知って、神の愛に目覚めていく。人生には、そういう若いときも必要だ。この鼻持ちならないパリサイ人も救いに招かれている。(ルカ18:9〜14)

2022年10月16日日曜日

主キリストは人を自由にする

  某宗教団体に「解散命令」の要請をだすよう連日国会で審議されている。マインドコントロールによって人を不安にし、恐怖をあおって束縛する。「ねばならない」という思いにさせる。結果、多額の献金をさせ、家庭崩壊や子どもへの様々な人権侵害が起きている。

 しかし、私たちの主キリストは人を自由にする。罰せられるべき罪ある私たちの身代わりとなって、自ら十字架にかかってくださった。そして、私たちは無償で無罪放免になった。ピラトの公邸でキリストの代わりに放免されたあのバラバのことをふと思う。ああ、恵み、この自由、この軽やかさ・・・涙を拭う。今、自由の翼にのって、主のために何でもできる気がする。



2022年10月9日日曜日

「こいつね、ドジなんだよ」

 思い切って久しぶりに東京に出た。所要があって中高時代の友達に会うためだった。ところが、肝心なものを忘れてしまった。それがなくては会う意味がない。気がついたときは目的地に到着する電車の中だった。仕方がない、会うだけで帰るとしようと決めた。

 彼の工場に訪ねてみると、懐かしい顔で迎えてくれた。冷たいお茶やコーヒーをテーブル代わりのトラックの荷台に並べて勧めながら、「こいつね、ドジなんだよ」と、家人に高校生時代の私の失敗を告げ口する。

私の重大な忘れ物も「なんでもないよ」とばかりの口ぶりだ。目がニコニコ笑っている。相変わらず、いいやつだなー。主にある友人にすっかり温められた。

2022年10月2日日曜日

叔母をなつかしむ

  先日、叔母の納骨式を彼女の母教会で済ませた。

 叔母は日曜日の朝、礼拝が始まる15分前に亡くなった。あの日10時30分、湯河原教会の礼拝堂のいつものあの席に、叔母は座っているように感じたことを覚えている。肉の体から解き放たれて、自由な霊の存在で叔母は確かに礼拝に与っていた。

 叔母はいつも教会が大好きだった。「物心ついたときにはもう両親に連れられて教会に行っていたのよ。世の中の人はみんな教会にいっていると思っていたわ。」と言っていた。生涯独身だった叔母の95年の人生は教会と共にあったと言っても差し支えない。賛美を捧げ、よく仕えた。改めて、叔母に敬意を表したい。

2022年9月24日土曜日

主イエスの声が響いてくる

 自然災害は平等に人を襲う。だが、その影響と立ち直る力は貧富の格差によって、決して平等ではない。

 パキスタンの大雨と洪水の影響は深刻だ。国連が援助を訴える。「パキスタンの人々は前代未聞の大雨や洪水の影響に直面している。南アジアは気候変動の危機が顕著に現れる地域だが、今日のパキスタンで起きていることは、明日のあなたの国でも起きるかもしれない」と。

 今日、「金持ちとラザロの話」から響いてくる福音に耳を傾ける。この金持ちは門前の物乞いラザロの困窮を知っていながら一切、憐れみをかけなかった。彼は「自己中心の罪」を問われている。私達の中に巣くう「怠りの罪」に改めて気付かされる。主イエスの愛を私の中に燃やしてくださいと祈る。

2022年9月18日日曜日

信仰の飛躍が求められている

  赤とんぼが飛び、彼岸花が咲き始めた。夏から秋へと季節が進み始めていることを感じる。

 9月、小田原教会では礼拝堂に隣接して建っていた牧師館を取り壊した。後には一軒分の更地が現れた。

 牧師館の解体までには多くの準備があった。それらの一つ一つが手順を追って進められて、ようやくこの状況にまでたどり着いた。

 今、更地に立って思うこと。それは、この土地は新たな宣教の手段として与えられたということだ。どのように利用するか。それは、どのように宣教していくのかということだ。これまでと同様の関わりでいいのか。一人ひとりに信仰の飛躍が求められている。

2022年9月11日日曜日

自分らしく生きられる気がした

  1匹の迷いでてしまった羊を探しに探して、やっと見つけた羊飼いは「ああ、見つかってよかった!無事でよかった!」と涙するほどに羊を抱きしめたに違いない。

 また、1枚の銀貨を失くした主婦は家中を掃除して、「銀貨が見つかりました。部屋の隅に転がっていたんですよ!」と近所の人々に大喜びで伝えただろう。

 1匹を探すために99匹を残して出かける羊飼いも、近所の人には関係のない銀貨のことで大騒ぎをする主婦も尋常ではない。それは失ったものが大事だからだ。

 天の父の懐から逃れて迷った一匹の羊、一個の銀貨はこの私自身だ!天の父に救われて、繋がって、安心できた。そこに立つ時、自分らしく生きられる気がした。


2022年9月4日日曜日

これでお前とは兄弟になったなあ

 私は大学4年の時に洗礼を受けた。無医村の医者で家庭に時間をほとんど割けなかった父の言葉を思い出す。「これでお前とは新しく兄弟になったなあ」。

 また父は「やっと親としての責任を果たせました」と牧師に語ったそうだ。その父は、徹底した信仰の祖父に反抗して37歳でやっと信仰告白に至ったそうだ。祖父は食事のときにも聖書を離さなかったというが、父の信仰告白に祖父は天で喜び踊ったことだろう。

 あいかわらず親子だけれど、主キリストにつながる兄弟の関係、そんな霊的につながった新しい家族関係を主は与えてくださる。この私が、祖父や父と共に主にある兄弟だというのは、有り難い恵みだ!

2022年8月28日日曜日

草取りは神の親心の祝福

 草取りをしながら徳富蘆花のエッセイを思い出した。

 彼は言う。農家は6,7,8,9の月が草との合戦だ。五穀は野草に比べて脆弱だから放っておけばやられてしまう。息つく間なく取ってもキリがないと言いながら「一本抜けば、確実に一本減る」と自ら励まし、草を取る。

 彼は、「油断をすれば畑も、人の心も、あたりの社会も草だらけになってしまう」と言いながら、世界の草の種を取ることは必ずしも我らにとって幸福でないかもしれないと自戒もする。創世記3章を引用して「旧約聖書は、草は人間の罰と見た。草取りは神の人に対する親心の祝福である」と結んでいるのには驚いた。

 神の親心に答えて草を取る、そう思うと楽しくなる。

 

2022年8月21日日曜日

人も家畜も元気を回復するための日

  主イエスの当時、安息日の規定では卵一個の重さまではよし、それ以上の物を持ち運ぶことは労働とみなされたという。笑ってしまうが、似たような話が高校時代の校則にあったことを思い出した。無意味な校則のチェックに先生方は疲労したことだろう。

 安息日の律法、それはシナイ半島での選民イスラエルに対する天父の愛の配慮にほかならなかった。規範がなくては選民もただの烏合の衆だ。時代を経て安息日は奴隷や牛やろばを休ませるため(出エジプト23:12)の日となった。

 主日は「主の復活の日」だ。その主日を「喜びの日」と言われた主イエスの配慮は何かと、今思い巡らす。

2022年8月14日日曜日

麦茶が好きだ

  コップ一杯の冷たい麦茶を机に置いて、聖書を読み始める。夏の朝5時、冷房無しの爽やかな朝、しばらく主と共に過ごす。これが日課である。

 夏は水分を取らなければと、せっせと麦茶を飲む。沸かした麦茶は胃への負担が少なく、体に優しいと言うのが長年麦茶を愛用してきた私の感想だ。だが、最近の日本の夏は亜熱帯地方の暑さだ。麦茶ばかりを飲んでいてはかえって熱中症の心配がある。「シニア世代の麦茶信仰」と子どもたちは警告する。確かに環境は変化した。この夏は経口補水液と併用することにした。 

 「朝風静かに吹き 小鳥も目覚めるとき・・・」主との語らいの時、やはり私は麦茶が好きだ。

2022年8月7日日曜日

どんな中にも主の慈しみが

  年一回、牧師に与えられた休暇を喜んで迎えた。ところがこの暑さの中、家人が体調を崩して寝込んだ。

 今の時期、どこの「発熱外来」も一杯。やむなく自宅療養することに。すぐに「抗原検査キット」で、陰性だとわかったが、一週間近く寝込むことになった。

 家人が回復し始めた頃、5年ぶりに米国滞在の長男が一人で訪ねてきた。孫がやはり熱を出したためだ。

 久しぶりに親子水入らずの時を過ごした。長男の顔を見て話を聞きながら長男とその家族の過ぎ去った日々の経験を頷いて聞く。それはこの5年間の空白を埋め合わせて有り余る恵みだ。病気は嫌だが、どんな中にも主の慈しみが満ち溢れていることを実感した。

2022年7月31日日曜日

すべては過ぎ去る。しかし・・・

 小田原教会では間もなく牧師館解体が始まる。先日、解体業者の方々から説明を受けた。手順に従って一つ一つ進めてゆく。

 礼拝後に、牧師館に残された廃棄する多くの物から残すものを選別する予定。もう使わないだろうと思える数々の物を前にして、「もう役目が終わったのだ」と、簡単には割り切れない思いが残る。その時、そこに奉仕してきた多くの兄弟姉妹の思いが想像される。

 しかし、神を愛し、人に仕える小田原教会のこれからにふさわしいあり方を模索しながら進みたい。「すべては過ぎ去る。しかし主の言葉はいつまでも残る」との主イエスの言葉に力を得る。

*8月7日の牧師のツイートは休暇のため休ませていただきます。


2022年7月24日日曜日

夏対策

 今年も暑い夏が来た!この夏を元気で過ごしたいと願う。私なりに「夏対策」をする。

 一つはヨシズである。窓の外にヨシズを立てかける。そして、窓という窓を開け放ち、外から風を入れる。これで部屋の空気もずいぶん涼しくなった。

 もう一つはウォーキングだ。一日7000歩を目指す。歩くのはもっぱら夕食後だが、流れる汗をかいた後は疲れるが、達成感はちょっとあるかな・・・?

 暑いしコロナも猛威を奮っている。しかし、ギラギラ太陽に向かって鎌を振り上げて、「暑いぜ!おれは負けないぜ!」と照れながら言うかまきりりゅうじ(『のはらうた』より)に自分を重ねて、ふと楽しくなる。

2022年7月17日日曜日

マルタからもマリアからもだ

 主イエスをもてなすために忙しく立ち働くマルタ。これまで教会はこのマルタの働きにどれほど助けられてきただろうか! マルタの働きは尊い。

 ところが、忙しさの余り、マルタは主の言葉に聞き入ってばかりいるマリアを非難する。

 従来、ここはマルタとマリアを比較して、マリアは御言葉に聞く観想的なタイプ。マルタは活動的なタイプ。そして、御言葉に聞くことが何より大切との結論によって、このマルタを批判的に見てきた。

 しかし、主は祈りながら活動し、活動しながら祈ることを教えてくださっている。ここから学ぶのは、マルタかマリアではなく、マルタからもマリアからもだ。

2022年7月10日日曜日

病みつきになりそうだ。

 イエス様の善きサマリア人のたとえは「隣人愛」の教えだ。主イエスは、愛する相手に条件をつけたり、範囲を設けたりしないで「助けを必要としている人はだれでもあなたの隣人」とおっしゃる。

 私たちは、自分が助けるべき相手はどのへんまでかを常に自問自答している。実に損得勘定によって!

 「隣人愛」とは地球規模に広がってゆく明るい壮大なイメージだ。今ここに、助けを必要としている人がいることがわかったなら「隣人愛」の実践は今だ!

 もしも隣人の役に立てたなら、どんなに楽しいことか!「隣人愛」は味わってこそわかる。きっとハマル。 神の国の味は病みつきになりそうだ。

2022年7月3日日曜日

シャロームという平和

  トルストイの小説『戦争と平和』が余りにも有名なので、かつて私はあさはかにも、平和というのは戦争のない状態というぐらいに考えていた。

 主イエスは、「どこかの家に入ったら、平和があるようにと願いなさい。」と教えてくださる。

 平和、それは神の救いの恵みの総体であって、人権に関わることなのだと改めて学び直した。

 神との和解、自然との調和、安全、健全、祝福、休養、光栄、富、救い、命などを含む大変含蓄のある言葉だ。平和に過ごすというのは決して波風が立たないように、ということではない。簡単ではないが、キリストにおいてこそ成ると信頼する。

2022年6月26日日曜日

弟子の覚悟

  主は主に従おうとする者に言われる。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」。

 私はこの箇所を読むたびに、神学校の入学式のことを思い出す。神学校の入学式の前日、父が召された。すぐに郷里に帰らせてくださいと願いでた。ところが、神学校長から、式に出て、オリエンテーションを済ませてから行くようにと言われた。

 これから歩もうとしている主イエスとの旅路を、神の国にふさわしい者として歩むという新たなステージに入ったのだと気付かされた。天の父は、肉の父を召して、牧会者としての大切な学びをさせてくださったと、いつも感謝をもって思い起こす。

2022年6月19日日曜日

サタンのシッポ?!

 運動のために、妻と二人で夕食後にウオーキングを始めた。夜、人も車もいなくなった◯◯病院の広い駐車場の歩道は街灯がついて明るく安全。周囲が150メートルくらいもある楕円形の歩道はさながら運動場のトラックだ。その歩道を折半してもう一本の歩道が通るが、たいてい私たちは楕円形の歩道をグルグル歩く。

 ある時、コースを外れて真ん中の歩道を歩いていた妻が私を呼ぶ。「ここを歩くと私の影に尻尾があるのよ!」と怯えた声。それは左右に並ぶ街灯の光のイタズラなのだが、妻の影にさながらサタンのシッポ?!私の股にもサタンのシッポが歩くたびに揺れた。

 思わず笑った。人が知らないサタンのシッポ! 

2022年6月12日日曜日

目先の都合で

  関東はもう梅雨に入ったと聞いて驚く。確かにこのところの天気を見れば紛れもなく梅雨入りだ。

 今年はすっかり紫陽花が枯れてしまって、梅雨の庭がどことなく寂しい。庭の一隅を占めて伸び放題だったため、二年に渡って刈り込んだためだろうか?

 例年なら大きな緑の葉が茂り、淡い黄緑や青の紫陽花がいっぱい花をつけるところだ。ジトジトジメジメの中で人間の方は恨めしそうに雨天を眺めているのに、紫陽花は梅雨の中でみずみずしく元気一杯だったなー。あれは本当に良かった!と思い返す。

 邪魔だからと思ったあの時は、冬枯れのさなかだった。私の都合は、まさしく自分の目先の都合だった。



2022年6月5日日曜日

小さなサインを見逃さず

  使徒言行録には聖霊はドロマティックなイメージで描かれている。突然、激しい風が吹くような音が響き、炎のような舌が現れて弟子たちにとどまる。

 もう一方で、静的で内的なイメージの聖霊がヨハネ福音書に記されている。復活の主が現れて、弟子たちに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と言われた。主はこの聖霊を弁護者(助け手・慰める者)と呼ばれた。

 私の日常には聖霊はあまりドラマティックな仕方ではおられないようだ。しかし、聖霊はいつも私と一緒にいてくださり、助けていてくださるのを感じる。

 どうか、今日も主の言葉を思い出させて、聖霊の出す小さなサインを捉えることができますように。

2022年5月29日日曜日

聖霊はスタンバイ!

 今日、主イエスは弟子たちを祝福しなが天に昇られた。その弟子たちの中に自分がいる、そんな姿を想像して描いてみる。戸惑いつつも眩しいような顔をして主を仰いでいる自分の姿が浮かぶ。
 「イスラエルのために国を立て直してくださるのはこの時ですか」と、復活の主にお会いしながらこんなトンチンカンな問をするほど弟子たちのこころは鈍く弱っていた。約束の聖霊はまだ降っていないからだ。
 主はそんな弟子たちに「あなた方に聖霊が降ると世界の果てに至るまで私の証人となる」と宣言される。すでに愛の聖霊はスタンバイ!足元ばかり見つめる私たちの目線を地平線、水平線の彼方へと導いて下さる。

2022年5月22日日曜日

初夏の気配

  卯の花が咲いてこの頃はすっかり初夏の気配だ。

早朝に「ホーホケキョ!」と、うぐいすの鳴声。その鳴声の清らかさに心が打たれる。いっとき、さえずりの歌声を賛美歌のように聞きながら聖書を開く。

 そして居眠りの出る午後「ツピチペ、ツピチペ」とシジュウガラの鳴声。窓の木の梢を見回すが姿は見えないが元気なさえずりに眠気が吹っ飛ぶ。

 復活の主イエスは40日間を弟子たちと過ごして、希望なく過ごしていた彼らを励まされた。もうじき主は天に昇られる。あれ以来、主の聖霊がやってきて私たちと一緒にいて下さる。目には見えないが聖霊は私たちのうちにいて愛の革命を起こして下さる。

2022年5月15日日曜日

恵みの甘夏

  復活節のこの頃はちょうど甘夏の収穫時期となる。

感謝なことに、今年も信徒さんの畑から収穫したばかりの甘夏が教会に届けられた。無農薬の甘夏は果実ばかりか皮こそが重宝なのだそうだ。

 連日のように、蜜柑の香りが家中に漂う。家人がマーマレードや甘夏ピールづくりに熱中しているからだ。恵みの甘夏だから新しいうちに作って届けたいと言う。これはささやかな“Her Mission”なのだ。

 マーマレードは瓶詰めにされ、甘夏ピールはバターケーキに焼き込まれる。試食係の私にはちょっとほろ苦いかな…?果たして皆は「苦いのがいいのよー」と優しい。人との分かち合いは本当に祝福だと思う。




2022年5月8日日曜日

さっそく一服

  自宅のお茶の木のから作ったという新茶を頂いた。新茶は新しいうちに飲むから新茶なのだと、さっそく一服。

 急須の中で針の先のような葉っぱが広がって、爽やかな自然の植物の香りがする。さっぱりした味、飲んだあとはスッキリ。美味しいが新茶を贅沢だと思った。

 八十八夜も過ぎ、立夏を迎え、季節は春から夏へ。今、季節の移り変わりを楽しむことなく、戦禍と弾圧に傷つく多くの人々を意識の外に置くことはできない。

 5月3日に全国の日本福音ルーテル教会はズームで「平和と共働の祈り」を捧げた。「危険にさらされ、恐怖の中にいるあなたの大切な子どもたちをあなたが抱き守ってくださいますように」と祈った。

2022年5月1日日曜日

例年ならば・・・

 大型連休が始まった。

 例年なら、この時期には全国の牧師会と定期総会のために東京で過ごす3日間となる。だが今年もコロナ禍のためにキャンセルとなった。

 せっかくの連休も出不精の私は牧師館でぼちぼち仕事をしながらのんびり過ごす以外に思いつかない。家人から責められるかもしれないな?しかし、家人は「Kさんの誕生日がGW中でよかった」と言いながら娘の夫の誕生日のケーキを送るためにせっせと焼いている。

 私はカードに「いつも応援しています。いつも祈っています。P&M」と書いた。心は決して疎遠ではないが、会えない日頃の思いを、祈りに託した。

2022年4月24日日曜日

トマスに重ねて

  トマスのように「もし、〜でなければ」という条件づきの信仰は私たちを自由にしない。しかし、トマスがこういったのは、他の11人の弟子たちが復活の主に出会ったのに、自分だけがその場に居合わせなかったからである。トマスのその心はまさしくふくれっ面!

 トマスは、ラザロを甦らせに行こうとする主イエスに従って「わたしたちも行って、主と一緒に死のう」と弟子たちに訴えている。トマスは筆頭格のペテロとは違うが、彼なりに弟子の気概を持っていた。

 ヨハネはそのトマスを4つの場面に登場させて主の重要な言葉を引き出させている。トマスの人なりに思わず自分を重ね、主の優しさをホックリと味わう。



2022年4月17日日曜日

たぐいなき御恵みよ

 「たぐいなき御恵みよ、主は生きていたもう。何故に我が魂は悲しみに沈む・・・」これはイースターの讃美歌の一節だ。主イエスは死んでしまった、もう私達の希望はついえたと、暗い顔をしてエマオへの道を歩いた弟子たちのことが思い浮かぶ。しかし、そんな弟子たちにいつしか復活の主イエスが伴に歩いてくださっていた。後になって、「あの時、確かに私の心は燃えていたではないか!」と気づかされる。

 イースターには緑の若葉が似合う。今朝も、主イエスはひょっとして木陰から私の肩越しに、私を見ていてくださるのではないかと思う。ふと、主の気配を感じて振り向く。一陣の春の風が吹いて私は満たされた。

2022年4月10日日曜日

目をそらさずに

  十字架を負って進まれる主イエスから目が離せない、いやそれどころか釘付けになる。今、この十字架を負う主の姿に、苦しむウクライナの人々が重なる。

 せめて私にできること、それはこうしたことは歴史が繰り返してきた事だと言って目の前の残酷な事実を薄めない事だ。彼らの負う十字架はかつて人々も負ってきた事だと言って、軽いものだと見なさない事だ。今、できること、それはウクライナで起こされている破壊と暴力に目を背けないで、注視し続けることだ。

 誰もが十字架を負っている。十字架のあるところには必ず主キリストの慰めと希望がある。「自分の十字架を負って私に従いなさい」との主の言葉を恵と思う。

2022年4月3日日曜日

立ち返りたい

  四旬節第5週もウクライナの人々の苦難を思う。祈れば祈るほど何かをしなければならないと思う。

 マリアがナルドの香油を主イエスに注ぎ、髪で足を拭ったという話は美しい。この時の1リトラ(326cc)のナルドの香油の値段は300デナリ(労働者の300日分の労賃)ほどと考えられる。常識からみれば驚く話だが、主は惜しみなく献げたマリアの一途な慈善を信と愛のわざと受け止められた。

 祈りが本物であるとき、慈善のわざという実を結ぶことをマリアに教わる。マリアは差し出すことのうちにある深い喜びに浸ったに違いない。この四旬節、マリアのように、主への信仰と愛に立ち返りたい。

2022年3月27日日曜日

響いてくる

   ジョン・ホーランド牧師を時々ふと思い出す。

 20年ほど前になるが、アイオワ州にある小さな町のバプテスト教会で教会生活をしていた時のことだ。その礼拝に何人かの日本人の高校生が出席していた。その生徒たちへの伝道の為に、その日の聖書日課を日本語で朗読するよう求められた。礼拝出席者、約500人の教会だったがこの謙虚さと寛大さに感謝した。

 礼拝前、大人のサンデースクールの一つに妻と私は参加した。(その仲間が私達のアメリカ生活を終始支えてくれた)。礼拝を終えて帰る時、決まってホーランド牧師が握手しながら私を送り出してくれた。“Hiro, I love you.”と。今でも天の父の言葉のように響いてくる。



2022年3月20日日曜日

ありがたくて

 成果が出なかったり、失敗したときに「まだ、先があるんだからから待ってやって」と、とりなしてくれる人がいたならどんなに救われるかしれない。

 ぶどう園に生えている実のならないいちじくの木は園丁のとりなしによって切り倒されずにすんだ。「待ってください。わたしが木の周りを掘って肥料をやってみますから」。主イエスが父の神に申し出たとりなしは、自ら実のならない木の世話をするというものだった。

 実がならない木は切るのがこの世の当然だ。しかしそんな木を慈しんで、惜しんでいる存在があると知ったなら、どんな木だって実をつけずにはおられない。ありがたくて、悔い改めの実はおのずと実る。

2022年3月13日日曜日

愛さずにはいられない

  「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」と、主はご自身を愛の翼を広げて雛を守り養うめん鳥に譬えた。

 これは招きに応えない神の民への主の嘆きではあるが、決して人々を断罪する言葉ではない。めん鳥は雛鳥を愛さずにはいられないのだ。

 めん鳥が翼の中に雛鳥を集めている様子を見る機会はなかなかない。平和なときの想像であれば、そこには楽しい、優しい、和やかな情景が浮かんでくる。

 しかし、今わたしたちは侵略戦争の残忍さを目の当たりにしている。人々の悲惨な状況にこころを寄り添わせ、母親と幼い子供たちに思いを寄せます。

2022年3月6日日曜日

ウクライナに平和を!

  首都にいると命の危険があるから逃げるように進める側近に「私はここにいる。武器を下ろすつもりはない。領土を、国を、子どもたちを守る」と語ったゼレンスキー大統領の表情は死を覚悟した人の顔だった。

 ロシアの戦闘車両の前に人の鎖を作って立つウクライナの人々を見た。爆撃で自分たちの町が無残にも崩壊するのを見た人々は毅然と立ち向かうのだと改めて知った。一人のおばあさんがロシア軍の兵隊に向かってこう叫ぶ「あなた達はロシアに帰りなさい」。

 今、誰もがウクライナの情勢に心を痛める。

主よ、どうかあなたを信じる者の祈りをお聞きください。ウクライナに平和を!

2022年2月27日日曜日

ウクライナの人々を思って祈る

  プーチン大統領のロシア軍がウクライナに侵攻した。

 今の私には何かできることが思いつかない。

 なんとも憤りの混じった辛い気持ちで、だが支援を込めてウククライナ情勢を見守る。

 折しも2日は「灰の水曜日」だ。ここからレントが始まる。ローマ教皇は、この「灰の水曜日」に信者に心を込めて祈ることと断食に招いている。そしてルーテル世界連盟は世界のキリスト者に“私たちも祈りを合わせましょう”と呼びかけた。

 平和の源である主が世界を戦争の狂気から守ってくださることを、政治的・軍事的責任を持つ人々が神のみ前に糾明されることを、ともに願って祈ります。

2022年2月20日日曜日

高く、高く

  北京オリンピックのテーマソングが流れる。「どこまでも高く高く飛べると 見たことのない景色まで」と高みを目指す歌詞だ。いま少しだけとTVの前で応援する。やっぱりオリンピックはイイなー! 

「高みを目指して」挑戦する選手達を見ながら、「より高く」と邦訳された詩を思い出した。エクセルシオーExcelsior と言うラテン語で「さらに高い」を意味する形容詞(excelsusの比較級)が使われている。

 生まれたときから十字架を背負って生き、弱き貧しき人々を慈しんで教えた主イエスはゴルゴダの丘を登ってゆく。その気高さをエクセルシオーと詩人は歌った。主は「より高く」を目指されたと今更思われた。


2022年2月13日日曜日

二酸化炭素が地球を救う?

  『大人塾』というラジオ番組で、二酸化炭素(CO2)が地球を救うという話を聞いて驚いた。

 話し手は村木風海(かずみ)という大学3年生の化学者で発明家だ。彼は高2のときCO2に水を加え、触媒にアルミを入れてメタンガスを作ってしまった。また、CO2を使えば燃料もできる。燃やせばCO2を排出するが、その原料はCO2なのだから±0だという。

 地球温暖化の原因となっているCO2が地球を滅ぼすと半ば信じていただけに、これはまったくのGood Newsだ!神に託されてこの世に責任を持つ者として、空気中のCO2をリサイクルして燃料に変えて使うことには大賛成だ。希望が見えたぞ!

2022年2月6日日曜日

宣教の希望

  立春を迎えたがまだまだ寒い。けれども教会の菜の花は満開だ。「光は快く、太陽を見るのは楽しい(コヘレト11:1)」と言っているように輝いている。

 オミクロン株が蔓延していて人との交わりが難しい状況が長く続く。誰の心にも孤独感が強くなりがちだ。孤立しないよう愛の配慮で兄弟愛を深めていきたい。健康を保ち、社会生活が維持されるよう願う。弱いところが崩れないよう、助け合えるよう祈る。

 今日、主はペトロに近づいて、宣教は決して徒労に終わらないことを約束してくださった。この総会から2022年度が始まる。今、主イエスが近づき「沖に漕ぎ出し、網を降ろしなさい」と希望をくださる。

2022年1月30日日曜日

いつだって、トライ・アゲン

 今日の聖書に登場する人々は主の郷里の人たちだ。それまで主の語る言葉に感動し、驚嘆したと思えば、今日はもう「あれは大工の息子じゃないか!」と軽蔑をして主の言葉を打ち捨てる。

 人間はこういう心の狭さ、頑なさを持ち合わせている。だから世界に、いや、私とあなたとの間に神がおられなければ世界は地震でなくとも揺れに揺れる。 

 コロナ禍、この難局にあって神の愛が私たちをつなぎ止め、保ってくださる。弱いところが潰れてしまわないように支え合わなくっちゃー。久しぶりに忍たま乱太郎の「100%勇気」を聞く。失敗に挫けない乱太郎が眩しい。キリスト者はいつだってTry againだ。

2022年1月23日日曜日

あなたが聞いたとき、実現した!

 自分は教会のために何もできないから、お便りをいただくのも心苦しいので教会名簿から外してほしいという方と話した。この方は、何もできないという囚われに苦しんでいる。誰にも「囚われ」はある。

 しかし、この捕らわれからの解放のためにこそ主イエスは来てくださった。主は「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と完了形で言われる。まさに、御言葉を聞いた今、「あなたはその囚われから解き放たれた」と言われるのだ!

 できないままで、どうか安心して教会家族につながっていてください。祈り合い、助け合う教会家族ってあったか〜いですよー。

2022年1月16日日曜日

夢見心地になってしまう

  今日、主イエスは清めのために使う水瓶の水をぶどう酒に変えるという恵みをくださった。

 準備が追いつかなかったのか、それとも予想以上に来客が多かったのか、台所をあずかる母マリアの慌てぶりは想像に難くない。

 律法に従って手を清めるために置かれてあった大量の水が、結婚式の宴会を盛り上げる大量のぶどう酒に変えられた。なんという気前の良い話だろう!

 主のくださる良いぶどう酒は果たしてどんな味だったのだろうか?私はつい招かれた招待客の一人となって想像が膨らむ。主と楽しみを共感し合えるなんて、嬉しいなー、いいなーと夢見心地になってしまう。

2022年1月9日日曜日

その確かさに感謝!

 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの」。この神の声は主イエスばかりか洗礼を受けた私たち一人ひとりにどこにいてもいつも注がれている。

 例年になく寒い冬、オミクロン株もジリジリ迫ってきている。しかし、住む所があり、そこにはストーブがって、あったか〜い味噌汁があったとする。それだけあれば、聖霊はわたしに「おまえは神から愛されている。おまえは幸せだ。」とささやいてくれる。

 ある労苦多き姉妹が緊急受洗後、まもなく入院。コロナ禍、個人情報保護の壁。以前のように病床を訪ねられないまま9月から12月の間に召されたとだけ分かった。だが聖霊による洗礼。その確かさに感謝!

2022年1月2日日曜日

「大好き、大好き、大好き!」

 昨年の晦日になって長女の家族に送るために小包を作った。遅ればせのクリスマスケーキを家人は焼いた。そして、孫たちにささやかなプレゼントを入れた。カードには孫たちの名前とその横に「大好き、大好き、大好き!」と書いた。これだけでいいと思った。最後の最後にやっと送れたことに安堵したし嬉しかった。

 大晦日、「届いたよー」と弾んだ声で電話がかかってきた。大好きを伝えることでこんなに元気になれるなんて素晴らしい!大好きはGood newsなのだ。新しい年も神様の大好きが誰にも届けられたらいいと願う。

 主を信じつつ、一つ一つやって行けばきっと御心がなっていくと、そう思いながら新年を迎えた。

2021年12月26日日曜日

謙遜な人々の中に

 2021年もコロナ禍に明けコロナ禍に暮れようとしています。様々な課題を持ち越しながらも今年も御子イエスの御降誕をお祝いできたことを感謝します。

 湯河原教会は小さな群れですが、この一年も私たちの生活に見合った、私たちにできる愛の分かち合いをしてきました。今年のクリスマスカードに感謝の言葉が寄せられているのを見つけました。「このクリスマスにイエスを探しあてることができ、イエスを見出す喜びを感じることができたことは幸せです」と。

 クリスマスに馬小屋でうまれたイエスとは謙遜な人々の中に住まわれる神の愛の名だと感じ入りました。年の暮れ、皆様のご健康を祈ります。

2021年12月19日日曜日

クリスマス、行けない代わりに贈ります

  医療機関に長期入院の◯◯兄は、コロナ禍で病院の状況は変わらず、今年のクリスマスも教会に行けないと手紙で知らせてくださった。しかし、代わりにと自作のクリスマスソングが同封されていた。

 「教会で祝った僕らのクリスマスの日 イエス様お誕生おめでとう 今日はみんな仲良く 今日は楽しいパーティー 教会はハッピーな僕らのパラダイス 皆さんありがとう クリスマス クリスマス Oh!」

 彼は教会のクリスマスを懐かしく思い出している。彼のギターに合わせて歌った礼拝。愛餐会で披露した手品はスゴかったなー。主にあって今も教会とつながっているんだ!その彼の気持ちが伝わって温かい。

2021年12月12日日曜日

神の恵みで救われる

  突然、新興宗教の人から電話がかかってきた。「コロナ禍で不安はありませんか。希望について話しましょう」という。私は「それでは、あなたは救われているんですね」というと、「えっ、救い?救いですか?」とびっくりしたような声。福音を語らず、不安をあおって布教するのが新興宗教の常套手段だ。「あなたが救われるようにお祈りしますね」といって電話を終えた。

 私たちは自分の努力で救われるんじゃない、神の恵みで救われるのだ。本来は神の愛がすべてで、待降節はその愛の分かち合いをするそういう喜びのときなのだ。「喜びの主日」はそういう原点に帰ることを忘れないようにしようという時でもある。

2021年12月5日日曜日

主よ、どうぞ私たちの内に来てください!

  来年度、大きな節目を迎えようとしている兄弟教会の小田原教会では、待降節に向けてみなさんが良い備えをしてくださっている。

 20日に〇〇さんが牧師館周りの草刈りをしてくださった。21日にはクリスマスツリーや礼拝堂の飾り付けがされ、28日には屋外に電飾が飾られ、礼拝堂の窓ガラスが拭かれて、椅子カバーもきれいに洗濯された。クリスマスクランツにも週毎にろうそくが灯る。皆さまの一つ一つのご奉仕に感謝いたします。

 日毎に小さな感謝を積み重ねながらこうして喜びに満たされて、祈りながら主をお迎えできる幸いを思う。

   主よ、どうぞ私たちの内に来てください!

2021年11月28日日曜日

祈りが継がれた

 梅北美智子さんは『聖書日課』の教会を覚えて長年にわたって祈りの葉書を出し続けてこられた。その彼女が今年5月5日天に召されたということを知った。

 湯河原教会も祈りの葉書を何度か頂いたことに改めて感謝したい。「高齢のためにとうとうこの働を諦めざるを得なくなりました。心残りですが今回が最後になりました」という葉書を頂いて二年ほどになる・・・。

 葉書一枚を書くのは特別のことではない。が、何年にも渡って毎日力の尽きるまで書くのは平凡ではない。

 今日一枚の祈りの葉書が届いた。梅北さんの祈りが誰かに受け継がれたのだ。待降節、新たな希望を一枚の葉書にも見る。地に平和、み心にかなう人にあれ!


2021年11月21日日曜日

聞こえていなくてもの感謝!

  久しぶりに問安に伺った。いつもZOOMで礼拝に参加されている〇〇兄弟が遠慮がちにおっしゃった。「先生の説教の声が全く聞こえないんです」。このところ他の方からも似たようなことを聞いていたのですぐにZOOMの実験をしてみた。なんと、WiFiマイクが接続されていないなかった!さっそくアダプターを購入。これでもう大丈夫、ご安心ください。

 それにしてもZOOMで礼拝に参加し続けてくださった兄弟姉妹の愛には感謝する。聞こえないのに、礼拝での交わりを大事にしてくださっていたのだ。

 今日、「真理とはなにか?」のピラトの問に、私は「神の愛」だ、「主イエスの慈しみ」だと答えたい。


2021年11月14日日曜日

あったか〜い思い

 兄弟教会の小田原教会では、すっかり伸びてしまった庭木の剪定のために植木屋さんをお願いした。

 植木屋さんは一本一本の木を丁寧に見てまわって言う。「花梨は日光が好きで、前に建物が建つと花は咲いても実はつけられないな〜」。「梅はもう枝に花芽をいっぱいつけているので、今剪定すると来年の花は咲かないねー」。植木屋さんが木の性質に詳しいのはプロなのだからよく分かるが、私がそれ以上に感心させられたのは木たちへのあったか〜い思いを感じるからだ。

 一本一本の木への配慮を聞きながら、なんだか似てると思った。こんな自分なのに、慈しんで心配りしてくださる神の親心が急に身にしみる気がした。

2021年11月7日日曜日

天から始終話しかけてくる

  穏やかな小春日和から始まった11月、青い空に白い綿雲がのんびり浮かぶのを見ていると、不思議にも天国があの空の彼方にあるように思えてならない。

 天国はきっと平和で、穏やかなところだと思い描く一方で、召された方々は喜びに満ちて、生き生きと新しい命に生きているという思いがしてならない。

 昨年召された叔母は、このコロナ禍で未だ納骨も済ませず、箱に入ったまま我が家にいてもらっている。箱の上に叔母の手のぬくもりのする聖書と讃美歌をのっけてテーブルの上にいてもらうのにすっかり慣れた。

 しかし、叔母はこの箱からではなく、天から始終話しかけてくる。「あらあらヒロちゃん、しっかりねー!」。

2021年10月31日日曜日

「けだし・・・」と

  今日は宗教改革日。1517年、今から504年前の10月31日、我らがルター先生はヴィッテンベルク城内にあった教会の門扉に『95ヵ条の提題』を発表した。それが宗教改革のスタートとされている。

 今、『ローマ書講義』を水曜日の会で読んでいる。それは若きルター先生が中世期のドイツ語で講義し、学生たちが筆記したものだ。戦後まもなく日本語にも翻訳されて、今こうして手にしている。ルターが命がけで説いた恩寵義認の500年余の歴史に繋がりたい。

 難解な言葉使いと読めない熟語に閉口するが、だからこそ一つ一つの言葉にいっそう奥行きを感じる。「けだし!」とルター先生の肉声が私たちにも飛んでくる。

2021年10月24日日曜日

わたしを憐れんでください

 「わたしを憐れんでください」と盲人バルティマイがイエスさまに呼びかけているが、これが彼の言い表した信仰だと言うことを今日の聖書は伝えている。

 天空を仰いで見回してみても、雲ひとつ無い澄みわたった青空というものにもし出会うとすれば、このバルティマイの信仰のようだとは言えないだろうか。それくらいバルティマイの主への呼びかけはいさぎよい。

 言ってみれば盲目の彼は主と彼の間をはばむものを前にしても、「イエスさま、私はここにいます!」と主を信じて叫んでいるのだ。

 これ以上の呼びかけは無いと思った。今日も礼拝で「主よ、憐れんでください」とイエスさまに呼びかける。ギリシャ語で「キリエ・エレイソン」と。

2021年10月17日日曜日

偉くなりたかったら

 私たちの思い込みも、こんなものなのだろう。人間らしさが出てしまった今日の弟子たちの会話だ。

 二人の弟子がイエス様に「栄光をお受けになったその暁には私たち二人を一番重要なポジションにしてください」と願う。すると、他の弟子たちが「よくもそんな抜け駆けをして!」と怒りだす。

 私たちにしても同じだが、イエス様は「私こそが」という自意識を否定なさらない。「栄光」が「十字架の死」だと三度言われてもピンとこない弟子たち。

 「偉くなりたかったら、すべての人の僕になりなさい」とイエス様はこの機を捉えて教えてくださった。

人には偉いようには見えない「偉い」があるのだ。

2021年10月10日日曜日

元野良猫の順応力

 先日、飼い猫のメルが足に怪我をして、結局、入院手術となった。翌日、メルの様子を見にゆく。右前足に包帯、首にカラーのメルはケージの奥で横になっていた。痛みが和らいだのか幾分リラックスして見える。

 「メル!」と呼んでも私にはそっけない。すると看護師さんが嬉しそうに言う。「昨日はシャーシャーと怒ってたんですけど、今日は私にスリスリしてくれるんですよ」。そう云われて私はなんだか複雑な気持ち。

 猫に「理屈」は通用しないが、「お前を可愛がっているのはこちらだぞ」と思った。家に戻れば、また感謝と大好きの「スリスリ」が始まるかな?それにしても、人の情を外さない元野良猫の順応力には脱帽!

2021年10月3日日曜日

興味津々

  生後6ヶ月になった孫のビデオがスマホに送られてきた。

 ウーウーとしきりに声を上げながら鏡に向かってハイハイして行く姿。孫は鏡の中の自分に興味津々、突進して頭をゴツン。何度も何度も手を伸ばして触ろうとしている。だが、もちろん触れない。孫にはその姿が鏡に映る自分の虚像だとは理解できないからだ。

 私たち人間は鏡に映して自分の像を見るが、自分の肉眼で自分の実像を見ることは決してない。しかし聖書という鏡は私たちの像も心も映し出してくれる。聖書に映し出されながら自分を知る。日々救われて「あなたは神の子」だと知るのは素晴らしい。

2021年9月26日日曜日

100%と0%

  説教の準備をしていて、ルターの言葉の中に「神の救いは、私たちが何かをするからでなく、それ自らの力によってなっていくものだ」という箇所があったはずだと思った。しかし、それがどこに書かれているか、どうしてもわからない。大先輩のK牧師に電話で教えを請うと先生はすぐ答えてくださった。

 「それは『恵みのみ、信仰のみ、聖書のみ』というルターの信仰を解釈するところから生まれた言葉だ」と教えてくださった。それから先生は、「救いは、神が100%、人間は0(ゼロ)%。けれども、神の御業への応答では人間が100%だ」というふうに教えてくださった。なるほど!すごくよく分かるな。

2021年9月19日日曜日

こんなところに主はおられる

  コロナ禍の続く中では、孫達とは会えないのでインターネット上に送られてくる写真を見て満足する。

 画面の孫たちの様子にニッコリしたり、えーっと驚いたりしながらも、息子や娘の子育てぶりが垣間見える。気になることがあっても、言葉にはしない。

 ところで今日、主は「このような子どもの一人を受け入れよ」と言われる。この場合、子どもは「力のない者、弱い者」の象徴だ。こういう社会的弱者のところに主イエスはおられる。居心地が良くないところ、弱さのあるところで主は私たちを待っておられる。

 自分を誇るのではなく、謙遜な奉仕のこころのあるところに主はおられると知らされた。

2021年9月12日日曜日

虫の音をききながら

  秋の虫の大合奏が牧師館でも聞こえるようになった。夜9時、日中の暑さはどこへやら。ひんやりした空気の中で聞く虫の音はなんとも良い気分である。

 この夏、中東ではもはや気温50℃超えは当り前となったというニューズウイークの記事を読んだ。極端な気温上昇と干ばつ、森林火災。都市はヒートアイランドと化し、水不足、電力不足でエアコンも使えず、難民大量発生の懸念もあるというものだ。

 地球と被造物は単なる「資源」ではない。私たちの共通の家だ。被造物はただ存在するだけで価値がある。ジジジジ、チリチリ、リーンリーン、秋の虫の音をききながら神の被造物への愛を想う。

2021年9月5日日曜日

パラリンピアンから力をもらう

 9月に入った途端、この夏の熱波は去った!目覚めて今朝の涼しさに驚く。ほんとうに感謝だ!

 この夏は今までになくパラリンピックをラジオ観戦した。こちらの方の応援はどれだけ熱くても熱すぎない。印象的なのは、多くのパラリンピアンがメダルを取る事も大事だけれど、自己ベストに挑戦したいと抱負を語っていることだ。自分の限界を超えることに向かって頑張る姿には一種の清々しさを感じる。

 「がんばれー!行けー!行けー!」とマイクに向かって絶叫している解説者の声に、このアスリートたちを支えて生きてきた縁の下の人々の存在を思った。

 「自分の限界に挑戦」か!この言葉に勇気をもらう。

2021年8月29日日曜日

リメンバー・ザ・キューカンバー

  以前、米国のルーテル教会の礼拝での出来事だ。

 牧師が聖壇の前に集まった子どもたちに、貧しい人たちに何ができるだろうかと問いかけた。

 大きな子たちから順番に答えて、最後は4歳のジョシュア:「僕、キューカンバー(胡瓜)をあげる」

牧師:「???どうしてキューカンバーなの?」

ジョシュア:「だって僕、キューカンバー嫌いだから」

 聖堂の大人たちは爆笑した!礼拝が終わって帰る時、“Hiro , Remember the cucumber”(ヒロ、胡瓜のこと、覚えていようね)と、友人は私に向かって笑顔でウインクした。モチのロンで神様はジョシュアのキューカンバーを喜んでくださるに違いない。

2021年8月22日日曜日

献身者を求める祈り

 「私たちの主よ。

あなたは、キリストの体である教会を私たちに与えてくださいました。この恵みに心から感謝いたします。

教会に連なる私たちをキリストの枝として教会の働きのために用いてください。それぞれに与えられた役割を、喜びと感謝をもって担うことができますように必要な力を与えてください。

福音宣教の働きへと召される献身者を起こしてください。また献身の思いを与えられ、牧師を志して神学校で学ぶ神学生を導いてください。そのために神学校で働かれる方々を支え、その働きを祝福してください。

私たちの主イエス・キリストのみ名によって祈ります。」

2021年8月15日日曜日

聖餐は嬉し

  訪問聖餐を思い出す・・・主に出会えてこんなに嬉しいことはないと涙して聖餐に与った兄弟のこと。ベッドの上で居住まいをただし、聖餐の前に頭を垂れて、まるで幼子のようだった姉妹のこと。聖餐を受けたあと、安心に満たされて召されて行った姉妹のこと・・・。

 主イエスはご自身が命のパンであると宣言された。それは、主イエスだけが、私たちの魂を育み、たとえ人に失望させられても「神に愛されている」と確信させてくれて、困難な時でも愛し、ゆるす力を与え、さらには永遠の命を与えてくださるからだ。

 私は想像する。一信徒として聖餐に与る時には恵みと感謝でいっぱいでニコニコしてしまうだろうな!

2021年8月8日日曜日

これほどわかりやすい地図はない

 友人が世界地図を送ってくれた。A3のコピー用紙4枚に収められた地図に、国名だけが記載されている。

 手紙に、「オリンピック開会式の選手団入場をみながら、自分の知らない国の名前があまりにも多いのに驚いた。これは小学生向けの学習地図だが、世界の国の名前と位置を知るにはこれほどわかりやすい地図はないと思ったので送ります」とあった。

 改めて地図を見る。戦争、政変、民族紛争などの結果だろう、多くの国名の変化に気付かされて驚いた。

 不動の位置を占める大国の間にある小さな国々の名前を追う。ここにどれほど血の犠牲が払われたことか!知ることから始める平和への道があると思った。

2021年8月1日日曜日

蝉、夏の応援歌を歌う

  青空に真っ白な入道雲!熱い太陽に届けとばかり蝉が鳴く。「ジージージジジィー」夏の応援歌のようだ。

 毎夜、蝉は人が知らないうちに羽化するらしい。朝玄関に出てみて、いくつもの蝉の抜け殻を見つける。草や木ばかりか庭石の上、ホースやバケツにまでも。

 先日のこと、履こうとした履物に蝉の抜け殻があって、その隣にまだ孵化したての蝉がじっーとているのを見つけた。その履物をそのまま玄関の外にそっと置いて、別の履物をはいて出かけた。

 しばらくして帰ってみると、蝉はめでたく飛び立ったらしい。私は安心して履物をはいた。繊細な細工物のような抜け殻をあじさいの葉の上にそっと置く。


2021年7月25日日曜日

慌ただしさに忙殺されずに

  オリンピックの開会式をビデオに撮った。最初のところだけ少し見て、あとはビデオで見るつもりだった。ところが、見始めると引き込まれてしまって途中で止めることができずにとうとう終わりまで見てしまった。

 翌朝は予定があった。電話もかかってくるし、人もやってくる。当然気ぜわしくなった。そして思った。慌ただしさに忙殺されない心のときは大事だ。自分のすることだけに捕らわれないでいることで、他者に気づき、他者の痛みや必要としていることに気づける。

 思いやりは静かで穏やかなこころから生まれるように感じる。沈黙の時は大事だ。オリンピックはリオの時のようにビデオで見よう。後からゆっくりと。

2021年7月18日日曜日

まことの羊飼い

 「飼い主 我が主よ 迷う我らを 若草の野辺に導きたまえ・・・我らは主のもの 主に在りて生く」この讃美歌を歌うと詩篇23篇が思い起こされる。 

 真に良い牧者である主イエスは飼い主のない羊の群れのような群衆を目の前にして深く憐れんでいる。この人達はどこへ行けば平安が得られ、どっちに進めば自分らしく生きられるのか分からなくなっている。目的地にまで安全に導いてくれる牧者の存在は大きい!

 そういう私もイエスと言う大牧者に導かれるまでは、迷いに迷った!だが、今はどうにかして隣人を案内したい。「主のもとへどうぞー!草も水もありますよ〜」。

2021年7月11日日曜日

肩をポンと叩いてくれる

  熱海の土砂災害はすぐ近くで起こった。このときの実際の土石流の様子をインターネットで見たが生々しすぎてSFXかと思ったくらいだ。

 湯河原の私たちを気遣って電話がかかってくる。予想せず懐かしい人達と旧交を温めることになった。

 時間の経過とともにこの土石流の原因は山の斜面の盛り土らしいとわかってきた。目的を達成するために人間は頭を最大限に駆使し、計画をめぐらす。

 目的のために只計画するならそこには欲望と頭脳があるだけで神への畏怖はない。いつも横にいて、必要な時に私の肩をポンと叩いて黄色信号を出してくれるイエス様の存在はほんとうに有り難い。



2021年7月4日日曜日

実りを得た!

 主イエスは12人を二人ひと組で、杖一本のほか何も持たせず、「着の身着のまま」で宣教に送り出された。

 この12人のいかにも軽々とした旅姿を思い描いてみた。そして、かつて旅行に出かけた時などの自分のパンパンに詰まったリュックサックを思い出した。

 旅先でのいろんな状況を想定して「これも要るかもしれない」と考えると持っていく物が増える。膨れた荷物を前に再度選び直すということもやっていたなー。

 ところがこの12人は主から「汚れた霊を制する権威」を授けられたほかは無一物同様で送り出されている。物に頼らず、見えない霊的主イエスとの三人四脚を心に頼んで、12人の宣教伝道は実りを得た!

2021年6月27日日曜日

キリストがきっと触れてくださる

  新型コロナワクチンの接種が進む中、私も一回目のワクチン接種を受けた。ワクチンによる集団免疫という可能性までの道のりを思うが希望を持って待つ。

 コロナ禍が何ヶ月も続いて、暗闇が覆っているように感じられる時がある。そんな状況でも夢と思い出と祈りの道のりを歩む中、主キリストと共にいることで主は私たちに新たな旅路を進む力を与えてくださる。

 女性会が古着プロジェクトに取り組んでいる。アフリカのより貧しい人々との分かち合いができるなら、それは主の心を届けることになる。コロナ禍の中で、生活上の困難を抱えて忍耐している全ての人々の心に慈しみの主キリストがきっと触れてくださる。



2021年6月20日日曜日

あの人は、イエス様だったに違いない!

 以前、テネシー州に住み始めた頃、一時帰国する家人を空港まで送った。帰りの夜のドライブ、空港を出たところで一つ道を間違えた。夜の暗がりで周囲の様子が見えなかったからだ。知らない土地の知らない場所!ひたすら眼の前の道を走り続ける。パニックだった。

 やっと見つけたガソリンスタンドで、スイートウオーターへの道を尋ねると、一人の人が、「私のあとについて来て。そちらの方に行くから」と申し出てくれた。

 その人は私の目指す町への分岐点のところまで先導してくれ、交差点で窓から手を振って合図を送ってくれた。感謝と安堵の思いが胸にあふれてきた。今でも思う。あの時のあの人は、イエス様だったに違いない!

2021年6月13日日曜日

「からし種」がいっぱいだ!

  以前、からし種を5,6粒もらったことがある。それは胡麻より遥かに小さかった。撒いてみようと思ってはいたものの、いつの間にか無くしてしまった。「あれはなんとも惜しい事をした!」と今にして思う。

 主は「神の国」をこの吹けば飛ぶような小さなからし種にたとえている。この種はどんなに小さくても種なのだ。種が本物で生きていれば、いつかそれは必ず大きく成長していって、大きな実りがもたらされる。

 たとえみすぼらしく、弱々しく、こんなのでは何にもならないと思われるような現実にも神の国の「種」を見ていくとしたら、私たちの身の回りには「からし種」がいっぱいだ! そしてそれは大きな実りとなる。

2021年6月6日日曜日

脱帽です!

 このコロナ禍の上に健康上の問題もあり、教会に来ることができない方と私はよくメールや電話でお話をする。Qさんは今、孤独である。教会に友達と呼べるような方を求めておられることを知った。

 さっそく、教会のPさんに電話をして「この方の話を聞いてあげて、友達になっていただけないか」と遠慮がちにお願いしてみた。Pさんは、私が思っていたとおり気持ちよく引き受けてくださった。

 が、この後にPさんの言われたことが私の想像を超えていた。「私がQさんの友達になるというより、Qさんの方が私の友達になってくださるのだというふうに思います」。この謙遜な言葉に、私は脱帽した!

2021年5月30日日曜日

主の弟子ニコデモ

  画家カラヴァッジョの傑作「キリスト埋葬」に、ニコデモはキリストの下半身を支える姿で描かれている。中央の重要なボジションで描かれたのは、この絵にニコデモの主の弟子としての姿を描きたいという画家の思いではなかっただろうか。

 キリストが十字架刑で殺された時、ニコデモは側にいてキリスト埋葬に重要な役割を果たした。ここに描かれているニコデモの姿や表情は見る者の心を打つ。

 ニコデモはある夜、主イエスを訪ねた。その時からニコデモの中で何かが変わった。聖霊の風が吹いた。正しさに生きる律法の世界ではなく、神の愛と赦しの世界に生きるよう導かれた。聖霊の風は、今も吹く。

2021年5月23日日曜日

楽しんでいます

  いつもはこちらが手紙を出すと返事をくださる長期入院の方が、今月は先に手紙をくださった。

 いつもは決まって「早く教会に行きたい」とあるのに、今月はちょっと調子が違う。「僕はギターを楽しんでいます。詩も楽しんでいます。筋トレも楽しんでいます…教会の皆様の上に主の平和をお祈りします」。

 入院生活にコロナ禍では不自由の二乗なのに「楽しんでいる」というのはとてもいいなー!この方の中に心のユトリみたいなものができて、私の心がほころぶ。

 私たちの日々の生活の中に、私たちの集いの中に、今も神が、キリストが共にいて、何かをしてくださっている。目に見えないが、それが「聖霊」の働き。

2021年5月16日日曜日

主の昇天を思いつつ

  新型コロナワクチン接種の申込みのため電話をした。 予想通り全くつながらない。二度目はHPから試してみたが、予定とにらみ合わせてまごまごしているうちに予約は埋まってしまった。わずか数分の出来事である。

 いずれ接種は受けられるのだから、予約できる時まで待つとしよう!ワクチン競争曲を聞き流し、名前も知らない小鳥たちのさえずり協奏曲に耳を傾ける。ここはいいなー。鳥たちと彼らの住処である青葉があふれている。

 ちょうどベタニアもこんなだっただろうか?緑豊かなベタニアはマルタとマリアの家、それに香油が注がれたシモンの家がある。懐かしいベタニアから私たちを祝福しながら主が天父のもとへと昇られた出来事を思う。


2021年5月9日日曜日

安心な居場所

  そこは乳幼児を含む家族四人が暮らす住居だ。二つの小さなベッドルームと小さなダイニングキッチン、そしてやはり広くはないリビングルームがある。

 ベッドルームの一つはこの家の主人の仕事部屋となっていて、居住空間には家具や日用品が溢れている。

 今、この家の猫は闘病中でそう長くはないらしい。リビングの窓際に低めでゆったりしたキャットタワーが置かれている。ここでなら病気の猫が安心して体を横たえることができるにちがいない。

 キャットタワーのその脇にベビーベッドが置かれているのを見て、私はハットとした。そして、病気の猫にも子供と同じように居場所があるのに感謝した。

2021年5月2日日曜日

主につながっていよう

 私はぶどうの木のたとえが大好きだ。

 こういう見方が科学的かどうかわからないが、葡萄の木は同じ果物を実らせる木と比べてちょっと違う。

 例えば幹と枝がはっきり区別できる林檎や蜜柑の木に比べ、葡萄の木はどこまでが幹でどこからが枝なのかはっきりしない。「わたしはまことのぶどうの木、あなた方はその枝である」と主が言う時、私達は主イエスと一緒に一つのぶどうの木を形作っているのだ。

 慈愛の父である農夫はせっせと私達を手入れして、実がなるようにと育ててくださっている。育ての父が見守ってくださるこの安心感!このぶどうの木のイメージは私を力づけ、また幸せにしてくれる。